http://www.walkingtune.com/reproduction.html 【新しいピアノ演奏再生技術をどう位置づけるか】 より
●グレン・グールドの帰還?
トロント市の中心部フロント・ストリートにあるカナダ放送協会(CBC)の拠点、カナダ放送センター。1993年にジャーヴィス・ストリートより移転したため、生前のグレン・グールド(1932―82)が知ることのなかった建物だが、その1階には341席を収容する「グレン・グールド・スタジオ」という名のコンサート・ホールがある (http://glenngouldstudio.cbc.ca/) 。昨年(2006年)の9月25日(誕生日)に不思議な演奏会が開かれた。故人であるグールドが《ゴルトベルク変奏曲》を再演する。あのモノラル音源の55年録音をデータ化して自動演奏装置つきのヤマハのグランドピアノ(Disklavier Pro)で初演するという試みで、当日はラジオ放送もされた。
イヴェントは成功した。多くのグールド関係者を含む250名がこれに立ち会ったが、ひとりでに動くピアノの演奏に接して、感激のあまり涙を流す人もいた。
これは米国の技術者ジョン・Q・ウォーカー率いるエンタテイメント企業ゼンフ・スタジオが開発したソフトウェアによって実現した演奏で、使用楽器は彼らの拠点とするノース・カロライナ州ローリーから搬送されてきたものである。アクションについては長年グールドのピアノを調律してきたトロントのピアノ技術者ヴァーン・エドクィストなど、グールド側の関係者の協力を得て、可能な限りグールド好みの設定を復元させたという。
同日の晩、同じ会場で、名プロデューサー、スティーヴン・エプスタインの統括のもと、ソニー・BMG・マスターワークスによって、商業録音も行なわれた。通常録音に加え、ピアニストが鍵盤に向かう位置にダミーヘッドを据えたバイノーラル録音を併収したハイブリッドSACD盤が作られる。「ゼンフ・リパフォーマンス」(Zenph Re-Performance)というクレジットで、グレン・グールド生誕75年・没後25年記念盤として、日本では本年3月に先行発売、北米では6月に発売。私は日本盤に書いた解説で基礎情報を紹介し、議論の整理をしたが【★1】、ここではこの「リパフォーマンス」(以下「再演」と呼ぶ)が音楽メディアとしてどのように位置づけられるか等について若干の考察を加えたい。
●メディアの新しい結合<<pp.82/83>>
音楽記録・再生メディアの歴史を振り返ると、今日の私たちはまず蓄音機(グラモフォン)を想起するかもしれない。1877年、エディソンがスズ箔を巻いたシリンダー方式に始まる。蝋管式シリンダー、円盤化を経て、各種の技術的発展を伴いつつ、いわゆるSPレコードの時代が訪れ、20世紀なかばにLPレコードがこれを引き継ぐ。これら円盤録音と平行して磁気録音も発達し、ステレオ録音方式も普及したが、1982年(グールドの没年)にCDが実用化され、デジタル・メディアの時代に移行、SACDなども生まれる一方、アイポッドのようなデータ化による新しいメディアも進む。いずれにせよ、これらが記録と再生をする対象は「音響」だった。
しかし、もうひとつ、音楽記録・再生メディアの歴史には、自動演奏機械が存在する。9世紀に始まる自動演奏機械では18世紀に登場した自動オルガンがひとつの大きな流れとなったが、その発達の結果、1890年代に自動演奏ピアノ(プレイヤー・ピアノ)が現われた。穴を開けたロールペーパーに空気を通してキーやペダルの操作をする圧搾空気機構を用いる、いわゆる「ピアノロール」である。ヒンデミットやストラヴィンスキーなどが自動ピアノ専用の曲を作ったりもしたが、やがて、さらに精巧な技術が投入され、強弱やテンポの揺れ、ペダリング等を仔細に記録・再生できる「リプロデューシング・ピアノ」が登場する。