http://ikomashinwa.cocolog-nifty.com/ikomanoshinwa/2015/12/post-6b82.html 【佐保姫と竜田姫、そして登美彦<佐保姫・桜・稲作・弥生/竜田姫・紅葉・狩猟・縄文>】より
◎古来、春の野山を彩る女神を佐保姫さほひめといい、秋の草木を染め抜く女神を竜田姫たったひめと呼ぶ。いまふうの言葉で言うなら春のパレット、秋のパレットである▼春は桜、秋なら紅葉。どちらが心にしみいるか、と先頃の本紙別刷り「be」でアンケートをしていた。結果は桜派が51%、紅葉派は49%。がっぷり四つと相撲に例えては、姫にそぐわないか。~以上、「天声人語」(15.12.3/朝日新聞)より~
◎10西之京丘陵と佐保・佐紀丘陵~笠置山地の間を流れるのが佐保川で、この川の流域の山の神霊が佐保姫。生駒山地と矢田丘陵の間を流れるのが竜田川で、この川の流域の山の神霊が竜田姫。両川を取り持つように西之京丘陵と矢田丘陵の間を流れるのが富雄とみお川(登美の小とみのお川とも呼べる)で、この川の流域を本拠地とするのが「登美彦=長髄彦」で、彼は2人の姫にはさまれています。
◎佐保姫・桜・稲作・弥生/竜田姫・紅葉・狩猟・縄文
○花見には稲作農耕の豊穣をもたらす桜の霊力への信仰がある※ように、秋の狩猟開始期にあたる紅葉狩り(もみじがり)には山や狩猟文化との深い関わりが想像される<朝日新聞(12.11.22)>
※弥生時代、人々は桜の花が咲き始めると水田の準備に取りかかり、籾もみを蒔まいた。桜の「サ」は、早苗(サナエ)、早乙女(サオトメ)、五月(サツキ)の「サ」と同じく山の女神を意味する言葉であり、「クラ」は神霊が依より鎮まる「座」を意味しているといわれている。つまり桜は、山から下りてくる農耕の神が田に入る前に宿る神聖な樹なのである。稲作農耕をなりわいとする弥生人にとって最も大切な稲作の開始時期を、桜が教えてくれていたのである。
○09_2華やかな一色に染まり、盛りとととに風に吹かれてさっと散る。その散り際がよしと愛でられる桜よりも、寒空に散るもみぢを好む人は多い
https://wakadokoro.com/learn/zatsu/%E7%9F%A5%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8A%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%84%E5%92%8C%E6%AD%8C%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%A5%9E%E3%81%95%E3%81%BE%EF%BC%81-%E3%80%8C%E4%BD%90%E4%BF%9D%E5%A7%AB%E3%80%8D%E3%80%8C%E7%AB%9C/ 【知っておきたい和歌の女神さま! 「佐保姫」「竜田姫」「衣通姫」】より
森羅万象に八百万の神が宿ると信じた古代日本人、和歌の自然詠においてもごく自然に神々を詠みあげています。今回はそんな中でも特に知っておきたい、三人の女神をご紹介しましょう。
佐保姫
佐保姫はその名のとおり東大寺にほど近い佐保川の北部に位置する「佐保山」に宿る神様です。山といってもなだらかな丘、昔と今では様子が違ったのかもしれませんね。
佐保姫は霞の衣をまとった「春の女神」とされ、機織りや染織が得意だと伝わります。ちなみに和歌ではこれらの特徴を踏まえて詠むことが常套です。
「佐保姫の霞の衣ぬきをうすみ花の錦をたちやかさねむ」 (後鳥羽院)
竜田姫
こちらはご存知の方も多いのではないでしょうか、竜田山の竜田姫です。竜田山は奈良県三郷町の山を指し、佐保山に比べたらちゃんとした山です。
「秋の女神」である竜田姫も機織りや染織が得意だったそうですから、佐保姫とは真っ向からぶつかるライバル関係だといえますね。歌の詠まれ方もこのとおり。
「見るごとに秋にもなるかな竜田姫もみぢ染むとや山も着るらん」(よみ人知らず)
そもそも佐保姫を春、竜田姫を秋の女神としたのにはこんな理由から。中国から伝わった「五行思想」では春夏秋冬(四季)と東西南北(四方)は「春-東」、「夏-南」、「秋-西」、「冬-北」という対応関係にありました。これを奈良時代、平城京を中心に適応して東の佐保山に春の女神を、西の竜田山に秋の女神を配したのです。
とすると… 春の女神は春日山の春日姫の方が相応しいんじゃないかとか、夏と冬の女神はどこへ行ったとか、いろいろ疑問が湧いて出ますが、まあ今日はおいておきましょう。ともかく和歌では、春の佐保姫、秋の竜田姫はなくてはならない存在です。
衣通姫
さて、先の女神たちに比べると現代の知名度は低いかもしれません。しかし衣通姫こそ、和歌でもっとも尊ぶべき女神さまなのです。
衣通姫、その名の由来は衣を通してなおも輝く美しさ。和歌に優れていたとされ、なんとかの「和歌三神」の一柱に数えられるほど。さぞかし素晴らしい歌を詠んだのだろうと思いきや、実のところ衣通姫の歌はほとんど残っていません。
小野小町はいにしへの衣通姫の流なり
あはれなるやうにて強からず、いはばよき女の悩めるところあるに似たり
(古今和歌集 仮名序)
と、このような仮名序の評価によっての間接的に知れるのみ、
しかし衣通姫が和歌三神にまで祀り上げられたのは、歌ではなく悲劇的な恋の伝説にあるでしょう。
古事記によると、衣通姫(軽大娘皇女)は允恭天皇の第一皇子である木梨軽皇子と恋仲にありました。実のところこの二人は母を同じにする兄妹であったのです。当時は異母の婚姻は認められても、同腹のそれは禁忌でありました。それでもなお熱い情を交わす二人、やがてそれは群臣ひいては父である天皇にも知れ渡ることになり、信用を失って軽王子は失脚、允恭天皇が亡くなったのちは弟である穴穂皇子が即位することになるのです。軽皇子は弟に対して謀反を起こします。しかし結果はもろくも失敗、流刑となり二人は離れ離れになってしまいました。
しかしこれで終わっては伝説になりませんよね。
「君が行き気長なりぬやまたづの迎へは行かむ待つには待たじ」(衣通姫)
なんと衣通姫(軽大娘皇女)、兄であり恋人である軽皇子の元へ自ら旅立ったのです。この強さ、小野小町というより和泉式部を彷彿とさせます。
閑話休題… さまざまな苦難を乗り越え、ついに衣通姫は愛する軽皇子のもとに至り二人は愛を遂げたのでした! 感動的ですよね(涙。しかし話は最後、二人の自害によって閉じるのです。
なんという悲劇! まるで「ロミオとジュリエット」はたまた「玄宗皇帝と楊貴妃」か。この一大恋愛ロマンスは古代日本人の感情を揺さぶったことでしょう。だからこそ、わずかな歌しか残さなかった衣通姫が和歌の女神として信仰を集めたのだと思います。
0コメント