http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history_k/k04/index.html【第4章 松前藩の成立】より
(二)の棟札は文久元(1861)年一の鳥居及び社殿の建築を記録したもので、名主は佐野四右衛門、岩藤屋久右衛門、年寄は井川利右衛門、目谷酉蔵である。また、当番世話方(総代)では平井孫兵衛、須田屋久兵衛。甲屋五郎右衛門、井川権四郎等である。
根崎神社は明治9年11月村社に列せられたが、明治26年には本格的な神明造りの本殿、拝殿が造立されたことが、(三)、(四)の棟札によって分る。この本殿造立には越中国(現在の石川県)礪波郡井波町から棟梁松井角平恒広、松井角之助恒信、副棟梁斉藤文造等が来て建築工事に当り、村中の協力により、9月24日遷宮して大祭礼を上げている。この棟札には村中の関係者の名を記している。
根崎神社は乙部村の神主工藤家が代々神主として勤務し、(三)の棟札に於ても工藤常太郎を祭主とし、久遠神社の神主宇田真弓が副祭主としているが、その後は宇田仲磨、大竹喜代作、長坂文蔵が神主となり、現在の宮司長坂久は昭和60年宮司に就任している。
根崎神社には、熊石村に所在する多くの神社が鰊漁業の凶漁から維持困難となり合祀されるものが多くなった。明治44年には西宮神社外6社が合併されている。本社は28年3月14日火災で焼失したが、昭和31年10月18日現神殿が完成し、盛大な遷宮式が行われている。
明治44年1月6日本社に合併された7社の状況は次のとおりである。(工藤家“諸社書上”と若干異なるものもある)
①西宮神社、字鮎溜50番地、祭神 言代主神、安政4(1857)年勧請
②稲荷神社、字平田内18番地、祭神 豊受気毘売命、安政5(1858)年勧請
③西宮神社、字疂岩23番地、祭神 言代主神、寛水元(1624)年創立 (工藤家書上の蛭子宮のことと思わる)
④八雲神社、字掛間32番地、祭神 素鳴戔男命 (前記史料の毘舎門宮と思われる)
⑤雷神社、字畑中23番地、祭神 鴨若雷命、寛永4(1627)年創立
⑥稲荷神社、字便ノ間15番地、祭神 豊宇気毘売命、正保(1645)年創立
⑦稲荷神社、字横潤28番地、
祭神 事代主命、天明8(1788)年勧請
の諸社である。 現在の総代責任役員は次のとおりである。
総代長 伊藤英夫、総代 下倉 剛
猪股 裕、川道勝義、砂山勝蔵、佐々木市太郎、岸田初雄、井口武治、木村則雄、大阪梅三、長谷山誠一、熊谷政文、東 甚幸
相沼八幡神社 熊石町字相沼
祭神 誉田別命(ほんだわけのみこと)
創立 元和元(1615)年
御神像として旧磯崎神社御神体であったと考えられる円空作来迎観世音を奉斎している。相沼、折戸町内の氏神として崇敬厚く、大祭の際に行われる相沼奴振りは、町の民俗文化財に指定、大切に保存されている。明治10年村社に列し、明治44年1月6日無格社稲荷神社外を合併している。
相沼八幡神社
①磯崎神社、字相沼、祭神 円空作 来迎観世音菩薩像
旧観音堂と称せられ、神仏混合の堂社でありその後、磯崎神社と改称した。明治4年神仏混合廃止布告後八幡社に統合、その跡は旧垣田正男氏宅付近に当る。
②恵比須神社、字相沼、祭神 事代主命、創立 慶安4(1651)年
現相沼田中国治宅と阿部シサ宅の間のところから折り曲った坂の上にあった。
③権現社、字相沼、祭神、創立共に不明
境の権現様といわれ、相沼、泊川の境界上にあった。この社について“えみしのさえき”は、「泊川の浜と相沼の浜の部落のあいだに祠がある。この神はむかし、さめをとる網にかかってひきあげられた黒い石で、人がうづくまった形をしている。今は堺の権現様としてあがめ、寛延年間(1750ごろ)修理を加えたという棟札がある。」と書かれている。
④愛宕神社、字相沼、祭神 火産雷霊神、創立 万延(1659)年
山田友彦氏宅上にあったが、この社殿を移設して、現八幡神社々殿となっていた。婦女子の崇敬厚く、一家の主婦で年2回大祭を行ってきた。
⑤稲荷神社、字相沼、祭神不明、創立 寛政7(1795)年
現在の油谷治三郎氏宅上の林の中にあった。
鯡大漁の神様として崇敬厚く、大漁祈願のためお釜立神事が行われた。
現在の責任役員総代は次のとおり。
総代長 田中 猛、総代 寺井鉄一
田中秋雄、山田孝輔、木村慶造 林 又勝
北山神社 熊石町字泊川
祭神 天照皇太神
創立 元和元(1615)年
天照皇太神を奉斎しているが、摂社に金毘羅神社(祭神大物主命)があるので、海の神様として崇敬が厚い。
明治9年10月村社に列せられる。明治43年2月14日社殿改築許可、同44年6月30日社殿改築落成。同44年1月6日無格社稲荷神社外四社合併している。
泊川北山神社
合併社
①恵比須神社、字泊川冷水47番地、祭神 事代主命、寛永5(1628)年建立
明治26年12月願出、明治27年2月21日合併
②稲荷神社、字泊川大間四七番地、祭神 事代主命、正保3(1646)年建立
俗に大澗のお稲荷さんと呼ばれ北川旅館裏にあった。北山神社赤塗の戸はこの稲荷社のものである。
③厳島神社、字泊川冷水、祭神 市杵島比売命、宝暦6(1756)年建立
弁天社と呼ばれた神社である。
④稲荷神社、字泊川黒岩、祭神 狭依毘売神、明和2(1765)年建立
黒岩のお稲荷さんと呼ばれていた。
⑤恵比須神社、字泊川黒岩、祭神 狭依毘売神、安永4(1775)年建立
黒岩にあった。
現在の責任役員、総代は次のとおり。
総代長 加藤元一郎、総代 飯田慶一
藤谷一太郎、北川庄一郎
寺 院
