回り道雑感 ①

http://www.valley.ne.jp/~gyuho3/zakkanback15.html  【回り道雑感】より

荷物

どんなに苦労して手に入れ、蓄えてきたものでも、もう自分が持っていても役には立たない・・・・・それを「荷物」と言います。

早くだれかに渡すか、しまい込むかしないとこれから歩く道中のじゃまになるだけです。

やけに息が切れるのは、捨てずに持ち歩いている、その荷物のせいでしょう。

魅力

おもてを歩く勇気がないから、うら道をさがそうとする。うら道をさがしても見つからないから歩くのをあきらめる・・・・・人間の魅力が色あせていくのはたいていこの順序である。

ストレス

ストレスがまったくない暮らしにあこがれるが、ストレスがゼロになると、そのことがストレスになるという。

人間は、悩んでいないと生きていけない生き物なのだ。

つり合い

忙しくて、へとへとになりながらも平穏な日々が続いているなら、つり合いがとれている。

一方に心配事があっても、もう一方にはそれを打ち消す楽しみがある・・・

そう考えれば多少の問題も何とかなりませんか。

飾る

身を飾る装飾品が一つふえるたびにそれまで自分の中で清楚に輝いていたものが一つ消える。装飾品は輝きを失った部分を隠すものに他ならない。

”飾らない人”が好人物の代名詞として使われるのももっともである。

目標

「一日一事」・・・・一日に何か一つ、「今日はこれをやった」と言えるものをつくっていく・・・・山里で暮らすようになってから身についた、心おだやかに暮らす目標である。

自分

誇れる才能もなく、自慢できる体力や容姿もなく、人をうならせる特技も持たない。

地味で目立つこともなく、ごく普通にしか生きられない・・・・・・

だが、世間に迷惑をかけることはなく生きてきた。それで十分。いいではないか。

変質

あいつには負けたくないという気持ちが自分を高めてくれる。”あいつには”が”あいつだけには”となったら、ただの、情けない羨望となる。

励まし

錦秋を誇った山々の紅葉がまるでシャワーのように猛烈な勢いで散り始めている。

一本の木が落とす落葉の量は半端ではない。

それらがみな木々の養分となって、来年の芽吹きを支える。

冬支度を急ぐ彼らに背中を押されながら、「お前もがんばれ」と励まされている。

たとえわずかでも、空を見上げる時間が持てた日は、人間として生きた日である。

問い

満ち足りているか?これで十分か?「はい」とはなかなか答えられない。

それは困るし、不快なので、自分にこんな問いはめったにしない。

列車

若い日に、生きるために否応なく”上り列車”に乗せられた。行き先は告げられなかった・・・・・・そろそろ”下り列車”を探さなければならない。帰るべきところは下り列車でなければたどり着けないから。

支度

「冬支度(じたく)」とは言うが、夏支度や秋支度とは言わない。戦(いくさ)支度、旅支度、嫁入り支度・・・・・支度がただの準備と違うのは、目に見えぬ大きな力に対峙する覚悟が秘められていることだ。

物がまえだけでなく、心がまえも整ったとき、「支度ができた」と言う。

つまらない

ことあるごとに「つまらない」と言う人は、「つまらなくない」体験を知らない人だ。

あるいは、知っているつもりでもそれを手に入れるために戦ったことのない人である。

傷つくこともなく、指をくわえて見ているだけだから、つまらない。

待つ

待つことに慣れすぎると、新しくやってくるものが怖くなる。待っても来なかったものが

そうさせる。

筋書き

そうか、なるほど、こんな筋書きになっていたのか、と年を重ねるたびに少しずつ自分の人生の輪郭が見えてくる。筋書きはドラマの進行とともに明らかになるということ・・・・

この先、心配しなくても筋書きはちゃんとできているようだ。

寒さ

いっしょに手をつなげる者が傍にいれば木枯らしの中でも風邪はひかない。

ねらい

平日に観光地やショッピングセンターに行くとおじさんやおばさんたちであふれ返っている。この人たちの心を動かす取り組みを本気で考えないとどんなシャレた名前をつけようが、どんなプレゼントやサービスを付加しようが、傾きかけた景気は元気にならない。

