回り道雑感 ②

http://www.valley.ne.jp/~gyuho3/zakkanback15.html  【回り道雑感】より

どんな人間でもその人が一生かけてやることは後に続く者へ、一本の「道」をつくってやることだ。後輩でもいい、子どもや孫でもいい、見知らぬ誰かかも知れない。

彼らが必ず自分の作った道を歩くとは限らないが、選択肢の一つにはなる、そんな道を作る営みを人は自分の生涯をかけてやっている。いい道ができていますか?

人生

生まれたその日から人生が始まるのではありません。小さな”細胞”が、何万年という祖先の進化のおさらいを一年かけてやり抜いて、ようやく人間として生まれてくるのです。

壮大な時空の旅をしてきたから、人は大きな夢が見られるのです。

旅の途中でたくさんの先人たちに出会ったから、たくさんの伝言を手にして生きることができるのです。

健全な

たとえどう見えようと、その人にはその人の生き方がある。自分には真似のできない、真似はしたくないと思える他人の生き方でも、認めることができるようにならないと、健全な年寄りにはなれない。

実践

本物の”年寄り”は、つべこべ言わずその年相応の生き方を本気で実践している。

「年だなぁ」と自嘲している間は、まだ修行がたりない。

尺度

「やさしい」というのは、相手の行為そのものではなく、その奥に見える、その人の真意を「私」が好ましいと感じる心理状態だ。

好ましいと感じるのだから、実は似たようなものを「私」も持っている。

集団

どういう力関係でこの集団が動いているのか・・・・だれの、どんな影響力が一番強く働いているのか・・・・はじめて集団に接し、その仲間に入るときはまずこのことを見極めよ。それが見えないうちに近づくと、自分の座る場所を間違える。

別離

人は「おめでとう」と言われた回数だけ、それまでの自分と別れている。

毎日使う食器であることに気づく。おもてに模様のない、真っ白な器が結局一番いい、と・・・・時折使う物なら、極彩色や染付もいいだろうが、日々手にし、目にする器は白がいい。

どんな料理も拒まず、料理の彩りを裏側で支える白・・・・・器が威張っていないのが心地よい。どこか人の姿と重なる気がするのだが・・・・

予感

”人生の転機”は予想もしていなかったときにふいに現れる。それが”転機”であったというのはあとからわかるのだが、そのときは「何かが変わる」予感だけは確かに感じられるものだ。今が「その時」かどうかはわからなくても、予感があれば”その時”は近い。

切れ味

切れない包丁を平気で使っている人は、よく切れる包丁を持つと決まって手を切る。

予期

泳げないからといって、いつも救命胴衣を持ち歩く人はいません。傘は、雨が降るかもしれないと察するから持ち歩きます。こうなりそうだと予期し、起こるかもしれない事態をあらかじめ想定し、綿密に準備する力を”危機管理能力”というそうですが、漫然と事態をながめ、可能性のある危ない事態を予測できない人は、雨の中をぬれて歩くしかありませんね。

お返し

見知らぬ土地で心細い思いをしているときに、声をかけてくれる人がいる。きっと”心細さ”がその人には見えたのだろう。お返しは、次は自分が”その人”になることだ。

調味料

入れすぎた砂糖の甘さ、塩の辛さは取り返しがつかない。砂糖であれ、塩であれ、調味料はほどほどがよい。調味料を”日々の喜び”に置き換えてみるとなるほど、とうなづける。有り余る”喜び”は明日の不幸を連想させる。

衝動

なぜそんなことをするのか?と問われても答えられないことがある。体の奥底から何かが湧きでてきて、自分を突き動かしている感覚・・・・・説明のつかない衝動で動いているとき、人はまちがいなく空を飛んでいる。だから、余人には見えないものを見ている。

禁句

年を重ねると、多くの機能は弱って退化していくが、一つだけますます磨きがかかって研ぎ澄まされていくものがある。どうやら人間はそのようにできているようだ。人によって内容は異なるだろうが、その鋭利さは、若いころの比ではない。自分の”それ”が何であるのか・・・・思い当たるものがない、などと情けない話は禁句である。

