芭蕉の紀行論

http://www.basho.jp/ronbun/sotsuron2011/sotsuron_basho01.html  【芭蕉の紀行論 ―『おくのほそ道』を中心に―   丹 野 宏 美】 より

 一.はじめに

 松尾芭蕉は、ひたすら風雅の道を求め、日本文学史上きわめて顕著な足跡を遺しており、近世の詩歌の世界を豊かなものにしている。

   古池や蛙飛びこむ水のおと    『蛙合』

   秋深き隣は何をする人ぞ    『笈日記』

  芭蕉は、このような有名な句を枚挙に暇がないほど作っている。だが、このことだけをもって、きわめて顕著な足跡とするには、何か物足りなさを禁じえない。

  芭蕉の句が、一句一句輝きを放つのは事実だが、やはり『おくのほそ道』(以下、『ほそ道』という)という紀行の完成と存在をもって、俳諧を芸術にまで高めたことが、彼をして不世出の俳諧師と評される所以であると考える。

  芭蕉の作品が、彼の人生行路と深く関わっているところから、序論において、芭蕉の生誕から深川に隠棲し、『野ざらし紀行』の旅に出るまでの歩みを辿り、次に本論においては、芭蕉にとって紀行とはいかなるものか、また、この『ほそ道』という旅はいかなる意義を有し、さらに、芭蕉はそれをどう表現し何を遺したかったかについて述べながら、『ほそ道』を中心に、芭蕉の紀行論について考察してみたい。

  なお、『ほそ道』の原文及び章段名と区分は、頴原退蔵・尾形仂訳注『おくのほそ道』(以下角川ソフィア文庫本という)(注1)を用いると共に、『野ざらし紀行』等の紀行の原本は、『新編古典文学全集・松尾芭蕉集②』(注2)とした。また、これらに掲載されない句については、『古典俳文学大系6・蕉門俳諧集一』(注3)から引いた。

 二.序論

ここでは、芭蕉の紀行論を考察するための前提として不可欠である芭蕉の俳諧師としての歩みについて、最初の紀行である『野ざらし紀行』の旅に出るまでを辿ってみたい。

  「芭蕉略年譜」(注4)によると、寛永二十一年(一六四四)に、伊賀国阿拝郡小田郷上野赤坂農人町(現在の三重県伊賀市上野赤坂町)の農人・松尾与左衛門の二男として誕生する。

  十代の末に、藤堂藩伊賀付き侍大将の藤堂親七郎家嫡子・主計良忠に出仕する。その良忠(俳号蝉吟)が、京都の歌学者で俳諧師の北村季吟に貞門俳諧を学んでいたことから、

俳号を宗房と称し、その傘下として活躍した。

  ところが、寛文六年(一六六六)、不運なことに主君蝉吟は、二十五歳の若さで死去してしまう。しかし芭蕉は俳諧への情熱を高め、少しずつ俳諧に名を連ねるようになっていく。

  「ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏籬祖室の扉に入らむとせしも」(『幻住庵記』)(注5)と、後年になって述懐したように、試行錯誤を繰り返しながらも、寛文十一年(一六七二)、二十九歳の年に、俳諧師の道を進む決意をし、江戸に出てゆく。

  暫く下積みの生活を余儀なくされるが、俳号を主に桃青と称し、経済や交通の中心である日本橋小田原町(現日本橋室町一丁目)に居を構え、やがて人脈や門人も増え、俳諧活動も軌道にのる。

  その頃の俳諧が、貞門風に代わって西山宗因の談林派が全国に広まる中、芭蕉は談林派俳諧の活動を積み重ね、延宝五年(一六七七)頃に、宗匠として立机する(注6)。

  順調に俳壇の地位を確立するのだが、延宝八年(一六八〇)に、現実的な世俗的欲望社会から脱し、侘びの世界に徹しようとして、深川に隠退してしまう。

延宝末期から天和にかけて漢詩漢語調の句が流行する中で(注7)、芭蕉もそのような過度的な一時期を経ているが、深川隠退後の句には単に漢詩文をもじったものでなく、荘子・杜甫・蘇東坡・黄山谷などの作品に「自分の心を詠む」ことを学び、荘子の「実利を去って人間性の純粋に従うこと」(注8)を学んだ人生観を背景にした作品がみられるようになる。この頃の芭蕉の特色を示した次の句がある。

    茅舎の感

   芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉   『武蔵曲』

  庵には芭蕉が植えられ、自らも芭蕉と名乗っており、俳風も言葉遊戯的なものから脱皮していることから、この句を「蕉風という新しい俳風の誕生」と見る説(注9)がある。確かにこの句は、これまでの俳諧が歩んできたしゃれや滑稽などの言葉遊びから脱皮して自分の心境を率直に詠っており、蕉風の第一段階(注10)であると考えられるが、字余りの漢語調で肩肘張ったところがあり、本格的な蕉風の到来とするには、もう少し後の日まで、熟成を待たなければならない。

いずれにしても、芭蕉は積極的に隠者の生活に入り、世間からは「風狂」と見える世捨て人のような生活の中で、「侘び」の美的理念を確かなものにしながら(注11)、俳諧の詩的世界に没入していく。

ところが、その隠棲の生活から突如転換し、漂泊の詩人として、貞享元年(一六八四)八月に、『野ざらし紀行』の旅に出る。

 三.本論

  第一章 芭蕉の紀行観

    第一節 『ほそ道』までの紀行

  芭蕉は、『ほそ道』という紀行の前に、四つの俳諧紀行を書いている。その中で、『野ざらし紀行』は、芭蕉が貞享元年(一六八四)の四十一歳から翌年の四十二歳の時に、亡母の墓参を兼ねて帰郷した際の旅における最初にして本格的な紀行である。

  この中には、千里に旅立つ野ざらしの決意、捨て子や亡母への思い、古の偉人に対する尊敬の意などを表し、人間模様を壮絶に表現すると共に、率直に自然を眺めて表現する芸術観がみられる点で高く評価され、過去の天和調の作風とは異なるものがある。

  だが同行ちりの句を除いた四十三句中、十五句が破調であり、天和調の名残りと共に、気負いや迷いなど未熟な点があることも無視できない。

   狂句木枯の身は竹斎に似たる哉

  一方で、旅の途中、名古屋において荷兮・杜国らと、右の発句を挨拶にして『冬の日』五歌仙を成している。その成果を、尾形仂氏が「これまでの江戸連衆たちとの間で試みられた漢詩文調とは一味違った、風狂色の濃い浪漫的な風潮をもたらす結果となった」(注12)と述べられると共に、久富哲雄氏は「蕉風確立の第一歩を踏み出した」(注13)と評価されている。またこの紀行中の、

   道のべの木槿は馬にくはれけり

の句において、一瞬の動きを捉えたおかしみは、かつて見られないものであり、同時に、

   山路きて何やらゆかしすみれ草

   辛崎の松は花より朧にて

のように、即応的に自然をさらりと風詠した句が認められるなど、この紀行が「蕉風俳諧の源泉」(注14)とされるほどの含蓄の深い作品である。蕉風の第一段階のことについてはすでに述べたところであるが、この旅の一連の活動は、蕉風が熟成していく過程で有意義なものとなっている。

ただ芭蕉自身は、『野ざらし紀行』画巻の跋文に、「此の一巻は必記行にもあらず」(注15)と、謙遜とも今後への意欲とも思わせる記述をしている。

続いて、江戸に帰った翌々年の貞享四年(一六八七)八月に、鹿島神宮に参詣すると共に、芭蕉が深川に隠棲した頃、禅を学んだ師である仏頂和尚を久しぶりに訪ねたのが、『鹿島詣』である。これは一泊の小旅行であり、紀行としても、文章の後に、旅中の句に詞書を付した程度のものであった。

  同年十月、江戸を発ってから、東海道を上って尾張・三河・伊賀に至って越年し、翌年に伊勢・大和・紀伊・摂津・播磨に至る旅をした紀行が、『笈の小文』である。

   旅人と我名よばれん初しぐれ

  旅の出発にあたって、漂泊の詩人としての道を歩んできた西行や宗祇などの系列につながりたいという願いを、この一句に託したものである。(注16)しかし、この句にはどこかに、早く旅に出て、道中他人から旅人と呼ばれたいといっているような、浮かれたような気分や響きが残る。

  事実、旧友・親疎・門人等から餞別をもらい、盛大な送別会をしてもらって。芭蕉自身が「ゆえある人の首途するにも似たり」(注17)と記すほど、物々しく思われるものであった。旅そのものも門人・知人のところを訪れ、いたるところで大歓迎を受けるものが主となっている。まさに、欲望的な社会から深川に隠棲し、反俗的な文学を志向する姿が「風狂の詩人」として世間から評価されている芭蕉にとって、名士のような旅は不本意なものであったに違いない。

