https://tabi.page/ikoi98/tahara/taharakaidou.html 【田原街道】 より
保美(渥美)
坂を下って宇津江町の南端を直線的に通り抜けると江比間町に入る。旧道は引き続き国道の南側を並走する気持ちよい山道である。西に進んで今掘川の手前で国道に合流して泉橋を渡る。
橋を渡って右手に残る弓なりの旧道に入る。すぐに国道を斜めにわたって南側に移ったところで左にでている成道寺参道入口に享和3年(1803)建立の常夜燈が立つ。
そのさきの十字路を右折して江比間集落の中心街を通り抜ける。普通は側にある溝が、ここでは道の中央にが設けられている。下水道か。越後の三国街道でみかけた消雪パイプ溝のようでめずらしい。
途中の丁字路に高札場跡がある。遺構の足元に泉村道路元標があった。道はそこでこころもち曲尺手の気分で進んでいく。県道419号にぶつかって左折、すぐに右におれて左折する。おそらくかっては県道419号に突き当たったところからこの地点まで一本の道がつながっていたのだろうと思う。
以後は道なりに江比間町二字郷中と江比間町三字郷中の境を西に進んでいく。紺屋川をわたると女郎川という地区にはいる。花街でもあったのか、橋向こうは風情あるたたずまいである。
なお、国道が紺屋川をわたる橋名が「酔馬橋」とある。馬が酔ったのか、馬に酔ったのか、あるいは馬上の人が酔っていたのか、気になる名だ。芭蕉は伊良湖への道で「雪や砂馬より落ちよ酒の酔」と詠んでいる。これを意識した名かもしれない。
新堀川を渡って泉中学の西端で女郎川をわたると伊川津町に入る。すぐの二股を右にとって伊川津交差点で国道を横切り伊川津の町中を南西に向って通り抜ける。
旧道は伊川津町集落をぬけ大川をわたった先の二股を左折して国道に合流する。1.5kmほど行った高木東交差点で左におれていく国道と分かれ、そのまま直進し高木集落を通り抜ける。浜沿いの漁村の香りがただよう街道をすすみ清田小学校の先で二股を直進する細い道に入る。永井畳店前の二股を左にとり曲尺手状に曲がった後二股を右にとって坂を下ると県道420号に出る。
途中に常夜燈のある風景を何度かみた。人が通った跡を感じ取れてなつかしい気分になる。犬のマーキングをたどっているようだ。
県道を左折していくのが旧道筋である。県道をよこぎって免々田川(めめだがわ)堤防に上がってみた。右手、水門の向こうは福江港である。かっては伊勢、尾張、三河の各地をむすぶ海上輸送の拠点として賑わった。県道を左におれると古田から福江町に入る。かっての畠村で旧渥美町の中心地である。
福江橋の一つ手前の十字路右手に安政3年(1856)の常夜燈が建っている。民家に挟まれた凹み地に身を隠すようにあって、その前で気付かなければそれまでというあやうさである。かっては建物もない見晴らしよい場所で灯台の役目をしていたものであろう。
同じ十字路を左にすすむ道は城坂と呼ばれ、坂を上がったところに大垣新田藩の畠村陣屋があった。跡地はなにもない広い空き地であった。城坂界隈には料亭、旅館など風情ある一角をなしている。遊郭らしき家屋も見られたがかっての賑わいはその断片さえない。
旧道は福江橋をわたりそのまま西へ向うのだが、左手にある潮音寺をたずねるために一筋南に移動する。潮音寺本堂の左手脇に芭蕉の愛弟子杜国の墓と三吟の句碑がある。
麦生えて 能隠れ家や 畑村 芭蕉
冬をさかりに 椿咲く也 越人
昼の空 蚤かむ 犬の寝かへりて 杜国
畠村は俳諧の盛んなところで、毎年4月10日に潮音寺で杜国祭が行われる。杜国は本名を坪井庄兵衛といい、名古屋御薗町の富裕な米穀商であったが、空米売買の罪に問われ畠村に流刑となった。元禄3年2月20日、34歳の若さで死去、潮音寺に葬られた。
