芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる

https://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2013/12/post-cab0.html  【芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる (分量膨大に附き、ご覚悟あれかし)】 より

本日2013年12月12日~16日

陰暦2013年11月10日~14日

この芭蕉が杜国を訪ねた旅陰暦 貞享4年11月10日~14日は、グレゴリオ暦で1687年12月14日~18日に相当し、現在時間とは若干二日ほどの誤差がある。   

 三川の國保美(ほび)といふ處に、杜國(とこく)が忍びてありけるをとぶらはむと、まづ越人(ゑつじん)に消息(せうそく)して、鳴海(なるみ)より後(あと)ざまに二十五里たづねかへりて、その夜、吉田に泊る。

寒けれど二人寢る夜ぞ賴もしき

 天津繩手(あまつなはて)、田の中に細道ありて、海より吹き上ぐる風いと寒き所なり。

冬の日や馬上(ばしやう)に凍る影法師(かげぼふし)

 保美村より伊良古崎(いらござき)へ一里ばかりもあるべし。三河の國の地續きにて、伊勢とは海へだてたる所なれども、いかなる故にか、『萬葉集』には伊勢の名所の内に撰(えら)び入れられたり。この州崎にて碁石(ごいし)を拾ふ。世に伊良湖白(いらごじろ)といふとかや。骨山(ほねやま)といふは鷹を打つ處なり。南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。伊良湖鷹(いらごだか)など歌にも詠(よ)めりけりと思へば、なほあはれなる折ふし。

鷹一つ見付てうれし伊良湖崎

(以上は「笈の小文」本文より。底本は「新潮古典集成」の富山奏校注「芭蕉文集」を恣意的に正字化して示した。なお底本では句の位置は二字下げである)

   *

寒けれど二人寢る夜ぞ賴(たの)もしき (「笈の小文」本文)

  越人と吉田の驛にて

寒けれど二人旅ねぞたのもしき (「曠野」)

寒けれど二人旅ねはたのもしき (「笈日記」)

   *

  旅宿

ごを燒(たい)て手拭(てぬぐひ)あぶる寒さ哉 (「笈日記」)

ごを燒て手拭あぶる氷かな (「如行集」)

   *

冬の日や馬上に凍る影法師 (「笈の小文」本文)

  あまつ繩手を過(すぐる)とて

冬の日の馬上にすくむ影法師 (「如行集」)

  あま津なはて

さむき田や馬上にすくむ影法師 (伊良古崎紀行真蹟)

  訪二杜國一紀行

すくみ行(ゆく)や馬上に氷る影法師(「笈日記」)

   *

  伊良古(いらご)に行(ゆく)道、

  越人醉(よひ)て馬に乘る

ゆきや砂むまより落(おち)よ酒の醉(ゑひ) (伊良古崎紀行真蹟)

   *

鷹一つ見付(つけ)てうれしいらご崎 (「笈の小文」本文)

   *

  いらござきほどちかければ、

  見にゆき侍(はべ)りて

いらご崎にる物もなし鷹の聲 (眞蹟詠草)

   *

  杜國が不幸を伊良古崎(いらござき)

  にたづねて、鷹のこゑを折ふし聞(き

  き)て

夢よりも現(うつつ)の鷹ぞ賴母(たのも)しき (越人編「鵲尾冠(しゃくびかん)」)

   *

  人のいほりをたづねて

さればこそあれたきまゝの霜の宿 (「曠野」)

  逢二杜國一

さればこそ逢ひたきまゝの霜の宿 (「笈日記」)

   *

  畠邑 杜國が閑居を尋て

麥はえてよき隱家(かくれが)や畠村(はたけむら) (「笈日記」)

麥蒔(まき)て隱れ家や畠むら (「如行集」)

   *

  此里(このさと)をほびといふ事

  は、むかし院のみかどのほめめさ

  せ玉ふ地なるによりてほう美とい

  ふよし、里人のかたり侍るを、い

  づれの文に書きとゞめたるともし

  らず侍れども、いともかしこく覺

  え侍るまゝに

梅つばき早咲(はやざき)ほめむ保美の里 (眞蹟詠草)

   *

  しばらくかくれゐける人に申遣(まうしつかは)す

先(まづ)祝へ梅を心の冬籠り (「曠野」)

[やぶちゃん注:貞享四(一六八七)年、芭蕉四十四歳。同年十一月十日から十三日の作。芭蕉が越人を伴って杜国の謫居を伊良湖崎直近の畠村(畑村とも書く。現在の愛知県渥美郡田原市福江町内)に訪ねた際の一連の句群である。