おじさんやおばさんたちは、”ノリ”が悪く、すぐに反応はできないがホンモノを見抜く目だけは確かである。

分かち合う

しあわせはだれかと分かち合ったときに”幸せ”になる。一人で感じるものは、それらしくあっても、別のものだ。

かつて私を喜ばせ、私を傷つけ、私を悩ませた人たちがいる。そんな人たちと一緒に生きた時代を忘れない。彼や彼女たちが今どんな人生を送っているのか、知る由もないが遠い昔に私と縁があったことを覚えていてくれるだろうか。まちがいなく私の人生の一時期を共に生きた人たち、あなたたちもどうか幸せであってほしい・・・・・・

一つ

通り過ぎてゆくものとやってくるもの・・・・・・そう聞いて思い浮かぶものをそれぞれ一つ挙げてごらんなさい。そこに挙がったものがおそらく今のあなたの生き方を一番深いところで支えているものです。

生きる

小さな喜びを積み上げていく営みを「生きる」という。小さな悲しみを乗り越え、大きな悲しみに備える営みを「生きる」という。きのうや今日、身の回りに起こったささやかな出来事もこのいずれかに組み込まれていく。

わがまま

”つかみ損ねた幸せ”と言うが、そんなものはない。それはつかめなかったかもしれないが、

代わりに何か別のものをつかんだはずだ。まぼろしの幸せと実際につかんだものを天秤にかけて「きっとあっちのほうがよかった。」と思いたいだけだ。ただのわがままだと心得よ。

別れ

きのう会った人とは、きょう別れなければならない。いつまでも引き留めておきたいが、そうもいかないだろう。「きのう」と「きょう」のあいだは一日とは限らない。

一週間になるか、一ヶ月になるか、数年、数十年になるか・・・・・”会う”というのは”別れる”筋書きの、ほんの一部である。

とっくに忘れてもいいことなのに、なかなかそれができない・・・忘れてはいけないことだからです。

励ます

だれかを励ましていればそのうちきっと自分も励まされる。”励ます”とは、ただ”頑張れ!”と言うことではない。「あなたのことを見守っています」と伝え、「わたしのことも見守ってください」と伝えることである。

相手

あなたはいい相手にめぐり会いましたね。そうは思わないですって?思い違いですね、こちらから見ているとよくわかるんですよ。お互いの存在にまったく違和感がなく、四六時中相手のことを気にかけなくてもいいでしょう?

そこにいるのがあたりまえになっていませんか。うまくいかない相手だとそうはいきません。あなたはほんとうにいい相手とめぐり会ったのです。

いっしょに人は、自分がさびしいのもイヤだけど、他人がさびしいのも気になる生き物だ。

だからいっしょにいる。煩わしいこともあるが、さびしさで元気のない人を見るよりは気が楽だから・・・・・・

遠い日

人はみな、遠い日に自力で立ち上がり、自力で歩き始めた。そんな画期的なことをやってのけたのは、誰かのためでもなく、計算があってのことでもなかった。

ただ、自分の行きたいところへ行き、やりたいことをやるためだった・・・・

あのときの願いは今もあるはずだが、健在だろうか。

許す

どんないきさつがあったにせよ、許せるうちに許しておきなさい。時期を逸すると永久に立腹している演技を続けなくてはなりませんよ。とっくに許しているなら、なおさらのことです。

待つ

そう落ち込むことはないだろう。田舎のバス停で、一時間に一本しか来ないバスに乗り遅れた・・・・そう思えばいいじゃないか。なあに、しばらく待っていれば次のバスがくる。

哀しみ

「悲しみ」には、明確な原因がある。認めたくなくても、ある。「哀しみ」には、思い当たる原因がないことが多い。哀しみはこれまで味わった悲しみがすべて溶け合っているからだろう。悲しみは何とか乗り越えなくてはならないが、哀しみは乗り越えるものではない。いっしょに歩んでいくものだ。

老若のゆくえ

若すぎると、どうでもいいことと大切なことの区別がつかず、力任せに全部を片付けようとする。だがその結果、へとへとになりながらも、思わぬ可能性にめぐり会うことがある。

老いすぎると、どうでもいいことと大切なことの区別がつきすぎて、どうでもいいことはやらなくなる。その結果、消耗は少ないが、どうでもいいと思う事の中に潜んでいた可能性は気づかないうちに確実に遠くへ逃げていく。

あのころ

大変だったけど、あのころが一番楽しかった・・・・・年齢に関係なく、自分の人生を振り返ってそう思うときがやってくる。あのころは精いっぱい無我夢中で生きていた、という充実感がそう思わせる。他人にわかってもらう必要はないが、できれば共に歩んだ人と分かち合いたい、ささやかなしあわせである。