曹洞宗 雲石山 門昌庵
熊石町宇畳岩所在
道南霊場の第一として名高い門昌庵は熊石を代表する禅刹である。この寺の開山は松前城下松前藩主菩提寺曹洞宗觸頭法幢寺第六世住職柏巌峰樹和尚を開基としている。門昌庵と柏巌和尚とのかかわり合いについては第4章第7節ですでに詳細に述べたので参照を願いたい。その開創は延宝5(1677)年の柏巌和尚が熊石に越山の刑によって配流され、草庵を結んだときを以ってその時期としている。延宝6年12月22日松前家第十世藩主矩廣、柏巌の処刑を家臣に命じて以降、種々の変事が惹起したことから、藩中あげて柏巌和尚の追善に意を用い、厚く崇敬してきた寺であって、従って和尚の年回法要には重臣を派して代香をさせている。
文政12(1829)年の百五十回忌には家臣(用人)和田頼母を以って御代参せしめており、その内容については“和田家諸用記録”(松前町史料編第二巻)に詳しい。8月28日には和田頼母次の敬白文を奏している。
千奉拝当開山門昌大和尚尊百五拾回御忌ニ付、当国領主松前志摩守源章廣公代拝家臣和田頼母事義維慎而拝、別而在松前隆之助於江戸祐翁道廣公安全愈国家安全永久賜守慎而白(つつしみてもう)ス。
また、文政6年11月には松前より供仏米二俵を賜り、さらに嘉永2(1849)年には開山堂が落成し、松前藩筆頭家老松前内蔵廣純が両側灯籠を献納している。さらに同年11月松前家より米十俵、金十両を毎年下賜され、さらに灯明料四両も寄付されている。嘉永3年には松前城裏の赤門を下賜され、当寺に偉観を添えている。
曹洞宗門昌庵山門
現在の本堂伽藍は文政9年に建立されており、昭和46年の大修理の際、別紙の2枚の棟札が発見された。
門昌庵棟札(門昌庵蔵)
門昌庵棟札
現在の庫裡は安政3(1856)年の建設である。明治17年秋暴風のため総門大破損し、翌18年大修理を実施している。また、昭和46年に本堂及び庫裡の大修理を行っている。
当寺には檀徒別過去帳が整理されていて、檀徒の沿革、変遷をよく知ることができる。本堂前には柏巌和尚墓碑及び首塚、中山巡査の墓等がある。
明治元年箱館戦争の際、館城が陥落し、松前藩兵は厚沢部川以西に最後の抵抗線を布き、藩主徳廣以下を津軽に南遷させるまで戦う体制をとった。土橋(厚沢部)から土場(江差町柳崎)、乙部と乗船を求めて熊石村に入った藩主徳廣以下は熊石に入っても過去からの門昌庵とのかかわり合いを恐れて、妙選寺に宿泊し、家臣団のみが宿泊している。また、館城や付近の戦闘での負傷者は多く門昌庵に泊った。特に松前藩の槍術指南役水牧梅干保嵩は館城前面の鶉口守備隊長として奮戦し、負傷して熊石に後退の上門昌庵に入り、11月19日藩主の関内出帆と前後して、ここで死亡している。
歴代住職
開山 柏巌峰樹大和尚
二世 宗源覚本大和尚
三世 瑞渕智龍大和尚
四世 圓眼智鏡大和尚
五世 實山龍明大和尚
六世 廓査大洞大和尚
七世 禅澄東海大和尚
八世 恵蕚玄教大和尚
九世 佛学霊道大和尚
十世 仙■(酉のとりに列)量山大和尚
十一世 量覚千英大和尚
十二世 祖傅梅苗大和尚
十三世 洞獄憲隆大和尚
十四世 洞嶽憲貢大和尚
十五世 大雲憲一大和尚(現在)
浄土宗 西光山 法蔵寺
熊石町字根崎
元禄3(1690)年3月14日勢蓮社至誉上人真雄和尚勢至菩薩を奉持して来って草庵を結び、浄土宗を弘通して勢至堂と通称された。また、宝永6(1709)年江差阿弥陀堂住職藩に願い出、その堂地を与えられて熊石庵と称した。
寛保元(1741)年7月19日の離島大島噴大による津浪の直撃を受け、堂舎総て流失し、留守居僧海心坊及び老僕喜八は溺死し、半鐘及び双盤が平田内川源流付近で発見されたといわれている。その後50余年を経た文化5(1808)年9月、第八世鏡誉上人代六間四面の本堂を再建したが、同時に保存されている棟札には左のように記されている。
浄土宗法蔵寺木鼻
現在本堂入口の向背は昭和30年12月北大高倉新一郎教授、道教育大河野広道教授、谷重雄道建築部長等の文化財専門委員が来町して調査の結果、柱、木鼻、紅梁、唐草模様等に室町時代の様式を備えており、およそ400年以前の建造物であることが分り、恐らくは北陸地方から古い建物の一部を移設したものでないかと推定されているので、棟梁が能登から来たこの文化5年の再建の際のものと考えられる。また、明治10年第十一世碧誉上人代に間口十間半、奥行五間半の庫裡を新築している。
明治23年6月5日、第十二世住職磯島智宝和尚寺号公称、本山の許可を受け、西光山法蔵寺と改称され、現在にいたっている。
寺宝のなかにはこの寺と熊石の歴史を物語るものが多い。なかでも寺の創建後10年目に村内有志から寄贈された半鐘は、高さ58センチメートル、内法38センチメートルの小型のものであるが、次の銘文が彫られている。
新屋久五郎、茶屋善太郎、甲屋伊右衛門、吉見長兵衛、西川安兵衛、大坂屋孫右衛門、山本庄次郎、櫛屋弥三治、□□忠右衛門、厚谷七右衛門内儀、近藤市郎左衛門
寄進之施主 工藤杢左衛門
弥陀堂 三世誠蓮社
至誉以信代之造
元禄十二己卯天
厚谷、近藤、工藤の3名は松前藩の重臣で、熊石に鮮漁納屋場を所有していたので寄進に協力をしたと考えられるが、他は熊石村の先往者である。
また、同年寄進進された鉦鼓にも次の銘号が彫られている。
元禄十二己卯年、寄進施主 甲屋長九郎
内儀為一門、眷属菩提也、阿弥陀堂、三世誠蓮社
至誉以信代
京堀川往筑後大掾常味作
当寺に安置してある道内最大2・06メートルの木喰作地蔵菩薩像は、信者は延命地蔵尊と呼んで尊崇しており、このほか高さ0・47メートルの薬師像も保存されているが、これについては第4章第15節を参照されたい。
