絶対はなく、多様性が真

Facebook・古宮 昇 さん投稿記事 💖絶対のカウンセリング法ってないんやなぁ⭐

ぼくの亡くなったお師匠さんは、共感的カウンセリングの能力がものすごく高い、すごいカウンセラーだったと今も思います。

そのお師匠さんは、共感的な傾聴以外は深いレベルで来談者の変化を助ける真のカウンセリングとして認めませんでした。

それとは異なるとても効果的なAセラピーというものがあります。

Aセラピーは、傾聴とは考え方もやり方もまったく違います。

Aセラピーの先生は、共感も傾聴も否定します。

ぼくはカウンセラーとして、来談者の希望に応じて主に3種類のカウンセリング法を

使って援助をしています。

来談者によってはどのカウンセリング法がベストか迷うことがあり、信頼するスピリチュアルなコンサルタントさんによく相談します。

すると「この方にはAセラピーがいいです」「この方はAセラピーは効果が出ません。傾聴カウンセリングがいいです」などなど、来談者によって答が違い、そのアドバイスに沿って援助をしてたいていうまく行っていると思います。

そんな経験を何度もして、カウンセリング法はどれか1つだけが正しいとか他より優れているとか、そういうことはないものやなあ、と思います。

それって当たり前のように思う人が多いと思いますが、世界の臨床心理学ではもう何十年も前から、さまざまなカウンセリング法の創始者やその優れたフォロワーたちが、「〇〇療法がいい」「いや、××カウンセリング法が正しい」と戦ってきました。

今でも、臨床心理学の世界でも、心理学者ではないカウンセラーなどの間でも、自分のやり方こそが正しい、というような主張があります。

でもきっと、この世のものごとに絶対はなく、多様性が真なんだろうな、と思います。


http://www.basho.jp/senjin/s1209-1/index.html 【草いろいろおのおの花の手柄かな

芭蕉(笈日記)】より

この句は昭和五十八年、アメリカのレーガン大統領が衆議院本会議場での演説に引用したことで知られている。

 「いろいろな種類のたくさんの秋草がいろいろな花を咲かせているが、それはめいめいの草の手柄といってよい」という意。自然の力のすばらしさにあらためて感動している句であろう。『笈日記』岐阜の部に「留別四句」の一句として掲出されるので、貞享五年、『更科紀行』に旅立つ時の別れを告げる句である。見送りの人々対する感謝の気持ちを表明しているのであろうが、その陰にこの時の送別句に対するそれぞれの出来ばえをほめる意味をこめている可能性がある。

   貞享五仲夏 

   その年の秋ならんこの国より旅立

   て更科の月みんとて、

   留別四句

送られつおくりつ果ては木曾の秋 翁

草いろいろおのおの花の手柄かな

   人々郊外に

   送り出で三盃を傾侍るに

朝顔は酒盛り知らぬ盛りかな

ひよろひよろとこけて露けし女郎花

上記「留別四句」の内、「朝顔は」及び「ひよろひよろと」の句は『曠野』「初秋」の部に入集し、「おくられつ」の句は同じく『曠野』の「旅」の部に入っている。しかしこの「草いろいろ」という句だけは入集されていないことから、その意図が気になるところである。なお「草いろいろ」という表現は『古今集』秋上の「みどりなるひとつ草とぞ春は見し秋はいろいろの花にぞありける」(読み人しらず)を踏まえるとされる。

 掲出句の句碑を探して戸塚に出掛けた。戸塚は旧東海道五番目の宿場である。江戸からは約十里(40キロ)にあり、当時の成年男子の標準的な一日の行程が十里であったので、最初の宿泊地として繁盛した。多分芭蕉も泊まったであろう。

  この句碑があるという八幡社は中々見つからない。区役所に駆け込んでようやく矢部町の街山(つじやま)八幡社であると教えられる。今は車も入れないような複雑な住宅地の中で、入り口には庚申塔や地神塔などの古碑が並び、境内には力石(鳴息一心)がある。境内の外の道路際、鉄柵の中に句碑を見つける。「霊水池」と書かれた井戸があり、その隣のほぼ四角の白い自然石に「草色々おのおの華の手柄かな」と刻まれ、周囲には「蛇のひげ」だろうか、青々とした草が植えられていた。区役所の資料に文政八年(1825)の建立とある。