””旅行”と“旅”の違いは「予期せぬ事態」の有無だ。旅行には原則として「予期せぬ事態」はあってはならない。旅はいわばそれの連続だ。

人生を例えるのに「旅」は使っても「旅行」は使わない理由である。

これからはうんと美しいものをさがしなさい。途方もなく美しいと思うものを手に入れる努力をしなさい。こころを枯らしたくなければそうしなさい。こころに”紅葉”は似合いません。

景色

旅人にはのどかで、雄大で、心洗われる景色でも、その景色の中にはそこで暮らしを営む人々がいる。自然の景色が雄大で、すばらしいと感じるほど、そこで暮らす人々の暮らしは厳しい、ということを忘れないでいたい。その人々が、自分の暮らしを守るためにその景色も守っている。

悲喜

悲しみは通り過ぎる。喜びは立ち止まる。ゆえに、人は生きていける。

感謝

苦しい時や悲しい時もあったでしょうに、みんなの前ではいつも笑顔が絶えなかった・・・・あなたの笑顔でどれだけ周囲が明るくなったことか、おもしろくもない話をうなずきながら聞いてくれる姿がどれだけ励みになったことか・・・あなたはほんとうにいい人です。わたしはそう思います。

眼力

大切なのは、何をしたか、ではなく、何のためにしたか、です。(黒澤明脚本 映画「雨あがる」より)言われてみると、なるほど「何をしたか」だけで他人の行為を見ていることが多いと気づかされます。「何のために」は見えにくいのですが眼力とは、それを見抜く力のことなのです。

何とかしなければならないのだが、煩わしく、めんどうで、おっくうになることがいくつも重なると気が重い。そんなときの解決策はただ一つ、まずどれか一つのカタをつけることだ。すると天秤のつり合いが変わって気持ちが少し楽になる。あれこれ頭を抱える前に、まず一つを片づけてごらんなさい。

終末

ハッピィエンドで終わる映画は浅薄だ、などと若いころは思っていた。人生、そうおいしい話ばかりではないと信じていたし、うっ屈感が明るい終末をどこかで否定していた。

だが、年を重ねて最近は、なぜだか映画やドラマは「ハッピィエンド」で終わってほしいと思うようになった。「ああ、よかった!」・・・・・・

自分の終末がそうであってほしいと思うようになったからかも知れない。

問い

若者に夢を語れるか。人生はこんなにもすばらしいものだと話してやれるか。つまづいても、倒れても、また立ち上がれるのが君たち若者だ、と言ってやれるか。失恋や挫折の痛みを受けとめ、励ましてやれるか。人の幸せとは何かを真剣に語ってやれるか・・・・そんな機会がもしきたら、彼ら若者たちに人生の応援歌を精いっぱい聞かせてやれる者でありたい。

存在証明

人がこの世に生きた、という存在証明(アリバイ)は、せいぜい子と孫の二世代の記憶の中だけで輪郭を持つ。それ以上を望むのは至難の業だ。

後世に残る偉業など望んでもとうてい叶わぬことなのだから、それでいいのだろう。そんな覚悟をつくるために「寿命」と呼ばれる時間が与えられている。

年寄り

老いた年寄りは、遠い日の、若い情熱に満ちあふれた日々の記憶をアメ玉のようになめながら生きようとする。達者な年寄りは、思い出しはしても、未だ時にあらずとあえて封印をする。若さゆえに見えなかったものが今頃になって見えてきて耳元でささやくからだ。おまえはかくも”未熟”であったと・・・・

子育て

毎日の子育て、お疲れ様です。息も抜けず、たまには解放されたいと思うこともあるでしょう。子どもはあっという間に大きくなります。あどけない笑顔、泣き顔、寝顔、何気ないしぐさ・・・・今日の今の”この姿”はもう二度と見ることはできません。

そう思いながら刻々と変わっていく我が子の成長をどうか”楽しみながら”見守ってやってください。

進む

うしろが詰まっているから仕方なく前へ進む、というのではおもしろくありません。

前へ進むのであれば、「進むしかない!」と決意して進みたいものです。

いつも何かに押されて動いていると、そのうち行きたくもない崖っぷちに立たされることになります。

分岐点

もしも、もう一度人生がやり直せるとしたら、どの時点からにしますか?「ここだろう」と思う時点が、つまり”分岐点”だったのですね。

笑い

「あれから40年・・・・・」中高年を対象に毒舌をふりまき、大変な人気のお笑い芸人のセリフ。いろんなネタはあるようだが、つまるところ隠しようのない「老い」を笑い飛ばしてしまえ、という主張だ。面と向かって言われれば「ムッ!」とくる話でもこうして同世代みんなに言われればなぜか笑える。自分のことを言われているのではない、と思いながら聞けばたしかにおもしろい。