芭蕉は俳文「保美の里」を残している。
此里をほびといふ事ハ、むかし院のみかどのほめさせ玉ふ地なるによりて、ほう美といふよし、里人のかたり侍るを、いづれのふみに書きとヾめたるともしらず侍れども、かしこく覚え侍るまゝに、
梅つばき早咲ほめむ保美の里
いらござきほどちかければ、見にゆき侍りて、
いらご崎にる物もなし鷹の声
潮音寺裏の旧街道にもどる。街道筋の雰囲気をのこす家並みが見られる。旧道は水戸橋をわたった先の十字路を左折、右にカーブして県道421号を横切り一直線に南西に向って西原交差点で国道259号に合流する。
ここで国道を逆戻りして杜国の保美での隠棲屋敷跡を尋ねる。保美交差点のひとつ東側の小さな十字路に「杜国屋敷跡」の標識がある。南に細道をたどっていくとまもなく道の左手に杜国公園が整備されていて「杜国屋敷址」の標柱が建ち、「春ながら名古屋にも似ぬ空の色」の句碑がある。
芭蕉は杜国を夢に見て泣くというほど杜国を愛していたという。
国道にもどり天白川に架かる大辻橋をわたって保美町から亀山町に入る。橋の西詰で国道をはなれ、北側に出る。最初の道を左折して亀山集落にはいっていく。旧道の南側は札の辻という地名だ。二つ目の三叉路を左折すると二股に出る。札の辻・起・本畑の3地区が接する地点で、ここに高札場があった。
旧街道はこの二股を右にとって亀山小学校前を通過して国道梅藪信号交差点の手前で国道に合流する。途中、長屋門や常夜燈など亀山町を貫く旧道にも趣を残した風景を見ることができた。
いよいよ渥美半島西端の町伊良湖に入る。
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伊良湖
保美村より伊良古崎へ壱里計も有べし。三河の國の地つヾきにて、伊勢とは海へだてたる所なれども、いかなる故にか、万葉集には伊勢の名所の内に撰入れられたり。此洲崎にて碁石を拾ふ。世にいらご白といふとかや。骨山と云は鷹を打處なり。南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。いらご鷹など歌にもよめりけりとおもへば、猶あはれなる折ふし
鷹一つ見付てうれしいらご崎
国道が左にカーブするところ、水路の手前で左に初立ダムに通じる道路が出ている。ダムの堰堤下に国史跡伊良湖東大寺瓦窯跡がある。巨大な足跡を川原石で囲んだような史跡だ。平安から鎌倉時代にかけて盛んに生産された渥美古窯の一つで、「東大寺大佛殿瓦」と刻印された軒丸瓦や軒平瓦が出土された。建久6年(1195)東大寺大仏再建の際に焼かれたものである。西行が二見ヶ浦から海を渡り伊良湖に上陸し、表浜街道からはるばる奥州まで、砂金勧進の旅に出た頃のことである。伊良湖は東国と伊勢、大和を結ぶ交通の要衝であった。
瓦窯跡の反対側を振り向くと遠くにあたかも古墳のような小山がなだらかな稜線を描いている。山頂に一つ、右側の山裾に一つ、かすんで小さく見える建物はレジャーホテルである。風力発電機が田圃の中に一本、のどかな風景である。田原街道の旅も終点に近づいてきた。
国道が右に曲がるところの伊良湖神社北信号交差点を左に入って道なりに細道をたどっていくと林の中に鎮座する伊良湖神社にたどり着く。創建は嘉祥元年(848)と伝わる古社で、野田の阿志神社と共に渥美を代表する神社である。東海道二川宿の追分道標が記していた「伊良胡阿志両神社道」はこの両社をいう。
伊良湖シーサイドゴルフ場駐車場近くの国道沿いに芭蕉の句碑公園がある。昭和58年渥美町によって建立された句碑に、笈の小文の一句が刻まれている。その碑の撮影に心を奪われていて、同所にもう一つの句碑があることを忘れていた。高い岩の上に立つ方形石柱の碑で、こちらは寛政5年(1793)とう古い句碑である。当地の俳人が芭蕉来訪100年を記念して建立したといわれる。
