安曇族

https://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/chushin/rekishi/01_1.html 【さらに詳しく 安曇氏】 より

安曇野(あずみの)を拓いたという安曇氏の起源は非常に古く、古事記には安曇族の祖先神は「綿津見命(わだつみのみこと)」とその子の「穂高見命(ほたかみのみこと)」であると書かれています。旧穂高町は安曇族の祖先神を地名としていることになります。

彼らの分布は、北九州、鳥取、大阪、京都、滋賀、愛知、岐阜、群馬、長野と広範囲にわたっており、「アツミ」や「アズミ」の地名を残しています。その北限が安曇野ということになります。

博多湾(はかたわん)の志賀島(しかのしま)には海神を祀った志賀海神社(しかうみじんじゃ)が現存し、全国の綿津見神社(わたつみじんじゃ)の総本宮となっており、安曇氏の発祥地とされています。神職は今も阿曇氏が受け継いでいます。

彼らはすぐれた航海術と稲作技術を持ち、古代の海人族の中でも最も有力な氏族でした。連(むらじ)という高い身分を大和朝廷から受け、中国や朝鮮にもたびたび渡っていたとも言われており、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いでは、安曇比羅夫(あずみのひらふ)が大軍を率いて朝鮮にわたり、陣頭指揮にあたっています。

また、788年には宮中の食事を司る長官奉膳(ぶんぜ)の地位についていることからも、安曇氏は大和朝廷を支えた有力氏族であったことがうかがえます。

彼らがなぜこんな北の山国へ来て住み着いたのか、またどんなルートでたどり着いたのかよく分かっていませんが、おそらくは蝦夷(えぞ)の征伐が目的であり、ルートとしては、

北九州から日本海→姫川谷(青木湖から糸魚川に流れる川)から来たという北陸道説

北九州から瀬戸内海・大阪(安曇江)経由の東山道説

北九州から瀬戸内海→渥美半島(安曇族の開拓地)→天竜川を上った天竜川筋説

などがありますが、定かではありません。

  安曇野へは4~5世紀に入ったという説もあります。その時代によりここを開拓した理由も異なってくるはずですが、今となっては謎のままです。しかし、安曇野という地名、あるいは穂高神社(ほたかじんじゃ)の存在だけでも大きな文化財を残したとも言えるでしょう。


