芭蕉論考

https://blog.goo.ne.jp/ozekia/e/fc5fedc4cba995c4b9ca34f9aff72086 【芭蕉論考】より

(1)『おくのほそ道』と虚構

芭蕉は元禄2年に奥羽・北陸などを旅して、元禄6年ころに『おくのほそ道』を著した。わが国における最も有名な紀行文の一つであり、最も有名な詩文の一つでもある。

この紀行文または詩文の性格について、多くのことがいわれている。

ここでは、井本農一について見てみよう(「おくのほそ道論」、『芭蕉の本6 漂泊の魂』、昭和45年、角川書店、*)。

井本によれば、この紀行文は旅行記ではない。つまり、元禄2年の旅の記録とはいえない。元禄2年の旅は紀行文の素材とはなっているが、紀行文は旅をそのまま写すことを慎重に避けている。

その証拠に、旅をしてから紀行文が成るまで4年ほどの月日を必要とした。その間、芭蕉は何をしようとしたか?

井本によれば、芭蕉は古来の紀行文(『東関紀行』・『十六夜日記』など)の様式を踏襲している。

それは、(1)古来の歌枕・名所・旧跡への訪問であること、(2)都から地方への旅であること、(3)各部の末尾を和歌(または発句)で結ぶこと、である。これだけの約束事を守る一方、具体的事実には言及しない原則を貫いている。訪れた場所の詳細や会った人の印象などは、『おくのほそ道』にはほとんど書かれていない。

今回、改めて『芭蕉 おくのほそ道』(萩原恭男校注、岩波文庫)を読んでみて、その通りだとわかった。

また、旅行記的事実が省かれているのみならず、実際の旅と紀行文の記述の間に食い違いがある、と井本はいう。

例えば、有名な平泉のくだりでは、「『国敗れて山河あり、城春にして草青みたり』と、笠打敷て時のうつるまで泪を落し侍りぬ」という詞があって、「夏草や侍どもが夢の跡」という発句を掲げている。ところが、随行した曽良の『旅日記』によると、その日の旅程は大変あわただしく、5時間の間に、高館・衣川・中尊寺・光堂・さくら川・秀衡屋敷・無量光院跡などなどを見てまわったという。藤原三代の栄華をゆっくり偲ぶ時間の余裕はなかったはずだと、井本は指摘している。 

芭蕉の『おくのほそ道』と曽良の『旅日記』と間の食い違いはほかにも数多くあるらしい。もちろん、曽良もすべての旅程をソラで覚えて記録したとは限らないから、どちらが正確だということを議論しても始まらない。

注目すべきは、芭蕉が旅の記録を記すつもりはなかったことである。旅を素材に紀行文を執筆したのだが、その紀行文は虚実織り交ぜた詩文だった。これが芸術的感興を増すために芭蕉が構えた虚構であった。井本は、これを、事実に「風雅のまこと」を付け加えたと解している。『おくの細道』が完成するまでの4年の年月は、「風雅のまこと」を発酵・熟成させて詩文を創造するための時間であった。

『おくのほそ道』の虚構について初めて知ったのは、高校の古文の授業でだった。教師は得々として、ここも食い違う、そこも違う、と講義をした。生徒の中には、芭蕉を胡散臭い俳人だと思ったものもいたようだ。私もどちらかといえばその組であった。

しかし、その後、いわゆる「芸術的虚構」に徐々に親しむようになるにつれ、芭蕉への嫌悪感はなくなった。ドストエフスキーの延々と続く神学問答(『カラマーゾフの兄弟』)やジョイスの一夜の出来事を綴った小説(『フィネガンス・ウェイク』)に親しめば、芭蕉の虚構などは小さいことのように思われた。要は、虚構を構築するための技巧が目立たないですませられるか、である。

その後、胡散臭い筒井康隆や井上ひさしに出会い、また、さらに胡散臭い井上光晴に傾倒したのは、芭蕉の虚構の種まきがあったからだと今では考えている。 

(2)月日は百代の過客にして

芭蕉の『おくのほそ道』の冒頭は次のようである。

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。」(『芭蕉 おくのほそ道』、萩原恭男校注、岩波文庫)

初老の芭蕉が、旅の途中で死んでも本望だという決意を述べた文章ととらえられているが、これが、美文なのか、私にはわからない。とくに最初の一文が謎だ。萩原恭男は校注をつけていないが、この一文は理解がむつかしい。

文字通り解釈すると、「歳月は旅人であり、歳月も旅人である。」となるのではないか?

『芭蕉 おくのほそ道』に併載されている『奥細道菅菰抄』(蓑笠庵梨一著)によれば、中国の『古文後集』を踏まえた文章だという。

まず、「月日(つきひ)」「百代(ひゃくたい)」「過客(かきゃく)」という漢字の連なりが違和感を覚える。そのゴツゴツした発音が引っかかる。後半の「行かふ年も又旅人也」とは対照的だ。『おくのほそ道』のリズムと異なるのは明らかだ。

芭蕉は旅を素材に紀行文を執筆したのだが、その紀行文は虚実織り交ぜた詩文だった、というのはよく知られた事実だ。これが芸術的感興を増すために芭蕉が構えた虚構である。「おくのほそ道」が完成するまでの4年の年月は、紀行の事実を発酵・熟成させて詩文を創造するための時間であった、ともいわれている。

その4年間の推敲の過程で、詩文全体のリズムを乱してまで、「月日は百代の過客にして」を冒頭に定着させた芭蕉の真意が理解できない。

次に、「歳月は旅人であり、歳月も旅人である。」という同義反復をなぜ敢えて行ったのか、という疑問がある。

中国の古文を引用したい、という欲求が強くあったことまでは理解できるが、そのために無駄な同義反復を自分に許した心性がわからない。

『おくのほそ道』の詩文は簡潔さを旨としているのに、冒頭の一文だけがそれに反旗を翻している格好だ。「虚実織り交ぜた詩文」の落とし穴に芭蕉がはまった感がある。 

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