  また、この紀行には紀行以外のことも記されており、完成度において『ほそ道』に匹敵するものではない。

  そのような自己矛盾の中で、門人も知人もいない侘しい旅を目指し、名古屋から志を同じくする越人と共に、「おばすて山の月」を見ようとして、『更科紀行』の旅をし(注18)、八月二十日頃に江戸に戻る。この紀行も、文の後に若干の句を付した小旅行である。ただ、この旅の思いには、後の漂泊性を帯びた『ほそ道』の旅につながるものがある。

   第二節 文学としての紀行

  芭蕉は次節に述べるように、『笈の小文』の完成を断念してしまうのであるが、この中には「日本の文学史上初めての紀行論」(注19)を書いている。

道の日記というものは(中略)其日は雨降、昼より晴れて、そこに松有、かしこに何と云川流れたりなどいふ事、たれ〳〵も言ふべく覚侍れども、黄奇蘇新のたぐひあらずバ云事なかれ。されども其所〳〵の風景心に残り、山舘・野亭のくるしき愁も、且はなしの種となり、風雲の便りとも思いなして(後略)  

  この文の前半は、芭蕉とって紀行は旅の事実ではなく、旅を通して文学作品を書くことであり、そのためには黄山谷・蘇東坡の詩にみられるような珍しさ、新しさがなければ書くまでもないとしている。すなわち第三章で述べるところの虚構性のことを主張しているのである。

後段では、上野洋三氏が「〈はなしの種〉は〈談笑〉性に通じるものであり、〈風雲のたより〉とは、風雅の情・風狂の思いをかきたてるよすが」と解された上で、「紀行のあるべき理由は俳諧一座において味わう〈談笑〉性と風雅の情に通じている」(注20)と芭蕉の思いを確認されている。

芭蕉は続けて、「酔っ払いのでまかせであり、眠っている人のうわ言のたぐいとみなして、よろしく聞き流してもらいたい」(注21)という趣旨のことを付加えて、たわ言やうわ言のようなものが文学だと主張している。

敷衍して述べれば、「虚構性・新しさ・談笑性・風雅の情・気軽さ」こそが、文学として紀行の真髄であると、芭蕉は自らの紀行観を述べており、この一節には前段後段を通じて、紀行というものを一つの芸術として確立しようとする意欲が見られる。このことは芭蕉の紀行を読む上で忘れてならない視点となる。

   第三節 本格的な紀行の実践

  前節のとおり、芭蕉が文学としての紀行観を述べた『笈の小文』は、芭蕉の文学的姿勢の一端を示したものである。その中で自分の意図する紀行は、旅の事実を書いた昔からある紀行とは異なる紀行であると、歯切れよく宣言している。そして『笈の小文』の冒頭文には、「風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし」とあり、天地自然に則って四季の移り変わりを友とするものであることを踏まえたうえで、「造化にしたがひ、造化にかへれとなり」と、造化隋順の思想を述べる。またそのことは同時に、井上農一氏が「生活が風雅(芸術)の中に埋没した時、その人は始めて真の人間になると芭蕉は主張する」(注22)と解されるように、生活の芸術化の覚悟を述べたものである。そうした中に「純粋に詩的真実を求める心が風雅の誠」(注23)であることを宣言し、俳諧の現状を打ち破りたいという情熱を示している。

  ところで、『笈の小文』のこういった文を書いた時期は、元禄三・四年(一九八九・一六九〇)頃(注24)とされるものの、実際には、「芭蕉の残した未定稿の断片を、門人乙州が集めて編集し、後年になってから刊行したとする」説(注25)が有力である。

  その頃の芭蕉には、すでに『ほそ道』の旅を体験し、新たな紀行観と風雅の理想に確信がもて、『ほそ道』執筆の構想が沸き起こっていたと考えられる。そこで、『笈の小文』の執筆を止め、原稿を乙州に預けて江戸に帰り、元禄五年頃から執筆に着手し、その構想の実現を目指したものと考えられる。

ともあれこのような経過と、芭蕉の文学としての紀行観が、『笈の小文』に示されていることを踏まえ、井本農一氏は、「『笈の小文』が『ほそ道』のいわば序論として理解してもよいような地位にある」(注26)と述べている。

  確かに、『笈の小文』の内部で確立された紀行観は、文学的態度、特に風雅の心、虚構性の面において、『ほそ道』の序論として繫がるものがある。しかし『ほそ道』は、強烈な漂泊性などの多様な執筆態度から、独立してより文学的であることも事実であり、やはり本格的な紀行を実践したのは、『ほそ道』であったと思われる。

  第二章 『ほそ道』の旅の特徴

   第一節 漂泊  

  芭蕉は、元禄二年(一六八九)三月二十七日(旧暦)四十六歳で、深川から曾良を同伴し、千住を立ち、白河を越えて陸奥に入り、松島・平泉などを経て、出羽を回り、象潟を北限として、北陸道を南下し、八月二十日頃、美濃大垣に至る全行程約六百里の旅をした。

  『ほそ道』は、この間に見て回った歌枕を胸に抱きながら、歴史や自然、人との出会いや別れなどの感動を綴った俳諧紀行である。

この旅では主人公が、李白の「春夜従弟の桃李園に宴するの序」の最初の文「夫れ天地は万物の逆旅なり、光陰は百代の過客なり」(注27)を踏まえ、「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人也」と、冒頭から月日も永遠の旅人であるとする宇宙観と、人の一生も天地自然に逆らわず身を任せるものだとする造化隋順の思想を述べ(注28)、「日々旅にして旅を栖とす」という漂泊の旅人像を宣言する。平たく言えば、旅に身をゆだねる漂泊の旅人の姿こそ、理想的な生き方であるとしている。

そうして「予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂白の思ひやまず」と、自嘲しながらも、漂泊の旅に出る喜びと熱い思いを抱いて旅立つ。

    草の戸も住み替る代ぞ雛の家

旅立つ前に、他の人に譲った旧庵の柱にかけておいたとする右の句には、流転してやまない人の世をさり気なく表現するとともに、身も心も清貧を思わせる旅立ちで、漂泊に相応しい心を覗かせている。続いて「富士の峯幽に見えて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし」と、江戸に後ろ髪を引かれ、不安ものぞかせるのは、芭蕉の人間性の表現であろうが、そこには、『野ざらし紀行』の出立のような気負いがなく、『笈の小文』の旅のように、浮かれた気分もない。

  行春や鳥啼き魚の目は涙

  別離の刹那さとともに、「行春や」の句が、巻末の「行く秋ぞ」の句に、絶妙に呼応する構造を示し、漂泊の情念とともに、流転変化する旅人の行く末を予感させる。

  このようにして、この旅は、深川隠棲時代の貧困・侘しさ・静寂とかを一歩超越しており、漂泊という新たな思いと人間的で多様な心情を胸に旅立つ主人公の姿勢に、読者を否応なしに引きこんでいく。

漂泊の根底には、世俗の欲望を離れ、風雅の誠を求めてさすらう純粋な心があり、芭蕉の人生行路を芸術化する。そこには時代を超えて人々の共感を得るものがある。

  しかし後述するように、この旅においても実際は不安や苦しみを訴えたり、黒羽や尾花沢のように手厚い歓待も受けたりしている。黒羽では知人の館代と弟の桃翠に厚いもてなしを受け、須賀川でも等窮という先輩格の旧知の人に「白河の関いかに越えつるにや」と、お手並み拝見の感があるが、歓迎されて四五日とどめられて歌仙を巻いた。

漂泊に満ちた旅といっても、このような風雅の実践者との交流を否定すべきでない。むしろいろいろな場面を実感したり多様な人々と出逢たりすることによって、旅の心や理想とする人間像を描き出し、文学的表現を高めていく過程と見るべきである。

  実際に、黒羽では雲巌寺の奥の仏頂和尚の山居の跡を訪ね、その修行の場に立って、尊敬する師の岩にもたれかけて建ててある庵で往時を偲びながら、中国の高弟が禅修行に励んだ「妙禅師の死関」「法雲法師の石室」を現実に見る思いがして、身を捨てて行脚の旅に出た自らを振り返えっている。

   木啄も庵は破らず夏木立

この句は、仏頂和尚の世俗を捨てた修行の跡を偲ぶ主人公の思いを物語るのに十分である。

  須賀川でも、等窮の紹介で隠棲している僧・可伸に逢い、その心に惹かれて、目立たない花を咲かせる行基・西行ゆかりの栗の木にちなみ

   世の人の見つけぬ花や軒の栗

という句を遺し、自らも行基・西行に思いを馳せ、旅心を漂泊の原点に立ち戻らせている。

  飯塚の里の夜は、宿の環境や気象に悩まされ、病の不安におののきながらも、羈旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん、これ天の命なりと」と、漂泊の気力を取り直して、伊達に向って行く。 