https://www.asukai-naika.jp/2011/11/13/221/ 【安曇族】 より

朝のNHKのドラマでやっていた安曇野と言う土地が有ります。

この安曇野の安曇とは安曇族の安曇です。この安曇族と言うのは古代は北九州にいた海洋民族です。

その民族がどういった理由かはわかりませんが日本海を伝って新潟まで到着その後糸魚川を上って長野までやってきて住み着きました。

一説には金印が取れた志賀島の住人は安曇族では無いかとも言われています。

要するにもしかしたら奴国の住人が安曇族だったかもしれません。何か天孫族に追われた国津神と被ってちょっとロマンを感じます。

この場所に大王山葵田と言う広大な山葵田が有ります。

この場所は八面大王というとっても強い大王が今もここの住人を守っているようです。

この八面大王が居た時代は桓武天皇の時代です。

桓武天皇は支配地域を広げ中央集権化を完璧にする為に坂上田村麻呂を蝦夷征伐におくります。その資金源の為に目をつけられたのがこの安曇野です。

この土地を守っていた八面大王は坂上田村麻呂に逆らうなんて考えもしなかったようですが

貧しい住人に中央は苦役を押し付けその資金を蝦夷征伐に使おうとしたようです。

あまりの苦役に住民は武器も無いのに戦います。

勝てるわけはありません。しかし八面大王は住民の為に戦います。

とても強かったようです。強過ぎて殺されてもその復活を恐れてバラバラにされて山葵田に埋められたようです。あまりにあまりの話です・・


 https://www.blenoir.co.jp/Azuminonohimitu.html 【安曇野の秘密 前編 】より

その1 お船祭り

山国の安曇野では各集落で船の形の山車(だし)を曳航する祭りがあります。船は急峻な川の山国では交通手段としては大変不向きです。それにも関わらず、なぜ海がない信州でこのような「船」が作られるのでしょうか?現在でも安曇野では、33ヵ所の神社の祭りで43艘のお船が出されています。信州の安曇野は山国ですが「海」にとても関係が深いお祭りのようです。そのなかでも 安曇野の穂高神社での御船祭りが有名です。毎年9月27日、15:00~16:00はお船をぶつけ合う荒々しいお祭りです。不思議な不思議な山国のお祭りです。

その2 ほたかという名前

新宿7:30発の特急あずさに乗れば10:44に列車は安曇野の中心「穂高」に到着します。穂高駅のすぐそばには穂高神社があります。さて、「ほたか」は古事記には、ワタツミ(綿津見神・綿積神)の子で阿曇(あづみ)氏の祖とあります。[ワタツミとは「海」のことなのです]安曇野の人たちがあづみの祖である穂高神社をお参りするのは当然のことですね。

安曇一郡之宗廟 穗髙神社

安曇野でお船祭りが行われるのは「ほたか」のお父さんが海の神様だからなんです。安曇・阿曇はアマツミ(海津見)が言いやすく省略されてアヅミと言われるようになったとも。

「ほたか」から「海」との関係が出てきました・・・。この海神様を安曇の人たちは祀っているのです。でも、四方を山に囲まれた信州の安曇野にどうして山の神様ではなく、海の神様を祀っているのでしょう??疑問は膨らむ一方です。

穂高神社を詣でますと まったく同じ神様を祀る神社が なんと、九州の福岡(博多)、漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)印が発見された あの志賀島(しかのしま)にあると云うのです。博多は 那の津(なのつ)と云って、朝鮮や中国との交易が昔から盛んに行われていました。海運の盛んな「なのくに」だったのです。

そこの志賀島の志賀海神社の宮司さんは現在も「あづみ(阿曇)さん」とおっしゃいます。筥崎宮にも「あづみさん」という方がいらっしゃいました。あずみさん、あづみさん、博多の地には多い名前です。

なにかとても深いつながりがありそうです。でも、なぜ信州と博多が?

ほたかはあづみの祖→お父さんは海の神様→同じお父さん神様が博多にもいた→博多に「あづみ」さんもいた!

つまり、信州安曇野の穂高神社と九州博多の志賀海神社はまったく同じ海神を祀る関係があるのです。

博多の海神 →その息子「ほたか」はあづみ族の祖として信州安曇野の穂高に祀られている

その3 えごとおきゅうと

山国の信州の安曇野では海草「えご草」を食べる習慣があります。不思議です。信州のえごの食用率を地域別にまとめた坂本博氏のデータによると、北安曇郡(小谷村・白馬村)、大町市、松川村、池田町、旧南安曇郡(現安曇野市)に分布しているとのこと。松本市では食べる習慣がありません。要は「えご」を食べるのは安曇といわれている地域だけなのです。

さて、前回穂高神社と同じ海神様を祀っている福岡(博多)の話をいたしました。なんと、博多にもえご草を食べる習慣があるのです。その名は「おきゅうと」。博多出身の人は誰もが知っている食品です。箱崎(はこざき)では今でもえご草からおきゅうとを作っています。昭和30年代にはおきゅうとのふれ売りが残っていました。

写真は信州・池田町のスーパーマーケットで販売されている「えご」。盆、正月など帰省の人が多い時期やお祭りの時には乾燥させたえご草も販売されます。安曇野の人たちは自分の家で「えご」を作って食べます。海の人が伝えなければこのような食文化は山国には継承されませんよね。いったい誰がどこから伝えたのでしょう?

http://www.otomisan.com/sea-food/ego/

(上記サイトを見ますと博多から安曇野のみならず新潟へも「えご」が伝わっているようです)

