http://bungeikan.jp/domestic/detail/408/ 【現代俳句の起源——俳句における写生と想像力を考える(序説)】 より
Ⅰ 子規の「写生」が意味するもの
明治以来の基本的な文芸思潮であり、また俳句においては、正岡子規が使用し、近代俳句を方向付けた方法といわれる「写生」も、よくよく考えれば、かなり曖昧であるといわざるをえない。私たちは、何気なく、つい「写生」ということばを口にする。たぶん、そのことばを発信するほうも、受信する側も、「写生」の大事な概念をきちんと理解していない場合が多いのではないだろうか。
正岡子規の「写生」は、画家中村不折からのおおきな影響によるものと一般的にいわれている。その中村不折の師匠筋にあたる人が、詩情のにじむ写実的画風を確立した洋画家浅井忠で、また彼は、イタリアの画家アントニオ・フォンタネージから理論と実技を習ったのだった。つまり正岡子規の「写生」は、その源流をアントニオ・フォンタネージに遡ることができる。彼の講義録が、「フォンタネージ講義録」として残存し、現在では、輪郭、色彩、明暗、遠近法などの絵画技術(模写法)が、どのように彼の弟子たちに伝わり、また中村不折を通していかに正岡子規に影響をあたえたかが、研究者によって検討されている。
たとえば、明暗と遠近法の二つを例にとってみよう。西洋の写実画のもっとも基本的なこの二つの技法は、対象を描く画家の視点を絶対的な基準とするのが大前提になる。こうした方法では、画家と自然などの対象との緊張感に満ちた対峙(対立)が基本となる。ポール・セザンヌの晩年のひじょうに厳しい作品「サント・ヴィクトワール山」に見られる、あの身震いするような対象との緊張関係を想像されるとよい。さらにいえば、レオナルド・ダヴィンチの「手記」に書かれている「遠近法」の科学的厳密さは、ほとんど日本人の芸術的思惟性と感性をはるかに超えている。高階秀爾は、日本に明暗法や遠近法が定着しなかったのは、自然と対峙する人間がいなかったからだという。同氏は、京の町の様子を描いた「洛中洛外図」を例に、画家の視点の自由な移動について、このように言及する。
西欧の写実主義が、一定の視点からの人間との位置関係、すなわち人間と外界との距離を測定することによって成立するものであるのに対し、日本の写実主義はつねに視点と対象との距離を無視することによって、すなわち鳥や昆虫でも、人びとの動作や表情でも、すぐ目の前で観察することによって成り立っているのである。(高階秀爾『日本近代の美意識』)
高階秀爾が指摘する「日本の写実主義はつねに視点と対象との距離を無視する」ことは、「洛中洛外図」の例のみならず、さまざまな日本絵画に顕著であろう。要するに、レオナルド・ダヴィンチ流のきわめて厳密な科学的絵画技術が、日本人の文化的土壌に育たなかったのである。いうまでもなく、慧眼の正岡子規は、こうした日本の文化的特性に、いちはやく気付いていた。もちろん日本の伝統的文化の良さを十分に認識していた子規だが、わが国の偏狭的な文化構造に、ある疑念をも抱いていたのだ。
想像するに、中村不折らの西洋画からの影響のほかに、当時の文学界を席巻していた坪内逍遥や二葉亭四迷たちの「写実主義」の流行にも、正岡子規は、目を奪われていたのにちがいない。小説にたいそう意欲を燃やし、26歳(1892)のとき、尊敬する幸田露伴に、自分の小説『月の都』をみてもらったほどの子規であるから、そうとうに文学全般の時代的知識をもっていたはずである。したがって、フレキシビリティーのある彼が、これを俳句に応用しないことはありえない。江戸時代に一大勢力を誇っていた月並俳句の、ある意味でパターン化しマニュアル化しつつあった古い美意識の打破こそが、まず正岡子規の狙ったことであった。私たちは、ともすれば、子規の「写生」に、すべてを収斂させてしまう傾向があるけれど、これはたいへん危険だ。従来の俳句の、いわくいいがたい固陋な部分の超克という至上命題と、「写生」はあくまでも表裏一体なのである。川崎展宏は、子規の「写生」を「月並み俳句の固定化した美意識、古い秩序に順応する世間智との縁を断ち切って、近代俳句を出発させるのに最も有効な方法」(『現代俳句辞典(第二版)』)ととらえた。
正岡子規自身が「写生」について長大な論文を執筆していないために、私たちは彼のいろいろな文章から、この項について、緻密かつ丁寧に関連内容を抽出、点検しなければならない。「我が俳句」という文章には、「我の美とする所は理想にもあり、写実にもあり、理想的写実、写実的理想にもあり、而して我の不美とする所も亦此等の内にあり。」と書かれている。「写実」と「写生」をまったく同義とするわけにはいかないが、ほぼ同じレベルのことばと考えてもよいのではないか。このいいかたをさらに敷衍すると、『俳諧大要』の有名な一節になる。「俳句をものにするには空想に倚ると写実に倚るとの二種あり。初学の人概ね空想に倚るを常とす。空想尽くる時は写実に倚らざるべからず。」こうした正岡子規のことばから何が読み取れるかというと、想像力(空想力)と写実的把握力の二つを武器に、彼が自由自在に俳句創作したことだ。前述したように、子規は、きわめて柔軟な頭脳のもち主なのである。想像力(空想力)と写実的把握力の二つのどちらかが欠けても、説得力のある良い俳句作品が成立しないのを、鋭敏に感受していたのだった。ここで注意しなければならないのは、俳句創作の場合の「写生」(写実)と文学活動全般(それはまた生き方そのものでもあるが)におけるそれとは、根本的にスタンスを異にしていることだ。