チャンス

「逃がした魚は大きい」と言う。魚を「チャンス」や「幸せ」に置き換えればその意味はだれにもわかる。”逃げた魚”ではない、”逃がした魚”なのだ。

臆病

生来の臆病者だからいつも注意を怠らない・・・・・恥じることではありません。神経質?・・・言いたい者には言わせておきなさい。小さな失敗をしないから、大きな夢が見られるのです。

ちがい

体内でごく微量の電気を起こす”発電装置”が女性にはあるという。男性にはない。

不公平にも思えるこの違いの意味は、女性からわけてもらって充電するバッテリーが劣化し始めるころになってようやくわかってくる。

心理

”うらやましい”という心理がそのまま”ひがみ”になるわけではない。

うらやましいと思う相手の中に自分と同等なはずなのに・・・という気持ちが生まれたときに”うらやましい”が”ひがみ”や”ねたみ”となる。

観念

「長生きしてくださいね。」・・・・・・いつかそう言われる時が必ず来る。余命が短いと、誰の目にも見え始めるときだ。そう言われたらきっぱりと観念して「明日までは何としても生きるぞ」と言い聞かせて日々を暮らすことにしよう。

すでに持っていれば欲しがらないのが正常だが、そううまくいかないことが結構多い。

今欲しくて手に入れたいと思っているものをもう一度思い起こしてみよう。すでに持っているのに、なぜそれが欲しいのか?手に入れてどうしたいのか?

過ち

言い方はちがっても、人間のおかす過ちは「暴走」か「失速」のいずれかである。

つまり、突き進む速度のまちがい・・・・・・思い当たりませんか。

博識

身につけた”博識”は自慢したくなる。そんなことも知らないのか、と相手を見下したくなる。自慢するのは勝手だが、たくさんの知識をいったい何に、どう使おうとしているのか・・・・・見せびらかし、ひけらかすだけの知識は何も知らないことより始末がわるい、ということなら本人は知らないだろうが、自慢される側の人間ならみんな知っている。

”駅”に人生の縮図を重ねてみるのは的はずれではない。終着駅や始発駅という響きに何となく胸が熱くなったり、雑踏の中で聞くアナウンスにどこか郷愁を覚えたり・・・・・

出会いや別れ、旅立ちや帰郷に立ち合ってくれた“駅”が、人生の節目を演出する舞台だったのだ、ということは、駅を使わなくなったころから、ゆっくりとわかってくる。

望み

「失望」は「絶望」ではない。「がっかりする」と「打ちのめされる」は違うと言い換えれば納得できる。「絶望」は人生そうめったにあるものではない。

一目ぼれ

相手がヒトであろうとモノであろうと、”一目ぼれ”は何も特別なことではない。

さがし求めていたものに出会ったのだと思ってしまう。説明のしようのない高ぶりと喜びは至福のものだが、多くの場合、”一目”見ただけのものは「錯覚」である。それでもいい、と誰もが思うからおもしろい。

自分

今の自分をお金の金種に例えると「何円」になるのだろう。一円、五円、十円、五十円、百円、五百円、千円、五千円、一万円・・・・・・・問題は「貨幣価値」ではなく、「使われ方」である。

ゆえに「一円」だとて恥じることはなく、「一万円」だとて威張ることはない。

待つ

熟成を待て。ほどよい加減になるには時間がかかるものだ。本来いっしょにあるはずのないものを混ぜ込んだのだからなじむまで少し待ってやるのが道理というもの・・・・・

仕事にも人間関係にも熟する”とき”がある。

後悔

もう二度と取り返しがつかないとわかったときに、人ははじめて、何と愚かなことをしたものか、と思うのです。今日の失敗が明日取り返せると思っているうちは、似たような気持にはなっても、本当の後悔ではありません。