その先駆けは1904年登場のドイツの「ヴェルテ・ミニョン」で、ピアノ本体に打鍵装置が組み込まれるもののほか、80本の指と2本の足を持ち、鍵盤に向かう「フォアゼッツァー」という箱形ロボットも開発された。米国の「デュオ・アート」「アンピコ」などの後発ブランドも、それぞれの意匠を凝らした。パハマン、パデレフスキ、ゴドフスキ、ホフマン、コルトーなどの往年の名ピアニストや、ドビュッシー、スクリャービン、ラフマニノフ、ラヴェル、ストラヴィンスキー、グレインジャー、ガーシュインなどの作曲家たちがこうした再生技術を認め、次々に演奏を記録した。しかし1930年代になると、大恐慌と蓄音機の普及の影響で、他の自動演奏楽器同様、急速に廃れてしまう。
結局、「リプロデューシング・ピアノ」が目指したのは何か。柴田南雄の表現を借りれば、「ピアニストの身体運動の機械的記録」だった【★2】。
1970年代以降、昔の演奏様式に対する関心から、「ロール」の復刻再生が行なわれ、レコード化もされるようになったが、それは記録されていた「身体運動」を「音響」に変換し、記録し直すことを意味した。
すると、ゼンフ・スタジオの「再演」の営みはその正反対だとわかる。つまり、「音響」を「身体運動」に変換している。今回の場合、モノラル盤に残された《ゴルトベルク》の「音響」から、グールドの「身体運動」を割り出し、デジタル・データ化する。グールドの「身体運動」を生のピアノに作用させ、再度「音響」を創出し、最新の録音技術でそれを記録し直す、というプロセスである。これは音楽記録・再生メディアの2つの歴史を新しいヴェクトルで結合させた、画期的な試みだと言えよう。
●試みの意図
しかし、なぜ、そのような面倒なことをするのか。往年の名演を聴くには、残された「録音」の音質を最新のテクノロジーで高めるのが正当であろうし、クラシック音楽業界と音楽ファンは、常にそうした努力を支持してきた。ところがゼンフの発想は違う。ウォーカーは「演奏をそれが録音されたときのメディアから切り離す」という表現をしているが【★3】、その意図は特定の楽器や録音状況とは無関係に存在する「録音の裏にあるオリジナルな演奏」の抽出と、それを別の場、別の楽器で再現することにある【★4】。
しかし、「オリジナルな演奏」とは、本当に特定の楽器や録音状況から切り離して存在するのだろうか。例えば、演奏解釈が、そのときに用いた楽器の個性(アクションや音色)や演奏状況との相互作用で生まれるとしたら、どこから切り離した部分が「オリジナルな演奏」なのか。抽出される「身体運動」のデータは相互関係を欠いた不自然な動きにならないのだろうか。そういう疑問は残る。<<pp.83/84>>
●「再演」の成果と評価
とにかく「再演」の第1の試みは、ディスクとして商品化された。気になるのは、「音響」の記録から「身体運動」の記録への変換がきちんとできているのか、その成果は「オーセンティック」な演奏と認定できるのか、である。
この「再演盤」を聴くと、リズム、強弱、アーティキュレーション、装飾法、ペダリングなど、グールドが「55年盤」で行なった弾き方が手に取るようにわかる(ように思える)。グールドの弾き方を詳細に書き込んだ楽譜がそのまま音になった、いわば「音で聴かせる解釈譜」である。
本当にそうであれば、これは、音楽学的に分析できる(言葉を用いて客観的に議論・記述できる)材料をすべてデータ化し、再現したことになる(そうした要素を音楽学的に徹底解析して「グールドらしさ」を記述した研究成果がケヴィン・バザーナの『グレン・グールド演奏術』サダコ・グエン訳〔白水社、2001年〕だった)。「再演」の技術はグールド以外のさまざまな演奏家の解釈を分析・研究するための有力な道具として、活用の可能性が期待されるし、日本でも研究の進む「演奏生成システム」(人間的な表情のある自動演奏をするコンピュータ・システム)の発展にも貢献するであろう【★5】。