確認のために、もう一度書くが、正岡子規における「写生」は、第一に自分の生を貫く基本的な態度の方法であって、それは先にもいったように、因習的・固定的な思考スタイルから脱却し、あらゆることをデカルト的に疑う科学的な認識の仕方を身につけることであろう。大江健三郎が示唆した「かれは世界のありとあることどもについてデモクラティックになる。そのような人間の眼に世界はその全体的、総合的な姿をいかにも自然にあらわすことができる。」(『子規全集第十一巻』解説)というとらえかたは、だからとても大切なことがらであるにちがいない。この「写生」の内実を基準点にして、俳句創作を始める子規ではあるものの、これだけで、すべて完璧におさまるものではないことを、子規はたしかによく知っていた。
『俳諧大要』に書かれている「俳句をものにするには空想に倚ると写実に倚るとの二種あり。」が、すなわち子規のしたたかな戦略であることに、私たちは気付くべきである。かつて小林秀雄は、『近代絵画』の中で、ミレーのことに触れて「自然の観察は大事だが、観察したことを皆忘れることも大切」で、「ミレーはアトリエの中で、記憶によって仕事をし、風景を構成した。」といった趣旨のことを述べた。詭弁になることを承知のうえで書けば、写真撮影でもしないかぎり、観察したとおりに寸分の狂いもなく、それを描いたりすることはぜったいにできない。(せいぜい対象に近づけることぐらいであろう。)いわんや、五七五の俳句において、「写生」などほとんど不可能だろう。けっきょく対象のかたちをなぞることと再構成が一緒になってはじめて「写生」が実現できるのだ。江藤淳は、その著書『リアリズムの源流』の中で、高浜虚子の「写生趣味と空想趣味」の文章を引き、正岡子規の「写生」について、次のように記述した。
「写生」の客観性という概念は、無限に自然科学の客観性に近づく。極言すれば、子規の意識のなかでは、「夕顔の花」は「夕顔の花」という言葉ではなくて、「其花の形状等目前に見る」印象の集合でありさえすればよい。ここでは言葉は言葉としての自立性を剥奪されて、無限に一種透明な記号に近づくことになるからである。(江藤淳『リアリズムの源流』)
「夕顔の花」から、トラディショナルな一切の観念を解放すること、具体的にいえば、「其花の形状等」を科学的に観察することにより、正岡子規は、その花に対する自分の感じかたが変化したという。「夕顔の花」といえば、源氏物語のあの「夕顔」の段に結びつくのがふつうだが、それがはっきり立ち消えたわけだ。だが、はたして江藤淳の示唆のように、「夕顔の花」に関するあらゆる伝統的な連想を漂白還元して、子規は句作したのであろうか。じっさい「其花の形状等」の科学的な観察により、今までにない新しい見かたが実現できる場合もあろう。しかし、瞬間的な観察だけで、すべての俳句作品が成立するわけではない。時間の経過を経るにしたがい、作者が記憶をたどって、「夕顔の花」からさまざまなことを連想し、意識的にあるいは無意識的に意味の書き換えをすることだってある。だからこそ、一つの作品が、多義的な色彩をもち、すなわち読者に豊かな読後感をあたえるのだ。私たちは、このようなことを一般的にことばの「コノテーション」(言外の意味)とよぶ。江藤淳は、正岡子規のケースにおいて、「夕顔の花」が「一種透明な記号」に近づくといっているけれど、それはまちがいないだろう。とはいえ、冷静に考えてみると、それが完全に「透明な記号」になることはありえない。ことばは読み手によって、千変万化する。必ずしも知力の高い読者でなくても、「夕顔の花」に対するバラエティーに富んだ解釈をするにちがいない。
もともと正岡子規が「写生」を志したのは、写実的な「絵画」を中心にしたものとの出会いからだった。(むろん、小説というメジャーな文学からの影響もあっただろうが)それらの体験のパースペクティブな思考の積み重ねにより、子規一流の「写生」が編み出されたのである。彼の「写生」論は何よりも「方法」と「態度」としてのシンキングメソッドの色合いが濃い。
Ⅱ 「風景」の超克へ
かりに一般の読者が、「写生」とその周辺の内実を探ろうと、正岡子規の代表的な著作、たとえば『俳諧大要』『墨汁一滴』『松蘿玉液』などを精読したとしても、たぶん模範解答のような正しい答えが得られないのではないだろうか。『俳諧大要』の「修学第二期」には、俳句創作の方法には「イマジネーション」(空想)と「写生」(写実)の二種類があるとして、初心者の人はふつう前者に頼ることが多いけれど、それが尽きた際は、後者に依拠する必要がある、といっている。そして子規は、「写実」の目的で、「天然の風光」を探るために、数十日間の「旅行」(行脚)をすすめ、このように書く。「公務あるものは土曜日曜をかけて田舎廻りを為すも可なり。半日の閒を偸みて郊外に散歩するも可なり。已むなくんば晩餐後の運動に上野、墨堤を逍遥するも豈二、三の佳句を得るに難からんや。」なんのことはない、今ではごくありふれた「写生吟行」のことを、子規は書いているのだ。私は、このセンテンスをよむたびに、不思議に思う。子規ともあろう人が、まあなんて月並みで教条主義的なことを書くのだろう、と。しかし、この『俳諧大要』の当該文章とは異なり、次の正岡子規のことばは、一見するとなんの変哲もないが、よく味わってみると、ひじょうに説得力がある。