その4 あづみ発祥の地

山国の安曇野で「お船祭り」を継承し、海の神様を祀り、安曇野だけ「えご(海草)」を食べるという独特の食習慣。

ウィキペディアで「安曇」を調べますと「阿曇氏 - 海神(ワタツミ)を信仰する一族。安曇族。」とありました。さらに「阿曇氏は古代日本を代表する海人族として知られる有力氏族で、発祥地は筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部:和白(わじろ)、新宮(しんぐう)、志賀島(しかのしま)あたり)とされる」とあります。この地図では東区の海岸(左側上部)に絞られてきました。

志賀海神社の宮司さんはあづみさん。あづみとは人の名前なのです。古事記にも載るほどの古くからの名前です。

そして安曇野では「ここが安曇」という場所が特定できません。それは、人の名前だからなのかも知れません。

ということは、博多の阿曇氏が信州の安曇野までわざわざやって来たということになります。九州の博多は温暖でほとんど雪は降りません。信州の安曇野は冬は寒く、雪がたくさん降り積もります。海の人たちがどうして山の中へ???

いつ頃、なぜ、わざわざ博多から信州までやって来たのでしょうか?

話はどんどん つづきます。

※安曇、阿曇などいろいろ漢字が違うのは、その昔、口伝えで受け継いできた名前を 輸入された文字に当てはめようとしたら いろんな当てはめ方があり、いろんな書き方になってしまったものと思われます。(日本最古の歴史書である古事記は、西暦712年に編纂です)

※糟屋の郡は志珂郷(現在の志賀島)、安曇郷(新宮、和白)を中心に古賀市、立花、香椎、志免、宇美、粕屋、箱崎あたりでした。なお、おきゅうとの発祥の地の箱崎はこの地図で福岡市東区役所がある位置です。

志賀島より東側を望む

海の中道(うみのなかみち)は、志賀島と九州本土とを繋ぐ陸繋砂州で、全長約8 km。手前の森が志賀島。写真奥の左側から古賀、新宮・和白で砂州と繋がり、画面中央に香椎、箱崎あたりを望む。砂州の左側は玄界灘、右側が博多湾(古名:那の津・なのつ)・・・漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)「なのこく」が博多湾にあった奴国=那の国のこと

その5 移住はいつなのか

残念な事に「移住」に関する文献、伝承が無いのです。穂高や有明山麓に分布する古墳は1500~1300年前のもので、畿内型古墳とは異なり、北九州の古墳の作りと一致するといいます。

このことから博多のあづみ族が信州安曇野に移住したのは6世紀といわれています。現在21世紀ですからおよそ1500年ほど前になります。

つまり、西暦550年頃には既に到着し、定住を始めていたと考えられます。坂本博氏の文献では最も早くて530年ころと記載されています。

ではその頃 なぜ 博多のあづみ族が信州に「移住」しなければならなかったのでしょう? ・・・・・つづく

http://semi-mechanized-unit.air-nifty.com/blog/2009/01/1-6b00.html 【 安曇野の秘密 後編 】 より

その6 移住の理由(わけ)

博多の東部に暮らしていたあづみ族がなぜ信州に移住したのか?

博多に住めなくなった理由を探してみましょう。

①博多の町の壊滅??...

②移住を命ぜられた??

③生き延びるため逃避行??