   ★

坪井杜国(?~元禄三(一六九〇)年)は、本名を坪井庄兵衛といい、名古屋蕉門の有力者で、御園町の町代を勤めた富裕な米穀商(屋号壺屋)であったが、米延商空米売買(こめのべあきないからまいばいばい:「くうまい」とも読む。実際には現物の米を確保していないにも拘わらず、店蔵には米があるかのように偽って米を売買するところの、現在でいう先物取引のこと。当時は御法度の死罪相当の重罪であった。但し、ウィキの「帳合取引」によれば、この四十五年後の享保一五(一七三〇)年には大坂の堂島米会所に限って認められ、以後は大坂以外の米が集積される諸都市でも幕府の規制にも拘わらず空米取引が実施されていたとあり、実際には杜国の生きた頃も陰では頻繁に行われていたように思われる)の罪に問われて、この二年前、貞亨二(一六八五)年八月十九日附で、家財没収の上、処払い(尾張藩領内からの追放)の身となり、南彦左衛門と改名した上、ここ畠村(当時の渥美半島の殆んどは田原藩であったが、彼の居たこの畠村は大垣新田藩藩庁が置かれた主藩である大垣藩の飛地的存在であった)に流刑となり、以後晩年まで三河の国保美(ほび:先の畠村の直近で後に合併して福江村となっていることや詞書の故実などから見て、「保美」は「畠村」を含むこの一帯の古称であったものと考えてよい。)に謫居した。一部参考にさせて戴いた伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「坪井杜国」には、尤も、『監視もない流刑の身のこと、南彦左衛門、俳号野人または野仁と称して芭蕉とともに『笈の小文』の旅を続けたりもしていた』とあり、さらに『一説によると、杜国は死罪になったが、この前に「蓬莱や御国のかざり桧木山」という尾張藩を讃仰する句を作ったことを、第二代尾張藩主徳川光友が記憶していて、罪一等減じて領国追放になったという』ともある。また、これはかなり知られたことであるが、杜国は、まさにこの時の同道の越人と並んで、伊藤氏も挙げておられるように、『芭蕉が特に目を掛けた門人の一人』であって、さらに彼等の師弟関係には衆道の匂いが相当に濃厚なである(不審な方は次に掲げる「嵯峨日記」を読まれたい。なお、日本の近代以降のアカデミズムが衆道をどこかで異常性愛として意図的に避けて否定しようとする傾向は、南方熊楠が痛烈に批判したように、歴史的な本邦の性愛史を正しく見ようとしない非学問的立場であると断ずるものである)。享年三十余歳とされる(一部参考にさせて戴いた伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「坪井杜国」では三十四歳とする。すると生年は明暦三(一六五七)年となる)。現在、福江町にある隣江山潮音寺に墓がある。因みに杜国の逝去の翌年に書かれた「嵯峨日記」の元禄四(一六九一)年四月二十八日の条には以下のようにある(底本は富山奏校注「芭蕉文集」で恣意的に正字化した)。

廿八日

 夢に杜國(とこく)が事をいひ出だして、涕泣(ていきふ)して覺(さ)む。

 心神(しんしん)相交(まじは)る時は夢をなす。陰(いん)盡きて火を夢見、陽(やう)衰へて水を夢見る。飛鳥(ひてう)髮をふくむ時は飛べるを夢見、帶を敷き寢にする時は蛇(へび)を夢見るといへり。『枕中記(ちんちゆうき)』・槐安國(くわいあんこく)・莊周(さうしう)が夢蝶(むてふ)、皆そのことわり有りて妙を盡さず。わが夢は聖人君子の夢にあらず。終日妄想(まうざう)散亂の氣、夜陰の夢またしかり。誠にこの者を夢見ること、いはゆる念夢なり。我に志深く、伊陽の舊里(ふるさと)まで慕ひ來りて、夜は床を同じう起き臥し、行脚(あんぎや)の勞を共に助けて、百日がほど影のごとくに伴ふ。ある時はたはぶれ、ある時は悲しび、その志わが心裏にしみて、忘るることなければなるべし。覺めてまた袂(たもと)をしぼる。

「嵯峨日記」の夢理論は概ね「烈子」の記載に基づく(注が膨大になるので注を略す)。「妙を盡さず」は奇妙なことではない、の謂い。「念夢」とは常に深く心に執着して思念しているために見る夢。「我に志深く……」以下の部分は、「笈の小文」の後半の旅を指す。この伊良湖崎訪問の翌貞享五(一六八八)年の三月、今度は杜国が伊勢に渡って芭蕉と落ち合い(これはこの伊良湖崎訪問の際に約束されていたものと考えられる。なお既にその頃、伊良湖崎から伊勢に向かう海路の定期便があり、杜国は通過出来ない尾張領内を廻らずとも伊勢へ行けた)、同十九日には、芭蕉は杜国に「万菊丸」という稚児名を与えて吉野の花を愛でに同行した。その時の「笈の小文」の唱和吟を示す。

  乾坤無住同行二人

吉野にて櫻見せうぞ檜笠

吉野にてわれも見せうぞ檜笠   万菊丸

この後も須磨・明石各地をともに吟行、杜国はこの五月に伊良湖に戻った(この部分の注は杜国の菩提寺「潮音寺」公式サイトの「杜国墓碑と三吟句碑」を一部参考にさせて戴いた)。……「終日妄想散亂の氣、夜陰の夢またしかり。誠にこの」杜国「を夢見ること、いはゆる念夢な」ればこそ……亡き杜国とは「ある時はたはぶれ、ある時は悲しび、その志わが心裏にしみて、忘るることなければなるべし。覺めてまた袂をしぼる」……これはもう、並大抵の愛し方では、ない……

 最後に杜国の代表句を示しておく。岩波文庫堀切実編注「蕉門名歌選」の坪井杜国を参考にしたが表記は必ずしもそれに従っていない。

  つゑをひく事僅(わづか)に十歩

つゝみかねて月とり落す霽(しぐれ)かな (「冬の日」)

うれしさは葉がくれ梅の一つ哉 (「春の日」)

馬はぬれ牛は夕日の村しぐれ (「春の日」)

この比(ごろ)の氷ふみわる名殘(なごり)かな (「春の日」)

  舊里の人に云ひつかはす

こがらしの落葉にやぶる小ゆび哉 (「曠野」)

  翁に供(ぐせ)られてすまあかしに

  わたりて

似合(にあは)しきけしの一重や須广(すま)の里 (会木編「藁人形」)

  戴叔倫(たいしゆくりん)が沅湘(げんさう)東流ル

  の句を身のうへに吟じて

行(ゆく)秋も伊良古(いらご)をさらぬ鷗哉 (「鵲尾冠」)

  舊里を立去(たちさり)て伊良古に住

  侍(すみはべり)しころ

春ながら名古屋にも似ぬ空の色

岩波文庫堀切実編注の「蕉門名歌選」の注によれば、「この比の」の句は、貞享元(一六八四)年十二月末、「野ざらし紀行」の途次、暫く名古屋に滞在していた芭蕉が熱田へ向かって旅立つのを見送った際の吟詠である。「こがらしの」以下は伊良湖崎謫居後の句。「戴叔倫が沅湘東流ル」は「三体詩」に載る、盛唐の詩人戴叔倫の、

