松前藩の成立 ⑫

http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history_k/k04/index.html【第4章 松前藩の成立】より 

 西蝦夷日誌・初編

 蝦夷地を北海道という国名に変更し、明治2年7月国郡制定の名付け親として有名な松浦武四郎の西蝦夷地を巡回調査した際の記録集成である。武四郎は探検家としても高名で、弘化2年初航以来、嘉永2年、安政3年と三度渡航し、9年間に亘って蝦夷地内をくまなく調査をしているが、これらの調査を基調としてまとめられたのが、“西蝦夷日誌・初編”であり、文久3(1863)年の刊行である。本町史には吉田常吉編による時事新書によった。

 去(二)蝦夷国界(一)一百二十里(多賀城修造碑)。依然於(レ)今(二)干陸奥宮城郡(一)(市川村)。古百二十里准(二)其法二十里(一)、則是桃生(ものう)・膽沢(いざわ)辺也。是皆内郡蝦夷にして、其内にも熟(ナレ)蝦夷・荒(アラ)蝦夷等の別有て、皇化に動(ややも)すれば叛も有しと。其頃には此島地(ヲシマ)は渡島蝦夷と称して有し由なるが、今は隅(くま)々まで昇平の徳沢に浴し、蝦夷の字も如何と思われ、其故なる哉、何の時よりか場所(夷地)と称し、和人地をシャモ地と言り。又西部(西在)は多くおしまと称す事也。其名恐らくは渡島の結(つま)(詰)りしか否哉。又或は勝島(江刺の人本多氏説)也と。然れ共勝島の起る所をしらず。又シャモ地と夷人より惣称するを、是は夷言なれば何か知らざれ共、萬国新話(第二)韃而靼(だつたん)の部に、国俗その猛勇絶倫なる者を立て主とし、尊称して「シャム」と言。即君長の義也。(中略)是其地満州に接る故韃言(たつげん)を伝へしか(下略)と有。依て按(あんずる)に、シャムは和人を尊称せし語か。時々韃の事伝りしかば頌る其説可也と思ふ。扨(さて)其内地と場所の堺を何時より爰に置れ、往来の者改め給ふか、此所よりして沿岸都(すべ)て懸崕絶壁なる故、熊石より航して〔太櫓〕に入る。干役(うえき)する人も亦如(レ)此。依て其不便不(レ)少。文化度スツキ〔棄木〕番屋迄山道を切開、馬三疋を試に通し給うに、文政壬午の復地に及び、其功業一時に廃棄し、元の榛荊(いばら)とぞ成けるを、再(ふたたび)其地を開き弁利たらんことを是迄再度実験し置たる地を又踏試んと、此所より隊長(くみがしら)は船出し給ふ。余は(安政三丙辰年四月十一日)陸行す。

 扨其熊石(安政改、三百廿二軒、千六百七十二人)村たる哉、漁檐櫛比(ぎょたんしっぴ)、帆竿排立、棹哥(さおうた)互答、魚業の壮(さかん)なること真に宇宙之壮観也。其熊石も本名はクマウシにして、魚棚多との訛(なま)りし也。村人は夷言なることを忘て、雲石とて雲の如き石有故号(なづ)くといへり。信ずるに足らず。是より平山の下通り、是迄に引かへ奇岩怪軽石簇(ぞく)々並び、足の踏場も危くなり、黒ワシリ(黒岩岬也)、爰を以て寛政度迄境とす。然るに人家立蔓(はびこ)り、何時となく境も移り行ける也。此上を越て岡下(平磯)に岩角伝ひ下る。セッキナイ(人家十餘軒、小湾、船懸りよし)、関内に改む。前に横澗(船澗よろし、岩磯多し)、ヨシカ島(暗礁)此所乱礁点々とし、餓狼(がろう)、飢虎(きこ)、または踞獅(きよし)磐〔盤(ばん)〕龍(りう)、種々の象形をなしければ ふみわくる 岩根そばたち けだものゝ 住かもしるき 熊石の里

関内川(幅六、七間源熊石岳)是よりニベシナイ迄は海辺と山の両道有、竝(ならび)てデケマ(小石浜)、ホンムイ(小澗)小湾の義也。此所に標柱(従(二)トマリ村境(一)二里七丁十二間、従(二)松前沖口(一)二十七里三十丁八間)を立、海岸には立岩三本有、それを以て華夷の境とす。此辺大石原にて飛越刎(はね)越行也。又陸道有。