サイン

眠いのは、体やこころがそれを欲しているからです。そんな正直なサインを無視する生活は

きっとどこかでしっぺ返しを受けるでしょう。眠くなればどこでも眠る幼子をみているとそう思います。

使命

秋に紅葉する木の葉たちは、冬を迎える木の枝や幹に自分の中にある養分をすべて移してから散っていくといいます。

枯れていくのはしかたがないのですが、”託す”という使命だけは忘れたくないものです。

2,3歳の子どものころから、親が真剣に我が子に教えないといけないことがある。

すべてのものには「命」がある・・・・と。おもちゃにも、石ころにも、小さな虫にも、今日食べた野菜にもかけがえのない、たいせつな「いのち」が宿っているのだと・・・・・

「いのち」は目に見えないが、まちがいなくあなたの中にもあるのだと・・・・・・

孤独

一生が始まるときも終わるときも、人は”ひとり”である。そのことを忘れさえしなければ、今ひとりでいても孤独ではない。

人はみな生涯に幾人かの「師」にめぐり会う。師といえども人間だが、普通の他人には持たない、なつかしさや感謝をなぜか感じるだろう。教えてもらった「こと」はもはや定かではないが、教えてもらった「もの」は今も鮮明に残っているからだ。”先生”と呼ばれる人たちにはぜ「こと」ではなく「もの」を残してやれる人であってほしい。

ほめて

幼子を見ていて思う・・・・昨日まではできなかったことが、できるようになったら、どんな親も我が子を力いっぱいほめてやるではないか。いつからだろう。そんな、あたりまえにやっていた子育ての原則を忘れていくのは・・・・・まだ間に合う。

教え

かつて釣りの師匠に教わった。釣れない時には原因がある。それを探れ。魚の気配はあるか、餌は適切か、仕掛けは正常か、潮は動いているか、それらをすべて確かめて、それでもだめなら今日はあきらめろ・・・・・と。難局に対峙するさいに大いに役立った教えであった。

誤解

いずれわかるときがくるのですから、今はそっとしておきましょう。もしもわかってくれなかったら、相手はその程度の人間だった、ということです。

かつてその美貌で名をはせた女優さんがテレビに登場する。”ふつうの”おばさんやおばあちゃんの顔になっている。安心する。

達人

どうしようもない自分が歩いている   山頭火

そんな自分が見えているのだからまぎれもなく達人です。凡人は、どうしようもない「他人」が歩くのはよく見えますが、自分のそれはなかなか見えません。

別れ

今度はいつ会えるだろう、ひょっとするともう会えないかもしれない・・・・・・そう思うから名残惜しいと思います。物理的には双方の距離が離れるだけなのにそこに”無限の意味”を見いだせるからわたしたちは”別れ”を大事なものだと思うのです。かつて経験した「名残惜しい別れ」のおかげで、自分も成長できたのだと、このごろわかってきました。

問い

命とともに授かった能力や特性を存分に生かして生きていますか。それはまぎれもなく、あなたにしかできない、あなただけの大切なしごとです。

予感

いつかこういうことになるんじゃないか、と思っていた事態になったら、潔く観念しよう。

そして、ていねいに、誠実にその事態に対応して、もうこんなことは起こらない、という予感を育てよう。次はそれが現実になる。

強がり

さびしくないはずはないのに、「さびしくなんかない。」と強がりを言う・・・・・・・

手痛い失敗でひどく落ち込んでいるのに、「大したことはない。」と強がりを言う・・・・・・・”強がり”は、だれかに本当の気持ちをわかってほしいと思うから

言えるのです。

変革

自分を変えたい?そうですか、それで変えたいのはあなたの「何」ですか。

それが決まったらまた話しましょう。欲張らないで一つくらいならできると思いますよ。

楽しみ

楽しみはあとにとっておく、ということはやめて、早々に新鮮なうちに味わっておくべきです。下手に保存しておくと、かびが生えるか、変質して楽しむどころの騒ぎではなくなります。若いころなら、楽しみも次々に現れてきますが、この年までくるとやってくる楽しみの数には限りがあるようですから、味わえるうちに賞味しておくことですね。

