http://www.basho-bp.jp/?page_id=14 【俳聖 松尾芭蕉】 より
代々の賢き人々も、古郷はわすれがたきものにおもほへ侍るよし。
我今は、はじめの老も四とせ過て、何事につけても昔のなつかしきまゝに、、、、、。
古郷や臍の緒に泣としのくれ
『千鳥掛』所収
貞享4年(1687)12月、「笈の小文」の旅で、故郷伊賀の実家へ帰った芭蕉が、自らの臍の緒を見て、今は亡き父母の慈愛の情も懐かしく、しみじみと漏らした感慨である。芭蕉にとって故郷伊賀は忘れがたき特別な思いのする地であった。
伊賀国は四方を山に囲まれた盆地で藤堂藩の城下町であった。藩主藤堂高虎公は慶長13年(1608)、伊予から伊賀・伊勢へと転封し、大坂の豊臣秀頼への備えが任務であった。伊賀国10万石、伊勢国の内10万石、伊予国の内2万石を与えられる。津に本城を置き、伊賀上野は支城とし城代家老が執政を行った。
芭蕉がこの地に産声をあげたのが、寛文21年〈12月16日改元して正保〉(1644)である。幼少の頃、伊賀で流行していた俳諧に興味をもち、先輩俳人に手ほどきを受ける。10代の後半頃、文筆の誉れ高い藤堂藩伊賀付侍大将五千石の藤堂新七郎家に奉公に出る。嫡子良忠公は蝉吟と号し、芭蕉より2歳年長の文学青年で、京都の北村季吟に貞門俳諧を学ぶ俳諧好きであったことから、芭蕉も共に俳諧を学ぶ間柄であった。
芭蕉23歳のとき、良忠公が亡くなる。その後の芭蕉の動静は定かではないが、当時出版された俳書に「伊賀住 宗房(芭蕉)」「伊賀上野住 宗房」とあることから、伊賀に本拠を置き、時には京都へも出て、俳諧や文学に関する学問を積んでいたと考えられる。
伊賀時代における芭蕉の俳諧活動の結集は、寛文12年(1672)29歳のとき、伊賀の俳諧仲間を集め、初めて編んだ俳諧発句合『貝おほひ』で、小唄や流行語、奴詞を駆使しており、談林風の兆しがみられる。芭蕉はこの句合を上野天満宮(上野天神宮)へ奉納し、俳諧師として世に立つ文運を祈願し、春、江戸へと旅立った。
芭蕉が江戸へ下ってからも、各旅ごとに伊賀の実家へ度々帰郷している。大別すれば、
・1回目 延宝4年(1676)
・2回目 貞享元年(1684)から同2年 「野ざらし紀行」の旅中
・3回目 貞享4年(1687)から同5年 「笈の小文」の旅中
・4回目 元禄2年(1689)から同4年 「奥の細道」の旅を終え、近畿巡遊の旅
・5回目 元禄7年(1694) 最後の旅
である。芭蕉は旅の途中、伊賀の実家を拠点に京都・奈良・大津等へ赴き、門人たちと交流を重ねている。
保守的な貞門俳諧が主流の伊賀俳壇に新風を吹き込み、伊賀蕉門の形成に至るのは『笈の小文』の旅の帰郷であった。友田良品・梢風夫妻の招待、岡本苔蘇の瓢竹庵での止宿、旧主藤堂良忠公の息・良長(探丸)公の別邸における花見の宴での句の唱和をはじめ、各所で盛んに俳席が催され歓迎されている。ここに芭蕉の故郷伊賀に伊賀蕉門の存在が明らかになった。
伊賀蕉門の存在を世に示したのが『猿蓑』(元禄4年刊)で、一句のみの作者が大半を占めるとはいえ、入集者は半残・土芳・風麦はじめ全国一の29名を誇った。その俳風は、小児のような無心な態度から生まれた無邪気でユーモラスな詩趣で、去来は『去来抄』において「あだなる風」と評し、伊賀蕉門の特色としているとともに、「軽み」の到達とみている。芭蕉は晩年、伊賀の俳人たちに「軽み」の指導を行っているが、芭蕉の意を正しく理解し、作品に具現した門人は土芳・猿雖ら一部の人たちであった。
元禄7年(1694)8月15日、伊賀の門人たちの合材によって一棟の草庵が芭蕉に贈られた。芭蕉は転居祝を兼ね、仲秋の名月に句会を催し、心から門人たちをもてなしている。その折に芭蕉自ら筆をとった「八月十五夜 月見の献立懐紙」は、今日に伝わっている。
それから2か月後の10月12日、芭蕉は大坂で病没した。
芭蕉没後、伊賀蕉門の中心となったのが服部土芳で、土芳は蓑虫庵を拠点に芭蕉の俳諧を後世へと継承した。土芳の最大の功績は、芭蕉晩年の俳論を『三冊子』にまとめ完成したほか、芭蕉生涯の全作品を集大成し、『蕉翁句集』『蕉翁文集』『奥の細道』の三部書などを完成し、亡師の霊前に供えている。
芭蕉はすぐれた俳諧師であるが、師芭蕉の教えを忠実に守り、後世へと「蕉風俳諧」を伝えた土芳の存在を忘れてはならない。
https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519942717.html 【蓑虫庵】 より
○上野天満宮から西に百辰曚氷圓と、広い銀座通りに出会う。ちょうど上野城横から真っ直ぐ南下する道である。最近になって道路拡張されたのだろうか、両脇の歩道も広く、真新しい新道である。