草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密が段々分つて来るやうな気がする。(『病牀六尺』)
長く病床にある正岡子規の楽しみといえば、もちろん絵筆をもって行う「写生」であることは、いうまでもない。「花は我が世界にして草花は我が命なり。」(「吾幼時の美感」)とする子規にとって、草花の「写生」は、おそらく自分自身の命の証であっただろう。その子規が一心に草花を見つめながら「写生」することにより、「造化の秘密」を獲得することができる、というのだ。さて子規のいう「造化の秘密」とは、いったい、どういうことなのだろう。とうぜんのことだが、「天地とその間に存在する万物をつくり出し、育てること」(松村明編『大辞林第二版』)が「造化」の本来の意味である。もちろん「風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。」という松尾芭蕉の有名なことばが、子規の頭の中にあったのかもしれない。いずれにせよ、天地自然の本当の姿にならい、そのままに生きる、ということなのであろう。「写生」のことばは、何かと誤解されやすいが、その芯に、「造化」を内在させる。このように考えたほうが、「写生」の真の意味をきちんと把握できるのではないか。
先に(「Ⅰ子規の「写生」が意味するもの」)で、正岡子規の「写生」の定義として、西欧流の「科学的な認識の仕方を身につけること」と書いた一文とあわせて、「造化の秘密」を理解していただけたら幸いだ。「写生」に対する子規の独創性といえば、ただたんに、一般的な「造化の秘密」に到達するための一手段であるだけではなく、やはり客観的で厳密な観察を行うその認識方法なのであろう。この二つの「写生」のポイントを、まず子規の心臓部として、しっかりおさえておきたい。正岡子規の「写生」に関する二つのポイントから、私は、ポール・ヴァレリーのある文章を思い出す。
この人はこうして以前に観た空間を想い起こし想い起こししてはいま眼前の空間を完全へと仕上げてゆく。やがて、この人は、相次ぐ印象を、想うままに、列べてみたり解してみたりする。奇妙な組み合わせにも妙理を読みとることができる。一叢の花、一群の人、一つの手、ふと見つけた頬、壁面にさした一片の光、偶然の出会いであった獣の乱闘もこれを完璧不壊の一体として見るのである。(ポール・ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』(山田九郎訳)
ポール・ヴァレリーのいいたいことは、要するに「部分」から「部分」の「連なり」、そして「全体」を見る(知る)ことの重要さである。レオナルド・ダ・ヴィンチの「知」のスタイルを精密に分析したヴァレリーは、彼を「融通無碍なる思考の駿馬」(同著)とするけれど、翻って正岡子規の場合も、同類の「思考の疾走者」であっただろう。科学的な認識の仕方を身につけ、一方で「天地自然」の「造化」の秘密に迫ろうとした正岡子規が、先述したように、今からすると、はなはだ常識的としかいいようのない、「写生俳句行」(吟行)のすすめをさかんに行ったことの本当の意味は、ヴァレリーがダ・ヴィンチをして「融通無碍なる思考の駿馬」あるいは私が子規について「思考の疾走者」と命名したことから、その内奥が探れるにちがいない。
松尾芭蕉の『おくの細道』では、崇拝する西行の後をたずねるなど、先人の歩んだ場所を求めて、積極的に旅し、また句作するという、いわばステレオタイプなスタイルが散見される。だが、これは、とくに芭蕉だけに限ることではなく、その時代まで、ごくふつうの方法であったのではないか。正岡子規は、そうした過去の著名な誰彼の後をたずねることより、とにかく自分の眼で確かな何物かを発見し、そしてそれをスプリング・ボードに俳句創作しようとした。すなわち、主体的に外界にアプローチし、「科学的な認識」を実践するのと同時に、「自然」の「造化」の秘密に迫ろうとしたのだろう。子規のよいところは、あえてそれを俳句という最短の詩形式で果敢に実行したところにある。
このへんのところを鋭く分析した人が、柄谷行人だ。「明治二十年代の正岡子規の『写生』には、それが文字通りあらわれている。彼はノートをもって野外に出、俳句というかたちで『写生』することを実行し提唱した。このとき、彼は、俳句における伝統的な主題をすてた。『写生』とは、それまで詩の主題となりえなかったものを主題とすることなのである。」(柄谷行人『日本近代文学の起源』)。柄谷のいうところは、きわめて明瞭だ。子規が「写生」をとなえたのは、いわゆる先験的な「風景」の描写からはなれて、むしろ「風景」そのものを超克し、もっといえば「風景」から完全に自由になる、という逆説なのである。そのような場合には、すこぶる自由闊達な人間の「精神」が、自在に立ちあがる。そのとき子規は、「思考の疾走者」に近づくことができる。
たとえば、シクロフスキーは、リアリズムの本質は非親和化にあるという。つまり、見なれているために実は見ていないものを見させることである。したがって、リアリズムに一定の方法はない。それは親和的なものをつねに非親和化しつづけるたえまない過程にほかならない。この意味では、いわゆる反リアリズム、たとえばカフカの作品もリアリズムに属する。リアリズムとは、たんに風景を描くのではなく、つねに風景を創出しなければならない。それまで事実としてあったにもかかわらず、だれもみていなかった風景を存在させるのだ。(柄谷行人『日本近代文学の起源』)