当寺にある鑿子は明治2年の銘があるが、これは明治2年箱館戦争に参加した檀頭の赤泊五兵衛が激戦の矢不來(上磯町)の天満宮にあった鑿子を兜代りにしたのを記念に同寺に贈ったものである。
本寺前の石碑もまた熊石の歴史を彫むものが多い。本堂右堂右脇に奉安されている石碑は山海漁獵塔と称されるもので、次の刻文がある。
刻文(写真1)
この山海漁猟碑は今から260余年前の建立にかかわるもので、熊石町のこの時点ですでに漁業や山の生産物を主体に、活力ある生業が維持され、然もこのような金石文を残すように発展してきたことを示すものとして注目され、昭和60年3月30日北海道指定有形文化財に指定されている。
また、この碑にまつわる伝説として残されているものには、享保5年4月法順という念仏行者が巡錫して来て、無住の勢至堂に在住して布教活動に従事し、漁事についても種々指導したところ、多くの魚を獲ることが出来た。
鰊のほかに獲れるこの魚の名を知らなかったので和尚の名を取って法花(ほっけ)と名付け、翌6年報恩感謝を込めて、村民一致して供養塔を建設して、法要を厳修したといわれている。後、法順和尚は村民の懇請により、熊石村に定着し、勢至堂二代目住職となり心誉満必応法順大堂と号した。
境内にはまた木喰行道の廻国供養碑がある。この碑は、熊石産の高さ35センチメートル、花崗粗面岩の丸石に彫られたもので、正面には丸形の梵字の種子を配し、その下方に日本廻国中供養願主行道花押 施主藤左衛門、天下和順、日月清明、安永8年5月18日と刻まれていて、木喰行道の足跡を知る貴重な金石文である。
このほか法蔵寺には近世初期以降の過去帳があって、大島噴火による津浪死者の記録、あるいは久遠場所に開設された臼別寄場人足死亡者の記録等も保存されている。
歴代住職
初代 直雄大和尚
二代 法順大和尚
三代 心海大和尚
四代 信哲大和尚
五代 胡月大和尚
六代 純澄大和尚
七代 音悦大和尚
八代 大圓大和尚
九代 宜瓣大和尚
十代 卓念大和尚
十一代 孝天大和尚
十二代 智宝大和尚
十三代 孝道大和尚
十四代 教導(現在)
責任役員
関村一三
佐々木市太郎
総代 赤泊茂松
同 横山義雄
同 佐藤直一
同 工藤省一
浄土宗 帰命山 無量寺
熊石町字相沼
浄土宗無量寺
本寺は元禄元(1688)年松前城下浄土宗光善寺第十二世美誉和尚の弟子願心が当村に来って、一宇を建立し、元禄元年11月藩の許可を受け、阿弥陀堂と称した。安永3(1774)年三世住職宣誉のとき、本格的仏堂伽藍を建築したことが、同寺に保存されている次の棟札で分る。
さらに、この建築から34年後の文化5(1808)年にも本堂の建替を行っている。
棟札(二)
この棟札には相沼、泊川地区の有力者の氏名が掲載されていて、村の時代的動きを知ることができる。
当寺はその後、慶応2年にも建替が行われたといわれるが棟札は残されていない。
無量寺本堂棟札(1)
無量寺本堂棟札(2)
庫裡については文化12年の建築の古いものだといわれるが、一方では、この庫裡は館城の米倉を移築したともいわれている。館城は厚沢部町字館に、松前藩が厚沢部川流域の開発と人心一新を期して造営し、明治元年10月20日に完成した。完成のその日徳川脱走車が蝦夷地に上陸し、松前藩領内を進攻し、館城の攻防戦は11月15日行われ、徳川軍がこれを占拠した。しかし、戦略的に価値なしと見た徳川軍は館城に火をかけ、完成後僅か25日にして館城は消滅した。その際の残存建物は任意に持ち運ぶことを許したといわれているので、その材料で庫裡を建てたというのであれば、明治2年以降と考えられる。
同寺には木喰行道作の地蔵菩薩像があるほか、有名な無量寺過去帳が大切に保存されていて、北海道宗教史、変災史を知る上に最も大切な史料とされている。
この過去帳は
第1冊 寛保元年9月6日より明和7年8月14日まで 30年間分
第2冊 明和7年より寛政9年4月24曰まで 28年間分
第3冊 寛政9年8月より嘉永3年11月23日まで 55年間分
第4冊 安政2年1月より明治20年11月まで 35年間分
第5冊 明治23年2月より昭和14年12月まで 50年間分
で、198年間の檀中死亡者名、死亡事由、戒名等が記されている。特に第1冊の巻頭には寛保元(1741)年の大島噴大による津浪死亡者122名の住所、氏名、年齢が記されていて、この津浪がいかに悽惨なものであったかを知る唯一の史料である。また、明和4(1767)年の頃には金井主膳という医師が門前にあって、医業の傍ら手習塾を開いていて、地方の医療、文化に貢献していたことが分り、また、過去帳記載事項により、当地方に疱瘡や疫痢、さらには風疹等の流行と死亡等のことが分るばかりでなく、遊楽部鉛山稼動人足、あるいは難破船死亡者等、村の各般にわたる歴史を知ることができる。
さらにこの過去帳が得難い史料であるのは、昭和43年新北海道史編集所がこの過去帳を借覧調査をした際、第二号過去帳表紙の裏張り紙にキリシタン禁制策の一環である木版の寺請証文の用紙が貼り付けられていたことである。これは半分に切断されていたが、推定すると、
寺 請 状 事
一
右先祖代々浄土宗寺檀下にて
御公儀御法度之切支丹に御座無若構有之ハ罷出可申訳候為後日寺印 仍而如件。
明和元年九月朔日
寺 名 印
御奉行所
というもので、これを記入押印したものを宗門改帳に添えて、松前藩の宗門改奉行の検査を受ける慣例となっていたが、この様な用紙が木版印刷されていたことは、本道で初めての発見である。このようなことを総合して見た場合、無量寺過去帳は、本道の宗教史ばかりでなく、地方史研究の面からも極めて貴重な史料である。