  句意が比較的わかりやすいこの句は、東海道、鎌倉道、大山道を行き交う大勢の旅人を励まし、慰めたのであろうと往時を偲んだ。


https://blog.ebipop.com/2017/12/basho-kusa.html 【草いろいろおのおの花の手柄かな】より

芭蕉は元禄元年八月に、仲秋の名月を鑑賞するために美濃の地から信州更科への旅に出る。

「更科紀行」の旅である。

そのときに芭蕉は、見送りに来た岐阜の門人たちに留別吟を残している。

留別吟とは、旅立つ人があとに残る人に向けて詠む別れの句のこと。

芭蕉にとっては、「笈の小文」の旅へ出て以来、信州更科を経て、約十ヶ月ぶりに江戸へ帰る旅となる。

草いろいろおのおの花の手柄かな 松尾芭蕉

掲句は、その留別吟のひとつ。

見送りの門人たちを草に喩えているというのが一般的な「解釈」であるようだ。

いろいろな特長を持った草があるように、私(芭蕉)にはいろいろな特長を持った弟子がいる。その弟子たちがそれぞれの特長を活かしてすばらしい花を咲かせている。

という、見送りの門人たちへの感謝と賞賛の念を表明している句であるとされている。

なるほど。平易で馴染みやすい句である。

芭蕉の俳諧は様々なイメージを表現している。

ひとつの句の中にイメージが混在しているのではと思うこともしばしばである。

当然のことながら、新たなイメージを句から感じたときは、それまでとは異なる視点でその句に接していることになる。

視点を変えれば、別な世界が広がって見える。これも芭蕉の俳諧を読む楽しさのひとつ。

草が大地に根を張って、雨風をしのいでいろいろ努力している結果、おのおのの開花が実現している。

花が咲いているのは草の手柄であるというイメージ。

そういうイメージがある一方、いろいろな草が豊かに生い茂っているのは、それぞれの花の手柄であるというイメージ。

花が受粉を促し結実して種子をつくる。

その種子が発芽して草を生い茂らせている。

鶏が先か卵が先かではないが。草と花の手柄あらそいという印象を掲句から感じている。

花は、芭蕉が師となっている蕉門の喩え。

草は、その門人の喩え。

そうであるとしたら、これは門人と蕉門(芭蕉)の一門発展の手柄あらそいを彷彿させる。

以下は「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)」からの抜粋。

「近来各地の芭蕉人気の上昇を背景に、旅の経過地ごとに前回にも増した歓迎に逢う中で各地の蕉門勢力は増大する。再訪の地尾張では一月半にわたって多くの新参も交える連日の句会に引き回され、・・・・・・・・。歳末から翌春三月までの伊賀帰省中のは俳交の記録と参入の門人の顔ぶれも一挙に増え、滞在中に再訪した伊勢山田でも多数の新人の参加で賑わう。・・・・・初訪問の岐阜俳壇の歓迎は殊に熱烈で、ここに蕉門の一淵叢(えんそう)が誕生する。」                                          ※淵叢(えんそう):物事の寄り集まる所。活動の中心地。(ブログ管理人注)

上記抜粋を読むと、「笈の小文」の旅の訪問地での蕉門の盛況ぶりを窺い知ることができる。

掲句は、芭蕉がその盛況ぶりの感想を句に詠み、その句を留別吟としたのである。

「笈の小文」の旅を終えた芭蕉の感想が、そのまま留別吟となったのだと思う。

蕉門という花が見事に咲き乱れているのは、草に喩えた門人たちの活躍によるものである。

と同時に、生い茂る草のように門人たちが活躍できるのは、蕉門という大きな花が咲いているから。

芭蕉が蕉門の名声を世に轟かせているからである。

蕉門俳諧の発展の手柄は、草(門人)と花(蕉門=芭蕉)の双方にあるという芭蕉のメッセージのようにも受け取れる留別吟である。

芭蕉は、「蕉門の一淵叢(えんそう)が誕生」した岐阜の門人たちに「君たちもえらいが、俺もえらい。」と言い残して信州更科へ旅立ったのです。


https://ameblo.jp/yukiya-happy/entry-12214569718.html 【草いろいろおのおの花の手柄かな】 より

世の中には色々な人がいる。努力家もいれば怠け者もいる。 

だけど努力家が良くて、怠け者がいけないという事はない。

なぜなら世の中は多種多様な人によって、構成されているのだから。 

草いろいろおのおの花の手柄かな

これは江戸時代の俳諧師、松尾芭蕉の俳句だ。

秋に咲く草や花は、桔梗や菊のように立派な花だけでなく、名もない雑草まで様々だ。 

草や花は多種多様な種類があるが、様々に工夫を凝らした花が咲く。

そう、おのおのが花の手柄なのだ。花だけでなく草もあるから、秋の野山は美しい。

おそらく松尾芭蕉は、そのような自然の美しさを感じ、このような俳句を作った気がする。

僕たち人間も違っているのが自然だ。

自分で努力して花を咲かす人もいれば、何の努力もしないで花を咲かす人もいる。

怠けながらノンビリ生きる人もいれば、雑草のように強く生きる人もいる。

どれが良くて、どれが悪いわけじゃない。

努力したい人は努力すればいいし、怠けたい人は怠ければいい。 

そうやって多種多様な人によって、この世の中は構成されているのだから。

自分らしく生きるのが一番ぜよ!

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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