  湘南即事

 盧橘花開楓葉衰

 出門何處望京師

 沅湘日夜東流去

 不爲愁人住少時

    湘南即事

   盧橘 花開きて 楓葉衰ふ

   門を出でて 何れの處にか京師(けいし)を望まん

   沅湘(げんさう) 日夜(にちや) 東(ひんがし)に流れ去り

   愁人の爲に住(とど)まること少時(しばら)くも爲(せ)ず

である。この詩は「徒然草」の第二十一段でも、『万(よろづ)のことは、月見るにこそなぐさむものなれ。或(ある)人の、「月ばかり面白きものはあらじ。」と言ひしに、また一人、「露こそなほあはれなれ」とあらそひしこそをかしけれ。折にふれば、何かはあはれならざらん。月花はさらなり、風のみこそ、人に心はつくめれ。岩にくだけて淸く流るる水のけしきこそ、時をも分かずめでたけれ。「沅湘日夜(ひるよる)、東に流れ去る。愁人のためにとどまること、しばらくもせず。」といへる詩を見侍りしこそ、あはれなりしか。嵆康も、「山澤(さんたく)に遊びて魚鳥を見れば、心樂しむ。」と言へり。人遠く、水・草淸き所にさまよひ歩(あり)きたるばかり、心慰むことはあらじ』と引用する著名な詩である。

   ★

越智越人(おちえつじん 明暦二(一六五六)年/明暦元年とも~享保末(一七三六)頃)は北越(越後か)生まれで名古屋で紺屋を営んでいた。蕉門十哲の一人。通称重蔵・十蔵。その編書「鵲尾冠」の中では「私は越路の者に候間、名も越人と申候。壯年に及ぶ比より故郷を出、流浪仕リ、貧乏にて學文など申事不存」と述べているが、漢詩文にはかなり造詣が深かった。「笈の小文」の後、元禄元(一六八八)年八月には芭蕉の「更科紀行」の旅に随行して下向、そのまま二ヶ月ほど芭蕉庵に滞在して、その後に名古屋に帰って俳人として活躍した。だが、元禄六(一六九三)年に出た壺中(こちゅう)編の「弓」を後援した辺りから芭蕉晩年の新風への変化についてゆくことが出来なくなり、次第に芭蕉から離れ、一時期、俳壇から姿を消した。後、芭蕉没後二十一年目の正徳五(一七一五)年頃になって再び俳壇に復帰、「鵲尾冠」「庭竈(にわかまど)集」などを編んでは、支考らと論争をしたりしたが、往年の精彩を欠き、結局、孤独貧窮のうちに八十歳ほどで没したとされる。名にし負う蕉門十哲の中で没年が分からないというのは珍しい(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」及び岩波文庫堀切実編注の「蕉門名歌選」の越人の事蹟記載などを参照した)。この当時、彼は満三十一、二歳である。

 最後に越人の代表句を示しておく。岩波文庫堀切実編注「蕉門名歌選」の越智越人を参考にしたが表記は必ずしもそれに従っていない。

  三月十九日舟泉(しふせん)邸

山吹のあぶなき岨(そば)のくづれ哉 (「春の日」)

  のがれたる人の許へ行くとて

みかへれば白壁いやし夕がすみ (「春の日」)

華にうづもれて夢より直(ぢき)に死なんかな (「春の日」)

  餞別

藤の花たゞうつぶいて別れ哉 (「春の日」)

  貧家の玉祭

玉まつり柱にむかふ夕べかな (「春の日」)

行燈(あんどん)の煤けぞ寒き雪のくれ (「春の日」)

うらやましおもひ切る時猫の戀 (「猿蓑」)

秋のくれ灯やとぼさんと問ひにくる (「類題発句集」)

「玉まつり」の貧窮の己の生活を切り取った句の評釈で堀切氏は、『名古屋流寓時代、富裕な杜国らの援助を受けていたころの体験を詠んだものであろう』(下線やぶちゃん)とある。「笈の小文」のこの芭蕉と杜国の邂逅を読む時、我々はバイ・プレイヤーとしての二人に縁のある(それは秘やかな意味に於いてでもある)越人の役柄と、画面の端でのトリック・スターの演技(特に伊良湖到着までの)を決して見逃してはならないと私は思う。

   ☆

 以下、まずは冒頭に掲げた「笈の小文」の本文パート注釈から入る。なお、「笈の小文」の詳細については個人の「艸芳サイト」の「笈の小文」のページが詳細を極め、本記述でも旅程など、一部参考にさせて戴いた。必見のサイトである。

   ☆

「三河の國保美」前掲の「坪井杜国」の注を参照のこと。なお、「艸芳サイト」の「笈の小文」の「保美(伊良湖)」の頁によれば、この地は『店に奉公していた人の郷里のようだ』とあり、『当時、番頭や手代のせいにして、自分は罪を逃れる例が多かったようだから、罪を一身で負った杜国への感謝もあ』ったに違いないとされておられる。これは最後の句「先祝へ」句に関わる杜国の家僕(後述)とする「權七」なる男の郷里であったと仮定すると、しっくりくる。なお、リンク先では艸芳氏は一般には知られていない杜国の弟とも思われる男の殺人事件と刑死(訪問の直近、貞享四(一六八七)年四月に出来町の「坪井庄八」なる者(もとは杜国の住んでいた名古屋御薗町に住まっていたとする)が、妻と妻の付人を斬殺して下女にも傷を負わせて同年六月に斬首されたというエピソードなどが語られており、頗る興味深い。