ここに引用した柄谷行人の文章の中で、いちばんのポイントといえば、おそらく「だれもみていなかった風景を存在させる」という部分であろう。つまり正岡子規以前の「写生」においては、「風景」は幾多の先人たちの「ことば」によって作られたもので、それは「風景」というより、「風景」の「概念」である。したがって、いみじくも柄谷の指摘するように「見なれているために実は見ていないものを見させること」が、必要になってくる。そのためには、「科学的な認識」の仕方と「造化」の「秘密」の探求、この二つの修練がとても重要なのだ。ところで、子規の「写生」について、従来これを神格化する傾向が見られた。正岡子規の「写生」論は、彼の書いたものから類推すると、それほど理論的ではない。それに何よりも、「イマジネーション」(想像力)の分析がなさすぎる。そういう物足りなさがあるものの、やはり総じて一筋縄ではいかない、きわめて斬新な「写生」のとらえかたを、子規はしていよう。とはいえ、正確無比で石垣のように緻密に積み上げた「写生」論とは、ほど遠い。ちなみに高橋英夫は「子規の写生論がある意味で非常に素朴な面も含んでいたために、理論としてそれを打ち出すには、何かを付け加えるか変形しなければ説得性に欠ける」(『国文学—正岡子規・日本的近代の水路』)といっている。
こうした指摘を俟つまでもなく、私たちは正岡子規に対して、何か「畏敬」の念を持ちすぎるのではないか。むろん子規が天才的な文学的センスをそなえていた点を、誰も否定できまい。けれども、子規の「写生」論をはじめとする文学理論全般における、あの読後感の茫洋とした曖昧な気分を、私たちはきっぱり捨て去ることができない。子規生誕後百年の間に、彼の名声はますます高まり、その結果私たちは彼を必要以上に「神格化」してしまったのではないか。もう少し、子規の仕事の内容を、良い面悪い面の両面から精細に分析してもよい時期がきているように、私はつねづね思う。
もう一つ考えることがある。正岡子規の俳句と短歌における文学的視座の位相だ。子規自身は、俳句と短歌の領域をどうとらえ、どうしようとしたのか。(とうぜん多くの研究者の課題で、すでにいろいろな人が仔細に検討しているだろう。)「子規は俳句に於けるより寧ろ短歌に於いてその駿足をのばした。俳句の修業は結果的には短歌のための基礎的修業ではなかったか。」(『山口誓子全集6』)という山口誓子の辛口の意見もあることを、念のため付け加えておく。「イマジネーション」(想像力)のこととあわせて、これからの大事な検討課題である。
Ⅲ 可能性としてのデッサン
正岡子規は、『俳諧大要』などで、写生への道に際し、絵画と俳句を比較対照し、さかんに自説を論じている。子規のみならず私も、たとえばポール・ヴァレリーの『ドガ・ダンス・デッサン』というドガ論を読むにつけ、いわゆる「素描」デッサンについて熟考するのは、詩について思考を巡らすことと、結局のところほとんどイコールなのではないか、と思わざるをえない。正岡子規は「ある人また俳句を論じて曰くこれを絵画に譬ふ」(「俳人蕪村」)と書き、これに続けて、子規は「俳句詠」のタイプに「小にして精なる者」と「大にして疎なる者」の二種類があるとする。前者が「小景近写」や「局部の精細」を詠むのに対し、後者は「疎画」を詠むことになるという。だが、残念なことに、子規は肝心のこの先を書かない。ポール・ヴァレリーの『ドガ・ダンス・デッサン』には、「デッサンは形ではない。デッサンとは物の形の見方である」とドガがいった有名なことばが出てくる。正岡子規にかさねて記せば、彼の示唆する「小景近写」や「局部の精細」も、「物の形の見方」の典型的な基本として、とらえてよいだろう。
ドガは彼が「物の配置」と呼んでいたこと、すなわち、物のありのままの写生に対立するものとして、「デッサン」ということを言っていたのである。この場合デッサンとは、一人の画家の個性的な物の見方や、描き方が、物の正確な模写に強いる変形を言うのである。(『ヴァレリー全集第十巻』)
写生とデッサンの相違を述べた定義として、これほど明確なものはないだろう。一人の画家が、瞬間的に網膜上にとらえた映像は、その作家独自のレンズの絞り方、露出方法、さらにはフィルターの装着の有無など、さまざまなヴァリエーションによって構成される。また、そのような個性的な画家の方法の背景には、経験の積み重ねによる、記憶や連想の変形、混沌とした無意識層の突出、自我意識のこわばりなど、その刹那の映像に深い影をあたえる内部情報が、さながら洪水のように押し寄せるのも、また事実なのだ。ドガが指摘する「デッサンとは物の形の見方である」は、たんに絵画の内実を照射するにとどまらず、いわゆる文芸、ことに俳句のジャンルにおいても当てはまるにちがいない。自身の文章において、あれこれ「写生」の内容と方法について言及する正岡子規であるけれど、それらを精緻に読むと、いちがいに「写生」だけの表層的レベルにとどまるものではないことが、よくわかる。いうなれば、ドガの「デッサンとは物の形の見方である」の至言に通底する事柄を、子規が述べている場面が出てくるのだ。「客観を写して可なるものあり、写して不可なるものあり。可なる者はこれを現し不可なるものはこれを現さず。しかして両者おのおの見るべし。」(『俳諧大要』)。