  もっとも見たかった松島では、その絶景に呆然としながらも、「草の庵、閑かに住みなして」いる人たちに惹かれ心配りをしている。このような主人公の姿をとおして、芭蕉は旅のみならず人生そのものを漂泊と考えていたと捉えることができる。

   第二節 歌枕・名所・旧跡探訪 

  これまでに書いた四つの紀行における旅も、歌枕探訪や月を愛でる目的があったが、『ほそ道』の旅は、発端から「古人も多く旅に死せるあり」と、古の詩人・歌人に思いを馳せ、西行・能因などの歌枕探訪に胸を躍らせている。漂泊が旅の性格であるとするならば、歌枕探訪が、この紀行の主題といっていいほど旅の目的の重要な要素になっている。

  だれしも、旅は未知の世界への憧れを動機とするものであるが、とりわけ『ほそ道』の主人公は、「春立てる霞の空に、白河の関こえむと、そぞろ神のものにつきて心を狂はせ(中略)松島の月まず心にかかりて」と、歌枕の宝庫である奥羽の空にとりつかれたように思いを抱いている。しかし、この旅は物見遊山をして回る単純な観光ではない。

西行と能因は、出家し漂泊の旅を続けた反俗の人であるが、その侘笠の足跡を追いかけて追悼する主人公の気持ちが、この紀行のいろいろな面に散りばめられている。 

田一枚植ゑて立ち去る柳かな  

能の名所となる西行ゆかりの「遊行柳」の下では、西行に寄せる思慕の念を表白し、人生の師を偲び無言で語りかける。

  また白河の関では、「秋風を耳に残し」などの表現で、能因の「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と、白河の関に秋風を詠んだ歌を思い起こさせ、「紅葉を俤にして」の表現で、源頼政の「都にはまだ青葉にて見しかど紅葉散りしく白河の関」の中の「紅葉」を眼前に思い浮かべさせる。久富哲雄氏が述べるように、「〈秋風を耳に残し〉と〈紅葉を俤にして〉は、対句的表現となっており、聴覚の世界と視覚の世界を対置した」(注29)見事な表現である。他にも「青葉の梢」「卯の花」「茨の花」の三つを加え、次々と名歌を想起させる描写は圧巻で、自句を記さないでも、地の文そのものが、詩情を醸し出す典型的な章である。このほかにも末の松山のように、幾つもの古歌を想起させて詩情(ここでは悲しさ)を表現した文は、『ほそ道』全体をとおして散りばめられている。

  特に西行と能因は、全般的に次々と登場し、歌枕探訪の重要な位置を占め、この紀行を特徴付けている。

  ところで、実景においてとりわけ変哲があるわけでもない浅香山・信夫の里では、「いづれの草を花がつみとはいふぞ」と夕刻まで探し求め、翌日には山影の小里に半ば埋もれている「しのぶもぢ摺りの石」を尋ねて歩き、この旅の目的が歌枕探訪であることを印象付ける。また笠島では、「藤中将実方の塚はいづくのほどならんと」と、五月雨の道悪い中を無念そうに通りすぎてゆき、名所旧跡にも思いを致している。

  さて、武隈の松では、「松はこのたび跡もなし」と詠んだ能因法師を思い出しながら、代々にわたって植え継がれて、地際から二本に分かれて昔の姿を失わずに生えているのを見て、「千歳のかたちとゝのいて」と感激する。ここに、次の壺の碑で新たな理念が芽生える前提となるものを覚える。

  壺の碑では、「千歳の記念、古人の心」を偲び、「泪もおつるばかりなり」と感激した。この章は、久富哲雄氏など諸説が指摘するように、「歌枕の推移の中に天地流転の相を見出した芭蕉の感慨は、やがて不易流行論の萌芽として、『ほそ道』行脚の中で次第に成長し発展していく」(注30・31)という意義深いものである。

飯塚の里・塩竈明神や平泉で、佐藤兄弟・和泉三郎及び義経を追悼する。

夏草や兵どもが夢のあと

古き人の心、特に敗者である悲運の武将や忠義孝行の武士に限りない共感の思いを廻らすところに、この紀行の特徴があり、『ほそ道』を魅力あるものにしている。

この平泉では、このように義経主従の悲劇的最期と、藤原氏三代の栄華の夢を偲んで詠いあげると共に、「三代の栄耀一睡の中にして」「金鶏山のみ形を残す」と、人の営みのはかなさと自然の悠久を表現している。

  五月雨の降り残してや光堂

さらに、三代を祀る中尊寺に残っている経堂・光堂では、荒廃した姿でありながら昔のままを留めている姿に、「暫時千歳の記念とはなれり」と、やはり人の営みと自然に関心を寄せ感慨をかみしめる。

この間の盛り上げ方によって、すでに旅の途中に芽生えつつある不易流行論を根底にして、この平泉を、歌枕探訪の旅のクライマックスの舞台にしていると考えられる。

  歌枕探訪の旅は、この後も、尿前の関へ向う途次の岩手の里・小黒崎・みづの小島・鳴子の湯をはじめ、最上川・象潟・那古・金沢・敦賀・種の浜の歌枕を通過するが、象潟を除いて、通過した地名、宿泊の地、遊覧の場所の記述程度にとどめ、またその数も半減するなど、歌枕探訪の目的の色彩を薄めている。

その唯一例外である象潟では、「能因島に舟を寄せて」「西行法師の記念を残す」と、出家して陸奥を旅した二人を地の文に直接的に登場させ、面影を偲んでいる。

ここまで川・山・海・陸で繰りなす美の極致を見てきた主人公は、「松島は笑ふがごとく、象潟は憾むがごとし。寂しさに悲しびを加えて、地勢魂を悩ますに似たり」と、その土地のたたずまいが、心に悲しみ憂いを抱いている美女の面影に似ていることを見事に表現すると共に、次のように詠んでいる。

  象潟や雨に西施がねぶの花

この句では、雨に濡れてそぼっている合歓の花に、「眉をひそめ目を閉じて憂いに沈んでいる中国の美女西施を連想し」(注32)、寂しさや悲しみの思いを膨らませている。

このように、主人公は歌枕や旧跡を訪ね、古典的な世界に心を委ねている。井本農一氏が「日本の文学伝統の中に自己を浸らせることによって、新たな創造と飛躍の土台にしようとしたのではないか」(注33)と述べているように、そこには、飽くなき探究心が見られると共に、中国の古典の世界に誘うことも忘れていない。

 第三節 精神(仏道)修行

  隠棲の生活の中で侘びの世界に徹し、漂泊の長い旅に出た芭蕉に、「精神修行」を求めるのは、言わずもがなの感を否めないが、この紀行の魅力を語る上で、避けて通ることができない。

芭蕉は深川に隠棲した頃、仏頂和尚に禅を学んだことは、すでに述べたとおりである。

また『野ざらし紀行』の旅では、鎌倉の円覚寺の大蘋和尚の死を悼む記述をしている。とはいえ、本人自身は僧侶でも仏門の人でもない。しかし、日光で主人公の姿を「桑門の乞食巡礼のごときの人」と表現するほど、芭蕉の心底に仏道修行の精神が流れていることは間違いない。

   あらとうと青葉若葉の日の光

  この句の解釈として、角川ソフィア文庫本は、「純粋な自然礼賛とのみ受け取ることはできない(中略)家康の威徳を称えようとする考えから出発いていた」(注34)とする。久富哲雄氏も、「日の光は、太陽の光線であるとともに地名の日光を詠みこんで(中略)日光山東照宮の威徳に対する賛美の気持ちが込められている」(注35)とする。『新編古典文学全集』(注36)も「東照大権現の御威光」であると注釈する。

また、鈴木秀一氏は、章段の特色として「芭蕉の日光賛美は、そのまま東照宮賛美に重なる(中略)太平に収まった世の中が徳川家によってもたらされたことに対する芭蕉の感謝の念が率直に表れた章段」(注37)と、一歩踏み込んでいる。

しかし、以上は現実との関わり合いを捨て風狂の世界に没入している作者にしては、仏道修行の精神に先立って権力者の威光を強調しすぎた解釈に思われるし、第一これらの解釈に、それほど複雑でもない次の本文の内容が加味されていない。

  卯月朔日、御山に詣拝ス。往昔、この御山を「二荒山」と書きしを、空海大師開基の時、「日光」と改め給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今この御光一天にかかやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の 栖穏やかなり。なお憚り多くて、筆を差し置きぬ。

この文には、御山・詣拝・空海大師開基・さとり・憚りなど、仏教に関する言葉で綴っており、「あらとうと」の意味に、御仏の尊いことに祈る仏道修行を背景とした「ああ尊いことよ」という意のある解釈を忘れてならない。羽黒山の「ありがたや」も同じ趣である。

