http://www.komatsuguide.jp/index.php/spot/detail/83/1/2/ 【多太神社】より
芭蕉も感激した「実盛の兜」
遥か昔、武烈天皇5年(503年)の時に創建されたと伝えられている歴史ある多太神社。ここには、とある伝説の兜が奉納されている。国指定重要文化財で、旧国宝でもあった、斎藤実盛の兜である。
時代は平安末期、源平合戦のまっ最中。兜の持ち主だった斎藤実盛は、平家の武将として戦っていた。倶利伽羅峠の合戦で敗れ、加賀の篠原で再び陣を取り戦ったが、木曾義仲軍の前に総崩れとなった。そんな中、実盛は老体であったが踏みとどまって奮闘し討ち死にした。その後、義仲がその首を池で洗わせると、墨で塗った黒い髪がみるみる白くなり、幼い頃に命を救ってくれた実盛の首だとわかった。義仲は人目もはばからず涙したという。実盛は出陣前からここを最期の地と覚悟を決めており、老いを侮られないようにと白髪を黒く染めて出陣したのだ。時に実盛73歳の老齢だったという。
後に、義仲が戦勝祈願のお礼と実盛の供養のために、多太神社に兜を奉納したのである。
この兜にまつわる実盛と義仲の話は『平家物語』巻第七に「実盛」として語られている。
それからずっと後の元禄2年(1689年)、松尾芭蕉が「奥の細道」の途中にこの地を訪れた。兜を見た芭蕉は実盛を偲び「むざんやな 甲の下の きりぎりす」と句を詠んだ。境内には句碑が建っている。
その句碑のそばに「松尾神社」という神社があるが、これは松尾芭蕉とは関係ないので「俳句がうまくなりますように…」などとお参りしてもご利益は期待できない…。ちなみに松尾さんはお酒の神様です。
兜を実際に見せていただくと、古そうな傷が付いており、幾多もの戦や危機をかいくぐってきたのだろうというのが十分伝わってくる。第二次大戦中に金物などが没収されていった中、当時の宮司が兜だけはと土の中に埋めて守ったという話もある。
現在の兜は修復後のものなので、正確には芭蕉が見た兜ではない。芭蕉が見たのは修復前の兜で、その絵が神社の宝物館に納められている。宝物館には、兜や多数の宝物も納められており、事前連絡すれば見る事ができる。[TEL 22-5678]
「かぶとまつり」にイベントいろいろ
7月下旬には「かぶとまつり」が催され、詩吟や輪踊り「かぶとおんど」が行われ、屋台も出て賑わう。謡曲「実盛」の上演もあり、県内外から謡曲ファンが訪れる。
蟇目(ひきめ)の神事では、昔は矢を米俵にあてていたが、現在は餅まきをして当たりの入った餅を手にした人にお米やスイカなどが与えられるという形に変わり、毎年行われている。
平成22年からは茶会も開かれ、目の前で和菓子製造の実演もあり人気を博した。数々のイベントを、地元の人に混じって楽しむことができる。
ところで、謡曲「実盛」のストーリーをご存じだろうか。
応永二十一年(1414年)、遊行寺の十四代上人が巡錫の際、篠原の地で実盛の亡霊に会い、法名を与えて成仏させたという伝説がもととなっている。それ以来、歴代の遊行上人は北陸巡錫の時には必ず多太神社に詣でるとのこと。最近では、平成17年に半世紀ぶりに行われた。それは「回向祭(えこうさい)」と呼ばれ、行列やお練りなどがあり、実盛公や兜を盛大に供養した。その時の写真や多くの回向札(えこうふだ)は宝物館に納められている。
その翌年からは、5月中旬の日曜日に「遊行祭(ゆぎょうさい)」が行われるようになり、毎年実盛公をしのんでいる。
また、大晦日の除夜の鐘の鳴る頃から、境内は初詣に訪れる参拝客であふれる。「かぶと鍋」と呼ばれるとん汁や海鮮鍋の振る舞いもあり多くの人で賑わうという。
最近、御朱印帳も対応できるようになったので、ご希望の方は遠慮なく声をかけてくださいとのこと。
かぶとまつり、かぶとおんど、かぶと鍋と、実盛公のゆかりを後世に伝えるため、新しい試みでこれからも賑わいをみせていくことだろう。
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno32.htm 【奥の細道(小松 元禄2年7月24日~26日)】 より
小松市建聖寺の芭蕉像(森田武さん提供) 小松と云所にて*
しほらしき名や小松吹萩すゝき(しおらしきなや こまつふく はぎすすき)
此所、太田の神社*に詣。実盛*が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より 給はらせ給*とかや。げにも平士*のものにあらず。目庇*より吹返し*まで、菊から草*のほりもの金をちりばめ、 竜頭に鍬形打たり*。真盛*討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、 樋口の次郎が使せし事共*、まのあたり縁起にみえたり*。
むざんやな甲の下のきりぎりす(むざんやな かぶとのしたの きりぎりす)
7月24日。この日、日中は快晴、夜降雨。朝、金沢を出発。小春・牧童・乙州(彼はたまたま商用で金沢に来ていた)らは、街はずれまで、雲口・一泉・徳子らは野々市町まで、北枝や竹意は小松まで随行した。午後4時過ぎに小松に到着。近江屋に投宿。
翌7月25日、小松を出発しようとしたところ、多くの人たちに引き止められて、予定変更。多田八幡を訪ねたのは本文記述のとおりである。この後、山王神社神主藤井伊豆の宅に行き、ここで句会開催。この夜は藤井宅に泊る。午後4時ごろから雨、夜になって降ったり止んだり。