 この記録で日本三大古碑の一つといわれる多賀城修造碑は、天平宝字6(762)年多賀城内に恵美朝■(獣へんに葛)(えみのあさかり)が建立し、蝦夷国界まで百二十里があり、この地は熊石であるという説があって武四郎が、特にこのことを前段に掲出しており、この安政度の調査で熊石村の戸口が明確にされている。ここで特筆されるのは武四郎の熊石村到着が4月11日で、鯡漁業の最盛であったので漁家が連立し、船の帆柱や鯡を干す竿が立並び、網起したために沖に漕ぎ出す船、漁獲を終え岸に向う船の人達のはやし声が村中に響くという活況は、正に真に宇宙の壮観也(・・・・・・・・上点強調)と表現しているが、江差を過ぎて蝦夷地境界で、このような盛況を見て驚いての表現と考えられる。さらにこの日誌で蝦夷地との境界は、熊石村の西はずれの黒岩岬と定めていたものを、文政5年以降に於いて松前藩は関内のホンムイを境と変更してはいるが、これは熊石番所をここに移したものではなく、出入人の検査、税役の取立はなお熊石の番所で行われていたものと考えられる。なお、文部省史料館に松浦家から委託されている史料の“史料雑纂綴”中の「詩稿集」のなかに、熊石にかかわる詩韻が数首あるので、参考として次に掲げる。

 到泊川邨

 夷駒蠻駿■(尚がしらに耳)難馴 ■(浅の三水が山へん)■(山へんに巌)停鞭獨屈伸

 踏遍行因華俗尽 客心縷々乱如編

 熊 石

 翠壁丹崖恰仙描 恠■(山へんに巌)奇石最如彫

 ■(目へんに年)中唯在詩聯巧 過却江頭獨□(身か)橋

 関 内

 峯巒重疂望方奇 乱石疂重路自危

 心竟一身任公幹 巉蹊初識異邦□(不明)

 第13節 寺社の創建

 “福山秘府・巻之十二・諸社年譜并境内堂社部”によれば、享保3(1718)年の西在郷堂社改之控には、次の諸社堂のあったことが記されている。

 一八幡宮、相野間内村、造立年号不相知。

 一観音堂、同村、造立年号不相知。

 一恵美須宮、同村、同上

 一権現社、同村、同上

 一観音堂、同村(これから泊川か)、同上

 一愛宕社、同村、正徳元年造立。

 一恵美須宮、同村、造立年号不相知。

 一稲荷社、同村、正徳五年造立。

 一観音堂、熊石村、寛文五年造立。神体円空

 一明神社、同村、元禄元年造立。

 一大日堂、同村、宝永三年造立。

 一恵美須宮、同村、同上

 一稲荷社、同村、正徳四年造立。

 一雷神社、ホロムイ村、宝永二年造立。

 一恵美須宮、同村、宝永四年造立。

とあって西在郷32村90堂社のうち相沼、泊川、熊石村を併せ14社が存在していて、その比率も15パーセントに相当するので、三村の住民の神仏に対する敬神思想が強かったことを示すものである。

 近世初頭以降和人の定着がこの地方に始まると、本州の故郷から自然環境の厳しい蝦夷地の和人地最北に居住地を求めることは、相当の勇気と決断が必要であった。しかも、その生業である漁業は、板子一枚地獄の危険極まりない仕事であるばかりではなく、北国の気象の変化の激しさ等、常に生命をさらしての労働であったから、 先達の開拓者は神佛の加護を求める機会が多かった。従って自分達の故郷の氏神を住居付近に祀ったり、また、自宅内に自分の信仰する神を招いて屋敷神にするという素朴な神道が芽ばえていた。そして定着者が増加し、部落が形成されてくると、部落民の信仰のまとまりとして、ささやかな氏神としての神社が造られ、また、この神社を部落集会所的な機能を持たせて、村が運営されていった。

