よくみれば 薺花さく 垣根かな

https://sakuramitih31.blog.fc2.com/blog-entry-5480.html 【よくみれば 薺花さく 垣根かな】 より

よくみれば 薺花さく 垣根かな    芭蕉(よくみれば なずなはなさく かきねかな)

意味・・ふだんは気にも止めない垣根の根元に、よく見ると薺の花が目立たずひっそりと咲いている。

程明道の詩句「万物静観皆自得」の気持を詠んでいると言われています。

今ここを生きる薺の花は、咲いている場所や周囲の状況について好き嫌いを区別しないで自足自得しています。全ての人々があらゆる状況について好き嫌いを区別しないで自足自得することができれば、それは仏に他なりません。だから、今、ここを生きる人は憂悲苦悩を嫌いません。憂いに出会えば憂える仏、悲しみに出会えば悲しむ仏、苦しみに出会えば苦しむ仏、悩みに出会えば悩む仏になって何時も安らいだ心境でいられるのです。与えられた運命を嘆くのではなく、その運命の立場 にいて幸せを求めて行こうという考えです。

 注・・自足自得=自分で必要を満たす、自分で満足する。

    仏=貧賤であっても心の楽しみを失う事のない境地。

作者・・芭蕉=1644~1694。

出典・・小学館「日本古典文学全集・松尾芭蕉集」。


http://toshisanyoiyo.blog.enjoy.jp/blog/2019/08/post-dd98.html 【よく見ればなずな花咲く垣根かな=芭蕉】 より

今朝、聖書を読んでいて突然浮かんだこと。

このタイトル名は芭蕉の句です。若い時に読んで感銘し、また教えを頂いた句です。なずなは当たり前にそこに咲いている。多くの人は気がつくこともなく何かの目的に向かって足早に通り過ぎる。しかし芭蕉はそんななずなに目を止め、心を寄せこの句をよまれた。素晴らしい感性と、それを不変の世界へ高める力。当時私はこう考えていました。人間はピカピカに光る鏡のような心を持ってこの世に来る、しかしこの世で生活するうちにその心が、ホコリや誇りや色々な欲この世のしがらみ仕事世の煩わしさ…etc.によって曇り、いや、かさぶたによって覆われてしまい、忙しく飛び回る。本当は何処へ向かっているか知らず、そこにあるものをあるがままに見ることができなくなっている、その美しさに気が付かない鈍感な感性となっているのではないかと。世はあるがままにある。しかしそこに住む私たちにとって一人一人の見る目によって世は変わって見えるのではないかと。

それで私のこれからの人生で成し遂げねばならないのは、この私のこころにへばりついたかさぶたを一つ一つ取り除きもう一度ピカピカのこころを取り戻すことだと。ちゃんと立ち止まって、なずなを見る心を取り戻すことだ、なずなに心を通わせ、なずなに心を向けてもらいその一瞬の心の通い合う瞬間に永遠を見る事の出来るような、そんな心を取り戻す事だと言い聞かせ力を注いで来ました。

ところが今朝、敬虔と言うことを聖書と共に考えていた時、ふとこの句のなずなのようかなと心に浮かびました。そして今までこの句をいつも芭蕉の立場で考えていましたが、なずなの立場からはどうなんだろうと。なずなは言葉を話さない、雨、風、日照りに耐え、ただ定められたその場所にいる。私たちに、私を見て、とも言わない。私、綺麗でしょとも言わない。ただそこに居て作られた方の意図のままそこに居る。ぺんぺん草と言われながら、雑草として邪魔にされ少し脚光をあびるのは春の七草としてかな?でも目を覚ましている人はなずなの美しさに出会う、そしてこころに何かを与える。そう、星の王子様とキツネのように心を通わす。これってまた、 賢治の「日照りのときは涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き 皆にデクノボーと呼ばれ ほめられもせず 苦にもされず そういうものに 私はなりたい」に何か通ずるものありませんか?

