上善如水

https://ameblo.jp/yukiya-happy/entry-12213919315.html 【正義の味方きどり?】より

僕たちは「みんな同じ世界」に住んでいるようで、実際はみんなが「それぞれの世界観」に住んでいる。

だからどれだけあなたが、「これが正しい」とか「これは間違い」とか言っても、それが交わる事はない。 

なぜなら、僕たちはそれぞれ違う価値観を持って生きているのだから。 

人はつい自分の基準で人を裁く。

「これが良い」とか「これが悪い」とか「正しい」とか「間違い」とか 「働かない者は怠け者だ」とか「人間はもっと努力し、頑張るべきだ」とか 誰もが「自分の国」の法律で、

他の国に住んでいる人を裁こうとするのだ。

こうするべきだ。こうあるべきだ。こうしなければならない。こんなことはしてはならない。

そうやって自分で作った法律で、自分自身を制限し、裁いている。

まるで「正義の味方」になったかのように…

自分が「いい人」になっているつもりで、「悪者」を裁こうとしているけど、もしかしたら誰かを裁いている正義の人が一番誰かを傷つけているのかもしれない。

「だってそれが世間の常識だから」「だってそれが世間の正しさだから」

そうやって自分の正義で悪を裁く人が、実は「悪」を作り出していたりする。

なぜなら「自分は正しい」という概念が、他人への思いやりを忘れさせ、新たな問題を作り出してしまうのだから。 

中には他人を先入観で決めつけ裁く人もいる。

相手には相手の思いがあるというのを忘れて、ただ自分の住んでいる世界の法律に従い、

正義の味方きどりで悪者を退治しようとする。 

でもさ…。どの価値観が正しいとか、どの考え方が正しいとか、そういう事じゃないんだ。

どの考え方が自分にとって“一番生きやすいか”なんだ。

それは人によって違うんだから、万人共通の答えがあるはずがない。

あなたにとっては「悪」だとしても、他の人にとっては「正義」かもしれない。

あなたにとっては「正義」でも、他の人にとっては「悪」かもしれない。

だからもっと自由になる事だ。

あなたはあなたの世界を楽しみ、僕は僕の世界を楽しんで生きる。

無理して自分の世界に引っ張る必要はない。

だってほっといてもその世界が楽しそうなら、あの人だってこちらの世界に入ってくるから。

だから自分の中にある制限を外して、他の人の世界も受け入れていこう。

僕たちはみんな同じ世界に住んでいても、人それぞれが自分の世界を選び、自分に合った世界に住んでいるのだから。


https://ameblo.jp/yukiya-happy/entry-12214267333.html 【上善は水のごとし】 より

世間的に「立派」と言われる肩書きなんかなくても、誰もが自分らしく生きている。

そう、生きているだけですでに「立派」なのだ。

人間がする事で何が偉いとか、何が偉くないというのはない。

本当は「落ちこぼれ」もいないし、人生に無駄な事もない。

他の人より遅れていたとしても、他の人より劣っていると感じても、あとから考えればすべてに意味がある。だから焦る必要なんてないんだ。 

人にはそれぞれ役割があり、それはそれぞれ違っている。

駕籠(かご)に乗る人、担(かつ)ぐ人、そのまた草鞋(わらじ)を作る人 。

僕たちはそれぞれの役割を持ち、そして互いに支え合いながら生きているのだ。 

だから、無理せず、焦らず、頑張り過ぎずに…あわてず、ひがまず、水の流れのように生きよう。

水は形を持たないが、さまざまな形に変化できる。 

「上善は水のごとし」だ。

型にハマった考え方を捨てて、流れに上手に対応しよう。

溜まりに入ったとしてもあわてる必要なんてない。

きっと淀みも少しずつ、少しずつ、解かれていくはずだから。


https://tukinoshizuku.jimdofree.com/%E3%81%8A%E8%A9%B110-%E8%80%81%E5%AD%90/  【老子のお話】 より

