http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history_k/k04/index.html【第4章 松前藩の成立】より
第16節 松前藩の移封と帰封
天明から寛政年間(1781~1800)にかけ、蝦夷地及びその属島が外国の侵略の矢面に立っているという風説が、国内輿論として急激に抬頭してきた。その口火を切ったのはハンガリー人ベニヨフスキーの警告であった。彼はポーランド軍々人としてロシアと戦ったが捕虜となり1769(明和6)年カムサッカに追放されたが、1771(同8)年同志と船を奪って逃去の途中、阿波に寄泊してオランダ商館長を通じて、ロシア人が千島に城塞を築き、蝦夷地とその属島を奪おうとしていると警告した。それから数年後仙台藩の工藤兵肋は、その門人である医師米田玄丹や松前藩の勘定奉行で飛騨屋久兵衛の公訴で敗れて重追放となり、浪人していた湊源左衛門等から千島に於けるロシア人の状況を聴き、その危機感をもって“赤蝦夷風説考”を編逑発表し、北方の危機を広く天下に知らせ、その輿論の抬頭をあおった。この工藤平助の意見は幕府の採用するところとなり、天明4(1784)年老中田沼意次は勘定奉行松本伊豆守秀持をしてこのことを調査せしめた。秀持は勘定組頭土山宗次郎にその調査を命じたので、土山は大船2艘を建造して普請役や下役その他の手付等をもって天明5年江戸を出発、蝦夷地、千島、樺太を一巡し、その間蝦夷との交易を試験する等、蝦夷地の開拓、交易、警備について試案を作製したが、天明6年9月将軍家治の病没による田沼意次の失脚によって、この計画は沙汰止みとなった。
さらに仙台藩の工藤兵肋の門人林子平が“三国通覧図説”や“海国兵談”を著したことによって北方問題への関心はさらに強まった。寛政元(1789)年の国後・メナシの蝦夷乱後、これら現地人のロシア側への順化を恐れた幕府は、同3年御救交易と称し、現地人との正しい交易をして撫育しようと計画した。最上徳内らは厚岸、霧多布、国後、択捉等まで調査、交易し、翌4月には樺太にまで進出したが、翌年ロシア使節ラックスマンが松前に来たことによって、この御救交易は中止となった。
また、寛政8年8月イギリス船プロビテンス号(艦長ブロートン中佐)が日本沿岸測量のため来航し、翌9年にも来航するなど、蝦夷地近辺は外交的にあわただしくなってきた。同10年幕府は目付の渡辺久蔵、大河内善兵衛にその調査を命じ、その復命の結果を評議して蝦夷地の経営は幕府自らが行い、北方国土の安全確保に努めることになった。
寛政11年幕府は外国との境界取締のため、東蝦夷地の浦河から知床岬までとその属島を、試みに公収することになったが、さらに知内川以東から浦河までも公収し、その代替として松前家には武州埼玉郡久喜町に五千石の地を賜い、また、東蝦夷地の運上金若干を松前家に支給した。
幕府は松前家から公収した東蝦夷地経営のため書院番頭松平信濃守忠明を蝦夷地取締御用掛に任じ、さらに勘定奉行石川左近將監忠房外3名も追加任命し、また、遠山金四郎景晋ら3名を蝦夷地掛とし、属僚70名余も発令して箱館を本拠とした。また、享和2(1802年)東蝦夷地の仮上知を永久上知として、あらたに蝦夷奉行を置き、戸川安論、羽太正養を奉行に任じた。
松前家第13世藩主松前志摩守道廣は僅か12歳で藩主となったが、性豪直で兵学、文学に秀で、特に馬術は諸大名随一の名手といわれた。奔放な性格から来る行動は、尊号事件や大御所問題にかかわり、さらには薩摩藩主の島津侯や、仙台藩の伊達侯と交際したり、とかく幕命に批判的で、寛政4年幕府から強制的に隠居を命ぜられたが、なお行動がおさまらず、これに対する懲罰的意味をこめて、文化4(1807)年蝦夷地とその属島を松前家から公収することに決定し、松前家は奥州梁川(福島県伊達郡)に九千石の交替寄合席の小名に降格して転封することになった。