やっと終わった・・・・と思うときがいずれ来る。きっと来る。それだけはまちがいない。

若い

高齢の人に「お若いですね。」と言うのは社交辞令である。若い者に「若いね。」と言うのは自嘲である。誰彼かまわず「若いね。」というのは傲慢である。

想う

いくら心の底から想ったとて、その想いが届くとはかぎりません。いや、届かないのがふつうなのでしょう。それでも想うのは、生きている実感を手ごたえとしてつかんでいたいからです。だれかや、何かを想うときは、こころがふくらんだり、痛んだりするではありませんか。冷たく凍ってしまわないように、懸命に心が動いている証しです。

連鎖

愛してもらったから、誰かを愛せる・・・・・親子でも男女でも、「愛」と言う名で語られる関係には、そんな原則が存在します。「愛情の連鎖」とも言えるこの原則を多くの人は気づかずに実践しています。

発見

畑を作ってみると、雨のありがたさがよくわかる。種をまいてみると、極小の一粒の信じられない生命力に驚く。あたりまえだと思って見てきたものや、見向きもしなかったものが、ちょっと目線を変えると、こんなにもすばらしいものだったかと思える・・・・・

人はずいぶんと遠回りをして、そんな身の回りで輝き続けていたものに気がつくものだ。

見極め

たった一人になってもやらなければならないことがある。多くの人がやっていてもやってはならないことがある。問題は人数ではない。何をするか、何はしないか・・・その見極めだ。それを間違えると、やる気と善意と労力を無駄にするばかりか、かつて”仲間”と呼んだ人たちが背中を見せて去っていく。

一回

人生は一回きり・・・・なんてわかっているつもりでも、ほとんどの人は普段そんなことを考えて生きてはいません。気がついたときには、すでに残り少なくなっている時間に唖然とし、そうだったのか、とあらためて思い知らされるだけです。

一回きり・・・ほんとうにそうなのです。それに気付けば、始めなければならないこと、

終わりにすべきことが見えてきませんか。

優劣

師に尋ねる。「この世で一番大切なものは何でしょう?」師は答える。「そんなものはない。」重ねて師に尋ねる。「何ゆえに?」

師曰く・・・・・「一番などというから、そんなものはないと言ったまで。

大切だと思うものは、みんな大切なもの、なぜ優劣をつけたがる・・・・・・」

しあわせ

”小さなしあわせ”と言い表すのは、”大きなしあわせ”というものがあると思うからだ。

”大きなしあわせ”には、めったにお目にかかれないし、そんなものを望めば何だかしっぺ返しが来そうな気がするので、みんな身近で味わえる”小さなしあわせ”を求めている。

小さくても、立派に”しあわせの味”はする、とだれもが知っている。

接着剤

ささいなことで「すぐにキレる」と言われる人がいる。正確に言うと少しまちがっている。

すぐにキレるのではなく、もともと細切れで、つながっていなかった人、なのだろう。

堪忍、辛抱、許容という接着剤を持ち合わせなかった人である。

年寄りの心得

①電車やバスの中で席を譲られたら、素直に善意を受け取ること。

(たとえムッときても他人からはそんな年に見えている)

②買い物で代金を支払うときには、1円や5円、10円を十分に使い、なるべくお釣りをもらわないように心掛けること。(小銭を軽く見て大切にしない風潮を正すために)

③テレビでバラエティなどと言ってゲラゲラ笑うだけのものは見ないこと。

(そんな番組の視聴率を上げてはならない)

④若者の髪型や服装がだらしないと腹を立てないこと。

(かつて長髪が象徴であった自分たちの時代を思い出せばよい)