   閑さや岩にしみ入る蝉の声

  この句にしても、「閑さや」の意味について、諸説には「全山は寂寞としずまりかえって物音一つしない」(注38)と静寂のみを問題にするものが多い。そうした中で、松隈義勇氏は、「蝉の声は人の心に染みとおる死霊の声にほかならぬとおもわせるような契機となっているのを感じる。(中略)〈閑さ〉が、文字の額面通りの幽清閑寂というだけでなく、寂静・涅槃の死の世界に通じる、底無しの深さを潜めている・・・」(注39)として、仏道との関連を含めた解釈をしている。

また、堀切実氏は、「この句の蝉の声は、芭蕉の生命の声であり、そのまま大自然の岩に溶け込んでゆくような感じである。(中略)禅の道元の説く〈身心脱落〉(自分のからだも心も、自我の殻を打ち破って、あるがままの境地)になることをいう。〈閑さや〉の句の表すものは、まさにそれで単に静けさを表しているものだけではない」(注40)と解して、そこには「大自然と自分の心が一体となる境地を示している」(注40同)と述べている。

  私見としては、これらの解釈に導かれることを多とするが、仮に芭蕉がこの句を遺さなかったとしても、この山道に臨めば、宗派をこえて誰しもが仏道の心を喚起し、「仏閣を拝し、佳景寂寞として心澄みゆくのみおぼゆ」ものと思われる。そこで『ほそ道』の作者は、本来ならうるさいはずの蝉の声が、岩山や松柏、さらに苔滑らかな老いた土石などの自然の設えた環境と一体となって、仏道の心の静まる思いを詠嘆したものと考える。そうした中で、「しみ入る」の語を含蓄あるものにし、この句を名句と言わしめている。

芭蕉は本文において、日光の空海(弘法大師)に対し、ここでは最澄(慈覚大師)を登場させたのであり、この句文によって、他の寺社における参拝と趣を異にしており、人の勧めによって、わざわざ予定外に山寺を訪れた積極的な理由も、このような場を求めたからに他ならない。

  このほかにも、同行・行脚などの文言はもとより、雲巌寺の奥の仏頂和尚の旧居跡で徳を讃える筆の運び、瑞巌寺の見物聖を尋ねる記事、さらに出羽三山における「天台止観の月明らかに、円頓融通の法」などの件に続いて、那谷寺・永平寺ならびに数々の上人・禅師が終章間近まで登場して、仏道修行の一面は、『ほそ道』のいろいろな局面に語られ、この紀行を特徴づけており、見逃すと単調な理解に陥ってしまいかねない。

  なお、芭蕉にとって、仏教的無常観が一層深められ、老荘思想から仏教思想へ転換したのは、基角の『芭蕉翁終焉記』に「是ぞ玉の緒のはかなき初め也。爰に猶如火宅の変を悟り、無所在の心を発して」(注41)と書かれているように、「天和二年(一六八二)に大火に見舞われ人生の無常迅速を体験し、翌年、実母の死亡という悲報を聞いた頃」(注42)であったとみられる。

   第四節 旅の出逢いと心の変化

  話題を旅の第一夜である草加のあたりまで戻すと、「もし生て帰らばと、定めなき頼みの末をかりて」と、弱気な真情も滲ませる。この長途の旅では、旅に対する期待から強気な意志を表示する反面、時として顕に悲壮感を漂わせている。このような主人公の心の変化は、紀行全体をとおして人々の出逢いや別れの姿に巧みに表現されている。

さて「予は」つまり主人公は、千住で気心の知れた人たちに、「後影の見ゆるまではと」見送られるのであるが、最初に対面するのは日光の宿の主人・仏五左衛門である。

作者は、「わが名を仏五左衛門といふ。よろづ正直を旨とする」と自己紹介させ、さらに、「唯無知無分別にして、正直偏固の者なり、剛毅朴訥の仁にちかきたぐひ、気稟の清質もっとも尊ぶべし」と、正直な仏五左衛門を登場させる。

諸説の中には、この章を「観念的な描写」(注43)と見るものや、「室の八島と日光山

東照宮という神祇の記事が連続するのを避けた」(注44)とするものもあるが、鈴木秀一氏が、「芭蕉はそこに、〈無知無分別〉という禅的、仏教的な悟りと、『論語』にいう〈剛毅朴訥の仁〉に近いものを見自らの理想とする人物の一人として描いている」(注45)と説くのは至当である。なぜなら利害得失が重要視される江戸の俗世界から開放されて、この行程では最初に、正直一点ばかりの人を登場させたかったのである。

それだけでなく、続いて那須の黒羽では、「雨降り日暮るる」中で、「農夫の家に一家を

借りて、明くれば野中を行く」というふうに、途方にくれたり難儀をしたりして、歩き続ける道中に、馬を貸してくれる正直に親切を加味した農夫を登場させる。そして、その小娘の「かさね」には、その名の優雅さと共に、野道を行く姿に心温まる思いと安堵の心を表現する。

  すでに触れたところであるが、飯塚の里ではあやしき貧家に泊り、蚤・蚊にさされて

眠るどころではなく、持病もおこって、気の遠くなるような苦痛を味わう。

  そのような苦痛の後の仙台では、風流にいささか心ある画工加右衛門という人に逢う。

この画工加右衛門には、一日案内してもらったうえに、松島・塩竈の案内図を描いてもらい、且つ紺の染緒を付けた草鞋二足をもらう。画工加右衛門の好意も半端ではないが、主人公の感謝の気持ちもそれに呼応して、「風流のしれ者、ここに至りてその実を顕す」と謝意を示し、次の句を残す。

   あやめ草足に結ばん草鞋の緒

  石巻を通りすぎる頃も、「さらに宿貸す人なし」と心細い旅を続け、念願の平泉で歌枕

を見た後、出羽路に向かい「よしなき山中に逗留する」と、旅寝の侘しさを表現する。

   蚤虱馬の尿する枕もと

  この句について諸説のほとんどが宿泊の悪条件を表現したものと解しているが(注46)、

飯塚の里よりははるかに機知に富んでおり、不安な旅心にも少しずつ変化がみられてくる。先に進んで、緊張感のある危険な大山を越えるあたりでは、陸奥から出羽へ(表から裏

へ)でる重大事件(注47)であり、試練であるにもかかわらず、無名の案内人を信じきっ

て助力を受けて、無事ついたところで、互いに喜んで分かれている。

ここまでは正直者との出会いに始まり、恐怖や緊張そして感謝の繰り返しが続き、石の

巻を除いて、その都度、支援者が登場する。だが大まかにいえば触れ合う人は異色であり、館代やの郡代など屈託がないようにも見えるが、なんとはなしに厳格な人物も登場する。

  出羽に入ると、登場人物の雰囲気が一変する。おおらかで、ほとんど緊張感がない。

   涼しさをわが宿にしてねまるなり

  尾花沢では、長旅の疲れを癒し、すっかり安息して、がちがちの漂泊から一皮むけて風雅を楽しむ座の中にいる旅の主人公の姿がある。加えて、「富めるものなれども志卑しからず」と、徒然草(注48)から引いて紹介される豪商人・清風の心づかいも、それに対する主人公の感謝の気持ちも句文に現われる。

  大石田では、雨天のために舟待ちをする間、「道しるべする人」を求められて、土地の人々と一巻を巻き、「この旅の風流ここに至れり」と、この人たちと座を持ったことを喜ぶ。

  出羽三山は霊験あらたかな信仰の山でありながら、ここで門人となる図司左吉(俳号呂丸)の案内で別当代会覚阿闍梨に謁するが、この高僧の処でも思いやりあるもてなしを受けて、本坊において俳諧を興行し、巡礼の句々を短冊に書くなど気軽な触れ合いが目立つ。

   ありがたや雪をかをらす南谷

この後の旅での出逢いは、鶴岡の重行・酒田の不玉・象潟の低耳(美濃の商人)金沢の北枝等気楽な門人と新たな仲間、宿を共にする商人、宿の主人で門人となる久米の助(小童)、丸岡天竜寺の長老、そして紙と硯を持って追いかける若い僧たちであり、人々との触れ合いに心の余裕を覗かせる。

余裕を覗かせるのは、人々との出会いだけではない、酒田では夏の暑さを心地よく二句吟じ、象潟では「雨もまた奇なり」と受け入れ、飯塚の里のような苦痛も石巻を過ぎる頃のような不安もなくなって、心の変化を如実にする。

  異色なのは、市振の宿での遊女との出会いである。旅路を共にすることを懇願されるが、不憫に思いながらも「ただ人の行くにまかせて行くべし」と突き放し、

   一つ家に遊女も寝たり萩と月

と詠み、曾良に書き留めさせるが、読者の想像を多様に展開させる局面である。

ただ筆者には、この局面において富士川のほとりの哀しげに泣く捨て子に、食物を投げて通り過ぎた『野ざらし紀行』の旅のシーンを彷彿させる。この章は端から、「親知らず子知らず」等の難所という地名から入り、芭蕉の止むに止まれぬ情感を垣間見る思いがして、一部の有力説のように、恋の話題とすることにためらいがある。