6世紀は北九州では有明海を囲む筑紫(福岡)肥前(佐賀・長崎)肥後(熊本)そして豊前(福岡東部・大分)等を統一した豪族の磐井(いわい)を首長とした連合国家が出来ていました。

①磐井は博多の町の糟屋一帯の灌漑を目的にコツコツとダム(水城・みずき)を造っていましたが、没後、573年夏の台風で決壊。御笠川下流の箱崎一帯(あづみ族居住地区の一部)は全壊・全滅という伝えがあります。

しかし、九州には台風は毎年やって来ます。台風ごときで、稲作が盛んだった博多を捨てて、寒い寒い信州にこぞって移住はしません。

②移住を命ぜられたくらいの理由で穀倉地帯となった安住の地からやすやすと移住するような九州人はいません。

③527年~528年にかけて有明連合とヤマト軍との戦(いくさ)があり、有明連合は敗れた。

 「磐井の乱」・・・これが移住の原因であると思われます。

有明連合の首長である筑紫君磐井(つくしのきみいわい)は、ヤマト軍と1年半にわたり交戦したが、敗れ、殺されました。生存者の男性は耳をそがれ、手に穴を空けられ子供までが奴隷にされたといいます。磐井の根拠地「八女」(やめ)の岩戸山古墳(いわとやまこふん=磐井の墓として生前造っていたことがわかっています)の石人・石馬まで徹底的に破壊されてしまいました。(写真は岩戸山古墳の石人・石馬 首が無い・手が無い)

奇跡的に戦乱を免れた博多の町には磐井の息子があづみ族の娘をめとって住んでおりました。当時日本最大最新の港湾施設である「糟屋の屯倉(かすやのみやけ)」を献上しても、ヤマトの厳しい追求・要求は収まらない。当然、ヤマト政権は磐井の息子も殺害しようとしていたと思われます。

③の 生き延びるために逃げてきた。

磐井の息子を死なせないために・・・・・ あづみ族は海運業だったため、朝鮮はもとより、日本海沿岸との人々との交易があり、その人たちにも助けられながら、ヤマト政権の影響が及ばない(当時は蝦夷地)信州の山奥まで 磐井の息子を連れて 逃げてきたと考えられます。

※ヤマトとの戦いの原因は、有明連合はヤマト軍の朝鮮出兵のジャマをした悪者だからと国定歴史書の「日本書紀」に書かれています。しかし近畿のヤマトが多量の輸送船をもって自からすすんで朝鮮へ出兵するはずも無く、玄界灘の航行に慣れた有明連合に「行け」と言ったものの、有明連合は仲良くしている朝鮮への出兵を拒否。結局、九州勢は近畿勢に難くせをつけられ、争ったが、戦に負けてしまったので悪者にされたのでしょう。

「磐井の乱(527年6月3日~528年11月11日)」は古墳時代後期、古代最大の戦争と位置づけられています。

 地図中ほど久留米の南に磐井の根拠地の八女(やめ)があります。

※調査に行った岩戸山歴史資料館(八女市)は残念な事に2015年8月をもって閉館。

※平成11年(1999年)、古賀市鹿部(ししぶ)土地区画整理事業による発掘調査の結果、みあけ史跡公園が「糟屋の屯倉」ではと言われています。福岡県古賀市美明1丁目4番11外。

磐井の息子とあづみ族がどうして信州の安曇野を選んで逃避したのでしょうか・・・

その7 なぜ安曇野に移住したのか

長野県の縄文文化は北へ流れる千曲川~信濃川水系と諏訪湖から南へ流れる天竜川水系に発達していました。松本・安曇野地域に弥生文化がやってくるのは教科書の年代から遅れること500年と言われています。

安曇野は未開拓の地・・人が住めない荒れ地だった。

河川の氾濫地域だったのかもしれません。

安曇野は 他の部族と争わずにすむ・・・ 空隙地帯だったから。

ひょっとすると、安曇野は昔々「湖底」だったからかも知れません。

湖だったかも知れないと思わせる いくつかのトピックスをあげてみましょう。

【地名】

青い線(標高600m)より上には窪海渡(ちひろ美術館:610m)、南海渡(鼠穴:620m)、北海渡(アルプスあづみの公園:650m)、梶海渡(神林:610m)という地名があります。