歴代住職
初代 求誉上人願心和尚
二代 楼誉上人了道和尚
三代 等誉上人栄泉和尚
四代 宣誉上人諦音和尚
五代 廓誉上人音頂和尚
六代 忍誉上人学林和尚
七代 迎誉上人了超和尚
八代 順誉上人即瑞和尚
九代 空誉上人観理和尚
十代 巍誉上人俊道和尚
十一代 到誉上人玄戒和尚
十二代 想誉上人實含和尚
十三代 林誉上人硯存和尚
十四代 浄誉上人玄心和尚
十五代 神誉上人見龍和尚
十六代 智誉上人梁海和尚
十七代 性誉上人定貫大和尚
十八代 隆誉上人大興大和尚
十九代 託誉上人源勢和尚
二十代 法誉上人龍瑞和尚
二十一代 現住 州弘和尚
総代 田中辰弥
同 田中 猛
同 島谷 護
同 油谷豊治
同 林 又勝
同 加我豊吉
同 田村 秀雄
同 工藤キノ
真宗(東本願寺派) 青龍山 妙選寺
熊石町宇雲石所在
享保3(1718)年東本願寺派松前御坊専念寺七世瑞玄が熊石村に掛所を創設し、後、妙選寺と公称。六世浄玄の子浄慧をもって留守居とした。その後、専任住職を配して寺門の興隆に努めたが、明治初期以降一時無住となった時代があり、そのため寺内の沿革、変遷を知る資料が四散してしまい、その詳細を知ることが出来ない。
本寺は元宇雲石の下町にあり、明治元年の箱館戦争の際には徳川脱走車との戦に敗れた松前家十八世藩主松前志摩守徳廣を中心とした重臣の一行は、11月17日熊石村に到着したが、門昌庵は柏巌和尚の松前家に対する崇(たたり)を恐れて、妙選寺に100余名が宿泊したといわれるのを見ても、その伽藍の広大さがうかがわれる。
歴代住職
釈圓海
釈順恵
釈順海
安本憲文(現住)
真宗妙選寺(字雲石所在)
責任役員
安本順海
井口常治
総代 能登谷兵作
同 岸田耕蔵
同 藤谷清一
同 渡辺義一
同 新谷八治
同 川村市三郎
曹洞宗 東光山 薬師寺
熊石町宇泊川所在
宇泊川には近世初期より地蔵堂という庶民信仰の堂宇があった。ここには神仏混淆(こんこう)する形で信仰が守られてきた。安永7(1778)年から9年にかけ熊石に巡錫した木喰行道は、この地蔵堂に子安地蔵菩薩と薬師如来観音の2体の大作を彫成して本州に帰った。それによってこの堂は薬師堂、観音堂ともいわれていた。文政5(1822)年門昌庵がその末寺として一寺を建立、木喰像に由来して薬師堂と称し、後藥師寺と改めた。昭和58年には庫裡を再築し、面白を一新した。
歴代住職
初代 廓林大洞
二代 麒岳祥麟
三代 玄明
四代 玉岩寛光
五代 宣竜
六代 転秀
七代 量覚千英
八代 天山獨門
九代 即雲祖厳
寺号公称後
十代 荒生雲峰
十一代 荒生幸富
十二代 大和観洸
総代(現在)
加藤元一郎
同 杉村留吉
同 杉村信一郎
同 加藤一雄
同 加藤市太郎
同 関口孝雄
同 益田金次郎
同 仙嶋清三
同 林 正
同 滝沢四三郎
同 荒谷勝郎
薬師如来像
子安地蔵菩薩
真宗(東本願寺派) 泥垣(ねいおん)山 蓮華寺
大字相沼内字中歌
開基 松前専念寺七世瑞玄
創立 元禄2(1689)年
松前西立山専念寺住職系図によれば、専念寺六世住職浄玄の子瑞玄があり、この瑞玄について、次のように記してある。
七代 瑞玄
浄玄ノ男寛文己酉(一六六九)年生、貞享三(一六八六)年三月四日飛檐継目、同年住職。元禄二(一六八九)年相沼内村ニ一宇ヲ創建(后蓮華寺ト公称)、掛所相沼専念寺ト言、潭玄(后為瑞玄聟養子)ヲシ留主居セシム。
とあって、この年創立したことを確証している。留主居の潭玄は正徳3(1713)年飛檐継目となり、さらに享保元(1716)年住職となっている。
歴代住職
初代 小池大恵
二代 秋山(不明)
三代 清水(不明)
四代 巌 順道
五代 藤島明了
七代 西田進栄
八代 西田柾司
蓮華寺役員
代表役員 西田柾司
責任役員 稲船権六
同 西田はつえ
総代 茶碗野哲郎
同 南部谷一郎
同 秋田米次郎
同 北川庄一郎
同 桂川兵治
真宗蓮華寺
日蓮宗 七面山 光明寺
熊石町宇黒岩所在
七面山光明寺は、宗祖日蓮上人の六老僧の一人日持上人を崇敬開山としている。日持は宗祖日蓮上人の十三回忌を終えた後の永仁3(1294)年静岡県松野村の水精寺(現在静岡市蓮永寺)を発足し、日蓮の予言した仏教が西方から我が国に東漸したのを逆に、日本から西方にもたらすための異邦教化を目指して旅立った。その後、日持は宮城県古川市、青森県黒石市の法嶺院、青森市蓮華寺、東津軽郡平館村石崎等に聖跡し、蝦夷地に渡航したといわれる。日持上人は永仁4年函館市東在の妙応寺に錫を留め、黒岩の題目石、函館山の鶏冠石、上ノ国小松(小堀)の法華堂に遺跡を残し、また、当町の人住内川に自筆の経石を埋設して、大陸に旅立ったといわれている。この伝説は単に日持上人の来往を告ぐるのみでなく、当熊石地方に多く和人の定着を示すものとして注目されている。
なお光明寺の沿革については、同寺先住の成田顯醇の書記した沿革誌があるので、次に掲げる。
七面堂由緒
夫れ渡島国爾志郡泊川村人住内七面堂の由緒をたずねるに往昔永仁四(一二九五)年中に日蓮上人六老僧一人日持上人蝦夷地へ渡航せしとき北海巡錫の砌り認めたる経石を本尊に奉りて建立せる道場なり。