しかし、個々の演奏・演奏家の個性を決める要素には、タッチやリズムや強弱等の微細な揺れなど、従来の客観的分析や記述からは捨象される要素があるはずで、そうしたものはどれほど取り入れられ、グールドの個性の再現に寄与しているのであろうか。使用楽器のソフトウェア(High-Res MIDI) では、ハンマーの打弦するタイミング(百万分の1秒刻み)や打弦の速度、ダンパーの位置、ペダルの位置(256段階刻み)、押されるときのキーの角度などがデータ化されているそうで、そうした要素の取り入れにも努めていることはわかるが、証拠にはならない。
ディスクを聴く人の実感の結果は、全面肯定(違和感をまったく認めない立場)から、全面否定(コンセプト自体を斥ける立場を含む)までさまざまであろう。賞讃しつつも若干の留保を挙げる評として、例えば、金子建志は「[通常ステレオ版]は、アコースティックな残響が幾分、水っぽい印象を与えるため、モノラル原盤の切れ味や、独特の点描的なタッチが与えた衝撃が薄れ気味。一方、バイノーラル[……]は、タッチのの粒立ちが鮮明で、ペダリングやフレージングの微妙な息遣い(もちろん、実際の唸り声は原理的にも介在しない)までもが感じられ」ると述べる【★6】。また、米国のある評では、冒頭のアリアは見事に同じだが、第26~29変奏のような速いパッセージで、「55年盤」では音の粒立ちが悪いために緊迫感の出ている箇所が「再演盤」では音の並びが均等化されて、そうした感覚が消えていることや、「55年盤」の「速さ」に伴う「非現実感」が「再演盤」にはかえって欠けていること、第10変奏(フゲッタ)で反復される主題が「55年盤」ではそれぞれに表情が違うが、「再演盤」では均一に聞こえること、などの指摘がなされている【★7】。
こうした差異の指摘が客観的に裏付けられるどうかはわからないが、とにかく言えるのは、「音響」から「身体運動」へのデータの解析・変換は、ソフトウェアのプロセッシングによって自動生成されるのではなく、人間の判断によるマニュアルな操作が加わっているため、差異が生じる余地がある、ということである。最初の3分間のデモを作るだけで、人の手とプロセッシングをあわせて2週間かかったと聞くし、録音の現場でもデータ修整が行なわれた。第27変奏の音(第3小節第1拍)が「55年盤」ではきちんと弾けていなかったことに対して、エプスタインが修整を要請し、15通りのデータ修整が試みられ、最も自然な流れのものが選ばれたという(プレス・リリース)。つまり、「身体運動」のデータ作成自体が、作り手の創意が反映する芸術的な取り組みであると考えられる。その意味で「音響」どおりの「再演」は成立しにくい。むしろ「再演」は、「音響」にインスパイアされて生まれた新しい「身体運動」が生み出した新しい演奏として、その演奏自体の評価<<pp.84/85>>を問うていくべきかもしれない。
●グールド本人は支持したのか
さて、グールド本人が生きていたら、今回の「再演」をどう受けとめたであろうか。グールドの言動は多岐にわたっているため、肯定と否定、それぞれに都合の良い根拠が探し出せそうである。
まず、録音された演奏を自由に編集・加工する「新種の聴き手」の姿を「再演」の作業に認めるならば、グールドは支持したかもしれない。しかし、自分の演奏が実際に第三者に操作されることについては、快く思わなかった可能性もある。そもそもグールドが提唱した数々の理想の聴き手像は、グールド本人の投影にすぎなかった【★8】。
また、W・カーロスがシンセサイザーで作ったアルバム『スイッチト・オン・バッハ』を絶讃した事実を考えれば、グールドは「再演」の自動演奏の側面を評価した可能性がある。彼は人間的な演奏かどうかよりも、音楽自体が構築物として現前化することを究極の理想としていたからである。