赤い線(標高580m)には渚、宮渕、島内という水辺を示す地名が並んでいます。

安曇野の低い場所は人が住めないところだったようです。松本市立考古博物館によると松本市内の縄文時代晩期の遺跡は中山あたり標高が650m前後、弥生時代後期になると標高が600m以下の北部に(宮渕本村、県など松本城あたりからも)多く発見されているそうです。確かに穂高郷土資料館によると安曇野の縄文遺跡は穂高牧の他谷(たや)遺跡や穂高烏川左岸の離山(はなれやま)遺跡ですが、標高は650m前後です。

ちなみに標高600mの湖だったとすると青い線の内側は湖水で満たされていた・・・

標高600mの主な地点:Vif穂高、安曇野山麓線、鼠穴、ちひろ美術館、松川村大門交差点、池田町二丁目交差点、花見、滝の台、池田町山辺の道、池田町北アルプス展望美術館、明科七貴、(篠ノ井線は550m)、松本市図書館、県の森公園、筑摩神社、野溝木工、大久保工場公園団地、島立、三郷明盛、三郷温、住吉神社、田多井

【水湿地植物】

昭和55年3月、松本市県の森(あがたのもり)(標高600m)の発掘調査で「イヌドクサ」の地下茎が発見されました。穏やかな水湿地に育成する多年生シダ植物です。湖の淵に生えていたのではと思われます。その後、この古代イヌドクサは芽を出したそうです。

【遺跡】

標高547mの穂高神社境内遺跡からは古墳時代後期から平安時代にかけての住居跡が6軒発見されています。(縄文・弥生時代ではない)

しかし標高542mの安曇野市穂高交流学習センター みらいの三枚橋・藤塚遺跡からは縄文式土器が発見されたといいます。このことから湖底に縄文人が住んでいたとは言いがたく、標高530m(緑の線)あたりの湖を干拓したのでは?とも考えられます。

奈良・平安時代の遺跡は147号線沿いに(柏矢町から穂高町まで)南北に並んで見つかりました。これを水辺とすると緑の線(標高530m)の内側はまだ湖だったかも知れません。

ただ、安曇族が標高600mの安曇湖を干拓したのではという仮定は否定されてしまいます。

旧石器・縄文時代

縄文後期に女鳥羽川遺跡(信州大学医学部附属病院そば:標高600m)より下の場所では遺跡が見つかっていません。

弥生時代

弥生時代で一番低い位置の遺跡は穂高の三枚橋・藤塚遺跡(安曇野市穂高交流学習センター みらい:標高542m)です。

古墳時代

古墳時代は円墳が穂高有明中房川と烏川の間の標高600mより上の場所に古墳が集中して作られました。

奈良・平安時代

奈良・平安時代で一番低い位置の遺跡は穂高の三枚橋・藤塚遺跡(安曇野市穂高交流学習センター みらい:標高542m)です。

【古墳】

穂高古墳群(円墳:九州方式 約1500年~1300年前)は山麓線(標高600mより上)に80基も集中して見つかっています。安曇族が自分たちの居住地域より上に造ったものと考えられます。(お墓は水辺には造りません)

穂高町古墳分布図

長野県内には約3000基の古墳があります。特に多い地域は善光寺平、伊那谷で県全体の70%を占めます。

松本平には約200基の古墳があり、そのうち安曇野市には約80基が存在し、そのほとんどが穂高の中房川(なかぶさがわ)と烏川(からすがわ)の間の標高600mより上部に集中しています。

今から約1500~1300年前に作られた古墳で、すべて横穴式石室を持つ円墳です。

松本にある弘法山古墳は前方後円墳であり、穂高の円墳とは異なる作り方をしています。

【泉小太郎伝説】

安曇野は昔々「湖」でした。犀(サイ)に乗った小太郎が湖を堰き止めていた山清路の岩を突き崩したため、水が一挙に引き、広大な安曇野が生まれたとの言い伝えがあります。川の名前も犀川(さいがわ)となりましたとさ。この年代がわからないのです・・・。