昔蝦夷の愚族は仏僧に帰依なき故経石沢と称すると雖も信仰の者なく空しく土中に埋石となって五百四十余年を経たり。朝民繁茂に随え地方の民衆度々に奇異の霊告ありと雖も、是を探る者なかりき。適々熊石村門昌庵住職の渡橋に際し、河中に経声を聞きこむと雖も更に感動なかりき、時至って弘化三(一八四六)年六月泊川村字冷水の住本庄屋夫婦に託宣する事数回に及び同人経石をさぐりてついに河中より経石を発見せり。ここに於てか至信篤信者徒四、五名協力して河辺に遷し奉り小宮を建立しこれに安置し奉りて崇拝する事限りなし。以来霊験日に顕著なるに当り是れか伝説四隣を風靡し益々其経石を渇仰する者甚だ多し、嘉永三(一八五〇)年に至り有志再び会し、在来小宮の餘りに粗漏なるを嘆き一般の信者と相はかりて稍広大の堂に改築せり。其後安政四(一八四七)年松前家より地所を賜り依て御堂に別当を置く事となり、江差町法華寺第十四代日帒上人の時別当仕舞所を建設せり是即ち当堂の庫裡の所以なり。其の後ときを経て明治十四年頃に相成り、社寺取調べの際法華寺第十七代太田日友上人の時、御堂を再建して説教所と称せしも未だ公許に至らず、明治四十一年四月七日附を以て始めて日蓮宗説教所公許を得たり。時管理者河合泰是師なり。更に大正十三年五月を期し成田顕醇恵師の盡力に依り現在の庫裡を改築落成す。成田顕恵師昭和二十年六月倶知安放光寺転住、七面山無住昭和二十一年三月成田顕居住、住職は倶知安放光寺成田顕恵師兼務、この間に七面山光明寺の寺号公称申請して許可せられる事務手続は成田顕醇、昭和二十九年六月移転改築、昭和二十八年より成田顕醇住職となり、昭和二十九年六月倶知安へ転住す。
日蓮宗光明寺(字黒岩所在)
昭和五十九年九月二十四日記入
成 田 顕 醇
歴代住職
初代 成田顕恵
二世 成田顕醇
三世 青野英昭(現住)
総代 木戸治助
同 鈴木長吉
同 伊勢谷石雄
同 田村光雄
同 垣田正男
曹洞宗 圓通山 観音寺
熊石町字関内所在
字関内は鰊の万石場所として栄え、明治初期には劇場、浴場、飲食店等も多く、人口も密集していたが、仏教の寺院がなく住民は葬祭に不便をかこっていた。同地の豪商猪股作蔵は、門昌庵と協議の上、一寺建立を決意し、私財を投じて、明治18年10月当寺を建立。斉藤大雲師を招へいし、明治20年5月26日観音寺の寺号が公称された。境内には猪股作蔵の顕彰碑が立っている。
曹洞宗観音寺(字関内所在)
歴代住職
初代 斉藤大雲
二代 海潮嶽音
三代 今井光顕(常念)
四代 今井 光玄
総代
同 猪股 勝一
同 藤井 豊三
同 富成 清一
同 永坂 逸郎
第14節 円空の巡錫
円空は、その作品の多いのに比し、その出生及び生涯はあまりよく知られていない。円空の生年は最近まで不明であったが、群馬県富岡市にある上野国(こうずけ)一の宮、宮貫前神社旧蔵の大般若経奥書に「壬申年生美濃国円空」の自書が発見され、(長谷川公茂著『円空仏』保育社新刊書)円空の出生は寛永9(1632年)であることが分った。出生地は美濃国竹ヶ鼻(現在の岐阜県羽島市上中町)は知られているが、父母の名も不明である。北海道に入ったのは、有珠善光寺奥の院であった洞爺湖観音島安置(現在は善光寺宝蔵収納)の円空作観音像の背面に、
うすおくのいん小島
江州伊吹山平等岩僧内
寛文六年丙午七月廿八日
始山登 円空(花押)
とあるほか、磯谷(寿都町)の海神社の御神体となっている円空仏の
いそやのたけ
寛文六年八月十一日
初登内浦岳 円空(花押)
等からして、円空は寛文6(1666)年蝦夷地に入っていることは明らかではあるが、その跡は残された作品によって知るだけである。
最近(昭和52)年青森県立郷土館が、円空・学秀仏展を開催し、その印刷物を刊行したなかに、弘前市立図書館所蔵の“津軽藩庁日記”(御国日記)の寛文六年正月二十九日の項に、
一 円空と申旅僧壱人長町に罷有候処に御国に指置申間敷由仰出候に付而、其段申渡候へば、今廿六日に罷出、青森へ罷越、松前へ参る由。
とあって、この寛文6年1月弘前にあった円空は、津軽藩から退去を求められて、青森から津軽半島を経て松前に渡り、同年には蝦夷地の東部を内浦湾を北上して、7月には有珠善光寺にいたり、8月には寿都付近にまで到り、同年秋以降、翌寛文7年にかけて、松前から西海岸を太田山まで北上して塑像行脚をしている。さらに翌々年の寛文8年の“万人堂縁起”(むつ市熊谷三郎氏蔵)によれば、同8年3月には円空が月余に亘って同家にあって大士観自在尊像を彫んだとあり、この時代には12月から2月にかけて海峡が航行不能の時代であったから、円空は寛文7年秋には下北半島に渡ったと考えられるので、円空の蝦夷地滞在は凡そ二十か月程度のものであったと考えられる。
現在、北海道に残されている円空仏は
番号 像名 所有者 所在地
1 聖観音位像 根崎神社 態石町
2 来迎観音像 北山神社 態石町
3 来迎観音像 相沼八幡神社 態石町
4 阿弥陀如来像 泊観音寺 江差町
5 来迎観音像 柏森神社 江差町
6 三十三観音像 木誓寺 乙部町
7 来迎観音像 吉祥寺 乙部町
8 来迎観音像 元和八幡宮 乙部町
9 来迎観音像 鳥山観音堂 乙部町
10 来迎観音像 北村観音堂 上ノ国町
11 十一面観音立像 北村観音堂 上ノ国町
12 来迎観音像 光明寺 上ノ国町
13 来迎観音像 石崎八幡宮 上ノ国町
14 来迎観音像 西村初男 上ノ国町
15 山浄大権現像 三社神社 松前町
16 来迎観音像 吉野教会 福島町
17 来迎観音像 男女川神社 木古内町
18 来迎観音像 曹渓寺 上磯町
19 来迎観音像 冨川八幡宮 上磯町
20 来迎観音像 上磯八幡宮 上磯町
21 来迎観音像 富原氏 七飯町
22 来迎観音像 称名寺 函館市
23 来迎観音像 内浦権現社 砂原町
24 来迎観音像 山越諏訪神社 八雲町 ゆうらっぷのたけ
25 来迎観音像 海神社 寿都町 いそやのたけ
