https://blog.goo.ne.jp/mitsue172/e/c37de82823ebf3ab893361976a854ecf 【平家物語・義経伝説の史跡を巡る清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています】 より
むざんやな甲の下のきりぎりす(小松市多太神社)北陸 / 2013-01-05
多太神社は篠原合戦で討死した斎藤実盛の兜を所蔵する神社です。多太八幡神社ともいい、延喜式内社に列する古い社で、祭神は衝桙等乎而留比古命(つきほことおてるひこのみこと)応仁天皇・仁徳天皇・神功皇后ほかが祀られています。
鎌倉時代中期、近くの能美庄が京都の石清水八幡宮の社領になると、その末社となり、室町時代まで加賀地方ではかなりの勢力をもっていました。
この神社に残る兜・袖・すね当は、藤別当実盛の遺品を木曽義仲が願状を添えて奉納したものと伝えられています。
篠原合戦における斉藤実盛の逸話は後世まで語りつがれ、さらに有名にしたのが謡曲「実盛」や松尾芭蕉の俳句です。
斉藤実盛の死後二百年余り経った室町時代、時宗の遊行上人太空が篠原古戦場近くにある潮津(うしおず)道場で布教中、実盛の亡霊にあい卒塔婆をかいて霊を慰め供養したといわれています。(実盛の亡霊が実際に現れたと室町時代の記録類にも載せられている)
謡曲「実盛」はこれを素材にした世阿弥の作品です。
武将が死後修羅道の苦しみを語る修羅物の一曲で「三修羅」および「三盛」の一つにあげられており「未熟の能師の勤めざる能也」とされる難曲です。
時代は下り江戸時代、芭蕉は「おくの細道」で多太神社に詣で、実盛が身につけていたと伝えられる錦の切れ端やかぶと等を拝観しています。
松尾芭蕉の像
『奥の細道』でそのくだりを見ておきます。
「この神社には斉藤別当実盛の遺品である甲や錦の直垂の一部が所蔵されている。
その昔、実盛が源氏に仕えていたころ、義朝から拝領したものだとか、
なるほど並みの武士のものではない。目庇(まびさし)から吹返しまで、
菊唐草の彫刻に金を散りばめ竜頭の飾金具と鍬形の角が打ちつけてある。
実盛が討死の後、木曽義仲が祈願の状文に添えてこの社に奉納されたこと。
その時、樋口次郎が使いとして来たことなどが、目のあたりに見るように縁起に書いてある。」
ちなみに目庇というのはかぶとの正面に突き出した庇をいい、吹返しは目庇の両側から耳のように出て後方に反り返っている部分で矢防ぎと装飾をかねています。
この文章に続けて♪むざんやな甲の下のきりぎりすの句が添えられています。
「このかぶとを見るにつけ往時のことが偲ばれるが、実盛が白髪を染めこの甲をかぶって戦って討たれたことは何といたわしいことであろう。
しかしそれも過ぎ去った昔語りとなって今はかぶとの下で秋の哀れを誘うようにきりぎりすが鳴いていることだ。」
当時のきりぎりすとは今のこおろぎの事です。
この句の初句は、はじめ「あなむざんやな」または「あなむざんや」でした。
「あなむざんやな」は謡曲「実盛」で、樋口次郎が実盛の首級(しゅきゅう)を見て
「あなむざんやな、斉藤別当にて候ひけるぞや」という詞をとったものですが、
もとは『平家物語』の「あなむざんや」から繋がっています。
『奥の細道』をまとめる際に、字余りが修正され「あな」という詞が省かれました。
芭蕉翁一行が多太神社に詣でたのが三百年前の元禄二年(一六八九年)七月二十五日(九月八日)であった。
七月二十七日小松を出発して山中温泉に向う時に再び多太神社に詣で、それぞれ次の句を奉納した。
あなむざん甲の下のきりぎりす 芭蕉
幾秋か甲にきへぬ鬢の霜 曽良
くさずりのうち珍らしや秋の風 北枝
斎藤別当実盛の像
おくの細道の旅で芭蕉は西行の足跡を辿ったとされますが、悲劇の武将源義経を追慕するのも目的の一つでした。平泉から南下するうちに木曽義仲にも思いをよせるようになり、晩年義仲が眠る義仲寺(ぎちゅうじ)に埋葬するよう遺言し、義仲寺には芭蕉の墓があります。義仲に特別な思いを持っていた芭蕉は、多太神社で義仲が奉納した宝物を見た時、実盛の最後を追懐し、鬢髭を黒く染めて戦った誇り高い武士魂と図らずも恩人を討ってしまった義仲の心情を思い、感慨深いものがあったはずです。
義仲が奉納した実盛のかぶとは、今も多太神社で見ることができます。
通常は予約が必要ですが、7月下旬の「かぶとまつり」では一般公開されています。
かぶと保存会(0761-21-1707)に予約し、平成18年5月4日に拝観させていただきました。
宮司さんに案内されて宝物館の戸を開けると、テーブル状のショーケースの中に兜は展示されていました。
中央の祓立(はらいだて)には八幡大菩薩の文字が彫られ、古雅で気品高い兜の姿にしばし見とれ、八百年余り前の悲哀に思いを馳せました。
大きく破損していたかぶとは明治33年に国宝に指定された時に一度解体修理され、昭和25年には重要文化財となりました。
篠原合戦で討たれた実盛は死んで怨霊神となり、稲を食うサネモリという虫になったという。それというのも実盛は稲につまずいて倒れ、それが原因で手塚に討たれたと伝えられます。
田植えを終えた祭り「さなぶり」が「さねもり」に重ねられ、稲の害虫よけを実盛の霊に祈る慣わしが現在でも北陸地方を中心にした農村に残っています。
実盛の説話はやがて謡曲の舞台となり、文芸・民間伝承の中に長く生き続けています。
拝殿本殿
室町時代、時宗の祖一遍から14代にあたる遊行上人太空が実盛の霊を供養したという縁起にもとづき、代々の上人は加賀国に布教の際、多太神社・実盛塚で回向するのが慣例となりました。
『参考資料』
新編日本古典文学全集「松尾芭蕉集」(1)(2)小学館
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 山本健吉「奥の細道」飯塚書店
菅野拓也「奥の細道三百年を走る」丸善ライブラリー
佐々木信綱「芭蕉の言葉」淡交社 金森敦子「芭蕉はどんな旅をしたのか」晶文社
水原一「平家物語の世界」(上)日本放送出版協会 新潮日本古典集成「謡曲集」(中)新潮社
「石川県の歴史散歩」山川出版社 「石川県の地名」平凡社
コメント
この短い句を読む事で一瞬にしてその生き様の見事さと哀れさ、はかなさを我が事のように感じますね。
今まで詳しく書いて下さったのを読んで承知しているから尚ですが、哀れと感じたその気持ちをどう表していいか分からない素人さえ、その句を読んで本当にそうだと胸を突かれ納得します。
義仲を読んだ句碑も以前目にしましたが、各地に芭蕉の句碑が立つのは皆思いは同じという気がするのでしょうね。
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