鷹一つ見付てうれしいらご崎
貞亨4年(1687)旧暦11月12日、芭蕉は杜国、越人と連れ立って伊良湖岬に遊んだ。伊良湖を渡る鷹に杜国をかけて芭蕉は愛弟子との出会いの喜びを句にした。
二人は伊良湖でわかれるがこの時越人の目を盗んで密かに後日の密会を約していたのである。翌春杜国は密かに船で鳥羽に渡り上野に帰郷していた芭蕉を訪ねた。春、二人は吉野山の桜見を第一歩として大阪、須磨、明石、京都、近江と禁断の旅に出た。
弥生半ば過ぐる程、そゞろに浮き立つ心の花の、我を導く枝折となりて、吉野の花に思ひ立たんとするに、かの伊良古崎にて契り置きし人の伊勢にて出迎ひ、共に旅寝のあはれをも見、かつは我が為に童子となりて、道の便りにもならんと、自ら万菊丸と名をいふ。まことに童らしき名のさまいと興有り。いでや門出のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書す。
乾坤無住同行二人
よし野にて桜見せうぞ檜(ひ)の木笠
よし野にて我も見せうぞ檜の木笠 万菊丸
その赤裸々な心の昂ぶりを見よ。万菊丸とは芭蕉が杜国につけた童名である。「菊」は衆道(男色)を象徴する。なんと即物的な隠語ではないか。芭蕉はあからさまであった。
田原街道(国道259号)は右手に大きなリゾートホテルをみながら伊良湖港入口交差点で渥美半島の太平洋側を走ってきた表浜街道(国道42号)と合流する。右におれると道の駅クリスタルポルトに着いて道が尽きる。田原街道の終点である。ここから船で鳥羽へ55分、知多半島師崎港まで30分、そして神島まで15分。
鎌倉時代、西行は鳥羽から伊勢湾を渡りここで船を降りて陸路、表浜街道-東海道-奥州街道とはるかな東大寺再建勧進の旅に出た。神島乗船場近くに西行の歌碑がある。
浪もなしいらごが崎にこぎ出でて われからつけるわかめかれあま
江戸時代、杜国はここから船に乗り、密かに芭蕉の後を追った。鷹はここから空路南国や大陸めざして飛び立っていく。
街道歩きはここで終わる。 ここからは結婚40周年記念観光旅行である。ようやく妻が眠りから覚めだした。
まずは伊良湖ガーデンホテルリゾートスパにもどってバイキング昼食。レストラン支配人に鷹の渡りのことを聞いた。見られるのは9月下旬から10月上旬まで。しかも飛び立っていくのは日の出直後のしばらくの時間だけ。渡らなかった鳥は夕方になると宮山原始林に戻っていくそうだ。10月下旬近くのまっ昼間に来ても何もみられないと。来年是非ここに泊るように薦められた。
ホテルの前庭に柳田国男の逗留記念碑があった。明治31年(1898)の夏、東京帝大の学生だった柳田國男は、渥美半島出身の画家の紹介で伊良湖網元の離れ座敷を借りて1カ月余り逗留した。網元の家はこのホテルの敷地内にあった。昔の学生は2泊3日とか3泊4日といったみみっちい旅をしない。夏休み全部を使い切るスケールがある。伊豆の踊り子に出合った学生もそうだった。
彼が歩いたという恋路ヶ浜へ降りる。モニュメントがあって、恋路ヶ浜は「日本の白砂青松100選」「日本の道100選」「日本の音風景100選」「日本の渚100選」に選ばれていることを誇っている。
灯台から日出の石門までの約1kmの砂浜を「恋路ヶ浜」となづけた。観光誘致策として付けられたものではなく、古い時代の高貴な男女が恋ゆえに都からこの半島に駆け落ちしてきたという伝説に由来するものである。必ずしも恋が実るという前向きの話ではない。それでもここは「恋人の聖地」になった。
傾き始めた西日の影にかがやく浜辺は恋心をくすぐる情景ではある。沖に浮かぶ神島のシルエットも叙情歌的である。
太陽の方向に歩いていくと白亜の伊良湖岬灯台に至る。昭和4年の建設で高さは15m。「日本の灯台50選」の一つである。