「上善如水」(じょうぜんみずのごとし)という言葉があります。知らない人は、白瀧酒造さんの日本酒の話?と思うかもしれません。水のように、あっさりしていて、なかなかおいしい日本酒です。この言葉は、老子(ろうし)という人の言葉です。

人間の理想的な生き方は、「水」のような生き方だという意味です。

「水」は、高い所から低い所へ、自然に逆らわず流れていきます。それが、善い生き方だということです。

「無為自然」(むいしぜん)というのも老子の言葉です。人の手を加えず、あるがままに任せておくという意味です。

「柔能剛制」(じゅうよくごうをせいす)という言葉もあります。

台風などで折れるのは堅い木で、柔らかくてしなやか木はなかなか折れません。

柔らかいものの方が、硬いものより強いという意味です。柔道は、この考え方から生まれました。

いろいろと老子の言葉はありますが、私が、一番、すごいと思う言葉は、「無用の用」(むようのよう)という言葉です。

世の中で無用なものなどは何一つないという意味です。人間は無用なものと、有用なものを分けようとします。綺麗なものの方が価値が上だと思い、汚いものは除こうとします。

だけど、人間の判断で醜いものと綺麗なものを分けようとした時に分ける基準は何でしょう?ある人が醜いと思っても、違う人は綺麗と思うかもしれない。

前は嫌いだったかもしれないけど、好きになるかもしれない。あまり、分けない方がいいよということです。

整形手術なども、そういった表れでしょう。

悪いと思っている部分を治すと、今度は他の部分が気になってきりがありません。

潔癖症なども、そうでしょう。

神経質になりすぎると時間と労力を費やして、その上に満足する結果が得られなくて病んでしまいます。

悪いものを無くそうとする考えに無理があります。まったく、掃除をするなとは言いません。だけど、出来るだけ拘らずに自然のままがいいという事です。

芸術の世界でも、同じ事が言えます。

幻想的な絵画も素敵です。美しい詩も、すばらしいと思います。

だけど、ありのままを描写した芸術も、なかなか味のある作品があります。

日本人が発見した、「わび・さび」の心です。

「古池や蛙飛び込む水の音」老子に影響を受けた、松尾芭蕉の俳句です。

古池や、蛙は、あまり綺麗な言葉じゃありません。

その、ありのままの自然を俳句にして、味のある芸術を完成させています。

詳しくは、境野勝悟「老荘思想に学ぶ人間学」という本が致知出版社からでています。

なかなか、いい本だと思いますのでおすすめです。

ちなみに、司馬遼太郎の「胡蝶の夢」という本も新潮文庫からでています。

胡蝶の夢とは、老子の弟子的な存在である荘子(そうじ)の言葉です。

荘周(荘子)は蝶になる夢を見た自分が夢から覚めて、人間である自分はひょっとしたら蝶が夢を見ているのではないかと考えて夢と現実が分からなくなるという話です。

荘子はどちらも自分の姿であってどちらが正しくて、どちらが間違っているかを詮索する事自体がナンセンスなんだと言います。

価値が等しい事を「斉」(せい)と呼び、全ての事象は同じ価値があるという「万物斉同」(ばんぶつせいどう)を唱えました。

夢も現実も同じ価値があり、蝶の時には蝶の姿を楽しんで、人間の時には人間の姿を楽しめばよく、自然をゆっくり眺めながら散歩の時間を楽しめばよいという「逍遥遊」(しょうようゆう)という言葉を残しています。