 神社が働く男子の信仰が強かったのに対して、女子は仏教に対する信仰が強かった。これは、女子の場合、父母や自分の子の葬祭を直接肌身に感じながら斎行している場合が多く、しかも自分の子が乳児、幼児で病没する者が多かったので、観音、地蔵信仰によって死亡した子供の平安を祈るという風潮が強かった。特に観音は三十三の変化した姿体で子供を守ってくれるという考えと、地蔵菩薩は子供を極楽浄土に導いてくれるという信仰が、母親を仏教に引き入れていったものと考えられる。しかし、開拓当初には各部落には神、仏を明瞭に区分するものがなく、神仏が習合(混合)する形で住民の精神のなかにとけ込んでいた。これがある程度の年代を経、神社が建立され、また観音堂、地蔵堂ができ、さらには仏教各宗の寺院が建立されてくると、神仏の分離が行われてくる。熊石町の場合神社仏堂の建立が、おおむね円空作の観音像を本尊、あるいは御神体としていることが多く、円空の当地方での作像は寛文6、7(1666~7)年であるので、堂社の建立は、この時期以降に多く、定往者もこのころから増加してきたのではないかと考えられる。

 根暗、相沼、北山の現存三社のほか、乙部社家工藤家の師匠に当る松前馬形神社佐々木家に残る、慶応4(1858)年辰8月工藤播磨書き上げによる。“諸社書上”による諸社とその沿革は次のとおりである。

○愛宕宮、祭神火産霊神、相沼、万治2(1659)年建立○蛭子(えびす)宮、祭神、相沼、慶愛4(1651)年建立

○大国主神、相沼、万治元(1658)年建立

○熊野宮、祭神猨田毘古大神、相沼、正保3(1646)年建立

○稲荷宮、祭神、相沼、寛政7(1795)年建立

○稲荷宮、祭神、相沼、文化2(1805)年建立

○龍神宮、祭神大綿津見神、相沼、文久3(1863)年建立

○金毘羅宮、祭神金山比古神、泊川、寛延5(1749)年建立

○蛭子宮、祭神八重事代主神、泊川、寛永5(1628)年建立

○稲荷大明神、祭神八重事代主神、泊川、正保3(1646)年建立

○弁天宮、祭神狭依毘売神、泊川、宝暦6(1756)年建立

○稲荷大明神(字黒岩)、祭神狭依毘売神、泊川、明和2(1765)年建立

○蛭子宮(同黒岩)、祭神狭依毘売神、泊川、安永4(1775)年建立

○稲荷大明神(字見市)、祭神狭依毘売神、泊川、安永4(1775)年建立

○雲石毘沙門宮、祭神須佐之男命、熊石、元和2(1616)年建立

○雷宮、祭神鴨若雷命、熊石、寛永4(1627)年建立

○蛭子宮、祭神八重事代主命、熊石、寛永9(1632)年建立

○稲荷大明社、祭神八重事代主命、熊石、正保2(1645)年建立

○於白田内稲荷大明神、祭神八重事代主命、関内、安永5(1776)年建立

○字本泊蛭子宮、祭神八重事代主命、関内、宝暦8(1758)年建立

○稲荷大明神、祭神八重事代主命、関内、天明8(1788)年建立

 前記の熊石町に近世末期には24社の神社のあったことが記録されているが、これを設立年代別に見ると1600年代の建立が13社、1700年代が9社、1800年代が2社である。神社の創建が17世紀に多いのはその村の総社神社の創立が多いためで、18世紀以降では稲荷社、蛭子社のような漁業の守護神の創立が多くなることは、漁業が村の主産業として位置付けられてきたことを物語るものである。

 また、祭神別の内訳は、神明社2社、八幡社1社、稲荷社8社、蛭子社5社、愛岩社1社、熊野社1社、大国主神礼1社、龍神社1社、金毘羅社1社、弁天社1社、毘沙門社1社、雷社1社、計24社となっている。

 熊石町の寺社の沿革を神社、寺院の順に次にのべる。

神 社

 根崎神社 熊石町字根崎

 祭神 天照皇太神

 創立 慶長11(1606)年

 摂社 八雲神社

 熊石町役場所蔵の社寺明細帳(明治44年改訂のもの)によれば、熊石村鎮守神として慶長11年創立したと記録されている。祭神御霊代なく、円空作の聖観世音立像が御神像として奉斎されている。この神社は熊石村の鎮守として村民から深い崇敬を集めていた。

 同社には多くの棟札があり、若干の変遷を知ることができるが、(一)の棟札では村中で鳥居一居を文化十三(1816)年に建立しているが、この年代では松前藩が一時奥州梁川へ移封の時期で、熊石には幕府直轄の松前奉行輩下の熊石番所長谷川九八郎詰合が記録され、村役では名主佐野屋権次郎、同岩佐又七、年寄では佐藤久次兵衛、斉藤重右衛門の名が見られる。神主は乙部の工藤播磨が兼務している。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000