⑤活字を読む目は弱っても、人間を見抜く眼力や物事の裏表を見抜く眼力は常に鍛えておくこと。(年寄りの値打ちはそれで決まる)以上。

いまさら

「いまさら・・・」には、もう手遅れだという意味のほかに、自嘲めいた未練が含まれる。

ほんとうは欲しいのに手に入らない悔しさをそう言って呑みこんでいる。

不便

都会で騒ぐ”流行”にははるか縁遠い暮らし、話題になっている映画も2時間かけて行かないと見られない暮らし、回転寿司を食べようと思えば1時間以上車を走らせる暮らし、街ならすぐ手に入る物がなかなか手に入らない暮らし、厳しい自然の中でじっと息をひそめて耐える暮らし・・・・・・そんな不便な暮らしは耐えられないと言うのならあなたたちの今の暮らしは何と呼ぶのでしょうか。そんな”不便な暮らし”を求めてなぜ、休日になるとやってくるのですか。

石文

文字を持たなかった、いにしえの人々は、いろんな形の石にその時の自分の気持ちを重ねて相手に渡したという。「いしぶみ」(石文)と言うそうだ。

幸せな気持ちは丸い、きれいな石、怒った気持ちはごつごつした角ばった石・・・・・

いにしえ人は渡す側も受け取る側も文字を持つ今の我々の何倍も豊かな、卓越した感性を持った、達人であったようだ。

社交辞令

「おかげさまで」・・・は社交辞令である。そのやわらかい響きは相手との関係に角を立てない。活用すべき言葉だが、乱発してはいけない。使いすぎると、だれのおかげなのかが曖昧になり、気をよくしていた相手も「なんだ、お世辞か。」と冷めてくる。

ホンモノ

部屋に飾り、何度見ていても飽きない絵・・・・きっとそれは”名画”であるように、

長い間見ていても飽きないものが”ホンモノ”でしょう。”自分にとって”という但し書きはつきますが・・・・・・・

法則

三角形の三つの角を合わせると180度になるという法則を知っていても日常の暮らしでそれが大いに役立ったということはまずありません。

なのになぜ学校で学ぶのかと言えば、信じられないほど純粋で美しい法則が私たちの身の回りにあるということを知るためです。それを知ったことが、かならず”わたし”の生き方の中で考えたり感じたりする力に役立っています。

今は楽しく思える日々もそのうち退屈になる。問題は、退屈をもたらした原因と戦えるかどうか・・・・・・こればかりは、「戦わずして勝つ」ことはできない。マンネリ化という”敵”の姿が見え始めたら、用意するのは「あきらめ」ではなく、戦支度である。

上げたいもの

昇進したからといって、人としての値打ちが上がるわけではない。上がるのは給料と若干の社会的地位だけ・・・望んで悪いわけではないが、本当に「上げたいもの」は何かを見失わないことだ。それを見失うと、飛び立ちたくても飛べないほど重い”おもり”が羽にぶら下がる。

子ども

子どもはいいもんだ、と思うのはかわいいしぐさや、幼い言葉を見聞きするときではない。

まだ見ぬ大人の世界に足をふみいれようとけなげに、まっすぐ立ち向かおうとするときである。ああ、こうやって人は人間になっていくんだ、と教えられるときである。

返事

人の言いなりになって被る損失は、人に逆らって被る痛手よりはるかに傷が深い。

逆らえば「いやだ」と反撃もできるが、言いなりでは「はい」の返事しか許されない。

試合

もうずいぶん長くリングの上にいるので、今が何ラウンドなのか、わからなくなりましたが、終了のゴングはまだ鳴らないし、どこからかパンチやジャブが飛んできます。試合はどうやらまだ終わってはいないようですね。息切れはするし、足もフラフラですが、何とかまだ倒れずに立っています。好きで、自ら求めて上がったリングなので、倒れるなら、ここで倒れたいと思います。