長くなりましたが、そんな訳でなずなのように自分を捨ててただ造り主の御心のままに生きたいと祈りました。


https://xxpirate.blogspot.com/2017/02/blog-post_17.html 【よくみればなづな花咲く 垣根かな】 より

よくみればなづな花咲く 垣根かな

というのがあるが、なずな(薺)は路傍や田畑にひっそりと咲いている、ごく普通のありふれた雑草である。このなずなは春爛漫と咲きほこる桜の花とくらべてみれば、白色の小さな花を咲かせているにすぎない。そうして誰一人としてこれをかえりみてくれる人もいない。しかしふと立ちどまって路傍のほとりのなずなの花を見ていると、なずなの花は小さいながらも、せいいっぱい、咲きほこっているのである。天地いっぱいなずなは、なずなの花はのである。他の何ものをもってしてもこれに替えることはできない。このような生きとし生けるものを初めとし、天地間に存在するいっさいのものが、そのものの存在性を力の限りあらわしている世界が光明を放つことにほかならない。このような風光は凡人には見えない。見る目をもってして初めて見ることができる。 (引用:般若心経講話)


https://blog.ebipop.com/2013/07/idea-nazuna.html 【芭蕉のトリック?「よく見れば薺花咲く垣根かな」】 より

よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな

松尾芭蕉

貞享三年春、芭蕉四十三歳のときの発句。

この年の春に、芭蕉は「古池や蛙飛び込む水の音」という有名な句を詠んでいる。

さて「薺」の句。

この説明的な句にはトリックがある、と思うのは私だけだろうか。

ナズナは目立たない花ではない

ナズナの花は、別によく見なくても、その存在に気がつく。

ナズナは別名ペンペングサとも呼ばれていて、原っぱや道端など、いたるところに生えている野草である。

背の高さは20センチから40センチぐらい。

【ナズナ】

特別に上背の高い野草ではないが、そうそう目立たないほどの小さな草でもない。

小さな白い花を多数、花穂に付ける。

次々に花を咲かせ、下の方で花が終わって種子が形成される間も、先端部では次々とつぼみをつくって開花していく。

その様子は、にぎやかで面白い。

花の下についているたくさんの果実は、まるで中空にたくさんの手を差し伸べているようなかっこう。

この果実の形が、三味線を弾く撥(バチ)に似ているからペンペングサと呼ばれているらしい。

ペンペンは三味線の擬音語。

ナズナの存在感

おなじみの慣用句に「ペンペングサも生えない」というのがある。

どこにでもあるペンペングサさえ無い、本当に何も無い場所というような意味で使われている。

このように、じつによく見かける花なのである。

そしてナズナは、春の七草のひとつでもある。

こんなに存在感のある花が、よく見なければその存在を確認できないということは無い。

架空の前提

芭蕉は「よく見れば」という「前の句(上句)」で、ナズナの存在感を消してしまうという手品を行っているのではないか?

ナズナは、目を見開いてよく見なければ気がつかない花だという架空の前提を準備し、それを共通の認識としてこの句を読む者に強制している。

野草にまったく興味の無い人々は、なるほど俳句とはモノをよく見て作るものなのだと納得する。

芭蕉は「周囲に有るモノをよく見て句を詠みなさい」という教えのために、このようなトリックを用いて、「よく見る」という姿勢を強調したのだろう。

野草好きにとっては、不要な心配である。

野草好きでない人でも、ナズナやタンポポは知っているのではないだろうか。

それでも芭蕉は、知っているつもりでも「よく見ろ」と、あえて説いたのかも知れない。

ナズナの垣根

ここで、もうひとつの私なりのイメージがある。

目の前のナズナの群生は、ただ漫然と生い茂っているように見える。

でも実際よく見ると、まるで垣根を形成しているように、ナズナの花が咲いている。

よく見れば、このナズナの群生は、この屋敷の垣根になっているではないか。

春の時期だけ、この屋敷には垣根ができる。

さわさわと春風に揺れる垣根。

このナズナの垣根で囲まれた、しゃれた住処に住んでいるのは、よっぽどの粋人であろう。

と、こうくれば、野草好き好みの句になる。

読者を誘導するトリック

垣根を作っているようなナズナの群生を思い描くことで、この句を読む者のイメージが広がる。

ナズナを垣根にしたことで空間が広がり、その奥にある家屋にまでイメージが広がる。

句を読むものを屋敷の内へと導く。

その家の住人の人柄を連想させる。

いずれにしても、芭蕉は、その句を読む者を「誘導」することが巧みであると思う。

それが芭蕉の句に仕掛けられたトリックによるものであると、私は感じている。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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