『信府統記』に泉小太郎に関する記述があるので、以下に要約して紹介いたします。

景行天皇12年まで、松本のあたりは山々から流れてくる水を湛える湖であった。その湖には犀竜が住んでおり、東の高梨の池に住む白竜王との間に一人の子供をもうけた。名前を日光泉小太郎という。しかし小太郎の母である犀竜は、自身の姿を恥じて湖の中に隠れてしまう。放光寺で育った小太郎は母の行方を捜し、尾入沢で再会を果たした。そこで犀竜は自身が建御名方神の化身であり、子孫の繁栄を願って顕現したことを明かす。そして、湖の水を流して平地とし、人が住める里にしようと告げた。小太郎は犀竜に乗って山清路の巨岩や久米路橋の岩山を突き破り、日本海へ至る川筋を作った。

北に流れて日本海にそそぐ川は犀川一本しかありません。しかも生坂の金戸山付近は谷幅が90mしかありません。山が崩れれば簡単に封鎖されます。その部分を掘削したのかも知れませんね。

もし、移住してきた安曇族が古墳造成の土木技術を駆使して安曇湖の水抜きをやったとしたら、それはそれは豪快な集団だったかも知れません。(推論にすぎませんが・・)

安曇族は550年ころには、この信濃の未開の地(安曇野)に移住し、コツコツと田畑を開拓しながら 生活の基盤を固めていき、安定した生活は250年間ほど続いたものと推察されます。

つづく

その8 八面大王伝説

安曇族は移住して100年ほどで地名に記されるほどの繁栄をし、その後 奈良の正倉院に麻布を献上するまでに安定した暮らしをしていました。しかし・・・移住から250年ほどして 究極の難題がやって来ました。

【八面大王伝説】

■その昔、全国統一を目指した大和朝廷が、信濃の国を足がかりに東北侵略を進めていました。この地の住民たちは朝廷軍にたくさんの貢ぎ物や無理難題を押し付けられて大変苦しんでいました。安曇野の里に住んでいた魏石鬼(ぎしき)という八面大王はそんな住民を見るに見かねて立ち上がり、坂上田村麻呂の軍と戦い続けました。多勢を相手に引けをとることなく戦った大王でした。

が、山鳥の尾羽で作った矢にあたり、とうとう倒れてしまいました。大王があまりに強かったため・・・・・(このあとのお話は次回につづく)

(写真は大王わさび農場の八面大王)

■「あづみ」という文字が見られるのは、大化二年(646)年の改新の詔により、全国が畿内七道に分けられ、東山道に科野(信濃・しなの)国を置きその下に伊那・諏訪・筑摩・安曇・更級(いな・すわ・つかま・あづみ・さらしな) 水内・高井・植科・小県・佐久(みのち・たかい・はにしな・ちいさがた・さく)の10郡に分け、その下に63の郷が置かれた。安曇郡には高家郷、八原郷、前科郷、村上郷(たきべ・やはら・さきしな・むらかみ)の4郷が置かれたとあります。

■安曇氏が文献上初めて登場するのは、奈良時代(746)年頃で、その年の10月に正倉院に献納された麻布に記載されている文字に『信濃国安曇郡前科(さきしな) 郷戸主安曇部真羊調布壹端(へぬしあづみべのしんよう)』とあります。献上した真羊さんが安曇姓を名乗っていたことが分かります。また、ここに登場する前科郷というのは明科小泉から押野、池田町にかけての山麓に展開していた50戸あまりの郷村で、当時は麻の産地でこれを布に織って税の一種として朝廷に納めていたようです。

■この八面大王の戦いは、ある説では793年~795年の間、もう一つの説では806年と言われています。794年が平安京遷都の年です。

ここで注目すべき名前が「八面大王」です。いまでこそ(はちめんだいおう)と呼んでいますが、大和言葉(本来の日本語)では(やめのおおきみ)となります。漢字は輸入された文字ですので本来の日本語を漢字になおすときは素直に当てはめていったものの、長い年月で文字だけが記録に残り、読みも漢字の読み方に変わっていったものと思われます。(坂本博著より)