「鳴海」東海道五十三次四十番目の鳴海宿。現在の愛知県名古屋市緑区鳴海町内。知多半島の根の部分に位置する。芭蕉は貞亨四年十月二十五日(新暦一六八七年十一月二十九日)に江戸深川を出立、同年十一月四日にこの鳴海宿で造酒屋を営む門人千代倉屋下里知足邸に泊まった(この間の東海道南下延べ日数は十日(同年十月は大の月)で、「艸芳サイト」の「笈の小文」の旅程表①を参考に計算すると、深川からこの日の鳴海宿までの移動距離は凡そ三百四十六キロメートル、難所であった小田原から箱根越えの十六・六キロメートルを最短として一日平均三十四・五八キロメートルのペースを走破している)。この時の鳴海では、

    鳴海に泊りて

  星崎の闇を見よとや啼く千鳥

の知られた佳吟と、江戸初期の堂上派の歌人飛鳥井雅章がこの鳴海宿で詠じた「けふは猶都も遠くなるみがたはるけき海を中にへだてて」という歌に興じての、

  京までは半空(なかぞら)や雪の雲

などをものしている(この二句は「笈の小文」に所収)。但し実は、前者「星崎の」は七日に泊まった鳴海の本陣寺島家分家であった安信の屋敷での句であり(四日~六日は知足邸泊)、後者「京までは」は先立つ五日の鳴海宿本陣の寺島菐言(ぼくげん)亭での七吟歌仙の発句で芭蕉は「笈の小文」ではこの時系列を操作している。これは恐らくここの後、ここまで順調に向かってきた京への踵を返し、杜国を伊良湖に訪ね返さずにはいられないという芭蕉の主情を意識した、則ち、京への直線的なベクトルを一気に反転させる効果を句柄を以って狙ったものであるように私には感じられる)。

その後、四日後の十一月八日、熱田の芭蕉の定宿であった門人林七左衛門桐葉の屋敷へ越人を迎えに行って同行の上、東海道を返して翌貞亨四(一六八七)年十一月九日に再び越人とともに鳴海の知足邸へ戻って再泊した。

「二十五里」約九十八キロメートル。地図上で芭蕉が戻ったと推定される旧東海道街道及び渥美半島の渥美湾(三河湾)西沿岸沿いを計測してみると、現在の名鉄鳴海駅から畠村まで約九十七・七キロメートルあり、これは驚くべき極めて正確な数値である。

「吉田」東海道五十三次三十四番目の吉田宿。現在の愛知県豊橋市中心部。「艸芳サイト」の「笈の小文」の旅程表②によれば、十一月十日当日の鳴海知足邸―吉田宿間の田原街道の移動距離は五十三・六キロメートルとある。

   +

「寒けれど二人寢る夜ぞ賴もしき」直截的な俳言もないストレートな恋句で、師と慕う芭蕉からかく詠ぜられた(と言っても私はこれをあからさまな同衾句なんどとして読んでいるわけではない)しかしやはり同時にこの時の随行した越人(凡そ三十歳)の、かくも詠まれた際の稚児の如きエクスタシーのさまは想像するに難くないのである。が、にも拘わらず、ここには薄い布団にくるまり、寒さを絶えながら、ぼそぼそと夜咄を語る二人の、如何にも夜の清冽にして静謐な心映えが感じられるから不思議ではないか。私はこの句が個人的に非常に好きである。こうした句を捧げられてしまった越人という存在を考えると、後に芭蕉から足が遠のいて、不遇孤独の彼の晩年というは何故か、私には腑に落ちてしまう気がするのだ。この句の存在によって越人は芭蕉にとっても彼自身にとってもプエル・エテルヌス(永遠の少年)たらざるを得なくなったのだと私は思う。永遠の少年は脱皮して丁々発止と句を捻るような大人の風狂人とはなれない/なってはならないのである。

「天津繩手」現在の豊橋市天津町。西南の田原まで縄を張ったように真っ直ぐに伸びる田舎道で景勝地であるが、冬場は三河湾からの身を凍らせる寒風が吹き荒ぶ。伊藤洋氏の「芭蕉DB」の本句の注に、『この地方では、「養子に行くか天津の縄手を裸で飛ぶ」かといわれ、共に辛いことの代名詞として使われたという』とある。

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「冬の日や馬上に凍る影法師」この句と、後に掲げた真蹟の「ゆきや砂むまより落よ酒の醉」を並べた時、その主客の違いよりも(前者は明らかに身を切るような寒風の中の自己の客体化であるのに対して後者は酒好きであった越人の嘱目である)、絶対零度の孤高な己の姿を凍りつかせる自己沈潜を返す手で、酔いに居眠りをしてともすれば落馬しそうな可愛い門弟へのオードに仕立てる、ネガとポジの反転画の妙手に舌を巻く。

 しかももう一つ、この句には仕掛けがある。「冬の日や」である。芭蕉七部集の巻頭、「尾張五歌仙」とも呼ばれる山本荷兮編の「冬の日」は、貞享元(一六八四)年刊で同年十一月の尾張国名古屋で芭蕉・野水・荷兮・重五・杜国・正平による歌仙五巻と追加の表六句から成る。巻の冒頭、プロパガンダ「狂句木枯の身は竹齋に似たるかな」を発句として芭蕉の新風を表わしたこの「冬の日」という語彙の持つイメージは、芭蕉という魂の独立独歩の旅立ちであると同時に、その瞬間に立ち会った愛弟杜国の面影を響かせることを狙っているのだと私は思うのである。

 そしてまた私は、この二句が醸し出すシークエンスの中に、この実体、「形」としての「醉」うた馬上に揺れる愛弟子越人の後ろ姿、己が「影」としての繩手の先に待っている同じく「少」(わか)き遺愛の高弟杜国の面影、そして二人を繋いでいる、己が一個の、「老」年に近づいた芭蕉という精「神」としての存在という配置を感じ、陶淵明の「形影神」の一節、

