http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno063.htm 【奥の細道】より
(佛頂和尚山居跡 元禄2年4月5日)
当国雲岸寺*のおくに、 仏頂和尚*山居跡あり。
竪横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば*
と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼麓に到る*。山はおくあるけしきにて、谷道 遙に、松杉黒く苔したヾりて、卯月の天今猶寒し。十景尽る所*、橋をわた つて山門に入。
さて、かの跡はいづくのほどにやと*、後の山によぢのぼれば、石上の小 菴岩窟にむすびかけたり*。妙禅師の死関、法雲法師の石室を見るがごとし*。
木啄も庵は やぶらず夏木立(きつつきも いおはやぶらず なつこだち)
と、とりあへぬ一句を柱に残侍し*。
元禄2年4月5日のこと。この日は朝のうち曇っていたが、天気はよかった。好天もこの日までで、以後6日より9日までは連日の雨天、10日になってようやく止み太陽が顔を出した。この間、浄法寺図書方へ投宿。11日は日中小雨、夕方やや強く降る。12日は曇、13日になって久しぶりに天気になったものの、14日は又雨。11日から14日まで翠挑方に宿泊。15日に雨上がり、再度浄法寺図書宅に移る。
木啄も庵はやぶらず夏木立
芭蕉の禅の師であり、畏友佛頂和尚山居跡を訪ねました。さすがに尊い和尚の修業跡なればよろず突っついて木に穴を開けてしまう啄木鳥も和尚の庵には乱暴を働かないようだ。キツツキは、別名寺ツツキとも云うほど木造の文化財を破壊する「困り者」なのである。
なお、『曾良本おくのほそ道』では、この句は、 木啄も庵は食らはず夏木立
と記録されている。
佛頂和尚の歌「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」と
芭蕉の「木啄も庵は破らず夏木立」の句を書いた石碑
雲巌寺は今でも手入れの行き届いたたたずまいを見せている。残念ながら佛頂山居の跡は不明だった。
雲 岸寺:<うんがんじ>と読む。雲巌寺とも。栃木県黒羽町から東に12kmほど離れた場所にある臨済宗妙心寺派の名刹。佛頂和尚はここで没した。
佛頂和尚:(1641~1715)常陸国鹿島の臨済宗根本寺住職で芭蕉は、1682年頃彼について禅修業をしたらしい。『鹿島詣』で仲秋の月を見に出かけたおりは、根本寺に泊めてもらった。その佛頂は、しばしば雲厳寺に山居して修業していた。芭蕉の尊敬する人物の一人。芭蕉より長生きした。
竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば:5尺にも足りないちっぽけな庵とはいえ、雲水の身には不必要なものだが、雨を凌ぐためには致し方なく作ったものだ、の意。
佛頂和尚山居跡は、一般には撮影等の立ち入りは禁止されていますが、雲厳寺さんのご好意により撮影することが出来ました。(牛久市森田武さん提供)
おぼえず彼麓に到る:<おぼえずかのふもとにいたる>と読む。わいわい言っているうちにあっという間に目的地に着いた。
十景尽る所:雲巌寺には寺内に名勝十景(海岩閣・竹林・十梅林・雲龍洞・鉢盂峰<ぼうほう>・水分石・千丈岩・飛雪亭・玲瓏岩)があった。
かの跡はいづくのほどにやと:佛頂和尚の修業した山居跡はどこにあるのか、の意 。
石上の小 菴岩窟にむすびかけたり:<せきじょうのしょうあんがんくつに・・>と読む。岩の上にある佛頂和尚の座禅修行の小さな庵が岩窟にもたせかけてあった、というのであろう。
妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし:かの高僧たちの修業跡を見るような気分であったという意味。妙禅師も法雲法師も中国の高僧。前者は「死関」という扁額を飾って洞窟の中で修業したと伝えられている。後者は不祥。
とりあへぬ一句を柱に残侍し:<とりあえぬいっくをはしらにのこしはべりし>。即興の一句を柱に書き付けた。
全文翻訳
下野国雲巌寺の奥に、わが参禅の師である仏頂和尚の座禅修行の跡があるという。
竪横の五尺に満たぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭で岩に書いておいた、といつか師から聞いたことがあった。そこで、その山居の跡を見ようと雲巌寺に向けて出発した。人々も誘い合ってやってきた。若い人たちが多く、道々にぎやかに騒ぎながら行ったので、麓までは思いがけず早く到着した。雲巌寺の山内は森々として、谷道はどこまでも続き、松や杉は苔むして濡れ、四月だというのに冷え冷えとする。雲巌寺十景の終わるところに橋があり、それを渡って山門に入った。
さて、山居の跡は何処かと探しながら、後ろの山を登っていくと、小庵が巌にもたれるようにして造ってあった。南宋の高僧妙禅師の死関、法雲法師の石室を見ているような気がしてきた。
木啄も庵はやぶらず夏木立
と即興の句を庵の柱に残してきた。
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