26 白衣観音像 有珠善光寺 虻田町 うすおくの院
27 来迎観音像 登別神社 登別市 半焼
28 来迎観音像 樽前山神社 苫小牧市 たるまえのたけごんげん
29 薬師如来像 厳島神社 釧路市 くすりのたけごんげん
30 来迎観音像 弁天堂 千歳市 ゆうばりのたけごんげんか
31 来迎観音像 禅林寺 広尾町 蛎崎広林背銘
32 来迎観音像 汐首観音堂 戸井町
33 来迎観音像 古泉神社 木古内町
34 来迎観音像 西野神社 木古内町
35 来迎観音像 岩城神社 木古内町
36 来迎観音像 海神社 寿都町 らいねんの山ごんげん
等が主なものであり、このほか近代にいたってから本州からの移入仏もあるので、北海道内にはおおよそ45体位の円空仏があると推定されている。
さらに菅江真澄の“えみしのさえき”によれば、太田山の岩窟内には大量の円空仏があったというし、文政5(1822)年の松前馬形社佐々木主水書き上げの“本社末社草創書上”によれば、松前馬形社には「円空作 十一面観音 木像 一体 丈ケ六尺餘往古より当社に在来候。馬形宮之神体にては無御座候。」とある如く、等身大以上の大型のものまで数多くの作品が作られた。
寛永9(1632)年美濃国に生まれた円空は承応3(1654)年23歳で出家し、天台宗の修験者となり、洞爺観音島の作品銘にある如く、江州伊吹山の平等岩で木喰修行をした。伊吹山は天台宗太平寺に属し、山岳信仰の禅定場であったので、この山にそびえ立つ平等岩は、その修業道場で、円空は毎日この岩を巡って木喰修業を重ねていた。9年後は美濃に帰り、寛文3(1663)年32歳以降塑像生活に入ったが、同年から翌年にかけ白山権現ほか数体の仏像より造っていないが、寛文5年にいたって全国作像造廻国を発願して、日本海沿岸を北上して各地で作像しながら、同年秋には弘前市に達したものと考えられる。翌6年1月末には前掲史料の如く、青森に移り、ここでは同市浄満寺の来迎観音像を刻み、さらに蓬田村正法院の作品、平館村福昌寺、三廐村義経寺等の作品を残し、同6年5、6月には松前に渡航したものと考えられる。廣尾禅林寺の来迎観音像には背面には「願主 松前蛎崎内蔵 武田氏源廣林敬白 寛文六丙午夏六月吉日」と墨書銘があり、6月には廣尾の知行主蛎崎廣林(ひろしげ)の依頼を受けて作像しているので、この像が蝦夷地では第1号の作品ではないかと考えられる。さらに7月には有珠善光寺の奥の院で作像し、また8月には磯谷海神社の像を造っている。その後年号及び月を明示した作品はないので、明確なことは言い得ないが、松前から太田山にいたるまでの西日本海沿岸の仏像は、寛文6年の9月から翌7年10月ころまでに作像されたものであると推定される。
この日本海沿岸の各村で円空が多くの作像廻国をしたことは、菅江真澄の旅行記〝えみしのさえき〟(寛政元―1789年)に太田山の詳しい記事があるので、つぎに掲げる。
太田山のいわくら(神の御座所)もやや近くなったのであろう、高くそびえたって、とてものぼることもできないような岩の面に、二尋(十二尺)あまりの鉄の鎖をかけてあり、これらをちからにたぐりのぼると、窟の空洞にお堂がつくられてあった。ここに太田権現が鎮座しておられた。太田ノ命(みこと)をあがめまつるのであろうかと思ったら、ここは於多(おた)という浦の名であるが、なまって太田というのであった。ヲタは砂というアヰノことばで、砂崎があったのだろうか。奥蝦夷の国には砂崎沢(ヲタルナイ)というコタン(村)もあると、人が言っていた。斧で刻んだ仏像が、このお堂内にたいそう多く立っておられるのは、近江の国の円空という法師がこもって、修行のあいまに、いろいろな仏像を造っておさめたからである。また別の修行者も、近ごろこの窟にこもって、はるばると高い深谷をへだてた岩の面に注連(しめ)を引きまわし、高下駄をはいて山めぐりをしていた。その下駄がなおのこっている。小鍋、木枕、火打箱などが岩窟の奥においてあるのは、夜ごもりの人ためであるとか。神前の鈴をひき、ぬかづいて拝んでから、外に出て、いささか岩の上をつたっていくと、また岩の空洞があった。……略。
とあって、円空のこの太田権現社への参寵、作像はかなりの数のものを製作したらしく、恐らくは数か月ここに滞在して数十体を作仏したと考えられる。このような岩窟(いわや)での修行と作仏は、修験道の擬死再生極意の踏習から行われるもので、これらの洞穴は神霊のこもる場所で、しかも、ここは他界に通じる道であり、ここで修行により一旦死し、再生することによって神や仏の霊力が体内に込められるというものである。従って、この太田山の岩窟での木喰修行と作仏行は、死と直面しながら、わずかな灯を頼りの作像であって円空仏の持つ、微笑をたたえたあの像のような、人を抱容するような、生温かい修行ではなかった。熊石町黒岩には円空滞留洞があって、円空はここでも数体の仏像を刻んだと考えられるが、これも前述したような、岩窟修行の本義に基づいて行われたものであろう。太田権現社の円空仏は、製作以来120年余を経た寛政元年に菅江真澄がその場所を訪れたときも、なお数多くの仏像があったことを認めているし、また近年に廻国したものの作像もあるとしているところから、この時期より9年前にここに参寵をした木喰行道の作仏もあったと考えられるが、しかし、これらの諸仏は、大正11年6月28日参寵中の行者の火の不始末により、一山火災で焼失したことは誠に惜しまれる。
根崎神社御神像聖観音立像 円空作(根崎神社蔵)
この円空の太田山岩窟修行の往復の路すがら円空は、熊石町にもその作像を残したが、その作品は、