では、「再演」の演奏会を開くことについてはどう受けとめるであろうか。グールドはあの世で苦笑しているかもしれない。演奏会の終焉を「予言」し、みずからも演奏会活動をやめたグールドだが、メディアの歴史は、彼が望んでいたような、一直線の発展はしなかった。つまり、電子メディアが生まれ、発達しても、演奏会メディアにそっくり取り変わりはせず、むしろ演奏会メディアと併存し、かつそれを拡張させる形となった。さまざまな録音を用意して、会場で生演奏に反転させるDJの登場も、グールドの録音をデータ化し、舞台のピアノで鳴らす今回の「再演」のデモンストレーションも、演奏会メディアを否定した彼の未来図にはなかったはずである。そして結局、人々がグールドをまず甦らせたかった場所は、グールドの信念に反して、演奏会の舞台だった。
最後に、ミスタッチや不良な音の修整、各種の雑音(鼻歌、椅子のきしみ、足踏みなど)の排除についてはどうか。グールドは歓迎した可能性がある。しかし、実はこうしたノイズにこそ、グールドらしさが宿っており、通常のグールドの録音を聴取する際に私たちはそれらを無意識に楽しんでいるのかもしれない。調整不良のまま録音を済ませ、あちこちでハンマーがリバウンド現象を起こし、つぶれた音を発している《インヴェンションとシンフォニア》(1964年録音)を「再演」したらどうなるのか。これは「55年盤」以上に大きな挑戦となろう。
ともあれ、ゼンフ・スタジオは、これから往年の名演奏家の録音の「再演」に乗り出すという。次はやはりそれを堪能したいし、さらなる可能性の拡がりに期待したい。
註
★1.宮澤淳一「ウォーカー氏の「再演」は第3の音楽メディアとなるか」,『グレン・グールド/バッハ:ゴールドベルク変奏曲(1955年)の再創造』(ブックレット)所収,ソニー SICC 10043,2007年3月発売.なお,先行する紹介記事に以下のものがある.中矢一義「思わず応援したくなるウォーカー氏開発の革新的ソフトウェア」,『レコード芸術』(2005年4月号).<戻る>
★2.柴田南雄「コンドン・コレクション礼讃」,『世紀の名ピアニストたち――今ドン・コレクション』(別冊解説書)所収,日本コロムビア COCO-75681~612,1993年11月発売.<戻る>
★3.John Q. Walker, interview, "In Performance"(broadcast), CBC Radio Two, September 25, 2006.<戻る>
★4.ケヴィン・バザーナ「グレン・グールド、ゴールドベルク変奏曲、ゼンフ・スタジオの『再演』プロセスについて」(安江幸子訳),『グレン・グールド』所収.<戻る>
★5.日本の研究者主導で Rencon (Performance Rendering Contest) という「演奏生成システム」に関する総合研究プロジェクトがあり、定期的に国際的な聴き較べコンテストが開かれている (www.renconmusic.org)。サイトには自動演奏ロボットによる2050年ショパン・コンクール優勝の夢が掲げられている。また,七澤順一が試みているヴァーチャル・ピアニスト「ミヒャエル・ナナサコフ」〔wwww.nanasawa.net〕による自動演奏録音の健闘も無視できない.<戻る>
★6.金子建志「グールドのクローン誕生?」,『音楽現代』(2007年5月号): 78頁.<戻る>
★7.Christine Tham, review, dated April 9, 2007, SA-CD.net, <http://www.sa-cd.net/showreviews/4462>, accessed June 1, 2007.<戻る>
★8.宮澤淳一『グレン・グールド論』(春秋社,2004年),第1章「聴き手とは誰か」参照.<戻る>
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