このように正岡子規は、ただたんに通りいっぺんの「写生」論に収束したのではなかった。さらに付言すれば、子規流の「物の形の見方」は、適宜に客観と主観を使い分けつつ、一方でそれらをアウフヘーベンし、もっと深遠の世界に近づこうとしたのではなかったのか。生々流転してやまない宇宙全体にある万物の「造化」の秘密を探ること、西欧流のより厳密で科学的な認識に至ることなどが、子規的「物の形の見方」の神髄であるのは、もちろん疑う余地のないことであろう。ところで、客観と主観に対する根本的な考え方と、それらのフレキシブルな使い分け方による「写生」へのアプローチで、「造化」の探求を行う正岡子規の自然観とは、いったいどういうものなのだろう。「山川草木の美を感じてしかして後始めて山川草木を詠ずべし。美を感ずること深ければ句もまた随つて美なるべし。」(『俳諧大要』)と書き綴る子規の自然への素朴なとらえ方を、まずおさえておきたい。ここに記述されている内容から、「造化」の秘密の一端が、僅かながらでも吐露されている、と考えても差しつかえないだろう。けれども、その自然観はゲーテなどを代表とするヨーロッパ的なつかみ方とは、大きく隔たる。端的にいって、子規の自然観は「美」という静的スタティックな枠組みの中でおさまってしまう傾向が強い。
一般的に、緊張感をもって自然と対峙する動的ダイナミックな要素が、西洋的な自然観の中にある。それにも増して大事なのは、自然を表わすことば「ピュシス」(ギリシア語)や「ナトゥーラ」(ラテン語)のどちらも、「生命」を司る「誕生」の意がこめられていることだ。ゲーテの『ファウスト』にも、そうした「自然」の源泉を、それとなく読者にイメージさせる場面が、いくつかみられる。ジャック・デリダの『盲者の記憶』(鵜飼哲訳)という書物にこんなことが書かれている。盲者のように、物を見ないで描くことは、本質的にありえる。換言すれば、デッサンとは、視力がとらえた像を忠実になぞることではなく、画家の内面に潜むある根源的な力が、手を動かすのだ。「盲者の手は孤独に、あるいはひとり離れて、境界の定からぬ空間を当てずっぽうに動く。探り、触り、書きこみ、また愛撫する。記号の記憶を信頼し、視覚を代補する。」デリダは、同著で私たちにこのように説明する。ちなみに土方巽や大野一雄などの、前衛舞踏家たちの全身的な身体表現は、盲者のティピカルな芸術表現でないかと思うことがある。地を這うようにして踊り、また空くうを掴むかのごとき手の所作は、まさしく盲者のデッサンを想起させる。個人の意識をはるかに超えた、ある宇宙的な闇の領域から立ちあがるおびただしいことばの群れ。ジャック・デリダ流にいえば、「視覚を代補する記号の記憶」になろうか。そういうものが、彼らの鮮烈な舞踏から見えてくる。
私は導かれるのであって、私が導くのではない。私はモデルの一点から出発して、引き続き私のペンが向うだろうさまざまな点とは無関係に、いつもただこれしかない一点へと向うのである。私は自分の目が凝視している外観よりはむしろただ内面の躍動に導かれ、それが形成されてゆくにつれて描き表しているだけなのではあるまいか。(ジャック・デリダ『盲者の記憶』(鵜飼哲訳)。
「視覚を代補する記号の記憶」は、いったいどこから、どのように発動するのだろか。そのヒントに英語の<vocable>(ことば/名称)がある。<vocable>は、そもそもラテン語の<vox>(声)から派生したことばである。私たちはラテン語の名言「声、しこうしてその他に何もなし、ただ声のみ」(A voice, and nothingmore)に思いを馳せるべきである。もしかすると、画家や舞踏家、そして一般の芸術家たちは、「記号の記憶」を<vox>(声)により、全存在をかけて辿り続けているのかもしれない。「視覚を代補」する以上の何かものすごい力、さながら神の声とでも呼ぶべき啓示のようなものが、そのような芸術家たちに、瞬間的に降りてくるのかもしれない。
Ⅳ 山林郊野の発見
前章(Ⅲ「可能性としてのデッサン」)において、私はポール・ヴァレリーの『ドガ・ダンス・デッサン』をひき、その作者の個性的なものの見方である「デッサン」について言及した。自分以外の対象物を描く「写生」も、それはどんな作者であれ、必ず描く側の「ものの見方」が反映するであろう。もちろん「写生」と「デッサン」は、内容的に異なる。前者は文字どおり対象物を、そのままできるだけ似せて「写し取る」ことであり、後者はあくまで「素描」(下絵)である。しかし、人間の脳内にインプットされた対象物を、その人間が描くかぎりにおいて、まったく完璧にカメラのように「写生」などできはしない。どんな対象物も、それを描く人間の「見方」に如実に反映されよう。
たいへん素朴な疑問だが、正岡子規はどうしてあれほどまでに「写生」にこだわったのだろうか。ちょくせつこの答えになるかどうか分からないけれど、いささかでもその手がかりになるところを探してみたい。たとえば正岡子規は、与謝蕪村の俳句を松尾芭蕉のそれよりもいっそう客観美を現すものとした。また「古池や蛙飛び込む水の音」の作品について「一点の工夫を用ゐず、一点の曲折を成さざる処、この句の特色なり。」と書く(「俳人与謝蕪村」)。さらに子規は、芭蕉の「蛙」のこの句が、何の奇もてらわず「自然」に詠んでいるところがすばらしい、と褒め称えた(「古池の句の弁」)。
このように、より対象の「自然」に踏み込む正岡子規は、へんな「工夫」をしないで、とにかくありのままに対象にアプローチすることを根本的な方法とし、かつそれを至上の命題とするのだ。したがって松尾芭蕉が『おくのほそ道』で行った、日本の名所旧跡への旅を真似しようとはしない。なぜなら、松島に代表される日本の多くの名所旧跡は、ア・プリオリに存在する「観念」としての「風景」であったからだ。加藤典洋は次のように指摘する。