○蓑虫庵に行くには、その銀座通りを七百辰曚鋲邁爾垢襦8紊乃ど佞い燭海箸世、伊賀上野市の寺町通りが上野天満宮の裏から続いているので、城下町を味わおうと思えば、上野天満宮から裏に回り、寺町通りを南下する方が趣深かったのではないか。
○ちょうど昼近くであったし、早朝からずっと歩いているので、だいぶん疲れていた。何処かで休憩でもしたかったのだが、どうせなら、最後の蓑虫庵を見終わってからゆっくり休もうと思った。途中、食彩館とか焼き肉屋、日本料理店、中国菜館、忍者珈琲館といろいろあっただけに、ここで休むべきであった。簑虫庵で時間をかけて見学していたら、随分遅くなってしまった。
○上野東日南町の大きい信号の一つ先の信号を右折、二百辰らいで蓑虫庵に到着。上野天満宮から簑虫庵まで1劼らい。ここ蓑虫庵は服部土芳の庵である。
○前にも触れたが、伊賀上野の芭蕉五庵とは、無名庵・蓑虫庵・東麓庵・西麓庵・瓢竹庵の五庵。東麓庵・西麓庵は、猿雖の庵で、瓢竹庵は、苔蘇の庵。蓑虫庵は、土芳の庵である。このうち、土芳の蓑虫庵だけが現存する。別に、愛染院には瓢竹庵が復元されている。
○蓑虫庵の前に、以下の案内板が設置されていた。
県指定文化財「史跡及び名勝蓑虫庵」
昭和十三年一月十九日指定
伊賀における芭蕉ゆかりの草庵には、瓢竹庵、東麓庵、西麓庵、無名庵、蓑虫庵があり、後に「芭蕉五庵」と称しましたが、唯一現存しているのが蓑虫庵です。
蓑虫庵は松尾芭蕉の伊賀上野における門人服部土芳(一六五七~一七三〇)の草庵で、元禄元年(一六八八)三月に入庵しています。庵号は芭蕉が「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵」の句を贈ったことによるものと伝えられています。
土芳は伊賀蕉門の中心人物としてここで芭蕉の偉業を後世に伝えるため、「三冊子」をはじめ、「蕉翁句集」「蕉翁文集」「奥の細道」などを著しています。また入庵後の生活を事細かく書きとどめた「庵日記」「横日記」「蓑虫庵集」等を通じて当時の蕉門伊賀連衆の動向が手に取るように理解できます。
同十二年(一六九九)十一月二十六日庵は焼失してしまいましたが、その後ほどなく門人土田杜若らの援助により再興しています。享保十五年(一七三〇)土芳没後、庵は荒廃しましたが東町の豪商築山桐雨が安永三年(一七七四)に、片原町の豪商服部猪来等が文化七年(一八一〇)に再興しています。
明治維新の変換期を迎えて以後、町井台水、辻本専之助、中村玄瑞、濱邊毎文、菊本直次郎、赤塚進一各氏ら上野市に縁故のある篤志家に継承され、敷地も拡張、南門(現状の正門)や中門が建てられました。
昭和に入り、管理棟背後の茶室や芭蕉堂が建てられ、このとき表門(現状の東門)の建替えや、土芳の供養墓・句碑等も整備されました。
昭和十三年一月十九日、蓑虫庵は「史跡及び名勝」として三重県指定文化財となり、昭和三十年十二月に上野市の所有となりました。翌三十一年から一般公開されています。
なお、平成四~六年度において「史跡及び名勝蓑虫庵」の復元修理工事が行われました。
伊賀市教育委員会
○上記の案内板を見るだけで、この蓑虫庵の凄まじいまでの経歴をうかがうことが出来る。蓑虫庵が出来たのが元禄七年(一六八八)であるから、これまで322年を経ていることになる。その間、火事で焼失したり、荒廃しては再興を幾度となく繰り返して来ているわけである。
○特に、明治以降の変遷は著しい。芭蕉が著名になるにつれ、蓑虫庵の評価も格段に上がったのであろう。それでも行政が蓑虫庵の管理・保存に乗り出したのは昭和十三年(一九三八)以降と思われるから、蓑虫庵は芭蕉の熱烈な支持者によって何とかその命運を保ってきたと言えるのではないか。
○こういう草庵は、一般の建築物と違って、極めて繊細な建物である。それは庭を含めてそうであって、本来、草庵は数寄者の住むところであるから、その数寄者がいなくなると、草庵を維持することはなかなか難しいわけである。
○茶室もそうであるが、草庵を営むのも大変である。相当な、精神的ゆとりと経済的ゆとりが無い限り、こういう草庵など営むことは出来ない。現代人とまるでかけ離れた極地に存在するのが茶室であり、草庵なのだろう。こういう草庵を営んだ土芳の精神性の高さに驚く。
○現在、蓑虫庵に存在する多くの塚や芭蕉堂などは、後世、他所から他人の持参したものである。そういうものが本来ここに存在するはずがない。無為自然を楽しむ土芳がそういうものを受け入れるはずもなかろう。後世の人々は、ここにその精神性を求めず、有名を求めている。土芳は道士であるからして、無名を求めたはずなのに。
○「芭蕉めぐり 3施設割引共通券」の最後がこの蓑虫庵であった。
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