7月26日。雨。特に午前10時ごろから風雨激しくなる。夕方になって止む。夜、越前寺宗右衛門宅に招かれて句会。
しほらしき名や小松吹萩すすき
小松市にて、この句を発句として句会を興行している。かわいい名前だ、小松とは。その浜辺の小松にいまは秋の風が吹いて萩やススキの穂波をなびかせていることだ。土地への挨拶吟。
むざんやな甲の下のきりぎりす
芭蕉秀句中の一句。斎藤別当実盛の遺品の兜、いま秋、コオロギが一匹、兜の下で鳴いている。このコオロギは実盛の霊かもしれない。
なお、この句も言わば決定稿で、これよりさき初案は次のようであった;
おなじところ、多田の神社に実盛の甲がありけるをあなむざんや甲の下のきりぎりす(真蹟懐紙)
なお、『猿蓑巻の三』では、前詞は、「加賀の小松と云處、多田の神社の宝物として、実盛が菊から草のかぶと、同じく錦のきれ有。遠き事ながらまのあたり憐におぼえて」となっている。
下の写真撮影の時は、本文にある「むざんやな・・・」の句碑を撮影して来ましたが、由緒ある神社の句碑にしては、最近の作りで、何となく違和感を感じておりましたので、このたび再度「あなむざんや・・」の句碑も撮影に行きました。多太神社の宮司さんは、大阪大学を卒業した方で、引き止められ、神社の由来や甲に纏わるいろいろなご説明をしていただきました。最近の学生さんは歴史や文学に興味がないのか、芭蕉の句などもさっばり理解していないと少々ご不満のようでした。そういう私も、今回始めて「さた神社」と発音するのを知りました。(文と写真提供:牛久市森田武さん)
太田神社の参道にある「むざんやな甲の下のきりぎりす」の句碑(写真提供:牛久市森田武さん)
太田神社
太田神社へ到着したのは、早朝だったので、神社の人も誰も居なかった。近所の若妻と子供が散歩していたので、「この神社の甲を見ることが出来ますか」と尋ねたら、「すぐそこに有りますよ」と応えたので、その場所へいって見たら、「甲の石碑」でした。(文と写真:牛久市森田武さん)
小松というところにて:石川県小松市。小松では、芭蕉らは一泊の予定であったものが、土地の俳諧衆に懇願されて、予定外の3泊4日の滞在となった。7月26日は雨天となり、この日三吟歌仙を巻いたらしい。
太田の神社に詣:<ただのじんじゃにもうず>と読む。小松の多太八幡宮神社 。
真盛:<さねもり>。斎藤別当実盛。はじめ、源義朝に仕えたが、平治の乱で義朝が失脚した後平宗盛につかえた。 寿永2年(1183年)、木曾義仲との倶利伽羅峠での戦いに平維盛に従って戦い、白髪を染めて奮戦したが討死にした。その後、実盛は亡霊となって出没した。ここの句の下五「キリギリス」は今言うキリギリスではなくツヅリセコオロギのこと。このコオロギこそ実盛の亡霊かもしれない。なお、 木曾義仲は、木曾の山中で幼少時にこの実盛に養育されたという因縁がある 。
義朝公より給はらせ給:<よしともこうよりたまわらせたまう>と読む。この実盛が死に花を咲かせるために着用した「錦の切」は、義朝からの下賜品ではなく実盛が宗盛に願い出て得た赤地錦の鎧直垂。芭蕉の間違い。
平士:<ひらさぶらい>と読む。下級武士のこと。
目庇:<まびさし>と読む。兜の正面の庇のようになっているつばの部分をいう。
吹返し:<ふきかえし>と読む。兜の側面にあって、つばが反り返っている部分をいう。
菊から草:菊唐草<きくからくさ>と読む。唐草模様に菊をあしらった様式的文様。
竜頭に鍬形打たり:<たつがしらにくわがたうったり>と読む。 竜頭は、竜の形をした兜の前立物で、眉庇につけた台に、金銅・銀銅・練り革などで作った二枚の板を挿して、角状に立てたものを鍬形という。
眞盛:上記実盛のこと。
樋口の次郎が使せし事共:樋口次郎兼光は、 斉藤別當実盛の旧友であり、それゆえにこのとき実盛の首実検をした。そのとき、実盛の黒く塗られた白髪頭を見て、樋口次郎が「あな、むざんやな」 と涙を落としたという。謡曲『実盛』に、「樋口参りただ一目見て、涙をはらはら流いて、謡あなむざんやな、 斎藤別当にて候ひけるぞや」とある。
まのあたり縁起に見えたり:神社の縁起状に書いてあるのをまのあたりに見たの意 。ただし、「縁起」には無く、「木曾義仲副書(本文願状)」に書いてある。
三吟歌仙
あなむざんやな甲の下のきりぎりす 翁
ちからも枯れし霜の秋草 亨子
渡し守綱よる丘の月かげに 鼓蟾
しばし住べき屋しき見立てる 翁
酒肴片手に雪の傘さして 子
ひそかにひらく大年の梅 蟾
全文翻訳
小松というところで、
しほらしき名や小松吹萩すゝき
当地、多太八幡神社に参詣した。神社には、斎藤別当実盛の兜と錦のひたたれの切れ端があった。これらは、その昔、実盛が源氏に仕えていた時分、源義朝公から拝領したものだという。このうち兜は、どう見ても下級武士の使うものではない。目庇から吹返しまで菊唐草模様に金をちりばめ、竜頭には鍬形が打ってある。実盛が討ち死にした後、木曾義仲はこの神社へ願状を添えてこれらを奉納したという。その折、樋口次郎兼光が使者となったことなども神社の縁起には書いてある。
むざんやな甲の下のきりぎりす
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