ご飯を食べる時も、寝る時も、生きている事に感謝し、それをゆっくりと楽しむ生き方です。

人間の感覚や意識を無くして万物と一体になり、そこに自分が座っている事すら忘れる感覚を「心斎坐忘」(しんさいざぼう)と呼びます。

大阪の心斎橋(しんさいばし)は幕府が伏見の町人であった岡田新三らが私費で架けた橋だそうで、岡田新三の号であった「心斎」からとったそうです。

心斎橋は夢と現実を結ぶ橋なのかもしれません。

司馬遼太郎の「胡蝶の夢」は幕末に蘭方医を学び日本の医学の発展を夢見た松本良順や、その弟子の島倉伊之助のお話ですが、少し、老荘思想が隠し味として出てきます。

天才的な語学の才能を持ちながら、他人への思いやりが少し欠如した島倉伊之助を、ひらひらと自由に舞う蝶のような人物として魅力的に描かれています。

老子と荘子を指して老荘思想(ろうそうしそう)と呼びます。

自然が好きになる思想です。


https://textview.jp/post/culture/8102【老子が書いた「上善は水の若し」の真意】 より

理想的な無為のあり方を表現した言葉に、老子の「柔弱(じゅうじゃく)」がある。柔らかくて弱い(しなやかな)状態をいう「柔弱」の象徴として老子が挙げているのが「水」だ。

水の存在をたいへん尊重した老子。農業社会における水の重要性はいうまでもないが、水の性質を人の生き方に結びつけたところが老子の特徴といえる。東京大学名誉教授の蜂屋邦夫(はちや・くにお)氏に、老子における「水」の考え方を聞いた。

*  *  *

水についてのもっとも有名な文言が第八章です。

上善は水の若(ごと)し。水は善(よ)く万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に処(お)る、故に道に幾(ちか)し。

(最上の善なるあり方は水のようなものだ。水は、あらゆる物に恵みを与えながら、争うことがなく、誰もがみな厭(いや)だと思う低いところに落ち着く。だから道に近いのだ。)

非常にわかりやすいたとえです。水は大地に恵みを与え作物を育てたり、人々の喉を潤したりと、さまざまな利益を私たちに与えてくれます。さらに川を流れる水に目を移すと、しなやかに方向を変えながら岩を避けるようにして流れていきます。そして最終的には、人の嫌がる低い場所(濁っていたり、湿地であったりする場所)に落ち着きます。こうした水のありようを人間にたとえてみると、争いを好まない謙虚で善良な聖人の姿になります。

孔子の儒家思想でも「水(川)から学べ」といっていますが、老子と孔子とでは川のとらえ方が異なります。儒家は、川の流れが蕩々(とうとう)としていて尽きることがないことから、水(川)を「絶えざる努力の象徴」ととらえました。絶えず流れ動いている様子を勤勉な人間の姿にたとえたのです。一方、老子は、第八章のように、水を「何事にもあらがうことなく生きるものの象徴」ととらえていました。

衝突や争いをみずから避けて人よりも低い場所に留まるという生き方を現実世界で想像すると、謙虚というより腰の引けた卑屈な人物を思い浮かべてしまいます。しかし、老子は水がもっと大きな力を秘めていることも、ちゃんと認識していたようです。第四十三章には、こんな文言があります。

天下の至柔(しじゆう)は、天下の至堅(しけん)を馳騁(ちてい)し、無有(むゆう)は無間(むかん)に入(い)る。

(世の中でもっとも柔らかいものが、世の中でもっとも堅いものを突き動かす。形の無いものが、すき間のないところに入っていく。)

この「天下の至柔」(世の中でもっとも柔らかいもの)を「水」と言い換えると、次のようになります。

柔らかくてしなやかな水は、時には金属や岩のような頑丈で重いものを動かすこともある。さらにどんな形にも姿を変えることができる水は、ちょっとした隙間にも入っていくことができる——たしかに普段は穏やかな川の流れも大雨ともなれば増水し、濁流となって重い岩を動かしたり、山を削り取って地形を変えてしまうこともあります。さらに現代では、水をノズルで噴射して金属を切断することだってできます。

古代中国において、水は四角い器に入れれば四角になり、円い器に入れれば円くなるように、柔軟なものの代表でした。老子はもっとも柔らかい水に大きな力が潜んでいることも理解したうえで「上善は水の若し」と述べたのです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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