魏石鬼(ぎしき)さんは、九州の八女(やめ)のおおきみ(磐井氏)の子孫なのです。

■西暦550年前後に安曇野にやって来た八女の磐井氏の息子と安曇族は100年ほどかけて未開の地安曇野に安定した基盤を作り、地名にもなるような繁栄をし、たくさんの古墳を残しました。250年ほど経過した西暦800年前後の大和朝廷との戦で安曇族は完全に滅びてしまったのでしょうか?・・・・・・・(これも次回につづく)

その9 八面大王や安曇族のその後

ヤマト正規軍は安曇野の南側に布陣、現在「倭(やまと)」という地名が残っています。一方、豪族仁科族は北側に布陣、現在の大町市の仁科神明宮(にしなしんめいぐう)であったろうと云われています。

北と南から挟み撃ちにあってしまった八面大王は有明山の魏石鬼窟(ぎしきのいわや)までにげのびますが、とうとう矢を射られてしまいました。

大王があまりに強かったため、蘇ってこないようにと身体をバラバラに刻み、胴体は現在の大王わさび農場、頭は松本の筑摩神社、耳は耳塚、足は立足というふうに全く違う場所に埋めてしまいました。...

(写真は耳塚(右側の立木がある場所)、遠くに「有明山」が見えます)

不思議なことに、このバラバラ埋葬の地名を結ぶと「有明山」にほぼ一直線で至るのです。

■大町の仁科の里にのこる八面大王伝説は次の様です。

西暦770年-780年にかけて、民家や倉庫から雑穀や財宝を盗む事件がおきた。宝亀8年(777年)秋に調べたところ、有明山の麓に盗賊集団(「鼠(ねずみ)」、「鼠族」)の居場所を発見した。

その後、村への入り口に見張りを立てたが、盗賊は隙を窺っているらしく、盗みの被害はいっこうにやまなかった。そのうち盗賊たちは、「中分沢」(中房川)の奥にこもって、8人の首領をもつ集団になった。

山から出るときは、顔を色とりどりに塗り「八面鬼士大王」を名乗り、手下とともに強盗を働いた。これを憂いた皇極太子系仁科氏3代目の仁科和泉守は、家臣の等々力玄蕃亮を都(長岡京)に遣わして、討伐の宣旨を求めさせた・・・。

八面大王は盗賊となっています。

■北安曇郡松川村には鼠穴(ねずみあな)という地名があります。

勝利した側が安曇族のことを馬鹿にして「鼠(ねずみ)族」と言ったのでしょう。

戦の発端も年代もまるで違う話になっています。

■有明山から流れ出る中房(なかぶさ)川には、大王橋、鼠橋があり、また、八面大王が最後に身を隠したと云われる「魏石鬼窟(ぎしきのいわや)」があります。

山麓線と中房線の交差するところは「宮城(みやしろ)」と云います。宮城とは天皇(おおきみ)が住む皇居の事です。

■安曇野では「ここが安曇村だ!」「ここが安曇町だ!」という場所を特定できません。

安曇族は穂高町、池田町、松川村あたりを中心に広範囲に居住していたものと思われます。

■磐井(いわい)は、九州では有明海を囲む連合国家の首長でした。

磐井の根拠地 八女(やめ)の真西には有明海、そして、安曇族と共に遠く逃げ延びてきた安曇野の真西には今でも有明山がそびえています。「有明」という地名が同じ位置関係であることには驚かされます。

■安曇野での戦に負けた安曇族が皆殺しにあったという言い伝えはありませんでした。戦の後は、口をつぐんで静かに暮らしたのでしょう。ただ、博多からの風習はかたくなに守ってきたものと思われます。

■「歴史は勝者の物語である」と言われます。しかし、負けた者たちの伝説がこれほど残っていることは、とても不思議で嬉しい事です。



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