http://www.tochigi-omairi.net/ennin 【栃木が生んだ名僧 円仁の足跡】より
日本での仏教発展に尽力した僧侶は数多くいるものの、「名僧」と呼ばれる僧侶となると数は限られる。そのなかで、我々が暮らす栃木県出身で、希代の名僧と呼ばれる僧侶がいる。
その名は慈覚大師・円仁。その足跡を追ってみた。
円仁は、現在の栃木県南部である下野国都賀郡で生まれた。生誕地には二つの説があるが、九歳の時に菩薩と称えられた大慈寺の広智のもとで修行に入り、十五歳で比叡山に登る。比叡山での円仁は、止観の法を修め、のちには師である最澄の代講を果たすまでになる。二十歳で官試に合格、天台宗止観業の年分度者になると、二十一歳にして宮中の金光明会で得度、二十三歳には奈良の東大寺で具足戒を受けて正式に国家公認の僧侶となった。
その後の円仁は、己の修行ととともに、東北への巡錫や寺院の再興、出羽の国(現・山形県、秋田県)で大地震があった際にはいち早く駆けつけ天台の教えを布衍しながら巡錫を重ねるなどの功績を残している。
そして四十二歳で最後の遣唐使に選ばれ、四十五歳で唐に渡る。この時記した『入唐求法巡礼記』は世界三大旅行書と評されている。帰国後、西日本で開基して以降の記録は残されていないが、亡くなるまで布衍に専心したとされている。
仏教の布教に捧げた名僧・円仁が生まれた地に生きることを誇りに思いたい。
http://www.horakuji.com/dhyana/sikan/about.htm 【止観とは】.
止と観
止観とは、「止」と「観」という二つの瞑想法の総称です。
止は、サンスクリットśamatha[シャマタ]あるいはパーリ語samatha[サマタ]の漢訳語です。また、漢訳仏典の中では、しばしばこれを音写した奢摩他[しゃまた]という言葉で呼称されます。
シャマタの瞑想とは、その漢訳語「止」の字が示す如く、なにか特定の対象を定めてそこに精神を集中し、心の動きを極力止めんとする瞑想法です。
この瞑想法に熟達すると、人は強力な集中力を得ることが出来、三昧[さんまい]や三摩地[さんまぢ]、あるいは定[じょう]などと言われる精神状態に至ります。修行者は、止の瞑想を修している過程において、尋常ならざる恍惚感・多幸感、あるいは鏡のように澄み渡った精神状態、覚醒感を覚えることがあります。
ところで、三昧という言葉は、日本の一般社会でも比較的なじみがあると言えるでしょう。
これは、サンスクリットsamādhi [サマーディ]の音写語(三摩地はより原語の発音に近いもの)で、「一つになったもの」という意味から「調和」・「統合」・「専心」という意味で用いられます。要は、「深く集中した心の状態」です。
定は、サンスクリットdhyāna[ディヤーナ]あるいはパーリ語jhāna[ジャーナ]の漢訳語です。
これらは、「考える」などを意味する√dhyaiからの派生語で「沈思」から「思想」、そしてを「瞑想」を意味する言葉です。が、仏教では特に「深い瞑想の境地」、具体的には「(瞑想によって)強力な集中力を得た心の状態」を指して用いられる言葉です。
日本はもとより世界で広く知られている、禅あるいはZENという言葉は、dhyānaの音写語である禅那[ぜんな]の略語です。
ちなみに禅(旧字体は禪)という漢字そのもののは、「天子が位を譲ること」あるいは「天子が神を祀ること」を意味するものであり、禅定などという場合の禅は、音写で使用されただけであって、これら原意とはまったく関係がありません。
様々な瞑想法
「止」の瞑想の代表的なものとして世間で言われるものに、安般念(持息念・数息観)を挙げられます。
これは、サンスクリットでānāpāna smṛti[アーナーパーナ スムリティ]あるいはパーリ語でānāpāna sati[アーナーパーナ サティ]ということから、漢訳仏典では安那般那念[あんなぱんなねん]または安般念ばどの音写語が用いられ、あるいは持息念や数息観との訳語が使われています。
その方法は自らの呼吸に集中してこれを数えて心を鎮め、つぎに呼吸の状態、さらに身心の状態に特に注意を払って心を落ち着け、それぞれ対象とするモノの本質を見つめる、というものです。これは、仏教に特有の法であって、初学者には初門、熟達者には悉地へ運ぶ筏となる、大変重要な修道法です。その具体的な内容としては、四事そして十六特勝が説かれています。
先に述べたように、世間では安般念は止の代表的な瞑想と言われます。
が、実際は安般念には止観双方の要素があって、一概に「安般念は止の瞑想」などとは言うことは出来ません。むしろそのようにこれを一面的に理解してしまうと、その人の修道上の障害とすら成り得てしまうでしょう。
(安般念についての詳細は、“安般念”を参照のこと。)
また、実際に死体を目の前にして、あるいは九想観図[くそうかんず]」などを用いて、人の身体が朽ちていく様子を見て淫欲を退治する不浄観[ふじょうかん]や、四無量心観[しむりょうしんかん]と総称される、あらゆる生きとし生けるものに対して区別なく、慈・悲・喜・捨の思いを起こして怒りを伏す瞑想もまた、止の瞑想の代表的なものとして言われます。
「観」は、サンスクリットvipaśyanā[ヴィパシュヤナー]あるいはパーリ語vipassanā[ヴィパッサナー]の漢訳語で、毘鉢舎那[びぱっしゃな]という音写語で言われることがあります。最近は上座部が出版界隈においてやや`流行していることによって、パーリ語のヴィパッサナーという呼称が一般的になりだしていますが、この瞑想は、その訳語の示す如く「観る」修道法です。
しかし、ただ観ること、客観的に観察することを、単純にヴィパシュヤナーなどとは云いません。
自らの知覚する対象が、その本質として無常であり、苦であり、空、無我であることを、ありのままに観ることを、特にヴィパシュヤナーといいます。
さて以下、止と観との修習がどのように異なるかを、わかりやすいよう表として示します。
止と観との瞑想法の基本的相違点
- 止(śamatha) 観(vipaśyanā)
対象 世俗諦・施設・仮設 勝義諦(無常・苦・空・無我)
功徳 定(三昧)・神通力の獲得 般若の獲得
効能 心解脱 慧解脱
(定力によって貪欲・瞋恚を抑制) (般若によって無明を破砕・根絶)
境地 色界・無色界 般涅槃
(小乗は四向四果、大乗は十地等を前提)
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