http://minsyuku-matsuo.sakura.ne.jp/basyoyoshinaka/newpage1bayoukikannkeinennpyou.html 【芭蕉の年表】 より
7月2日 甥桃印を伴って江戸に帰る。以後義父として面倒を見ることになる。
7月 蝶々子撰「俳諧当世男(いまようおとこ)」に発句3付け句3
天秤や京江戸かけて千代の春 (俳諧当世男)
7月ころ 5,6歳で父を亡くした甥の桃印(16歳)を伴なって江戸に戻る。
11月 季吟撰「続連珠」に伊賀上野松尾宗房・江戸松尾桃青(句引に「松尾氏本住伊賀号宗房・桃青」という両様の肩書き俳号で発句6・竹句4入集。
けふの今宵寝る時もなき月見哉 (続連珠 )
俳家奇人談巻の中によると「初めの名を宗房といへり。後桃青と改む、又杖錢子、是佛坊等の諸号あり。」とある。
「俳諧類船集」が付合連想語として「飛ー蛙」を登録
巴人、下野鳥山に生れる。
1677年 延宝5年
(丁巳) 34歳 この年には、万句(百韻百巻)を興行して宗匠立机(俳諧師が一派を統率する宗匠として独立すること)していたと推定される。宗匠立机を1678年としているものもある。
このころから小田原町の小沢太郎兵衛(大船町の名主、俳号卜尺)の貸家に住居を定める。 西鶴、独吟千六百句興行。
小沢卜尺の斡旋により、生活のたすきに延宝8年までの4年間江戸神田上水の大洗堰(おおあらいのせき)の改修工事の現場監督のごとき副業に従事する。専門の職業俳諧師でありながら、営利的な点取り俳諧を拒否し経済的に苦しかったためと考えられる。芭蕉は神田上水の改修工事に従事し、深川に移るまでの4年間を現場小屋か水番屋に住んで過ごしたといわれ、のち芭蕉を慕う人たちによって建てられた庵を「龍隠庵」(りゅうげあん)と呼んだ。これが関口芭蕉庵である。関口芭蕉庵は深川芭蕉庵跡が正確な位置は定かでないのに対し、江戸における芭蕉の唯一の明確な遺跡として注目されている。
秋 杉風との両吟百韻もこの秋の作であろう。
色付くや豆腐に落ちて薄紅葉 (真蹟短冊)
11月~閏12月 内藤風虎主催、任口、維舟、季吟等判の「六百番俳諧発句合」に20句入集。成績は勝九、負五、持六。句合とは、参加した人々を二チームにわけて、チームで句を戦わせ、判者が勝敗をわけるという和歌の「歌合」に倣って発生した遊戯性のつよい文芸形式である。
門松やおもへば一夜三十年(六百番俳諧発句合
冬 信章・京都の伊藤信徳と三吟百韻一巻を巻く。(江戸三吟)
あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁(俳諧江戸三吟)
1678年 延宝6年
(戊午) 正月 35歳 歳旦帳(一派の宗匠が門下の歳旦吟を集成した印刷物)を上梓(書物を出版すること)。(採荼庵梅人(平山梅人)「桃青伝」による) 卜養没、72歳
春 信章・伊藤信徳と三吟百韻二巻を巻き、前年冬の一巻と合せ、「俳諧江戸三吟」と題して刊行。
3月中旬 「俳諧江戸三吟」刊。信徳・信章との三吟三百韻を巻き前年冬の一巻と合わせ3間を「俳諧江戸三吟」と題して出版する。
相前後して「桃青三百韻附・両吟二百韻」刊(「俳諧江戸三吟」・江戸両吟集」の合刻本)
7月 二葉子亭で紀子・卜尺と「実にや月」の四吟歌仙を巻く。
7月 岡村不卜撰「俳諧江戸広小路」に発句十七・付句二十入集
大比叡やしの字を引て一霞 (江戸廣小路集)
大日枝やしを引捨てし一かすみ (彼これ集)
内裏雛人形天皇の御宇とかや(俳諧江戸広小路)