ただこの句を含め、尾花沢の「眉掃き・・・」の句、象潟の美女の「西施」を登場させる句と曾良の「みさご」の句、さらに後述の越後路の七夕の夜の「荒海や・・・」の句には、艶なる思いが忍ばれ、この間の道中を彩っていることも確かであり、恋の予感に躊躇してばかりではいられない。

  特筆したいのは、福井の等栽を訪ねる件である。「あやしの小家に夕顔・へちまの延へかかりて」あるいは「昔物語にこそかかる風情ははべれと」と、『源氏物語』の夕顔の巻(注49・50)を引いて、等栽の屋敷や妻の応対の風情を表現するのはさすがだ。須賀川では、先輩格の等窮が、隠棲している僧・可伸を紹介するが、福井では無愛想な妻が、古き隠士である等栽を紹介する。前者では厳粛な風情、後者では昔物語という設定でありながら、むしろ等栽の妻に対する共感を裏返しに表現しおり、風変わりながらかえって日常的な出来事としての情趣を感じる。

以上、ここまで考察してきた「旅の出逢いと心の変化」は、平泉を境にして出羽に入る前半部と後半部の相違点が、後述するこの紀行の「巧みな構成」に、深く関わってくる。

ところで、同行・曾良との別れと再会も、舞台の設定や心の動きが絶妙である。まず、腹を病んだ曾良との別離の舞台は、効能豊かな山中温泉で、しかも小童ながら手厚く介抱してくれそうな主人がいる宿である。事実療養に努めたのであろうが(注51)、なぜか、曾良がわざわざ長旅をして伊勢の縁者の処へ発つことから、二人の間に何があったのかと、現代の読者の憶測を呼ぶ。

行き行きて倒れ伏すとも萩の原

曾良の旅立ちの心は、不安も後悔もない、行き倒れたとしてもそこは、萩の花の美しく咲くところですからというのであるが、やはり深刻である。  

   今日よりや書付消さん笠の露

芭蕉も二羽の鳧(ケリ)が別れて、雲間に迷う一羽に喩えたうえで、別離の辛さを右の句に詠んでいる。ところが全昌寺では、曾良が前夜ここに泊ったことを書き、「一夜の隔て千里に同じ」と付け加えるが、あわただしく先を急ぐ。福井の近くまで送ってくれた金沢の北枝に「折り節あはれなる作意など聞ゆ」と多大な信頼を寄せ、その後も次に登場する等裁を頼りにする。そして露通も敦賀まで迎えにくる。

ここまでは、読者の推理心に高まりをみせても仕方がないのだが、大垣では読者の無駄な詮索を全く無視するがごとく、曾良は伊勢からはせ参じて、大勢の門弟と共に出迎える。

もちろん主人公のところには、親しい人・門弟が日参して、「蘇生の者に会ふがごとく」と、無事を喜び、ねぎらいを受ける姿がある。結局はよき門人に恵まれていたことを物語るのである。

このように、主人公の行き逢う人との出会いや別れが旅の心の変化を現わして、作者の人間性を顕在化させ、紀行をとおして芭蕉の求める生き方や人間像に迫っている。

 第三章 『ほそ道』の表現の特徴

   第一節 虚構性と風雅の理想

  『ほそ道』の内容が、実景や曾良随行日記との相違点から、実際の旅の事実と異なることを問題視する議論があるが、すでに述べたとおり、もともと芭蕉は虚構性こそ文学としての紀行の真髄であると考えている。したがって、相違点を列挙したり実証を試みたりする議論は、ここではあまり意味をなさない。むしろ『ほそ道』の虚構性と、虚構性をとおして芭蕉が何を表現したかったのかについて考察してみたい。

  『ほそ道』の主人公「予」は、芭蕉という作者を捨象して別人格を形成し、作者は旅を題材にして、いかに風雅の理想を実践していくかという虚構の文学に臨んでいる。

  『ほそ道』は、「予」が「行く春や」と旅立ち、終着に至っても「行く秋ぞ」と新たな出逢いや発見を予感させながら、全体をドラマ化して展開する画期的な紀行文学である。

さて芭蕉は、この旅の途中で風雅的世界の理想図の一環として、不易流行という基本的な考えがあることに目覚める。井本農一氏はその時期について、「歌枕や旧蹟をめぐり歩きながら、芭蕉は人間の営みの中に、変るものと変らないものがあることに考えをすすめていった。(中略)そのことについては、羽黒山に滞在しているとき、土地の俳人呂丸に初めて話した」(注52)としている。今栄蔵氏も「考え方の原型は羽黒山の滞在一週間の間の芭蕉の俳壇の中に早くも現れる」(注53) と述べている。

そもそも、羽黒山滞在中、芭蕉を案内した呂丸が、芭蕉の俳談を書きとめた『聞書七日草』に、「天地流行のはいかい」「風俗流行のはいかい」(注54)などの語が見られる。このことから、両氏の説は、この書に書いてあるすべてが、芭蕉の説として受け取るわけにはいかないとしながらも、「羽黒山でこの特殊な言葉が、芭蕉の口から出たものである」ことを論拠にしている。また金沢で出会った北枝の『山中問答』に「不易の理を失はずして、流行の変に渡る」(注55)という記述が見られる。

このことは、井本農一氏が述べるように、「金沢から福井の近くまで芭蕉に同行した北枝が芭蕉から聞いた教えに基づく」(注56)ものとみられ、すでに芭蕉の信念の中にこうした考えがあったことを物語る。尾形仂氏は、「こうした信念に到達したのは、元禄二年の旅の終わった後」(注57)だったとしている。この説は、『去来抄』に「此の年(元禄二年)の冬はじめて、不易流行の教えを給へり」(58)とあることを論拠としている。

いずれにしても不易流行の理念を悟ったのは、『ほそ道』の旅の途中か終わった時期であり、出発に当たってはまだ模索の段階であったと思われる。

久富哲雄氏は、「冒頭の〈月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人也〉という一節は、人生を旅と観ずる芭蕉の人生観の表白であるとともに、流転変化することこそは、この宇宙の恒常的な不変の原理であるとする不易流行論の理念を打ち出したものであった」(注59)とされる。私見としても、この説明は、不易流行の理念を簡明に示したものとして理解するものであるとすると共に、この芭蕉の理念は、少なくとも旅の発端から実相としてあったのではなく、執筆の段階において虚構の文学として書いたものと考える。

もっとも、仮にそのような理念が出発の時点からあったとしても、李白の詩などに思いを馳せながら、高い教養に基づいて、観念の世界の中で表現した虚構の文章であろう。

ところで不易流行論から醸し出される「流転の相の中における永遠なるものへの憧憬の念は、武隈の松・壺の碑の章にも述べられているが、平泉の章は特に強く叙述されている」(注59同)ことはすでに確認したところである。このことを書くことが、芭蕉の『ほそ道』の執筆の狙いそのものであったと考えられる。

『ほそ道』の執筆の狙いに関しては、井本農一氏は、「風雅的世界の理想図を描く」ことにあったとみている。(注60・61)これに対して、久富哲雄氏は、「『ほそ道』の執筆には、〈不易流行〉の理念に目覚め〈軽み〉への志向が芽生えた奥州の旅を振り返り、その意義を確認するという意味合いが含まれていたともいえよう」としながら、「両者相反するものではなく、相補うべき説である」(注62)としている。現代から見れば、後者は結果として前者に含まれるように理解される。

  少なくとも、このような不易流行論を根底にした風雅的世界の理想図を描く狙いは、旅の事実のみを書く紀行では実現しえず、別次元の虚構の文学において実現するものである。

   第二節 句文融合

  『ほそ道』の表現の形式は、紀行文の中に句が挿入されている俳諧紀行文である。

  芭蕉はすでに述べた『笈の小文』の紀行論の中で、「紀貫之、鴨長明、阿仏尼らが、すぐれた文を書き、旅情をこまやかに述べてからは、その後の紀行文はみなどこか似かよってしまっている」(注63)とし、誰にも書けそうな旅の事実を書いても詰まらないとして新しさを希求していた。これまでも紀行の文に和歌など配列する作品はあったが、『ほそ道』は、地の文と句が見事に融合しているという新しさや独創性を実現した。句が中心でも文が中心でもない。地の文が句において集約され、句は地の文に新たな生命を吹き込むという相互作用をなし、全体として詩的で文学的な響をもたせている。

  例えば、「行く春や鳥啼き魚の目は涙」の句は、それだけ読めば唐突で大袈裟な表現であるが、旅立ちの章の前段に記す惜春の情と離別の情が句に集約され、後段で旅立つ人と見送る人の名残惜しい思いが句と一体となり、翻ってこの句が文全体に余韻を残す役割を果たしている。