  老少同一死

  賢愚無復數

  日醉或能忘

  將非促齡具

  老少同一死

   老少同じきに一死し

   賢愚復た數ふる無し

   日に醉へば或ひは能く忘れんも

   將た齡を促す具に非ずや

――二度とは生きることは出来ぬ賢者であり愚者でもあるような風狂の「無用者」どもの――三位一体の無言の対話を聴くような気も、これ、するのである。

 なお、「艸芳サイト」の「笈の小文」の旅程表②によれば、十一月十一日当日の吉田宿―保美の杜国邸間の田原街道の移動距離は凡そ三十五・九キロメートルとある。

   +

「保美村より伊良湖崎へ一里ばかりもあるべし」やや実測的でない。現在の保見町の南端部から伊良湖岬までは凡そ六キロメートルは有にあり(後注参照)、実際、「笈の小文」の旅程表②では、この十月十二日の保美の杜国邸と伊良湖岬の往復を二十・一キロメートルと算定されておられる。

「『萬葉集』には伊勢の名所の内に撰び入れられたり」「万葉集」巻一(二三番歌)に、

    麻續王(をみのおほきみ)の

    伊勢國伊良虞(いらご)の島

    に流さえし時に、人の哀傷し

    て作れる歌

  打つ麻(そ)を麻續王海人(あま)なれや伊良虞が島の玉藻苅ります

(やぶちゃん現代語訳)……麻続王(おみのおほきみ)は海人(あまびと)であられるのか――いや、そうではない――だのに哀しくも伊良虞の島の藻を寂しく刈っておられる……

・「打つ麻」は打ってやわらかくした麻の意であるが、ここは「麻續王」の序詞(枕詞的なので特に訳さなかった)。

・「麻續王」は未詳。「伊良虞の島」は参照した中西進氏の講談社文庫版「万葉集」の同歌かの脚注では、伊良湖岬の先端から三・五キロほど先の神島(古くは、歌島(かじま)・亀島・甕島などと呼ばれ、神の支配する島と信じられていた。江戸時代は鳥羽藩の流刑地であったため志摩八丈とも呼ばれた。また、三島由紀夫の「潮騒」のモデルでもある)とするが、同別巻「万葉集辞典」の地名解説には伊良湖岬自体を指すという説も挙げる。これは伊勢から遠望した際、渥美半島自体が島に見えることによるものであろう。

ともかくも、芭蕉はここで本歌の島流しとされた麻続王の貴種流離譚を匂わせることで、その香を流謫の才人杜国のそれに通わせたと考えて間違いない。

   +

「洲崎」岬の浜辺。三崎の東側、遠州灘に面した、島崎藤村の「椰子の実」(「落梅集」所収)の詩や歌で知られる恋路が浜近くであろうと思われる(因みに知られた話ではあるが、あの詩は藤村の実体験ではなく、明治三一(一八九八)年にここに遊んだ柳田國男が、拾った椰子の実の話を友人の藤村に話し、それから創作された詩である。私の独身時代の数少ない独り旅で行った忘れ難い地である。『フリードリヒ「朝の田園風景(孤独な木)」』にその時に撮った私が「伊良湖岬恋路ヶ浜のフリードリヒ」と呼んだ枯木の写真がある。お暇な向きはご覧あれ)。

「碁石」これは石ではなく、碁石貝(ごいしがい)、即ち、斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ Meretrix lusoria のことである。「和漢三才図会」の巻六十九の「參州」の掉尾「土産」の項にも『碁石』とあって直下の割注で『伊良虞崎』とある。この殻から打ち抜いて碁石の白石が作られた現在では純国産種のMeretrix lusoria の激減から幻の高級品となってしまった(今ではメキシコ産など輸入された同属別種の殻を素材としているという。ウィキの「碁石」による)。

「伊良湖白」白の碁石(碁石蛤とも言う)では「常陸国風土記」に既に鹿島の蛤の碁石が名産として記述されている。ウィキの「碁石」によれば、『碁石の材料となるハマグリの代表的な産地は古くは鹿島海岸や志摩の答志島、淡路島、鎌倉海岸、三河などであった。鹿島のハマグリは殻が薄く、明治期の落語の速記本に「せんべいの生みたく反っくりけえった石」と描写されるように、古い碁石は』五ミリメートル『以下の薄いものが多い。その後、文久年間に宮崎県日向市付近の日向灘沿岸で貝が採取されるようになり、明治中期には他の産地の衰退と共に日向市のお倉が浜で採れるスワブテ蛤』(地物のMeretrix lusoria であろう)と呼ばれるものが『市場を独占し上物として珍重された。現在では取り尽くされてほとんど枯渇してしまっている。現在一般に出回っているものはメキシコ産である。黒石に対してハマグリ製の白石は非常に値が張る。高級品は貝殻の層(縞のように見える)が目立たず、時間がたっても層がはがれたり変色したりしない』。とある。なお、黒石は黒色の石を用い、「那智黒」石(三重県熊野市産の黒色頁岩又は粘板岩)が名品とされる。

さても何故、ここで「伊良湖白」の碁石拾いかと考えてみると、思うにそれはここに流された孤高の隠者たるところの杜国と一つ、ともに碁を打とうではないか、という芭蕉の匂付けにほかなるまい。

「骨山」恋路が浜が終わる東の遠州灘に突き出た鼻の部分、現在の伊良湖ビューホテルのある山(先の私の古い写真はまさにその麓西側直下の崖上を巡る表浜街道で撮ったものである。カルワリオ、ゴルゴダとは、凄い! 私が心惹かれた古木もまるで骨のようではないか!)。痩身孤高の隠者を表象するに相応しい名である。

「鷹を打つ」鷹狩用の鷹を捕獲する。民間経営の「伊良湖観光ガイド」公式サイトの「伊良湖岬の渡り鳥」などによれば、伊良湖岬は本邦の鳥類の多くの「渡り」の中継地として有名で、特に秋の壮大な鷹の「渡り」で知られる。新暦の十月初旬をピークとして一日に数千羽の鷹が天空を舞い、時には上昇気流を捉えて無数のタカが飛翔する「鷹柱」が出来、次々と対岸の伊勢・志摩を目指して飛んで行く「伊良湖渡り」が見られる。