世のため

世のため、人のためになることはできたのだろうか・・・・小さな町工場で、部品用のネジを長年作っている人がそうつぶやきました。多くの人があなたの作った小さなネジで動く冷蔵庫や掃除機のおかげで快適な暮らしをさせてもらっています。立派だと思いますよ。

豊かさ

だれかの大切なものをギセイにして成り立っている”豊かさ”がある。そのことに気づかない、あるいは、気づかないふりをしている世の中が、もうずいぶん長く続いている。そんな世の中に、あなたも私も住んでいる。

友へ

出世を望むのはいいとしても、仲間を見下す道具に肩書を使うな。やむをえず、仲間に背を向けなければならないなら、下手な小細工はやめて堂々と向き合え。そして、どんな批判もその全身で受けとめろ。それが君の望んだ「肩書」を背負う責任だ。こそこそと自分や仲間をごまかす、情けない生きざまだけは見せないでくれ。

難問

お金はなくても愛情があれば大丈夫・・・肯定しますか?否定しますか?自分の「生き方」の根底にかかわる難問です。

仲間

卑屈になって小さくなることはありません。堂々と胸をはって、大きな顔をしていればいいのです。

60歳以上の仲間たちが国民の25%もいるというのですから、4人に一人は同じ時代を生きてきた仲間なのです。”一大勢力”ではありませんか。

悪口

だれかの悪口を言った回数だけその人の奥底にそっと息づいていた、清流のように清楚な魂がにごっていく。そして、悲しいがもう二度ともとの清らかさにはもどることはない。

警告

両手をいっぱいに広げた長さを「一尋(ひとひろ)」という。自分の身長とほぼ同じ長さだ。いくら両手を広げても人は、自分の身の丈にあったものしかつかめないという警告である。過大な望みは結局手に余る。

ドラマ

人が生まれ、やがて消えていく・・・それが人生というドラマだと言うなら雲の彼方に思えた終末部分がそろそろ見え始めてくるころです。筋書きがどうなるのかは依然として不明でも、どうやらあのあたりがエンドらしいという察しはつく歳になりました。じたばたしても、つべこべ文句を言ってもなるようにしかなりません。せめてそこまでの道のりは、後悔などとは無縁のものにしたいと思います。ドラマは今も静かに進んでいます。

満足

満足のいく仕事、満足のいく生き方ができたか、となると即答するのはむずかしい。

その答えは人生のゴール地点に立ったときに考えるとして、今考えなければならないのは、残された時間を美しい記憶で満たしていくことだろう。

満足するためには、美しいものにめぐり会ったという自己満足が不可欠だから・・・・・・

こたえ

新幹線や在来線の特急に乗るとお目にかかる光景がある。車掌やワゴン販売員がその車両を出入りするさいにかならず客の方を向いて一礼する姿だ。

世界中さがしても、こんな光景はおそらく日本だけだろう。それを見て悪い気はしないという国民性だ。

近くに座っていた子どもが親に聞いていた。「あのおじさん、なぜおじぎしてるの?」さて、この答えはむずかしい。

父・母へ

わたしのいいところは、みんなあなたたちからもらったものです。わたしがじぶんをすきでいられるのは、あなたたちがそのようにそだててくれたからです。

わたしにいのちをわけてくれて、ありがとう。父さん、母さん、おやじ、おふくろ・・・・・・・あなたの子どもでよかった。

目標

あこがれるが、とても真似はできない・・・・・仕事や生き方の目標となる人物を視野に置くと、彼と自分との違いにいやでも目がいくものです。

そうですね、もともと違う人格をもって生きているわけですから、同じようなことはできなくて当然でしょう。目標は「ここへ行く」と決めれば、いつかたどり着けるものです。

真似はできなくても、やろうと思えば彼と同じ道は歩けます。

お手本

年老いた者にしかできないことがある。若い者たちに、自分もやがてあのようになる、という姿を見せてやることだ。人が老いるとはどういうことか、を包み隠さず見せていくことだ。そう考えれば、どんな年寄りになればよいか、は明確になる。風貌や体裁ではなく、眼力、洞察力、冷静な判断力を磨かなければ彼らの”お手本”にはなれない。