根崎神社御神体 聖観音立像
軀高 92・5センチメートル 桧材製
同上部拡大
この像は現在北海道に残されている円空仏中の立像としては異例のものであり、また、円空の北海道での作品の多くは来迎観音像であるので、その面からも珍しいものである。円空仏研究者で有名な五来重氏は、その著“円空仏”で、この根崎神社御神体聖観音像についての作品の特長、評価を
割合扁平な片剥の自然木をもちいており、切り口も疵だらけで、ありあわせの材であることが分る。全体にぎこちなく両手を不自然に胸につけているのは、技術が未熟のためか、原型が石像にあるかのいずれかであろう。この時代に共通してチャップリンの歩き方のように、足をひどく外開きにそろえる。両袖と裳の褶(ひだ)は飛鳥仏風に鰭(ひれ)状突起を8段に出す。北海道では普通やわらかな絵画的線刻衣文をつかうのに、これは飜波(ほんぱ)式に似た、片削溝(かたそりみぞ)彫衣文である。しかし高い宝髻(ほうきつ)と柳葉状の慈眼、鍵型耳、彎(わん)曲鼻、頸無胴などなどすべて円空の特色が見られる。初期のぎこちなさはあるが、真面目ですっきりした、好感のもてる作行である。
北山神社御神体 来迎観音像
軀高 50・5センチメートル 桧材製
泊川北山神社御神像来迎観音像 円空作(北山神社蔵)
同背面
円空が北海道で製作し、現存する仏像の前述36体中来迎観音像は29体に上っていて、北海道での作仏は来迎観音像が主体となっているが、前述五来重氏は、それを北海道式という定型化していて、その代表的なものに北山神社の来迎観音像を上げている。この式の観音像は、「宝髻(きつ)たかく筋彫髪、うつむきがちの満月相、柳葉状の慈眼、彎曲した鼻、通肩の衣に並行曲線の線刻衣丈、二重台座の上方は蓮座で、下方は岩座または臼座である。そして何よりも大きな特色は定印の手の上に、小さな蓮台をのせることである。」(五来重前掲書)とその特色をよく表現している。円空が北海道に来迎観音像が多いのは、この蝦夷地の産業、気候、風土から海難が多かったからではないかと考えているようであるが、この来迎観音像は往生者を迎える救い仏で、海難死亡者供養と豊漁祈願を兼ねたものではないかといっている。
相沼八幡神社御神像 来迎観音像
軀高 42センチメートル 桧材製
相沼八幡神社御神像来迎観音像 円空作(相沼八幡神社蔵)
この来迎観音像は北山神社来迎観音像と同様の作であるが、顔面や体彫部が痛み、滅耗している。これはご神体の円空仏が住民と一体となって喜怒哀楽を共にした証拠と見ることができる。相沼、泊川の古老の話によると、この円空仏はもと磯崎神社の御神体でその後相沼八幡宮の中にはあったが、扉には鍵もなく、いつでも誰でも持ち出すことができ、子供達がいつも前庭に持ち出して遊んだり、村内に流行病があると、村民が借り出し、仏体を縄でしばり病送りに相沼内川の川原まで引いて行ったといわれており、その結果、御神体が損耗していったものである。円空か蝦夷地に渡航した寛文6年頃は、和人地の各村に人口の扶植が始まり、ようやく村落形成がなされ始めたころであり、村民は屋敷神や地蔵堂など、無宗教的な庶民信仰が芽ばえ出したときであり、“福山秘府・諸社年譜境内堂社部巻之十二”によれば、道南和人地の堂社のうち、24社寺が円空作像を本尊(体)としているのを見ても、道南地方の神道と仏教の末だ明分されない、神仏習合した形で民間信仰が芽ばえ、その信仰がやがて、道南地方の神道、仏教に分化して行くも一つの過程をつくって行くもので、この面から見れば、円空は北海道習合信仰の先駆者である。
第15節 木喰行道の廻国
熊石町には微笑(びしょう)仏といわれる木喰行道作の多くの仏像が存在していて、しかもその仏像は日本国内の各所に点在する木喰行道作の代表的なものとして注視を集めている。木喰とは木喰行をした僧に冠せられた尊称であり、その僧の名が行道である。木喰行とは五穀あるいは十穀を喰べない修行で、修験道の山伏が高山や名山に入って入峰修業中、米等の穀物の携行が容易でないため、修業中山野草を喰べて行う十界修業の一つであって、90日の人峰修業が完了すると五穀断行者、十穀断行者または穀断聖(こくだちひじり)などと呼ばれて、大いに尊敬を受ける人である。(五来重著『微笑佛』) 木喰行道の生い立ち、僧となる過程はよく知られていないが、享保2(1717)年頃甲斐国八代郡丸畑村(現在の山梨県西八代郡下部町大字古関字丸畑)の奥山家に生れた。14歳のとき郷里を出奔し、江戸に出てさまざまな仕事をしたが成功せず、22歳のとき失業し、相模大山石尊参りをして出家し、この大山山上坊や各地の高山で修行、さらには宝暦12(1762)年45歳のとき常陸の木喰観海上人から木喰戒を受けて、穀断聖となったと考えられ、これらの僧は真言宗に所属し、高野聖とも呼ばれていた。
行道は安永2(1773)年56歳のとき諸国廻国行脚を志した。これは日本66カ国の一の宮に大乗妙典を一部奉納する、いわゆる六十六部廻国へと旅立ち、その廻国は66部のかたわら金剛杖と鉦を持ち、真言念仏を勧めながら作善を行うという方法をとりながらの行脚であった。同年2月18日相模から秩父、江戸、榛名、沼田等を巡り、翌3年江戸、房総半島、常陸等を径、多くの参寵を行っている。安永5年水戸から奥州に入り、二本松、福島、立石寺、湯殿山、月山、羽黒山、鳥海山を経て秋田から常陸に帰っている。この年磐城海岸の常福寺に参寵し、翌6年3月に石にて唐獅子2体を刻んだのが、木喰行道の仏像作製の始まりであるといわれている。
安永7年には仙台から松島、中尊寺、黒石正法寺、黒石寺、遠野から6月5日には恐山円通寺に到り、ここから蝦夷地入りをした。