もう一つ句文融合である表現形式を理解しないと理解がしにくいのが、遊行柳の場面であろう。能の「遊行柳」は、昔、西行法師が旅した折、「みちのべにしみづながるる柳かげしばしとてこそ立ちとまりつれ」(注64)という和歌を詠んだ、そのゆかりの朽木柳の精という化身と旅人(遊行上人)が対話し、世阿弥が様式化した夢幻能の世界を展開するドラマである。(注65)「田一枚植えて立ち去る柳かな」の柳の意味を理解するには、この章の「すみづながるる柳」のこうした由来が不可欠となる。その理解に立てば、句文融合の表現形式により、この局面を夢まぼろしと儚く消える夢幻劇的世界に導いてくれる。そして、主人公が西行法師の「暫しとてこそ立ちどまりつれ」と詠まれた柳の木陰に、田一枚植え終わるほどの長い時間感慨に耽りながらたたずみ、そうして夢幻劇的世界から目覚め、名残りを惜しみながら詠嘆して立ち去る局面が理解できるのである。なお、「植えて」「立ち去る」の主体のとらえ方について諸説展開されているように(注66)、主人公の動静には、地の文と句の融合した全体の流れの中で様々な想像の世界をみることができる。このことは、『ほそ道』が様々な想像を展開させながら読める紀行であることを意味している。

  すでに、仏道修行に関連して述べた立石寺の章も、様々に想像の世界をめぐらせるが、やはり見事な句文融合の姿をなしているものとして評価される(注67)。「仏閣を拝し、佳景寂寞とした境内の雰囲気」と「心の澄みゆく」己の心を、「閑かさや」の句に集約させて絶唱している。続く最上川の句の意味合いがおもしろい。

   五月雨を集めて早し最上川

  この句の中七は、「集めて涼し」の形で大石田での歌仙の発句として詠まれたものであった。もとより最上川は日本三大急流の一つであり、古来より早川として有名である。

諸説は、「実際の体験をとおして、俳席の挨拶の句から、急流の本意をとらえた句へと転位したものである」としている。(注68・69)。そのとおりであるにしても、ここでは中七の改案によって句文が見事に融合していることを指摘しておきたい。すなわち「日和を待つ」と気象の状況を示した上で、「最上川は陸奥より出でて、山形を水上とす。碁点・隼など恐ろしい難所あり。(中略)白糸の滝は青葉の隙々に落ちて(中略)水みなぎつて舟危ふし」と畳み掛ける文章と気象・地理的状況の記述は、「集めて早し」でなければ、この句文は収斂しない。

そして「〈集めて早し〉と言い切ることで、まったく主題の異なる二つの作品」(注70)となり、改案された句は、翻って地の文にも新たな息吹を与えている。

ところで更に読めば、そのような急流であっても、最上川は「稲船」と相まって、古今和歌集・東歌の「もがみ河のぼればくだるいな舟のいなにはあらずこの月ばかり」(注71)の古歌を想起させ、沿岸一帯の豊穣を彷彿させている。

谷地快一氏は、「蕉風の第二段階は、古典と日常素材の調和をはかった『ほそ道』の世界」とし、この最上川の句を一例に挙げられる。(注72)

私見を加えれば、この句は地の文の「稲船」との融合をとおして、出羽の景と流域の農耕生活の日常的な光景を含みながら詠んでおり、蕉風そのものと考える。

なお蛇足ではあるが、同氏は蕉風の第三段階として、「現実人生への関心を強め、古典から自立して(中略)、〈秋深き隣は何をする人ぞ〉というような世界」(注73)とされ、最晩年の俳風で締めくくられる。筆者も、現代人にも通じる人生の孤独感・寂寥感などが入り混じったこの頃の作品が、蕉風の到達点であると確認するところであるが、やはり最上川の句が、地の文と融合して、芭蕉の作品の文学的成熟度を満喫させることも忘れられない。ともあれ、句文融合という視点で、この紀行を読み直したときに、『ほそ道』の魅力は倍増する。

 第三節 巧みな構成 

  『ほそ道』の構成論については、古くから連句構成論が盛んにおこなわれている。一方で、旅程を中心とした構成についての分析論考も数多く出されている。

  これらの論は、堀切実氏が指摘されるように、「具体的な連句形式に当てはめて考えようとする場合、芭蕉には今日便宜的に分けられている章段意識があいまいで、大いに問題となり(中略)旅程中心の構成論にしても綿密に見ていくと諸説ともかなり強引で、不自然な感じがする。(中略)それがそのまま芭蕉の創作意識に重なるものかといえば、必ずしも断定できない」(注74・75)という面がある。ただ読み手の側として、中には興味を惹かれる論も多々あり、その一つの立場に立って『ほそ道』を読めば、この作品が巧みな構成をしているといえる側面があり、この紀行全体に対す理解が深まることも事実である。 

そこで本論はここまで、『ほそ道』の特徴を様々な視点から確認してきたが、それを振り返ってみると、私見としては、尾形仂氏の「〈月日は百代の過客〉に始まり、〈行く春〉〈行き秋〉をつなぐ線を底辺とし、〈平泉〉の章を頂点とする三角形の構図を通して、流転の相に身をゆだねることによって、永遠なるものにつながろうとする俳人としての芭蕉の到達した人生観・芸術観を総合する〈不易流行〉の理念を大きく訴えかけている」(注76・77)という見方と、基軸を一にしており受容したいと考える。

そうした前提で考察してみると、旅のクライマックスの舞台となった平泉までの前半部では、漂泊の思い、前途への不安・艱難などを全面に滲ませ、目的も歌枕・名所・旧跡探訪となり、話題も歴史上の硬い話題が中心であった。交歓する人にも館代や郡代などがある。それに旅路の前途への不安・苦痛を露骨に表し、なぜかひたむきに助力する人との出逢いが多い。

ところが、後半部となる尿前の関や苦難の山越えのあたりから少しずつ変化がみられ、出羽に入ると、前章で述べたとおり、出会いや自然・気象と向き合う姿勢にも安らぎや余裕を見せ、新たに芽生えた風雅の理想を、門人たちと確認する趣が中心となっていく。

  話題にも現われ、句の題材が古典的なものを背景にしながらも、小動物(蚤虱・ひき・蚕・蝉・鶴・みさご・きりぎりす・蛤)や、植物(紅花・芦・ねぶ・萩・瓜・茄子)及び気象(雨・雪・月・天の河・風)など、身近で日常的な軽いものに大きく変化する。

とはいえ出羽三山や象潟では、和歌・漢詩や故事を踏まえ、松島に比して一段と文字数が多く、語調も強められ改まった書き方になって、出羽に入る前の固い話題と出羽に入ってからの安らぎや余裕ある姿と逆転している表現となる。

久富哲雄氏が「松島の明るい風光に対して、裏日本の一種沈鬱な感じのする風光を擬人法によって巧みに表現している」(注78)と、指摘されるような趣向をこらしているのである。右のような明と暗の対象でみると、象潟の件では、「松島は笑ふがごとく、象潟は憾むがごとし」の表現となる。

また同じ明神参拝であるのに、前半部の塩竈では早朝に詣で、「宮柱ふとしく、彩椽きらびやかに、石の階九仞に重なり、朝日朱の玉垣をかかやかす」の表現であるが、後半部の敦賀の気比では夜に参拝し、「社頭神さびて、松の木の間に月の漏り入りたる、御前の白砂、霜敷けるがごとし」の表現となって、松島と象潟に対応する明暗となっている。

ただ、これらの明暗は、表(太平洋側)と裏(日本海側)の地形・風光・景色あるいは社殿・社頭の物的雰囲気をいわば観念的に表現したものである。実質的にみるとむしろ後半部においては、前述のように触れ合う人との関係が気軽さを帯び、題材も日常的な身近なものに変化し、また第二章第四節で記したような艶なる色彩を帯びる局面もあり、明らかに明暗が逆転している。

このような前半部と後半部の記述の趣向を、もうすこし、旅程に従って個別にみていくと、先ず大石田で「この旅の風流ここに至れり」と晴れ晴れとした感慨を吐露するが、このことは前半部の須賀川の等窮宅で「風流の初めや」の句に初めて陸奥に入った緊張感を込めたことに見事に呼応させている。

越後路においては、「暑湿の労にて神を悩まし、病おこりて事をしるさず」として注目されるが、前半部の飯塚の里のように、持病を原因とした「病おぼつかなし」というほどの悲壮感もなく、むしろ余分なことは記さずに、星合の夜に、哀愁を秘めて流人に思いを致した、雄大な次ぎの句にすべてを委ねている。

   荒海や佐渡に横たふ天の河

この越後路から金沢へは、先を急いでいるような表現となり、短文が目立ってくる。「加賀入りの前奏とした紀行文の配列の妙」(注79)という見方もあるし、舞楽・能などの「序破急」の「急」の形式を踏んでいるとも考えられる(注80)。