無駄にしない

転んでもただ起きない・・・・しぶとく、がめつい人間の代名詞として使われるが、そうではない。転んで痛い目にあったのだからその痛みを無駄にしたくないと考える人なのだ。転んだら何かをつかんで起き上がりなさい。

事実

いとおしく思える人や物が年々ふえているなら正常でしょう。減っているというならちょっと心配ですね。

若いころも「かけがえのない」という言葉は使っていましたが、その本当の意味が身にしみてわかってくる歳になりました。かけがえがない、ということはもうどんなに望んでも、二度と手に入らないということ・・・・・・恐ろしいほどに厳粛な事実です。

長い間温め続ける夢がある。最近になって持ち始めた夢もあるだろう。どちらでもよいが、

一つくらいは実現できただろうか。実現もせず、ただ見ているだけの夢では心は太らない。

主役

映画でも芝居でも、主役は一人です。だから、「主役になりたい」と、みんなが望んでも叶うことではありません。主役が引き立つかどうかは、まわりを固める脇役の力で決まります。ほとんどの人は脇役として登場する場面なのにみんなが主役になろうとするからいつまでたっても幕が開かないのです。

お粗末

北アルプスの名峰槍ヶ岳の山頂で、カップラーメンを食べるというCMを撮影するために一般の登山者を途中で足止めして、ヘリコプターから撮影をしたという報道があった。この撮影が登山者たちのひんしゅくを買い、相次ぐ抗議に食品会社は謝罪をし、CMも放映中止となったそうだ。アイディアを思いついた人も、ゴーサインを出した会社の責任者も大切なことを忘れていたようだ。山は個人の物ではなく、みんなの物、まして天下の「槍ヶ岳」は山を愛する人にとってはあこがれの「聖地」であるということを・・・・「私物化」しているということが思い浮かばなかったとしたら、ほんとうにお粗末な、情けない話である。この会社のカップラーメンはしばらく食べないことにした。

時期

人生を語るにはまだ少し早すぎる。人生を夢見るには少し遅すぎる。こんなもんだろう、と納得するにはちょうどいい頃合いかもしれない。

どこか物悲しい夜汽車の汽笛・・・・・あのなつかしい音を思いだせる最後の世代になりました。寝台列車など望むこともできなかったので、通路に新聞紙を敷いて寝た記憶は今でも鮮明に残っています。若い人に話せば「そんなバカな・・・」と笑われるでしょう。

失意であれ、希望や不安であれ、その時々の思いを抱いて夜汽車に乗っているとあの汽笛の音は、物悲しくも、勇ましくも聞こえたものです。今思えばあれは、私たちの「青春」の音だったのかもしれません。

完全な愛・・・?もっとも不完全な欲求不満のことでしょう。

アルバム

目をつぶればその時の風景や光景が今でも鮮明に浮かんでくる・・・・子どものころに遊んだ思い出には、そんな力があります。そこが山河であれ、海であれ、街中であれ、余分なものが消え、年々澄んだ景色になっていくことに驚きながら、なつかしいというのはこんなことを言うのか、と思い知ります。「原風景」と呼ぶそうですが、「なるほど」とだれもがうなづける言葉です。だれに話してもおそらくわかってはもらえないけど、自分だけのすてきな”アルバム”ですね。

伝言

なんとか今日をしのげ。今日を乗り切れば、あすは少し楽になる。最悪ではない。

執行猶予

命は、誕生した時にいつか終わる日が来ることが決まっている。だれもみんな等しく、”執行猶予”されて生きているわけだ。思い上がってはならない、と思う。

どちらが

不器用と器用・・・・どちらがいいか、と問われれば”器用”と答えるだろう。手先であれ、生き方であれ、器用にこなせるのはいいが、”器用”は一歩間違えると、傲慢、思い上がりに陥る。ひたすら掘り下げる”不器用”な人間の愚直さに、”器用”な人間は逆立ちしても勝てないときがある。器用も不器用も個人の特性の一部であって、人格を決めるものではない、と心得たい。