灯台と神島の間に船のシルエットが入るタイミングを待ってしばらく休んだ。妻も画題を求めてデジカメ操作に忙しそうだった。
灯台の背後に山道がついていて上り詰めると遊歩道にでる。すこし左にいった山側斜面に万葉歌碑がある。伊良湖は杜国の流されたはるか以前、天武朝の時代に皇族麻続王(おみのおおきみ)が流された地でもある。
うつそみの命を惜しみ浪にぬれ伊良虞の島の玉藻刈り食す
(この世の命が惜しさに私は波にぬれてこの伊良湖の島の海藻を刈って食べているのです)
貴人にしてはなんともいじましい惨めな姿ではある。
遊歩道を東にもどる。一段高いところから見下ろす恋路ヶ浜も美しい。
柳田は恋路ヶ浜を散策中、偶然どこからか流れ着いた椰子の実を拾った。帰京後この話を親友の島崎藤村に語ったところ、藤村から「君、その話を僕に呉れ給へよ、誰にも云はずに呉れ給へ」と頼まれ柳田は承諾した。2年後藤村は「椰子の実」を発表した。昭和に入ってその詩に曲がつけられ国民歌謡として全国に放送された。
国道42号から日出の石門に下りる遊歩道の途中に椰子の実記念碑がある。記念碑は新旧二つあって、古い碑のそばに聳える椰子の木は昭和54年、北マリアナ諸島より放流した椰子の実が漂着した記念として植樹されたものだという。それに触発されたのか、昭和63年から沖縄県石垣島から椰子の実の投流実験が始まった。14年目の2001年8月、初めて渥美半島の浜辺に石垣島の椰子の実が漂着した。以来椰子の実放流は石垣島の年中行事となっているらしい。
名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ 故郷の岸を 離れて 汝はそも 波に幾月
旧の木は 生いや茂れる 枝はなお 影をやなせる われもまた 渚を枕 孤身の 浮寝の旅ぞ
実をとりて 胸にあつれば 新なり 流離の憂 海の日の 沈むを見れば 激り落つ 異郷の涙
思いやる 八重の汐々 いずれの日にか 国に帰らん
新しい碑には音符が付いている。
そこからながめる神島の風景もロマンティックだった。多分妻は絵のことしか考えていない。
海に突き出している岩に登ると眼下の海中に日出の石門が波を受けていた。岩は思ったほど大きくなく、その上角度が十分でなくて洞窟がよくみえなかった。日の出の時間、岩の影絵と共に、穴から漏れる朝日が美しいのだという。
左の方角にはこちらも恋路ヶ浜に劣らない美しい日出町浜が延びている。この砂浜を擁する海岸線は延々浜名湖まで50kmにわたり、片浜十三里と呼ばれている。西行が通った表浜街道筋である。
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神島
神島は伊良湖岬の西方約3.5kmの伊勢湾口に位置し、周囲約4kmの山である。昔は鳥羽藩の流刑地で志摩八丈とも呼ばれた。神島はまた、歌島(かじま)、亀島、甕島などと呼ばれた。歴史は古く、八代神社の神宝は古墳時代に遡るという。
三島由紀夫はこの島を舞台に『潮騒』を著した。小説では「歌島(うたじま)」としている。その後小説は5回も映画化され、島で撮影が行われている。同世代の映画は吉永小百合主演の第二作(昭和39年)、すこしおくれて山口百恵が初江を演じた。島内の主要ロケ地には「潮騒」案内板があって、挿入されているスチール写真は吉永小百合のものである。
神島は恋路ヶ浜とともに「恋人の聖地」に選ばれている。ただしこの聖地選定主体はブライダル業のコマーシャリズムと強く結びついたものであって個人的には評価していない。
伊良湖港から「かみしま」に乗船し15分で神島港に着く。しばらくは波静かな水道もしだいにうねり始め小さなボートの全体を大きく揺すぶる。気持ちの悪いものだ。満員の船内に観光客らしい者は数人で、他はすべて釣道具一式をかかえた重装備の釣客である。川辺でひねもす糸をたれる太公望のイメージからはほど遠い闊達な人たちであった。