それまでは無高の大名として武鑑の最末席に位置した松前家ではあるが、徴役、交易経済に支えられ、優に七、八万石の実収を得ていた藩が、僅か九千石の小名への降格転封は、家臣の死活問題で、藩内の動揺は大きかった。
当時、松前家の家臣の数は凡そ380名程度であったが、転封地ではこれら多くの家臣の生活維持は困難であったので、その半数の約180名程度の士席を削り、同5年1月松前家は移封した。
文化4年には蝦夷地の統治機関として松前奉行所が設けられ、10月には箱館奉行戸川安論、川尻春之、村垣定行が松前奉行に補せられ、松前福山館をもってその治所とした。同5年には奉行所職制が定められ、また、蝦夷地の警備分担も決定した。警備は仙台藩が択捉、国後島及び箱館。会津藩は樺太、宗谷、斜里及び松前。南部藩は根室、厚岸、十勝、日高、砂原、津軽藩は天塩、留萌、石狩、岩内、寿都、熊石の警備を担当し、人員も幕府役人は80人、出兵兵力は4000人に及んでいる。
この幕府直轄期の松前職名中に「熊石詰出役」の名があり、松前藩制時代同様、熊石番所の管理と、警備担当の津軽藩士の監督していたようで、この際の出張詰員は長谷川九八郎(調役下役)である。
梁川へ移封していた松前家は、15年後の文政4(1821)年再び松前へ帰ることになった。それはロシアが勢力的に極東に軍事力を増強して、千島地方に勢力を滲透させてきたが、ヨーロッパに於てはナポレオンの率いるフランス軍が1812(文化9)年モスクワに進攻し、敗退はしたが、ロシア軍の軍事力も大きな打撃を受け、極東配備の兵力を本国に動員しなければならなくなり、一時的にオホーツク方面の兵力は削減され、ロシア側との摩擦が少なくなったと幕府側が判断した結果ではあるが、内実としてはこの直轄によってあまりに費用がかかり過ぎ、幕府の財政に圧迫を加えていたことと、松前家の必死の幕閣、要路への復領嘆願が功を奏したといわれている。
松前道広引退血誓書(上ノ国町笹浪家所蔵)
文政4年12月7日幕府から旧領に復帰することを許された松前氏は、翌5年3月梁川から家老の蠣崎將監廣年(波響)、松前内蔵廣純、用人工藤八郎右衛門を派遣して、藩籍を受領させ、さらに家臣を派遣して各場所の現地引継を受け、藩主章廣以下は5月29日帰着した。15年余に亘る幕府の直轄にさいなまれていた領民は歓呼の声でこれを迎えたという。この徳川幕領期の間、蝦夷地の主産物である鯡が不漁続きであったが藩主の帰着前に豊漁となったので、領民は「殿様下れば、鯡も下る」と喜び合ったといわれる。
帰封後の松前藩は幕府の戒告もあって大いに藩政の改革に意を用いた。前松前藩政時代には藩及び家臣の知行を場所持の高級家臣と、切米取の低級家臣に分け、場所請負人の広域経済の上に立藩してきたが、これを総て石高俸禄制に改めたが、これは松前藩士のいわゆる「士商兼帯」という弊風を改めるものであった。さらに蝦夷地、樺太を始め諸島の警備のため家臣を増加し、また、冬期間の越冬警備のため、東蝦夷地に8ヵ所、西蝦夷地に3ヵ所計11ヵ所の勤番所を設けて、外国船の渡航を厳しく監視した。さらに現地蝦夷人の遊離を防ぐため、交易の正当化と介抱の強化に努めるなど大いに改革されるところがあった。
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