お返し

過去113年間で最も暑い夏になった・・・・と報じています。この記録も近いうちにまた更新されるのだろう、とだれもが感じていますが、どうしたらいいのか、だれにもわかりません。自分の暮らしが地球の環境と結び付いているなどと、考えもしなかった多くの人たちですが、「地球が悲鳴をあげている」という言葉が妙に納得できるようになったことだけは確かです。地球を痛めつけて便利さや快適な暮らしを手に入れた「お返し」なのかも知れないことも・・・・・

足あと

やがて消えていくものは、足あとを残そうとしてはならない。そこを歩いたという痕跡は、

かかわりのあった人間が記憶の中にちゃんと残してくれる。

大樹

”寄らば大樹の陰”・・・は処世訓としては成り立つが、大樹の陰に育つ草花は、大きくなれない。風雨にさらされても、庇護を求めず自分の生命力だけで生きる覚悟を決めた時、やがて大樹をしのぐ芽が伸び始める。

チャンス

風は揺らす木を選ばない。雨は潤す畑を選んだりしない。心配しなくてもチャンスはかならずやってくる。

逆境

想像もしなかった苦しい状況に立たされたとき、何をしたか、何はしなかったか・・・・・逆境の中でこそ、その人間のほんとうの値打ちが試される。

思い出箱

子育ては、やがて来る子離れで終わる。手塩にかけた子どもたちが、それぞれの道に懸命に飛び立っていく・・・・・その姿を見送りながら、失敗もいろいろあったが、大筋でまちがってはいなかった、と胸をなでおろして、これまでの日々を「思い出箱」に入れていく。ときどき開けて見ることのできる、その箱さえあれば、親は生きていける。

挑戦

生後4,5ヶ月の幼子が懸命に挑むのは「寝返り」・・・・・”世界”を自分の力で変えようとする挑戦だ。遠い日、あなたも私もそうやって、途方もない挑戦をした。何かをひっくり返すことに、まちがいなく挑んだのだ。

ゆっくりと

ゆっくり流れる時間は、急がなくてもいい時間を手にしたときに感じられるものです。

今が無理ならいずれ、と夢見るのもいいでしょう。心おだやかに、ゆっくりと生きたいものですね。

思い出

「小学校や中学校時代の思い出は?」と聞かれて、何が浮かんでくるだろうか。

合計9年間もいた学び舎でのできごとの中からどんな場面が思いだせるか、はおそらく

今の自分の生き方と無縁ではない。

会話

”自分へのご褒美”・・・・・そう言って自分のがんばりをほめてやりたくなるときは、

人が何かの節目を迎えたときだ。何かが終わった、何かを乗り越えた・・・

そんなとき、その苦労や努力の輪郭をしっかり刻むためにもう一人の”自分”とひそかな会話をしたくなる。いい言葉だと思う。

呼称

看護婦が看護師に、保母が保育士に・・・婦人部が女性部に・・・いいことだ。なぜ呼び方が変わったのかをしっかり理解するなら。

過去

かつて輝いていたころを懐かしむのはよい。だが、どんなに輝いていたとしても、それはすでに”過去”のこと。過去形を現在進行形にする文法がないように、昔の輝きで今の自分は飾れない。

潮時

水であれ、知恵や情熱であれ、噴き出してくるのは、中から押し出す力があるからだ。

そんな力がなくなったときを「潮時」という。そんなにむずかしい話ではない。

思い出は、春夏秋冬それぞれにちりばめられているはずだが、なぜだか、「夏」の記憶が一番濃い気がする。遠い日を思い出すとき、そう思わないか。

刻印

どんなことであれ、精いっぱいやったことには、その人の”刻印”がどこかに打ちこまれている。自分で打ちこんだ覚えがなくとも、見える人にはちゃんと見えている。

心残り

いつか行ってみたい、と思う場所はいくつあってもよい。どんなところだろう、と夢をふくらませることができるから。もう一度行ってみたいがもう二度と行くことはないだろう、と思う場所は少ない方がよい。心残りをたくさん抱えて暮すのはかなわないから・・・・

勝手にしたいように、好きに生きるなんてことは、だれもがそう簡単にできることじゃないが、できればやってみたい。みんなでいっしょに暮らしているんだから、自分が好きにした分、だれかに迷惑をかけている。そのことに気づいて暮らせれば、”好き勝手に生きる”ことが”自由に生きる”姿に変わっていく

続き

新芽のように柔らかく初々しい「青春」・・・・・・やがて人生の中心部分を忙しく生きる日が続く「朱夏」、現役を引退し、第二の人生を生き始める「白秋」、晩節を迎え、心静かに暮らす「玄冬」・・・・・・だれもが等しく輝く「青春」にも、人それぞれの続きがある。