7月下旬 二葉子撰「俳諧江戸通り町」に発句五・付句五・一座の歌仙一入集。
実にや月間口千金の通り町 (俳諧江戸通り町」)
8月上旬 言水撰「江戸新道」に三句入集。
秋 京の春澄を迎え、似春と三吟で「塩にしても」の歌仙等、歌仙三巻興行
10月 もとめに応じて岸本調和系の俳人某氏作「十八番発句合」に判詞を加える。跋に「坐興庵桃青」と署名、「素宣」の印を押す。
「江戸通町」、「江戸新道」、「江戸広小路」「、江戸十歌仙」などに入集
岩付城下の志候ら六吟百韻に加点、「坐興庵桃青」と署し「素宣」の印を使用
冬 信徳が千春同道でふたたび東下、「忘れ草」の三吟歌仙を巻く。このところ京俳人との東西交歓しきりなるものがある。千春・信徳と三吟歌仙を巻く。
この年または次年、正式の俳諧宗匠立机披露のための俳諧万句興行。万句というのは百句で完了する連句(百韻という)を百巻作ることで連歌や俳諧におけるもっとも大きなイベントである。万句を興行する基本的な目的は、大願成就を願って神に捧げるためであった。日本橋小田原町の借家に俳諧宗匠の看板を掲げた。
11月中旬 春澄撰「俳諧江戸十歌仙」に歌仙三入集。
塩にしてもいざ言伝てん都鳥 (俳諧江戸十歌仙)
1679年 延宝7年
(己未) 正月 36歳 万句興行に成功して芭蕉は得意の絶頂にあって次の発句を詠む
発句なり松尾桃青宿の春
日本橋北側の室一仲通商店街の一角に、佃煮の老舗鮒佐がありその店頭にこの句碑が立っている。碑面の文字は下里知足の筆である。
未達撰「俳諧関相撲」(天和2年刊)に、三都十八人宗匠の中の一人に挙げられる。
3月 千春撰「仮舞台」に「松尾宗房入道、始伊賀住」と見え、すでに剃髪していた。「忘れ草」歌仙入集。
「俳家奇人談巻の中」によると「寛文の末つ方東武に下り、礫川水道修成傭夫となって、功を終わるの比、薙髪して風羅坊といふ」とある。 高政の「俳諧中庸姿」を巡り上方俳壇に新旧入り乱れての論戦が起こり、翌年に続く。
伊賀士豪の後裔で上野の民間学者として知られる菊岡如幻の『伊乱記』に信長に反抗し勇戦した伊賀侍の中に松尾氏の名も見える。
春 盟友素堂が官を辞して江戸上野不忍池畔に隠栖。素堂の漢学の素養は、天和・貞享期の芭蕉に多大な影響を与えた。
4月 調和撰「富士石」所収等躬の春季の句の前書に「桃青万句に」と見え、すでに万句を興行して宗匠となっていたことが確認される。また、桃青の批点を収める「俳諧関相撲」(天和2刊)に三年前に諸家の批点を得た由が見え、このころ点者としての名が三吟都に知られていた。
5月上旬 池西言水撰「俳諧江戸蛇之鮓」に発句三句入集
忘れ草菜飯に摘まん年の暮れ(俳諧江戸蛇之鮓)
8月25日 桑折宗臣撰「詞林金玉集」に寛文年中の桃青の発句11句再録される。
9月 神田蝶々子撰「俳諧玉手箱」に発句1句入集
待つ花や籐三郎が吉野山 (俳諧玉手箱 )
秋 似春、四友両名の上方旅行に際し、四友亭で送留別三吟百韻二巻興行。
11月 伊勢山田の杉村西治撰「二葉集」に付句四入集
12月下旬 松葉軒才麿撰「俳諧坂東太郎」に発句四句入集
盃や山路の菊と是を干す (俳諧坂東太郎)
大坂の情報本[難波雀]に芭蕉と同時代に俳諧師として活躍した惟中は俳諧点者として掲載されている。「俳諧猿黐(とりもち)」によれば惟中は「大学」や「古文真宝」などの漢籍の講義もしていたようである。
随流著「俳諧破邪顕正」
1680年 延宝8年