「伊良湖鷹など歌にも詠めりけり」藤原家隆の「壬二(みに)集」に、

  ひき据(す)ゑよいらごの鷹の山がへりまだ日は高し心そらなり

とあり、また、芭蕉の慕った西行の「山家集」羇旅歌には(「山家集」通し番号一三八九及び一三九〇番歌)、

    二つありける鷹の、伊良湖渡り

    すると申しけるが、一つの鷹は

    留まりて、木の末に掛りて侍る

    と申しけるを聞きて

  巣鷹(すだか)渡る伊良湖が崎を疑ひてなほ木にかくる山歸りかな

  はし鷹のすゞろがさでも古るさせて据ゑたる人の有難(ありがた)の世や

とあるのを受ける。但し、西行の歌の「巣鷹」とは雛の時に鷹匠が巣の中から捕えて人為的に育てた鷹を言うのに対し、「山帰り」は「山回り」とも言って、幼鳥が年を越えて一度山中で毛変わりした後に捕獲し飼育した鷹を指す。詞書の「一つの鷹」はその「山帰り」の鷹である。鷹匠はそうした育てた鷹をここで渡らせて訓練したものらしい。従ってこの西行の一首目のシーンは、

……伊良湖渡りをしようとする二羽の鷹を見た――でも「山帰り」の方は未だ自信がないものか――一度は飛び立つったものの、暫くするとまた梢に戻ってきてしまうことだよ……

という意である。これについては、『鷹の生態を聞き取った二見浦での体験を詠』んだものらしく、『成人してからの出家者としての自身を「山帰り」に重ねている』(明治書院「和歌文学大系二十一」)とある(二見での体験であるところから、和歌文学大系の通釈では「伊良湖渡り」を伊勢から伊良湖に渡ると解しているが、「山家集」では二見での詠の後に、伊良湖に渡った二首が挟まり、普通に読むならばこれは伊良湖の景と読める。従って私も「伊良湖渡り」と訳した。以上は「笈の小文」底本の頭注及び岩波古典文学大系版「山家集」の他、西行の和歌の解釈・引用については阿部和雄氏の「西行の京師 第二部 第15回」を一部参考及び孫引きをさせて戴いた)。無論、芭蕉は確かに一羽の鷹を嘱目したに違いない。しかしそれが同時にこれらの和歌と連動し、驚くべき自動作用が引き起こされてゆくのである。

   +

「鷹一つ見付てうれし伊良湖崎」言わずもがな、この鷹は孤高流浪の杜国を指し、しかし彼は尾羽打ち枯らした、「山帰り」(無論、辺地に住まう杜国のそれはまず「山帰り」「山回り」ではあるが)流謫のそれではなくて、師芭蕉が「うれし」と感ずるほどに文字通り「鷹揚」とした「直き心」を持った雄々しい風狂の鷹であった、と芭蕉は詠嘆したのである。安東次男は「芭蕉百五十句」で、鷹の博物学的考証を述べた後、『巣鷹は人に馴れ易く冒険を恐れぬが、山回は馴れにくく、逸(そ)れ易い』。しかし、先に掲げた二首目の『西行の詠口(よみくち)は山回の気むづかしさ、警戒心をむしろ頼もしさと眺めている。「なほ木」は「なほ、木……」、「直き」である』という私の感懐と同じ見解を示した後、西行の二首目の歌との関連を語る。ここで少し、西行の二首目について私の注を附してしておくと、「はし鷹」とは鷹の一種、タカ目タカ科ハイタカ Accipiter nisus で、「すゞろがさでも」の「すずろがす」とは、落ち着かず、そわそわさせるの意、「すず」に鷹につける「鈴」(鷹の尾羽の中央の二枚の羽を「鈴付け」と呼び、鷹狩りではそこに鈴を付ける)に、「古る」も鈴を「振る」に掛け、また「据ゑ」は鳥などを枝や止まり木・腕などに止まらせるの意を持ち、鷹の縁語でもある。この歌は、人格の諷喩詩で、

……成長したハシタカが鷹揚として――凛として静かに「鈴(りん)」を鳴らすように泰然自若とした人というものは――これ――なかなか世には得難いものよ……

という感懐を述べたものである。さて、安東は先に続けて、『「はしたか(ハイタカ)」は鈴の語縁で「すず」の枕に遣う。二首を続にした狙は、山回のごとく自若とした人物はなかなか得難い、と云いたいのだろう』と訳した上で、杜国が『空米売買に連座の罪を問われて、尾張領分を追放されたのは貞享二年秋。四年冬といえば、網掛』(あがけ:飼鷹の一種で当年生まれの野生の鷹を捕獲したものを「網掛けの若(わか)」。二歳以上の場合を「山帰り」「山回り」という)『にたとえればちょうど両回(ともがえり)に当った(二歳鷹を片回、三歳を両回と云う)。句作りの目付(めつけ)はこれだったに違ない。浮世を捨て二度の夏を越して、つまりにどの羽を替えてむしろ逞しくなった男の面構を、芭蕉は西行の鷹、いや、西行その人と眺めた』と安藤節が炸裂する。しかし、私には珍しく安東のその謂いが素直にすとんと腑に落ちる。しかもその後、安東は私が好きで本句との関連を漠然と感じていた杜国の句、

  うれしさは葉がくれ梅の一つ哉 (「春の日」)

を掲げ、その相聞歌的共鳴性を分析して卓抜である(杜国の「うれしさは」の句は「鷹一つ」に先行する貞享二年若しくは貞享三年である。杜国の句について安東はさらにその下地をさえ探っているが、それはまた当該書を是非お読みになることをお薦めする)。