二者択一

YESかNOか?・・・白か黒か?・・・・二者択一のみを選択肢として要求するのは潔くてすっきりするが、そんな決断など簡単に出来るはずがない。

それなのに「出せ!」と求めるのなら、そこで出された答えには相手の苦汁の決断が織り込まれていることを決して忘れてはならない。傲慢に陥ると、まっ先に見えなくなるものだからおそろしい。

道づれ

なぜ自分だけがこんな目にあうのか・・・・いいときには思わないが、悪いときにはそう思う。自分だけ貧乏クジを引かされる事態に人間、そう平然と耐えられるものではないから・・・・「道づれ」がほしくなるのはそんなときだ。悲しいが、そんなときに出会った道づれの多くは、やがて進む道をめぐってケンカ別れをする。

紛れもなく”雑食系”なのに、”草食系”だの”肉食系”だのと言うから、「自分はどっちだろう」などと要らぬ心配がうまれる。心配しなくても用心深さと獰猛さは、どちらもちゃんと備わっているのだから雑食系には雑食系の生き方があると信じて米も肉も食べていればよい。

裸踊り

ある人の、横柄で、横着な態度は謙虚さで身をつつんだ人にはただの裸踊りにしか見えない。服を着ていないのでその動きは手に取るようによく見える。いつまでもそうやって一人で踊っていなさい。

少年

いつまでも少年のような気持ちで暮らせたらいい・・・・・たくさんの解答書を手に入れ、大きなまちがいもしなくなった今、そんなものなど手にすることのできなかった少年時代の、あの、無知で、好奇心や憧れのかたまりであったころの無鉄砲な自分にもどってみたい。後悔と失望と希望が次々にやってきていったいオレは何者だ、と迷いに沈んだあのころのけなげな、愛すべき自分にもどってみたい。

自慢

こんなことやあんなことができる・・・・という自慢を聞かされると気分が悪い。こんなことができた、という事実を誇る自慢ならそうでもない。なにゆえ「できる」にはあっても「できた」にウソはないからだ。ウソはみんないい加減聞き飽きてうんざりしているので、自慢するなら「できた」ことにしておこう。

振り返る

一度振り返ればもう一度振り返りたくなる。そこに見えるものがつらさをよみがえらせるものだとしても、一度振り返るなら、しかと目の奥に焼きつけておこう。そして、もう二度と振り返らない。

温める

温められた空気は軽くなり、上昇する。温められた心も軽くなり、体の上部に集まってくる。笑う、しゃべる、目を細める、ほほ笑む・・・・・顔や口の様子をみれば心の温度は測れる。どう頑張っても足で笑うことはできない。

この先どうなるか、はこの先どうするか、を決めない限り見えてこない。

この先どうするか、はこの先どうしたいか、を練っているうちに見えてくる。

この先どうしたいか、を練るためには、捨てるわけにはいかないと思い込んでいるものを

思い切って捨てるしかない。

助走

家族がバラバラに散って遠くに離れていくのは、いざというときに戻るための助走距離を長くとるためである。

切ない

泣きたくなる切なさは、あすは笑って生きようという気持ちの源になる。

なぜなら、切ないという感情には、どこか温かいものが流れているからだ。

その”温かさ”がやがて傷を癒してくれる。”にがい”は不快だが、”ほろ苦い”は必ずしも不快ではない。

暮らし

今の暮らしに満足していますか?・・・・・あるテレビ番組で、山奥で一人で暮らす老人に尋ねていた。バカなことを聞くもんじゃない。いったいどこのだれが”満足して”暮らしているというのか不満があり、希望や期待があり、あきらめがあり、はがゆさがある・・・・・

それが暮らすということだろう。好きでやっているように見えても、そういう暮らしをしている”わけ”がだれにもあるということだ。

わたし

私ならこうする場面なのに、まったく別のことをする人がいる。私には我慢できない場面なのに、割と平気な人がいる。驚いたり、腹が立ったりするが、「わたし」がどういう人間か、がとてもよくわかる瞬間だ。憤るまえに、それを自分の役に立てたらどうだろう。