体感

「今日から夏です」「今日から秋です」という区切りの日は、暦の上にはあっても実際にはない。もう夏ですね、やっと秋になりました・・・・・・厳密に日を決めなくても、体感がそれと教えてくれる。「老い」もきっと同じことなんだろうな。

“穴があったら入りたい”・・・・穴があっても入らない人がそう言う。どんなにみっともなくとも、隠れずに身をさらすことが責任をとることだと思う人はたとえ穴があっても入らない。”入る者”はさっさと自分で穴を掘って隠れている。

願い

ボケ封じにご利益があるというお地蔵様をみた。頭から顔にかけて手あかでツルツルに光っている・・・・何百年という時の流れの中で、ただひたすら頭や顔をなでられ続けてきたその姿に胸をうたれた。お地蔵様にではない。数えきれないほどいたであろう、なでた人々の真摯な願いや祈りに・・・・・

対価

労働の対価は賃金で返ってくる。努力の対価は達成感や満足で返ってくる。悩み、苦しみ、もがき、汗を流した対価は人間としての成長で返ってくる。例外なくきちんと支払われる対価にはいつ、どんな形で返ってくるかはさまざまでも未払いだけはない。あとは信じるかどうかの問題だ。

”去るものは追わず”・・・去っていくものを追ったことがある者は、決まって今はそう言う。追っても無駄であったと身にしみているから・・・・

一日

何だかんだやっているうちに、あっという間に一日が終わる・・・・一日が短いと感じる暮らしが一番健全な暮らしなのかも知れません。

暗くなると見え始める星のように、じたばたしなくても、輝く力を持ったものならいずれ光り始めるでしょう。まだ今は輝いて見えることはなくとも、そんなものが必ずあなたの中にもある・・・・・信じてもいいことだと思います。

真価

教職を志す人の多くがその動機に「子どもが好きだから」と言う。純朴で無垢な部分もたしかにあるが、大人の持つ醜さやずる賢さも負けないくらい併せ持っている。

子ども好きは大事だが、「かわいい」だけでは済まない場面にいずれ直面するだろう。

そこから本当の「仕事」が始まり、動機の真価が問われることになる。

平静

ヒステリックに怒鳴っても、事態は何も変わらない。怒鳴り声が耳の中を素通りしていくだけだ。平静な声で、相手に一番響いて届く言葉を探せる者が、混乱の中で力を発揮できる。

理想

「理想」は「現実」に打ち砕かれるものだ。そんなに甘いものではない、と思い知らされたときから地に足の着いたホンモノの「理想」が育ち始める。

空論が実論に変わるためには一度倒れることが求められる。

予感

やっぱりそうだったか・・・と思うできごとに出会うことがある。予感したのに、「そんなはずはない」と無視した結果を今味わっているわけだ。

自分の”予感”を信じるなら、とことん初めからそうすべきであった。そんなはずはない、は多くの場合「きっとそうなる」話になる。

弁護

情けない、愚かなやつだ、と自分で自分を裁くとき、多くの場合、検事はいるが弁護人が不在である。無実ではなくても、ちゃんと弁護してくれる弁護人を用意しておのれの行為を裁くことだ。

勝手な

これくらいは許されるだろうという勝手な理屈をつけてやったことはだれも許してくれない。いずれ思い知るときがくる。

診断

 ①「年だなぁ・・・」と自嘲する回数が激減し、日常が現実的な老いと向き合う生活となる。

 ②もうこの年だから、と若干の未練はあってもあきらめのつくことが多くなる。

 ③かつてあれほど好みだった食べ物に以前ほど箸が向かなくなる。

 ④近所の病院の存在がやけに気になり始める。

 ⑤神や仏とは無縁の生活をしていたのに、不思議と何かに手を合わせたくなる時がある。

 ⑥あらゆるものに宿る「いのち」が見え始め、無性にいとおしくなる。

 ⑦新たに何かを始めるよりも、やり残したことの方が気になり始める。

 ⑧愚痴が減り、かわりに「まあ仕方がないか」とひとり言を言うことが増える。

 ⑨そういう生き方をしてきた人なのだ、と共感はできなくても理解はできるようになる。

 ⑩自分も時空の旅人なのだという意味がほんとうにわかるようになる。

三つ以上思い当たれば、心配いりません。

順調に”発育”しています。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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