ともあれ文の運びとしては左記の句のように、金沢で一笑を慟哭の叫びのよう追悼し、また小松の多太神社では、義仲ゆかりの武将・実盛の壮烈な最期を、感慨を込めて詠う舞台が設定される流れになっている。

  塚も動けわが泣く声は秋の風

   むざんやな甲の下のきりぎりす

  前の句は、秋風の悲秋という本意によって率直に感情を表現し、後の句は心とことばを一つにしており、前半部の歌枕中心の荘厳な雰囲気と一味違った、人生劇のように真に迫った表現となっている。

また、後半部の敦賀の宿で仲秋の名月を期待しながらも、この地の陰晴は当てにならな

いと十四日の月を観て、主に勧められた酒を飲み、種の浜では侘しい寺で「酒を暖めて夕暮の寂しさ、感にたえたり」と、漂泊を強調した前半部より自然体で、「寂び」を漂わせる旅心に情緒深い風情がある。

   名月や北国日和さだめなき

  待望の月が見られないことを慨嘆した句だが、むしろ終着を目前にして、ここまでに育んできた天地自然に則った造化隋順の思想を、さりげなく吐露したものであろう。

尾形仂氏が、「芭蕉晩年の〈軽み〉の俳諧は、この句のように一切の芸術的身構えを捨て去って、人間同士の赤裸々な日常の哀歓の中に詩を探り、それを日常のことばをもって表現しようとしたもの」としながら、「〈軽み〉」の世界へと抜け出していく過程を象徴している」(注81)と述べられている。まさにこのところでは、ゆったりと自然や人の輪の中に溶け込んでおり、前半部に芽生えた「不易流行」の理念を踏まえたうえで、「軽み」へ進もうとする後半部を特徴づける一コマとなっている。

このように、この紀行を旅の性質や表現の仕方など様々な視点から見たときに、前半部と後半部には明らかな区別すべき特徴があり、その三角形の底辺には、芭蕉が到達した人生観、芸術観を総合する「不易流行」の理念を訴えかけている構成となって(注82)、全体として風雅的世界の理想図を主張している。このような巧みな構成が『ほそ道』の魅力であり、構成論も多岐にわたって論考がなされる由縁ともなっている。

   第四節 好調な文のリズム感と夢幻能 

『ほそ道』が人々に享受される側面に、意味内容・文の構成に対応して文のリズム感が好いことと、この紀行を終始貫く心象として夢幻能の世界がある。

  まず冒頭の「月日は百代の過客にして・・」に始まって、この文の朗読を楽しむ愛好家が多い。一般的な朗読に加え、詩吟のように吟詠したり、謡曲のように謡ったりして楽しむこともできる。いずれの方法によっても、繰り返し朗読することによって、諳んずることも可能となり、『ほそ道』の全文が、読む人の心の財産となっている。

古典文学作品を朗読する喜びがあることは、『ほそ道』という作品に限らない。『平家物語』『徒然草』『方丈記』等々がある。ただ、文のリズム感の面からみれば、これらは冒頭の部分に特徴を示すのであるが、『ほそ道』は全体として前述のように多様な方法で朗読する魅力があり、旅の光景や能舞台をイメージするような独特の響を持っている。

  さて文のリズム感の好さは、この紀行全体に流れているが、筆者が特に好感を持つのは、「壺の碑」の章の「昔よりよみ置ける歌枕、多く語り伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道改まり、石は埋もれて土に隠れ木は老いて若木に代われば、時移り、代変じて(中略)千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。(中略)覇旅の労を忘れて、涙も落ちるばかりなり」の響である。

尾形仂氏は「この章は『ほそ道』のクライマックスと考えられる『平泉の章』に先立つ前奏を奏でるものであり、また出羽三山の〈降り積む雪の下に埋もれて、春を忘れぬ遅桜の花の心〉の〈わりな〉さへの注視はその余響を受けたものである」(注83)としている。

以上のことは、前節で触れたように、「平泉の章」を頂点とする三角形の構成に関して述べられたものであるが、声を出して読む文のリズム感のうえからも、この三つの章段は、前奏、クライマックス、余響といった響をもって好調に読むことができる。

  このような好調な文のリズム感は、冒頭の「月日は百代の過客にして・・」のような漢文訓読体のところ、続く「旅立ち」のように章の中で和文体と漢文体を使い分けているところ、さらに「那須野」の章のように和文体中心の文に会話体を導入しているところなど、その時々において、文体の変化を効果的に導入した美文調によるものであると共に、それに融合した形で、句が巧みに配されているからであると考える。

この表現方法は、紀行全体の巧みな構成と相まって臨場感や躍動感を演出するとともに敬虔さや感激・哀感などの高揚した精神や感情を表現するのに効果的であり、句文融合の特色も絶妙に発揮されている。そしてそのようなことは、声を出して読んでみることによって、なお一層実感できるのである。

ところで、尾形仂氏は、「この旅の日光での句の〈あらたふと〉の声調や遊行柳での〈田一枚植ゑて立ち去る〉という自己の旅姿の夢幻劇的形象化も、ワキ僧の擬態にもとづいている」(注84)と指摘される。また、久富哲雄氏も、「冒頭から草加の章までは、謡曲の序の段の構成にならって執筆されているように考えられる。(中略)主人公〈予〉と同行者〈曾良〉に能の脇僧とそのツレのように見立てている」(注85)と述べる。このことは、第二節・句文融合の「遊行柳」の件でも触れたところであるが、この紀行全編の様々な局面における謡曲の物語的側面を端的に表現している。このように、この紀行を能との関連で読むことは、諸説においてもしばしば行なわれているように重要である。

ともかく、「松島の月まず心にかかりて」と江戸を立ち、同行曾良と「松島・象潟の眺めともせんことを喜び」と歩く姿や、実際に松島・象潟の眺めを目前にした件を、能舞台に見たって読むと、格段に面白さが醸し出されてくる。

  蛤のふたみに別れ行く秋ぞ

久富哲雄氏の「能舞台風に言うならば、舟に乗った脇僧が声高らかにこの句を吟じ、〈行く秋ぞ〉の声を響かせながら揚幕の中に姿を没するという情景であろう」(注86)とする解釈は、作者の「人生は無限に続く旅である」とする人生観そのものである。

少なくとも、『ほそ道』は、こうした文のリズム感と夢幻能の彩によっても、人々から享受され、伝えられる可能性を秘めた魅力を持っている。

四.結論 

『ほそ道』は、まぎれもなく芭蕉と切り離された虚構の世界の主人公「予」が、風雅の道一筋に漂泊を続けた旅の物語である。

  その主人公の心は、自然や人々との出会い、歌枕・史跡探訪、古典ならびに日常素材との調和の中で巧妙に変化し、その時々において感じた真情を、事件や天災あるいはどんでん返しなどのように、大袈裟な題材として展開することなしに、高い教養に基づいた独創的な虚構性と巧みな構成によって表現され、この紀行は新たな文芸として描かれている。

  結論的に見ると、「『ほそ道』は作者自身の考えている「風雅の理想的世界を描いて見せた」(注87)もので、その意義は『ほそ道』の旅の性質・目的・行程や出会い、そして表現の特徴及び新しさなど、文章のあらゆる面に散りばめられている。言い換えれば、この小論の各章各節で述べた全てが連なって、その魅力を発揮している。

  その中に、不易流行という新たな芸術観を確認すると共に、四囲の身近な日常性の中に詩情を感じ取り、当為即妙的に感じたまま句文にする芸術の境地、すなわち、その後、門弟に説き普及に努めた「軽み」という表現の芽生えがあり、独創性があった。

  もう一度、作者の足取りを辿ってみると、二十九歳の年に俳諧師として立つために江戸に下ってから、談林俳諧宗匠を経て、漢詩文調を通過し、いわゆる風狂の境地を経験してきた。そうした経験から、新たな創作の世界に目覚め、そこには言葉遊戯は最早論外として、風狂にも飽き足らず、それを包摂した風雅の理想という芸術的開眼が見出される。

  それは『ほそ道』という作品のなかで、古人に語りかけ、その時々に出逢う様々な人と対話し、さらに小動物や植物、敬虔な自然との触合いをとおして、滑稽という俳諧が風雅の文学に到達するという物語でもあった。芸術の文言を多用することは、軽率のそしりを禁じえないが、このようにして、『ほそ道』は単なる道行文でなく、風雅的世界の理想図を見事に実現した芸術作品となったのである。 

  敷衍してみれば、芭蕉は漂泊の人生行路の中で、生活が芸術化され人生すなわち俳諧(芸術)といった視点から、この紀行をとおして、見たまま感じたままを、「自然と自己」そして「心とことば」を一体化させながら、不易流行という芸術観のもとに、自然や人間の存在と心情を描写し、究極において風雅的世界の理想図を表現した。