想像

想像していたものが実物をみると違っていた・・・・・よくあることです。

想像には無意識に自分にとって好都合な添加物が含まれるようです。

なるべく無添加で想像するには、美化することを自分の意志で排除するしかありません。

美化は過度な期待の副産物です。

におい

加齢臭?だれだ、そんなバカなことを言いだす奴は!だれだ、そんな言葉に踊らされる奴は!人間、自分固有の匂いがあって当然、清潔にしていれば何の問題もない。

孫は抱いてもらったおじいちゃんの匂いを忘れない。

落ち

「落ち」のない話は落語にならない。「落ち」とは・・・・・?

「なるほど、そういうことか」とだれもを納得させる仕掛けである。

「落ち」を意識した話ができる人には、みんなが耳を傾ける。

家族

深夜の高速道のサービスエリア・・・・屋外の薄暗いテーブルに五人の家族連れがすわって

買い求めたおにぎりをみんなで食べている。連休の渋滞の合間にやっと取れた遅い夕食であろう。おにぎりと漬け物だけの質素な夕食だが、家族がみんなで食べれば立派な食事になる。父親が中から紙コップに入ったお茶を運んできて、小さな女の子が「熱いね」と言いながら飲んでいる。家族・・・・・夜風の冷気のなかで、そこだけはやわらかい温もりに満ちていた。

「志(こころざし)」がなくても生きていけるが、あれば”よりよく”生きられる・・・・

言ってみればそれだけの違いだが、その差はあまりに大きい。そのことに気づけば、知らぬ間に身の回りが変わっていく。

2番

「なぜ2番ではいけないのですか?」と発言して話題になった人がいる。バカなことを・・・と冷ややかな視線が浴びせられたが、だれもその問いにまともに答えていない。

なにゆえ2番ではいけないのか・・・・見逃してはいけない、きわめて大事な問いである。

いいわけ

本気にならなくても、ある程度のことならやれるだろう。だが、本気でやろうと思わないと、うまくいかないときに、すぐに誰かのせいにしたくなる。

オレはべつにやりたかったわけではないのに・・・・と。本気になると、”いいわけ”は姿を見せなくなる。

喜び

厄介だと思うものの中に、真の喜びがあるというのはウソではないだろう。

思い込みはやめて、とにかくやってみることだ。厄介だと思いながらやっていると、気がつけば立派な道になっているということもある。

束縛

仕事や社会の束縛から一旦離れてみると、自分を縛っていた縄や鎖がよく見えてもう二度とあんなもので束縛されるのはごめんだ、と思います。年寄りには許される、そんなわがままを、あなたたちはまだ味わってはいけません。それは引退してからの楽しみにとっておきなさい。束縛は、生きていくために払う税金のようなものですからいやでも払わなければならない時期があります。

燃える

はげしく燃えればそれだけ“燃え残り”も多くなる。何かが終わった時、燃え残ったものを見れば、どれだけ燃焼したのか、その激しさと深さがわかる。

追い求める

自分では気づかないが、人には長い間あきらめずに追い求めているものが必ず一つある、と聞いたことがあります。”追い求めているもの”・・・・・・・それが自分を動かし、生かし、先へ進ませてくれている、と聞くと妙に納得できる「何か」が確かにありそうです。

都合

なかなか思い通りにならないのはむりやり思い通りにしようと思うからではありませんか。

むこうにも都合というものがあります。きっとむこうの都合が悪いのです。

意味

一期一会(いちごいちえ)・・・・・言葉の意味は知っていても、その意味がほんとうに実感できるのは年をとってからだろう。出会いにうれしさ、別れに、悲しさ、せつなさは誰でもが感じる。しかし、そのどちらにも”いとおしさ”を加えることができるようになるまでこの言葉は自分のものにはならない。出会いも別れもいとおしいものなのだと、いずれわかるときがくる。