その頃(江戸初期以前)、「名所・歌名所」を眼前に歌を詠む人がいたとして、彼はそこで「視野に映るもの」を見ていたのではない。フーコー流にいえば、そこでの表象の世界は、レファラン(指示対象)なしに、言葉だけで完結しているのである。(加藤典洋『日本風景論』)
これに対し、正岡子規は確実に自分が眼にする身近なものに、句材を得ようとする。(子規自身の蒲柳の体質にも関係するのだろうか。)たとえば、富士山を好まない彼は「その日本第一の高山たると、種々の詩歌伝説とはこれをして能く神聖ならしめたるも、その神聖なる点は種々に言ひ尽くして今は已に陳腐に属したり。」(『俳諧大要』)と記す。そして正岡子規は(ここが大事なポイントなのだが)、そうした昔から著名な場所ではなく、人々がふつうに生活する周辺の、里に近い郊外の山や野原である「山林郊野」への散歩をすすめる。日本の詩歌の伝統的なスタイルにおいては、旅行者の視点から選ばれた、日本三景を代表とする名所旧跡がいわばマニュアル的にあちこち点在した。それらは、「歌枕」ないし「歌に登場する名所」であって、いずれも人々の探勝的欲求に応じたあこがれのポイントであったのである。松尾芭蕉とてその例外でなかったことは、『おくのほそ道』を読めば、一目瞭然だ。ところが正岡子規は、そのような規範的マニュアル的景観意識を遠ざけ、いちじるしく「脱構築」を行った。それが、「山林郊野」への散歩の提案だった。「山林郊野」は、人々の気配のある(つまり生活する)場所であり、そこに行きたい人々が容易にそれを実現できるところなのである。
ここに、たいへん重要なことが隠されていよう。松尾芭蕉は『おくのほそ道』のいたるところで、その地に生活する人々と交歓したが、それはあくまでア・プリオリに存在する知的探勝地に行ってからのことである。すなわち、何であれとにかく探勝地に行くことが第一義、人々との交歓は第二義であったのにちがいない。松尾芭蕉の目差す第一義の探勝地に、けっきょく人間は不在である。彼は松島を中国の「洞庭湖」や「西湖」になぞらえ、その変化に富んだ景観をどうしても見たくて、とにかくそこに行った。彼の頭の中には、詩文などによる中国の教養的な風景のテキストがあって、少なくともそこに人間はいない。これに比べ正岡子規の企図する「山林郊野」のどこかには、人間のにおいがする。むしろ彼はそれこそを願う。
今試みに山林郊野を散歩してその材料を得んか。先づ木立深き処に枯木常盤木を吹き鳴す木枯の風、とろとろ阪の曲り曲りに吹き溜められし落葉のまたはらはらと動きたる、岡の辺の田圃続く処、斜めに冬木立の連なりてその上に鳥居ばかりの少しく見たる、冬田の水はかれがれに錆びて刈株に穂を見せたる、(中略)寒さもまさり来るに急ぎ家に帰れば崩れかかりたる火桶もなつかしく、風呂吹に納豆汁の御馳走は時に取りての醍醐味、風流はいづくにもあるべし。(『俳諧大要』/傍線は引用者)
正岡子規は、このように書く。引用テキスト中の傍線部分「田圃」「鳥居」「冬田」「刈株」「穂」「家」「風呂吹」「納豆汁」は、いずれも人間の生活にふかく関係する、というより人々の暮らしになくてはならないものばかりである。この引用テキストの最後の部分「寒さもまさり来るに急ぎ家に帰れば崩れかかりたる火桶もなつかしく、風呂吹に納豆汁の御馳走は時に取りての醍醐味、風流はいづくにもあるべし」は、もとより正岡子規の個人的趣味が濃厚に出ているところといってさしつかえないだろうが、それにもまして彼の人間中心の自然観を、ここに読み取るべきであろう。
松尾芭蕉は、日本三景の一つである「松島」を、日本の伝統的な「絶景」として(あえて人間を疎外して)とらえ、いっぽう正岡子規は、人間をブローアップして「山林郊野」という「生活的風景」を掌中にした。柄谷行人が示唆するように「彼(正岡子規)は俳句における伝統的な主題をすてた」のである。さて、明治30年代の初期には、徳冨蘆花の『自然と人生』、国木田独歩の『武蔵野』など新しい自然観に満ちたフレキシブルな名散文集があいつぎ出版されている。これらのめざましい他ジャンルの文学作品を、正岡子規がどう見ていたのかよく調べてみないとはっきり明言できないけれど、これらから少なからず、影響を受けていたのではないかと思われる節がある。ちなみに正岡子規が「ホトトギス」を創刊したのは明治30年、『俳諧大要』を出版したのが、同32年である。
徳冨蘆花や国木田独歩が、松尾芭蕉の「絶景」ではなしに、湘南や武蔵野を中心とした、ごく身近な親しい「風景」、いわば何の変哲もない「どこにでもある風景」を描いたところに、その新しさがあるのだ。これは正岡子規の「山林郊野」にも、よく当てはまるにちがいない。紛れもなく「山林郊野」こそ、人々にたいそう親密な「どこにでもある風景」であるだろう。だが徳冨蘆花や国木田独歩そして正岡子規たちが、「どこにでもある風景」を鋭く発見したその根底には、まずア・プリオリな景観意識を潔く捨てることが、大前提としてあった。さらにその「どこにでもある風景」の中へ、人間をアクティブに登場させ、換言すればそうした「風景」の中へ、人間を「とけこませ」たのだった。私には、徳冨蘆花、国木田独歩、正岡子規の三人がそろって「定住者」の視点で「どこにでもある風景」の中へ、人間を「とけこませ」、「自然と人間」を描こうとする態度に、おおいなる関心をもつ。この傑出した三人の文学者には、「風景」への「動的」(ダイナミック)なかかわり方がみられる。自分は動かずに、ただカメラだけを回す従来の「静的」(スタティック)な「花鳥諷詠」的自然観照が、徳冨蘆花、国木田独歩、正岡子規の三人からはほとんどきっぱりと排除されている。実際、高校で使われている日本文学史の教科書には、徳冨蘆花の『自然と人生』について「花鳥諷詠的自然観を超えて新しい自然と人生への目を打ち出した」と書かれている。(『精選日本文学史─改訂版』)。