そのために作者はまさに全人格を貫いて、この人でなければ書けない表現の仕方をし、句文が融合し全体的に好調な文のリズム感をもつ詩文となった。ここに、『ほそ道』の魅力の全てがあり、文学があり芸術性があると評価される所以がある。

  以上のように『ほそ道』は、読めば読むほど、実際の旅や作者の存在を捨象してそれから独立した文学作品として輝いており、一言一句に触れる楽しみを味わうことができる。

無論、作者が不世出の俳諧師として、その足跡が高く評価されることはいうまでもないが、この紀行は、「文字」を通して、ものごとの真理・真情を永遠に語りかける文学作品の存在理由そのものをも、主張しているように思われる。

 五.あとがき

   昔紅花今さくらんぼ翁道

  筆者の父が、平成元年に『おくのほそ道』三百年を記念して作った句である。父は生涯にわたり、最上川河畔でさくらんぼ栽培をしながら、少年の頃より六十年以上も句作を楽しみ、平成二年、芭蕉が、「行く秋ぞ」と旅立った九月六日に、夜空の星となった。父からは、俳句に関して何一つ教訓めいたことを耳にすることはなかったが、亡くなる直前に、写経のように、『ほそ道』を自分で丁寧に毛筆した和装本を送ってもらっている。都塵にまみれて働く息子に、『ほそ道』の誠を、エールとして送ってくれたものと思う。

   新都庁 星合の夜に 父偲ぶ

  翌年、勤務先が新宿に移ったとき、夜遅くまで仕事をしていた頃の筆者の拙句である。あれから約二十年、職から離れ改めてあの冊子を手にし、『ほそ道』が輝きを放ち、父をはじめ多くの人々に感動を与えてきたこの紀行の魅力について学びたいという思いと共に、長年にわたる心の濁りを清めたいという願いから、東洋大学文学部通信教育課程の門を叩いたところであった。目的の達成は思い半ばであるが、「この小論に臨んでよかった」という言葉が、今、自分の口から自然に漏れてくるのである。

  原稿用紙にして、わずか四十枚ほどの『ほそ道』を論ずるのに、その倍以上の紙幅を要したのは、筆者の能力が稚拙であることに起因することは確かだが、この紀行の表現の一字一句が限りない想像力を膨らませることも事実であり、今後も引き続いて『ほそ道』を読み続けていきたいと決意している。

  最後に、基礎演習、山寺でのスクーリングなどを通じ、『ほそ道』の魅力を学ぶきっかけを提供して戴き、且つ、親身になってお導き戴いた谷地快一教授をはじめ、多様な文学文化に関し熱心にご指導を賜った諸先生、また常に励ましの言葉を頂戴した多くの学友に、深い感謝の言葉を述べさせて戴きたい。そして、終始静かにみていてくれた家族にも、意のあるところを記しておく。 

○引用文献・参考文献 (資料別・出現順)  

1 頴原退蔵・尾形仂訳注『おくのほそ道』(角川学芸出版・二〇〇三年三月二五日)

   (注1)全般

   (注4)三一七から三三一頁

   (注6)三二二頁

   (注31)九九頁

   (注34)一六〇頁

(注38)一九九頁

   (注46)一一二から一一三頁

   (注68)一一九頁

(注79)一三四頁

   (注84)三〇六から三〇七頁

2 井本農一・久富哲雄校注・訳『新編古典文学全集・松尾芭蕉集②』

(小学館・一九九七年九月二〇日)

   (注2)全般

   (注5)三〇三頁

   (注15)二〇六頁

   (注17)四七頁

   (注21)四八頁脚注

   (注25)四四・五八三頁

   (注36)七八頁

   (注60)五七九頁

   (注63)四七頁脚注

3 阿部喜三男・阿部正美・大礒義雄校注『古典俳文学大系6・蕉門俳諧集一』

(集英社・一九七二年一月一〇日)

(注3)一九頁・五四頁・四四九頁

4 松浦友久『李白詩選』(岩波書店・一九九七年一月一六日)

   (注27)三三五頁

5 久富哲雄『おくのほそ道全訳注』(講談社・一九八〇年一月一〇日)

   (注13)三三四頁

   (注29)八二頁

   (注30)一三九頁

   (注32)二四四頁

   (注35)五〇頁

   (注44)三四七頁

   (注59)三四三頁

   (注62)三四三から三四四頁

   (注69)二〇七から二〇八頁

(注78)二四七頁

   (注85)二一頁

(注86)三二七頁

6 今栄蔵『芭蕉その生涯と芸術』(日本放送出版協会)(一九八九年九月二〇日)

   (注11)八一から八二頁

   (注23)一六七頁

   (注53)一五九から一六〇頁

7 井本農一『芭蕉ーその人生と芸術』(講談社・一九六八年六月一六日)

   (注7)八五頁

   (注8)九〇から九一頁

   (注22)一九二頁

   (注24)一九二から一九三頁

   (注26)二一三頁

(注33)一四二頁

(注51)一五〇頁

(注56)一五七頁

8 尾形仂『芭蕉の世界』(講談社・一九八九年四月一五日)

   (注9)三八頁

   (注12)一四七頁

   (注57)二九七頁

   (注76)二六二頁

   (注81)二六五頁

   (注82)二六二頁

9 谷地快一『えんぴつの旅・松尾芭蕉・野ざらし紀行』

(マックス・二〇〇六年八月一〇日)

   (注10)二三頁

   (注14)一頁

(注72)二三頁

   (注73)同右

10 尾形仂『芭蕉・蕪村』(岩波書店・二〇〇〇年四月一四日)

   (注16)一四二頁

   (注77)七七頁

   (注83)同右

11 井本農一『芭蕉入門』(講談社・二〇〇七年二月二〇日第三九版)

   (注18)一一〇頁

   (注52)一三五頁

   (注61)一二〇頁

   (注87)同右

12 上野洋三著『芭蕉の表現』(岩波書店・二〇〇五年一一月一六日)

   (注19)三〇頁)

   (注20)三一頁

   (注43)二五八頁

(注47)二三九頁

13 堀切実『おくのほそ道・永遠の文学空間』(日本放送出版協会)

   (注28)三〇頁

   (注40)二四一頁

  (注66)九六から九八頁

(注80)二七九頁

14 堀切実編『『おくのほそ道』解釈事典』(東京堂出版・二〇〇三年八月一日)

   (注37)四五頁

   (注45)四二から四三頁

   (注67)一三四頁

   (注74)二三五頁

15 松隈義勇『『おくのほそ道』の美をたどる』(桜楓社・一九九〇年一〇月二〇日)

   (注39)一八四頁

16 松尾靖秋・丸山一彦校注『近世俳句俳文集』「芭蕉翁終焉記」

   (小学館・一九七二年二月二九日)

   (注41)四八三頁

17 萩原恭男『資料日本文学史近世篇』(おうふう・二〇〇三年十月二〇日重版)

(注42)三七頁

18 三木紀夫『徒然草』(講談社・二〇〇七年一月二二日第四〇刷)

   (注48)一〇八頁

19 阿部秋生他校注・訳『古典セレクション・源氏物語①』

(小学館・二〇〇八年四月一〇日)

   (注49)一九三頁

   (注50)二三八頁)

20 飯野哲二『おくのほそ道の基礎研究』(思潮社・一九三九年九月二五日)

   (注54)五四三頁

21 大礒義雄・大内初夫校注『古典俳文学大系10蕉門俳論俳文集』

(集英社・一九七〇年九月十日)

   (注55)三頁

22 頴原退蔵校訂『去来抄・三冊子・旅寝論』(岩波書店・一九九三年八月一八日)

   (注58)六四頁

23 国立能楽堂営業課『国立能楽堂第三一五号』

(日本芸術文化振興会・二〇〇九年一一月四日)

   (注65)四から五頁

24 片山由美子・谷地快一他編『俳句教養講座代一巻・俳句を作る方法・読む方法』

(角川学芸出版・二〇〇九年一一月一五日)

   (注70)一八六頁

25「新編国歌大観」編集委員会『新編国歌大観第一巻・勅撰集編・歌集』

(角川書店・一九八七年十二月二五日第四版)

(注64)二二一頁

(注71)三二頁

26 堀切実『おくのほそ道・時空間の夢』(角川学芸出版・二〇〇八年五月一〇日)

(注75)五八から六一頁

     ☆  ☆  ☆

○他の参考文献

1 饗庭孝男『芭蕉』(集英社・二〇〇一年月二二日)

2 安東次男『芭蕉七部集評釈』(集英社・一九七八年)

3 麻生磯次『俳句大観』(明治書院・一九七一年十月一五日)五七・一一三・一二四頁

4 片山由美子・谷地快一他編『俳句教養講座代二巻・俳句の詩学・美学』

(角川学芸出版・二〇〇九年一一月二五日)

〔付記〕本稿は平成二十二年度に東洋大学文学部日本文学文化学科卒業に際して提出された卒業論文である。(谷地)

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