決まりごと

”決まりごと”で成り立つこの世の中で、一つくらい決まりごとに縛られないものを持つ努力は大切だ。それがつくる心の「空き地」に、ほんとうの自分らしさが育つ。

カタクリ

庭にカタクリの花が咲きました。昨年山でとってきて、植えておいたものです。

私に出会わなければ、深い山の中で誰にも見られずひっそりと咲いて、ひっそりと散っていくはずだった・・・・「はかない」などと思うのは人間の勝手で、それがカタクリの「生」なのです。気高い、すがすがしさに胸をうたれています。

失敗

今度こそうまくやろう・・・・・失敗するたびにそう思う。馬鹿げてなどいない。それが大事なのだ。

見守る

そっとしておけば、ちゃんと自分で立ち上がり生長するのに、いらぬ手を加えるからダメになる・・・・・植物だけでなく、人もきっと同じだ。どんなに気になってもだまって見守るべきときがある。

充実

充実はしているが、こんなことしていていいのだろうか・・・・そんなとりとめもない不安におそわれることがある。充実しているのなら、いいではないか。値打ちや意味づけはあとからいくらでもできる。今、充実しているかどうか、それを問題にすればよい。

ほんもの

何にでも優劣をつけたがる人は、”ほんもの”を見たことがない人だ。

”にせもの”ばかり見ているから、どれがほんものだろう、といつもさがしてしまう。

巧み

拒むことに巧みな人にはなるまい。受け入れることに巧みな人になりたい。

そうすればもっと自分が好きになる。

別れ

「達者で暮らせ」、「元気でね」・・・・・・・短いが、別れのことばはそれだけでよい。

ペラペラとしゃべりたくなる別れは、どうでもいい相手との、ただの別れだ。

判断

自分が「おじさん」なのか「おじいさん」なのか、を一番的確に判断してくれるのは、近所の子どもたちだ。彼らが自分のことをどう呼んでくれるかを聞けば、ほぼ間違いなく壮年か老年かは決まる。それを聞いてから老けても遅くはないだろう。

勝手にやれ

「純、蛍、おまえらは勝手にやれ・・・・」

名作「北の国から」の最終回で語られる五郎さんの”遺言”である。勝手にやれ・・・自分の才覚で生きていけという、究極の親心である。

そのために必要なものは十分に伝えたと言う・・・・・子育ての極意、親とは何か、をこれほど簡明に、わかりやすく教えてくれることはない。

くり返し

くり返されるものにはちゃんと意味がある。音楽にも文章や詩にも、そして人生にも・・・・・くり返されることで強調されるものが一番いいたいこと、一番大切なことだという意味だ。漠然とくり返してはならない。

ごみ箱

記憶の「ごみ箱」がいっぱいにならないうちに、きれいに捨てておくことですね。

”ごみ”にしたはずの古い記憶をもう一度さがして広げてみなくてすむように・・・・・

できなかったやりたかったができなかった・・・・そんなことを数えれば一つや二つでは済まないだろう。その中から、今ならできる、ということをさがして気が済むまでやってみればいい。なぜあのときできなかったのかが、おのずとわかってくる。

若気の至り

若気の至りは、若いからあり得ることだ。年をとってから同じようなことをすればおそらく病院が待っている。若気の至りがなかったら、そして、それを苦笑いしながら思いだすことがなかったら、人は自分が年をとったと気づかない。

信じた道を歩いていれば、迷うことはない。迷うのは、信じられなくなったときだ。

この道だと選んだのなら、とことん信じ尽くせ。そのうちいとおしくなる。

定義

写真は、瞬間を切り取り、”永遠”にするもの。絵画は、永遠を凝縮して”瞬間”を創るもの・・・・・・奥が深いのも当然である。

ごはんつぶ

「茶碗にごはんつぶを残してはいけない」と、幼いころ教えられた。よほど体にしみこんでいるのか、外食をしてもその習慣が現れてしまう。米作りにかかわるようになって、その教えがまちがっていなかったとしみじみ思う。一粒のごはんつぶも立派な教材になるものだ。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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