ここでいったん整理すると、三人に共通するのは、都市またはその近郊に定住する市民生活者からの目線で「風景」をとらえる、ということがある。いってみれば、「風景」は、それらの都市生活者から従属的につかまえられていたのだった。『おくのほそ道』において、松尾芭蕉が自ら「風景」に従属することを選択したことを考えると、その関係がちょうど逆転したことになる。徳冨蘆花、国木田独歩、正岡子規の三人のほかに、科学的理論的に日本の「風景」を考察、それをみごとに再構成した人がいる。北海道大学の前身、札幌農学校を卒業した地理学者志賀重昂しげたかだ。明治27年に、彼は『日本風景論』を著し、それは日清戦争の勝利にわく日本の中で、ベストセラーとして迎えられたのである。登山家でエッセイストの小島烏水は、同著の初版解説において、この本の特色として「『日本風景論』が出てから、従来の近江八景式や、日本三景式の如き、古典的風景美は、殆ど一蹴された観がある」と述べる。このように、今までの定型的風景観の「脱構築」が、明治の20年代、30年代に社会的気運として盛り上がってきたことも、やはり特筆したほうがよいだろう。
ともあれ正岡子規が『俳諧大要』に「山林郊野」ということばを使用、それを俳句の重要な材料としたことを、私たちはきちんと頭の中に入れておく必要がある。引用した先述の文章中の最後に「風流はいづくにもあるべし」のことばが見られるけれど、それは定住者としての彼が、いかに「風景」を超克しようとしていたかが、よく分かるキータームであろう。正岡子規が使った「風流」のことばは、松尾芭蕉が『おくのほそ道』で「片雲の風に誘はれて、漂泊のおもひやまず」数々の「絶景」と対峙した姿勢、あるいは『去来抄』で「風雅」といったことを考えあわせると、きわめて鋭い示唆を私たちにあたえてくれる。
正岡子規は病のため、家の中で身を養わざるをえない事情もあってか、常に自らの内面を凝視し続ける、きわめて繊細な人間である。かつて柄谷行人は『日本近代文学の起源』で、国木田独歩の『忘れ得ぬ人々』をひき、「風景が写生である前に一つの価値転倒」があることを明晰に示した。柄谷は、その国木田独歩の『忘れ得ぬ人々』の大津が語る、普通なら忘れてしまってもかまわないが、どうしても忘れられない人々に価値転倒するのを、「内面的な人」によって発見される「風景」と、たいそう犀利に分析した。彼は「風景はたんに外にあるのではない。風景が出現するためには、いわば知覚の様態が変わらなければならない」とし、次のように記述する。
ここ(国木田独歩の『忘れ得ぬ人々』)には、風景が孤独で内面的な状態と緊密に結びついていることがよく示されている。この人物は、どうでもよいような他人に対して「我もなければ他もない」ような一体性を感じるが、逆にいえば、眼の前にいる他者に対しては冷淡そのものである。いいかえれば、周囲の外的なものに無関心であるような「内的人間」innermanにおいて、はじめて風景がみいだされる。風景は、むしろ「外」をみない人間によってみいだされたのである。(柄谷行人『日本近代文学の起源』)
これは、正岡子規の場合にも、ある部分で当てはまるであろう。「写生」というコンセプトは、もちろん彼の卓見ではあるけれど、病床に伏す「内的人間」であったがゆえに、さらに明治20年代、30年代の当時の文学的、社会的趨勢の影響もあり、「山林郊野」での「写生」を、人々にすすめたのである。
Ⅴ 俳句と主観
今まで、私は正岡子規を、その中心において、拙論を展開してきた。いうまでもなく正岡子規の「写生」の意味を、さまざまな角度から照射し、その内実を解き明かそうとする試みである。とうぜんのことながら、正岡子規の「写生」は、高浜虚子という大番頭によって、近現代俳句の「錦の御旗」の一つとして、私たちの頭上に、おおきくまた高々と掲げられた。
正岡子規と高浜虚子は、「写生」という具体的なスローガンによって、俳句を結果的に「近代的自我」の坩堝に嵌め込むのを防いだのだった。もう一つ補足すれば、二人によっておおきく育てられた、俳句を中心とする文芸グループ(=ホトトギス)は、基本的に「座」を芯にした「衆」の組織で、これによって、グループ内の「孤」の「近代的自我」への沈潜と拡散に歯止めをかけられる利点もあったのに相違ない。俳句が「近代的自我」にどこまで踏み込めるのかいささか疑問の節があるのは否定できないけれど、とにかく正岡子規と高浜虚子の二人によって、現代にまで連綿と続く俳句の内容的形態的大枠が、堅固に形作られたのである。(須藤徹「座の襞へ」/『雷魚』48号)
私はかつてこのように書いた。ここに補足するとすれば、おもに明治時代以来の小説家などが追求した「近代的自我」は、いずれにせよ正岡子規と高浜虚子によって、それを俳句にもちこまない方向で決着がついた。しかし、これはむしろ、その衣鉢を受け継いだ高浜虚子によって、「写生」と「花鳥諷詠」という二枚看板によって、きちんとした道筋がつくられたのだった。(私には「道筋」というより、開墾されつつある荒蕪の地に、「主要幹線道路」が敷設された感じがする。)ここでは、その高浜虚子が、俳句の大スローガンとして華々しく掲げた「写生」と「花鳥諷詠」の内実を、できるだけ具体的に詳らかにしようとするものである。