   ☆

以下、発句の注に移る。

   ☆

「ごを燒て手拭あぶる寒さ哉」「ご」は枯れ落ちた松葉の葉。囲炉裏の焚きものとした。近世は三河・尾張の方言として残った、と「広辞苑」にある。吉田宿での吟。

   ☆

「ゆきや砂むまより落よ酒の醉」既に「冬の日や」で幾つか述べたのでそちらを確認されたいが、天津繩手から伊良湖へ向かう田原街道の途中には「江伊間」(えいま:「酔馬(えいま)」とも書いた)という地名があった(現在の愛知県田原市江比間町(えひまちょう))が、この句はその地名に掛けたものでもある。「むまより落よ」と戯れに命じている対象は無論、越人本人ではなく(しばしばそのような粗雑な解をして平然としている評釈があるが私は従えない)、彼の「酒の醉」に対して落ちよ、と馬の洒落に重ねて興じているである。

   ☆

「いらご崎にる物もなし鷹の聲」「鷹ひとつ」の初案とも見られる。杜国邸での一夜を明けた十一月十二日の挨拶吟であろう。

   ☆

「夢よりも現の鷹ぞ賴母しき」知られた吉夢の俚諺「一富士二鷹三茄子」に掛けた、やはり杜国邸での翌朝十一月十二日の挨拶吟であると同時に祝祭の句であろうが、杜国への主情的な思いが前面に出てしまって比喩があからさまとなってしまって、かえって興を殺いでしまっているように感じられる。

   ☆

「さればこそあれたきまゝの霜の宿」芭蕉は十一月十一日と十三日と三日間、杜国邸に泊まっているから、これはその十一日若しくは翌十二日の杜国謫居での詠である。杜国邸到着の十一日深夜と想像する方が、荒涼感に何とやらんもの凄さを加えてよいように私に思われる。「笈日記」の「さればこそ逢ひたきまゝの霜の宿」は面白い謂いで、これなら挨拶句になると思うが、風国編「泊船(はくせん)集」では、ただの書き誤りと断じている。予期していたこと(この場合は不安)がまさに的中した際に発する異様な「さればこそ」という感慨の措辞については、何か杜国の内実に深く感じ入った芭蕉の感懐が示されてあると言える。「艸芳サイト」の「笈の小文」の「保美(伊良湖)」の頁では、先に示した杜国の弟とも目される坪井庄八の、この訪問の五ヶ月前に起きた殺人と斬首の一件が「さればこそ」と芭蕉に歎かせた告白ではなかったかという、興味深い仮説(八木書店一九九七年刊の大礒義雄氏の「芭蕉と蕉門俳人」に依拠されたものらしい)を立てておられ、なかなか説得力がある。

   ☆

「麥はえてよき隱家や畠村」こちらの方が前句に比すと遙かに自然な挨拶句である。陽光の景観から到着の翌十二日若しくは十三日の句である。なおこれは杜国邸での芭蕉・杜国(野仁)・越人の三吟、

  麥はえてよき隱家や畠村     芭蕉

     冬をさかりに椿咲くなり  越人

  晝の空蚤かむ犬の寢かへりて   野仁

の発句であった。

「畠村」は杜国の注で述べた通り、地名である。なお、新潮日本古典集成「芭蕉句集」の今栄蔵氏の頭注には、畠村(畑村)『は保美村の隣村。愛知県渥美郡渥美町。杜国亭は畑村との村境に近くにあった』とある(現在は先に述べた通り、田原市に編入)。この叙述から実は杜国亭は現在の保美よりももっと伊良湖崎寄りだったのかも知れない。「畑村」「畠村」という在所名が地図上では見当たらないが、保美からずっと田原街道を伊良湖岬方向に辿って見ると、「梅藪」という三叉路があり、その近くに「山畑」という地名を見出せる。しかもここから計測してみると伊良湖岬突端までは訳三・九キロで芭蕉が「笈の小文」で言った『一里ばかり』とぴったり一致する。杜国亭の正確な位置について、識者の御教授を乞うものである。なお、「芭蕉句集」の今栄蔵氏の頭注には、「麥蒔て隱れ家や畠むら」の真蹟には、「長安はもとよりこれ名利の地、空手にして錢なき者は行路かたし、といへり」という前書を附すとある。これは白楽天の「送張山人歸山崇陽」(張山人の嵩陽に歸るを送る)からの引用であるが、実は芭蕉は既に延宝八(一六八〇)年の深川隠棲――世俗と決別した辞――でこれと全く同じ詩の引用を発句の前書に用いていることに着目せねばならない。以下に示す。

    九の春秋、市中に住み侘びて、居を

    深川のほとりに移す。長安は古來名

    利の地、空手にして金なきものは行

    路難しと言ひけむ人の賢く覺えはべ

    るは、この身の乏しきゆゑにや。

  柴の戸に茶を木(こ)の葉搔く嵐か

この引用をそのまま杜国の謫居の挨拶吟に用いたということはとりもなおさず、芭蕉の杜国に寄せた思いが、師弟の枠を遙かに逸脱した尋常ならざる共時性(シンクロニティ)の中にあったことが痛感されるのである。

   ☆

「院のみかど」どの上皇なのか、どのような折りなのか、諸注に載せない。「歴史地名ジャーナル」の第二十一回「保美 芭蕉・杜国再会の地」によれば、この渥美半島先端部では中世には伊勢神宮外宮の神領地である伊良胡御厨(いらごみくり)が成立していたが、これは現在の渥美町西半の広い地域を占めていたと考えられており、保美村の西の亀山村や畑村なども後世、御厨七郷(みくりやしちごう)と呼ばれていることから、保美もまた伊良胡御厨のうちに含まれていたものと思われる、とあるのと何か関係があるか。識者の御教授を乞う。

「梅つばき早咲ほめむ保美の里」これも陽射しと暖もりに充ちた十二日若しくは十三日の、しかもなお依然として杜国への挨拶吟でもあり続けている。芭蕉の挨拶句のヴァリエーションの数としては破格に多いように私には思われ、芭蕉の杜国との再会の喜びがそこからも窺われる。