地蔵菩像 木喰作(法蔵寺蔵)(写真1)
行道が蝦夷地に入ったのは恐山から下山して、下北半島の佐井、大間から箱館に渡航し、ここから松前、江差を経て熊石村に入ったのは安永7年の7月で、木喰の納経受取帳によれば、「奥州松前庄熊石邑(むら) 太田山本地大日如来 門昌庵」と記されている。これは太田山は松前真言宗阿吽寺の所管する山岳修験場であるが、この太田山に奉納する目的で熊石村まで来た際に、門昌庵にも納経したことが明確である。さらに浄土宗法蔵寺の境内には安永8年5月18日銘の日本廻国中供養碑があり、約1年間行道は太田山と熊石村にあって参寵と作佛に専念していたものと考えられる。行道の蝦夷地における滞留は1年10ヵ月であって、最後に納経受取に「奥州松前太田山大日如来 阿吽寺、安永9年5月18日」とあって、同日松前から乗船し、20日には下北半島の田名部に達している。
同右部拡大
行道の作仏は、現在道内に残されているものでは熊石町の法蔵寺、薬師寺、無量寺、乙部町竜宝寺、法然寺、江差町金剛寺、のほか個人でも所有しているものがあるほか納経帳によれば、熊石村に来た1ヵ月後の安永7年閏(うるう)7月には恵山、有珠善光寺にも経納しているので、作仏もかなりの数があったものと推定される。
行道の作仏は前記常陸常福寺では石の唐獅子を刻んだのみで、蝦夷地に入るまでは木造の仏像は1体も刻んでいない。生涯に一千体以上の仏像を納めた行道の作仏は、実に太田山と熊石村に始まったと見ても過言ではない。五来重著“微笑佛”において木喰は多分に太田山の円空仏に刺激され、「木喰行道が納経したころはたしかにあった(円空仏)のだから、彼はここで宗教的感動と芸術的感激につつまれことであろう。」といっている。その反応として行道の作仏修行が始まったものと考えられる。そして太田山の岩窟のなかで作仏が行われたことが推定される。寛政元(1789)年太田山を訪れた菅江真澄の旅行記“えみしのさえき”のなかでも、100余年前に来て多くの仏像を彫った円空の作品が沢山あり、さらに「別の修行者も、近ごろこの窟にこもって」といっているから、行道がここに籠ったのは、7、8年前のことであるから、行道の納めた仏像もこの太田山に残されていたものと考えられる。
熊石町に残る木喰行道作の仏像のうちでは、浄土宗法蔵寺の地蔵菩薩像は北海道を代表する大作である。この像は、
高さ 2・06メートル 幅 0・5メートル 桧材 一木彫成で、左手に錫杖、右手に宝珠を持った地蔵菩薩の像である。
木喰上人廻国供養塔(法蔵寺境内)
また、背後には行道自筆の墨書銘が入っている。
同背面
同背後
この背銘は上部中央の梵字は、地蔵の真言オン・カ・カ・カ・ビ・サンマ・エイ・ソ・ワカ・となっており、次の慈眼視衆生 福集海無量は、妙法蓮華経観世音菩薩菩門品の一節である。また、胴体背後には無数の墨書梵字があるが判読は不明である。その下部にはこの完成加持祈禱の安永九年四月廿四日の月日が記入され、さらに作者である日本廻国行道と書判があり、それに併列して、この施主放三郎の名と書判がある。また、背面台座部分にはこの木台を供出してくれた10名の名が記されているが、これによるとこの10名の杣夫は南部出身者5名、津軽出身者5名であって、江差付近の桧(ひのき)山から遠く離れ、アスナロ桧の全くないと考えられていた熊石で、このような桧材が伐り出され、また、本州から多くの出稼杣夫が働いていたことを示すものとしても、貴重な史料である。また、この地蔵菩薩製作について施主となり種々の配慮をした放三郎について、熊石町古老の口碑では若狭屋藤三郎ではないかと言い伝えられてきている。
この木喰行道の蝦夷地製作仏像について、その研究者五来重氏は、その著“微笑佛”のなかで、その特長を「猪首というよりも頸部がなく、面相が平べったい大顔で、大耳なことであり、衣文も形式的で石彫のようにかたくるしい。微笑させようとする意図はあったが、ついに笑わなかった仏たちである。しかしその他の小像に比べると、さすがに2メートル近い大作にとりくもうとしただけに、技術も進んでおり、以前に石彫の経験でもなければ、これだけの作ができようとはおもえない。法蔵寺の地蔵が安永9年銘だとのことで、これらはいずれも北海道で最後の作であろう。」といっている。
地蔵菩薩像(小像)(法蔵寺蔵)
泊川曹洞宗薬師寺には2体の中型像がある。この2体は行道が揃えて製作したらしく材質、手法、躯量共に共通性を有している。
薬師寺木喰像右子安地蔵菩薩 左薬師如来 (薬師寺所蔵)
同背面
子安地蔵拡大
薬師如来拡大
1体は子安地蔵菩薩で
高さ 0・74メートル 幅 0・13メートル 桧材 一木彫成
で二人の子供を抱えるという珍らしい型の地蔵菩薩である。
また、いま1体は薬師如来として伝えられるもので、中心部に宝珠を抱いている。この躯量は
高さ 0・81メートル 幅 0・20メートル 桧材 一木彫成
で、この両像共に背面墨書は慈眼眎衆生 福集海無量の観音経の一節が記されている。
この3体の仏像のほか、本町には無量寺、法蔵寺に小型の彫像があり、また、民間では磯島家にも2体の所在が確認されているので、今後の発見の可能性もある。いずれにしても熊石町は行道の作仏修行の第一歩を印した町であり、この町で56歳のときから木彫を始め、円空と並び近世を代表する塑像家として90歳まで活躍した木喰行道の発祥地と見ることができる。
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