(庚申) 4月 37歳 桃青一派の存在を誇示した「桃青門弟独吟廿歌仙」が榑正町の本屋太兵衛から刊行される。刊。歌仙は三十六句で完了する連句。杉風巻頭を飾る。杉風は元禄7年の「別座敷」まで師の変風によく追随した。「桃青の園には一流ふかし」と見え、杉風・卜尺(ぼくしゃく)・巌泉・一山・緑系子・仙松・卜宅・白豚・杉化・木鶏・嵐蘭・揚水之・治助(嵐雪)・螺舎(其角)・巌翁・嵐窓・嵐竹、岡松・吟桃・館子・北餛ら21名のの門人の独吟を揃え、新興蕉門の存在と一門団結の意気を世に問い、俳壇的地歩確立のさまが窺われる。上巻は杉風・卜尺・卜宅を含めて10人下巻は其角・嵐雪追加1名を含め11人。 5月、家綱没、40歳
5月7日西鶴独吟四千句興行
6月維舟(松江重頼)没79歳(江戸前期の俳人)
千利休の孫千宗旦の四天王の一人山田宗偏による『茶道便蒙抄』刊
6月11日 町町への触れ状に、明後13日神田上水道水上総払い之あり候間、相対致し候町町は、桃青方へ急度申し渡すべく候云々」(喜多村信節「筠庭雑録」所収「役所日記」)とある。
6月 其角・杉風編「俳諧合」
7月 知足催「大柿鳴海桑名名古屋四ッ替り」百韻巻に加点。「栩栩斉主桃青」と署し「松尾桃青」「素宣」の印を使用。 7月、綱吉五代将軍宣下
8月後水尾法皇崩、85歳
東海道諸国凶作。
8月 其角の二十五番自句合せ「田舎句合」(田舎・常盤屋)の判詞を書く。跋に「栩栩斉主桃青」と署名。序文は嵐雪。「荘子」への傾倒が著しい。桃青の判詞について、嵐雪は盛んに称揚している。「判詞、荘周が腹中を呑んで、希逸が弁も口にふたす。」これは談林俳諧(軽妙な口語使用と滑稽な着想による低俗な誹風)からの脱却を意識したものである。
9月 杉風の二十五番自句合「常磐屋句合」に判詞を与え跋に「華桃園」と署す。跋文に「常盤屋といふは、時を祝し代をほめての名なるべし」(常盤(常に変わらない松にちなんで)松平(徳川)氏の治世をたたえる意味からの命名)と述べている。「俳諧合」と題して刊行。
青わさび蟹がつま木の斧の音 杉風
橙を密柑と金柑の笑って曰く 杉風
油の花は香故に花と社いへれ花 杉風
この二冊を姉妹編として刊行。蕉門の意気あがる。
第七
独活の千年能なし山の杣木哉
の句に対して、桃青の判詞は
「うどの大木又愛すべし」とあり、荘子の思想を是認している。
10月22日 甥没す。戒名「冬室宗幻」桃印の弟の可能性あり
冬 前年春盟友素堂が官を辞して江戸上野不忍池畔に隠棲したことが誘い水となり、江戸市中小田原町の木尺の借家より郊外隅田川のほとりの江東深川村の草庵(後の芭蕉庵)に隠栖し、俳壇の俗流と絶縁する。深川の芭蕉庵も杉風の所有する生州の傍らにあったその別荘を提供したもので杉風は終生芭蕉の援助に努めた蕉門最古参の人である。当初杜甫の詩より庵号を「泊船堂」と号す。当時の深川は未開発で大変不便な場所であった。
(柴の戸)
柴の戸に茶を木の葉掻く嵐かな (続深川集)
消炭に薪割る音か小野の奥 (続深川集)
芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて消失してしまった。
不卜撰「俳諧向之岡」(下、散逸)に発句九句入集。
五月の雨岩檜葉の緑いつまでぞ (俳諧向之岡)
「東日記」
いづく霽傘を手にさげて歸る儈(俳諧東日記)(真蹟短冊)
高野幽山が「誹枕」を出版。風虎・露沾・梅翁・任口・維舟・玖也・言水・春澄が集まる。芭蕉・其角の名前はない。
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