湊に到着する。山の斜面にへばり付くように家が立ち並んでいる。上陸すると早速大きな「潮騒」案内板があった。郵便局前の細い路地を入る。竜飛岬の袋小路のような道である。突き当りを左におれた辻に時計台跡がありレトロな時計が今も時刻を刻んでいる。10時18分。伊良湖を10時に発って着いたところだ。帰りの船は11時と14時、16時半。島を一周するには2時間はかかる。昼食でもすれば4時間コースが手ごろであろう。
時計台から坂道がはじまりまもなく洗濯場に来る。案内板には島の女性達が世間話に興じる様子が記されている。そのすぐ上、左手の家が時の組合長だった寺田氏宅で、そこに三島由紀夫が逗留した。
階段を上がりきったところから左におれると八代神社参道の長い石階段に出る。途中の見返り風景がよいことは三島も推薦しているところである。港から斜面に這い上がる町並みが一望できる。
石垣を右に回りこんで社殿に至る。神社にはめずらしいクリーム色のモダンな社殿である。案内板には若い二人がそれぞれの愛を祈っている写真が添えてある。
神社の裏手から本格的な登山道にはいる。島の西側を見下ろす山腹をめぐるとやがて思ったより背の低い灯台が見えてきた。場所自体が十分な標高を得ているため、それ以上背伸びする必要がなかったのだろう。
ここに「恋人の聖地」のプレートが貼り付けてある。英文での説明書きがあってBridal Mother と称して選定主催者の名が署名されている。いかにもセレブ志向の商業主義が臭ってくる代物だ。下り坂に向う側にはカメラ台が設置されている。三脚を持ってこなかった訪問客のためだろう。そこにカメラを乗せて妻の記念写真を撮った。
下り道は木製の階段である。何段あったか、ずいぶん降りて膝が笑い出しそうになったころ、神島観光のハイライト監的硝にたどりついた。亡霊が現れ出そうなコンクリートの箱である。繁みで窓からの見晴らしはなく、薄暗い空間の中央に方形の窪みがあった。初江がそこで焚き火をして浴衣を乾かすのである。その後、信じられないほど清らかな愛のシーンが展開する。
今の二人もしばらくそこで時間を費やした。脚を休めるためである。
階段下りを再開、まもなく視界が開けて左手にカルスト地形の岩場が現れ絶壁の下に狭い浜がみえてくる。ニワの浜という。ニワとは何か、広辞苑を開けて「波の平らかな漁業を行う海面」とあるのを見つけた。多分これだろう。海中に落ちそうな岩場で釣をする人が二人いた。望遠レンズで撮る。「かみしま」に乗ってやってきた釣り人だろうか。
階段は終わってなだらかな下り道を降りていくと祝が浜に出る。八畳ヶ岩とよばれる巨大な岩が海中に横たわっている。進むと二つに割れていることがわかる。
その先の砂浜は古里(ごり)の浜で、海女達が胸を露わにして乳房を競い合った。その時吉永小百合はどうしていたか。
海に迫る岩には皺のような地層がくっきりと残っていて、海底からの隆起を想起させる。
道はその先二手に分かれ、右に折れて山中にはいっていく。湊への近道のようだ。途中に鏡石とよばれる岩がある。さざれ石が岩となった体だが、昔、島の女性がこれに油を塗って鏡にしたと伝わっている。古里の浜に帰ってくる夫を迎えるため、ここで髪を整え化粧をして浜まで降りていった。万葉の情景を髣髴とさせる話である。
神島中学校跡地を通り過ぎて集落にもどる。まだ帰りの船まで1時間を残していた。近くの民宿で昼食をとる。小雨が降り出してきた。記念旅行の目的は果たせたように思う。
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