   ☆

「先祝へ梅を心の冬籠り」新潮日本古典集成「芭蕉句集」の今栄蔵氏の頭注によれば、太田巴静(はじょう)撰「刷毛序(はけついで)」(宝永三(一七〇六)年刊)には、

    權七にしめす

 舊里を去てしばらく田野に身をさすらふ人あり。

 家僕何がし水木のため身をくるしめ、心をいた

 ましめ、其獠奴阿段が功をあらそひ、陶侃が胡

 奴をしたふまことや道は其人を恥べからず。物

 はそのかたちにあらず。下位に有ても上智のひ

 とありといへり。猶石心鐡肝たゆむ事なかれ。

 主も其善のわするべからず。

  祝

先いはへ梅をこゝろの冬籠     芭蕉

という文を伴ってこの句が載るとあり(以上の原文は八木書店一九九七年刊の大礒義雄氏の「芭蕉と蕉門俳人」の「杜国新考」に載るものを参考にしつつ、恣意的に正字化して示したものである)、今氏は、この「權七」は杜国の下男らしく、句文は、その『隠宅の杜国に誠実に仕えた家僕』権七『に与えたもの。お前の主人は今は不幸の身だが、やがて時が来る、との前途を祝い、慰めた意になる』とある。「水木」は「みづき」で水と薪(たきぎ)、薪水(しんすい)で家事のこと。「其獠奴阿段が功をあらそひ……」以下は杜甫の七言律詩「示獠奴阿段」に基づく。なお、「石心鐡肝たゆむ事なかれ」は、「石や鉄の如き堅固な志しを保って、主人に精励を尽くさねばなりませぬ」という意、「主も其善のわするべからず」は「の」がやや不審であるが、「主人杜国よ、あなたもその忠僕の捨身の善行を忘れてはなりませんぞ」という謂いである。

   示獠奴阿段

  山木蒼蒼落日曛

  竹竿裊裊細泉分

郡人入夜爭餘瀝

  稚子尋源獨不聞

病渴三更回白首

傳聲一注濕靑雲

曾驚陶侃胡奴異

  怖爾常穿虎豹群

      獠奴阿段(れうどあだん)に示す

   山木 蒼蒼として 落日 曛(くん)たり

   竹竿 裊裊(でうでう)として 細泉 分かつ

   郡人(ぐんじん) 夜に入りて 餘瀝を爭ひ

   稚子(ちし) 源を尋ねて 獨り聞かず

   渴えを病みて 三更 白首を回らし

   聲を傳へて 一注 靑雲を濕ほす

   曾て驚く 陶侃(とうかん)が胡奴(こど)の異(い)なるに

   爾を怖(あや)しむ 常に虎豹の群れを穿(うが)てるを

「獠奴阿段」中国南西の異民族の蔑称で七句目の「胡奴」も同じ。ここは杜甫が水の乏しい赴任地虁州(現在の重慶)で下僕の阿段(獠奴の男の通称)が水を捜し得たことを素材としている。「曛」は落日の余光。「裊裊」嫋嫋。細くしなやか、弱弱しいさま。ここは、辺境のその地では井戸がなく、山から滴る泉の水を細い粗末な「竹竿」(竹の筧)を以って廻らし、水を引くことを言う。「餘瀝を爭ひ」とは、その筧に僅かに残った水を争い呑む。「稚子」私(杜甫)の下僕。「獨り聞かず」そうした水争いを余所に。「渴えを病みて三更白首を回らし/聲を傳へて一注靑雲を濕ほす」前句は水飲の病い(糖尿病)にあった主人たる私が深夜に白髪を振り乱し、水を求めに行った下僕の姿を求めるさまを謂い、後句はその頭上から、下僕の獠奴阿段が主人のために引いて来た、青雲を液化させたかのような瑞々しい水流が流れ落ちてくるさまを誇張的に描く。陶侃(二五九年~三三四年)は西晋・東晋の武将で陶淵明は曾孫といわれる。ここは彼が常人の能力を越えた不思議な胡奴を一人持っていたという故事に基づき、次の句の虎や豹の群れの中にさえ易々と分け入って平然とことを成すという離れ技、ひいては危難を顧みず、深夜に巧みに主人のための水を調達するという、杜甫よりも一歩踏み込み、貴賤を越えて勇敢にして忠実なる下僕の奉仕の心を率直に讃えている。(この原詩及び語注は曹元春氏の『芭蕉「権七にしめす」の杜甫の受容とその展開』(PDF版)を主に参考にさせて戴いたが、訓読は私のよしとする読みに従った。当該論文は大礒氏の論考も参考にされた力作で、杜甫の詩の解説は詳述を極め、他にも虁州と保美のある渥美半島が孰れも乏水の地であるという共通性、杜国と権七の関係が芭蕉自身と旧主君藤堂良忠の関係に重ね合せ得る点などを指摘され、杜甫・阿段・杜国・権七を漂泊者の、時空を越えた老荘的系譜中の群像として位置付けておられる頗る興味深い論考であり、是非、ご一読をお薦めする)。而してそうした誠実な忠僕を持った杜国のさらに大きな人柄が言外に示されるのである。

 この前書を引用した大礒氏の書では保美在の「家田与八」なる実在の人物をこの杜国の家僕「權七」の有力な同定候補に比定されておられ、その過去帳などによる証左も頗る説得力がある(但し、他の研究者による全くの異説もそこには併記されてある。因みに私は大礒氏の書籍を持っておらず、以上は幸いにしてグーグル・ブックスの画像で視認出来た範囲にあったものである)。なお、句柄とこれらの資料を附き合わすならば、この句は十三日夜か出立した十四日の送別吟と詠めよう。

……「梅」が散ってこの四ヶ月後の弥生も半ば、「冬籠り」の行李から引き出された「檜笠」を被った杜国は伊勢にて芭蕉と再会、吉野を目指して同行二人、遂にその「檜笠」を「桜」に「われも見せうぞ」と「心」から「先」(まず)「祝」祭することとなるのであった。……]

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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