高浜虚子 虚子は子規のあと『ホトトギス』を主宰し、急進的な碧梧桐と対立したが、しばらく写生文や小説に傾いた。大正初年俳壇に復帰し、伝統的な季題や定型を守る立場で新傾向運動に挑戦した。主観の尊重
を説いてホトトギス派の全盛期を迎えたが、大正中期以後は客観的写生に主張を転じた。更に昭和に入ってからは俳句の生命は「花鳥諷詠」にあるとし、句界を支配した。(『精選日本文学史─改訂版』/傍線は引用者)
これは高校生向けに編集制作された『精選日本文学史─改訂版』という教科書の理解を補うテキストからの引用である。私が引用文中に傍線を引いたところを、特に注目していただきたい。このテキスト作成者は、高浜虚子のことを「主観の尊重を説いてホトトギス派の全盛期を迎えた」と書いているけれど、「客観写生」や「花鳥諷詠」に、その句的視点を大きく移した後でさえ、「主観の尊重」は脈々と生きているのだった。たとえば虚子は「客観写生ということに努めて居ると、その客観写生を透して主観が浸透して出て来る」(『俳句への道』)、さらに「ただ平凡と見える客観の写生の底に作者の主観の火を見得る人のみが句を善解する人であると思う。」(同)と書く。その生涯を通して、これ(主観の尊重)は、おそらく虚子の堅固な俳句的スタンスであったのであろう。けれども、虚子の説く「主観の尊重」が、近代日本の小説的文脈で培われてきた個人の心の内部に潜む「自我」の尊重とはおよそ縁遠い内容であることに、私たちは十分注意しなければならない。「近代的自我」の問題は、それぞれの人間の心の中に横たわる個人的苦悩の告白というかたちで、そのエクリチュールの心臓部を形成した。このような傾向の文学は、一般に「自然主義文学」の中において、よく表現されてきたが、さらにそれは、夏目漱石のシビアな倫理観に裏付けられた、より普遍的な「自我」の探求によって、深く追いこまれた。虚子のいう「主観」は、こうした近代日本の小説的文脈で使われている「自我」や「個人主義」とは、まず根本的に位相を異にしていることを理解しなければならない。「自我」や「個人主義」の追求は、俳句にはふさわしくなく、また、そのような方向に俳句創作に傾くのを、虚子は基本的に賛成していなかった。
あなたの主観句は、空想から生まれたものは少ないのであって、客観の描写だけではもの足らず、それに主観描写を加えてはじめてその景色を写し得る、ということである。(高浜虚子『俳句への道』)
星野立子の「主観句」について、高浜虚子は、こう言いきる。引用文中の「それに主観描写を加えてはじめてその景色を写し得る」を具体的に虚子は、どう説明しているのだろうか。立子の作品「泊り客あるも亦よし夜の秋」について「泊り客などがあると気づまりであるのが普通であるが、しかしその夜は泊り客のあるのもまたいい、共にこの夜涼を味わおう、というのである」(『俳句への道』)と虚子ははっきり指摘する。これを見ても分かるように、「自我」や「個人主義」というレベルからははるか遠い地点で、虚子は俳句における「主観」の重要性を述べる。もっとも、立子の句に対しての彼の「主観」の説明も、それが僅かながらも「自我」の萌芽に繋がる微妙な境界域、との言いかたをあながち全面否定できないだろう。
俳句の場合、その短さゆえに、「主観」から「自我」の内実へ突き進むことは、たいそう難しい。それはあくまで「自我」の萌芽の段階に留まるだけなのかもしれない。とはいえ、中村草田男、石田波郷、加藤楸邨などの人間探求派の俳句作家たちは、単なる「主観」の領土内におさまることをよしとせず、現代俳句に「自我」の感覚を盛り込む営為である、との主張もまたありえよう。さらに富沢赤黄男、高柳重信、金子兜太等にも同様のことが指摘できるようだ。さて、高浜虚子の「写生」から「主観」へ、そして「花鳥諷詠」へ、というのが、本稿のテーマなのだが、はたして虚子はこのようなコンテキストで、何をいいたかったのだろう、というのが私の偽らざる本当の気持ちである。やはり、俳句の大衆化をはかるために、一つの集団をまとめる「錦の御旗」として、これらはひじょうに有効な(効率化という面を含めて)安全弁的内容であったのだろう。明治・大正・昭和と虚子が生きた時代は、国民が一丸となって、世(国家)のため人のために尽くす、という大スローガンがそれなりの効力を発揮したスパンだった。もちろんこうした政治的・経済的・社会的要請と同じように虚子の句的主張をくくるわけにはいかないと思うけれど、やはりある部分で微かにかさなってもいよう。それは、現在の時点で客観的にみるかぎり、それぞれの人間に個別対応せざるをえない文学の宿命的テーマにおいては、けっきょくそりが合わない。今、どこを見ても、国家や国民の間に大きな「物語」はなく、極端なことをいえば、国民の数だけ「物語」が存在するのである。すなわち、現在の世の中は総じて「ポスト・モダン」という時代モードの渦から完全にはまだ脱却できていない。物事の価値は、なべてクレオール的に混成し、人々の拠るべき絶対的基準など、どこを探してもないのではないか。
虚子によって、継承された子規の写生は再び第二芸術へ逆行し、近代性を喪失した。(小西甚一『日本文学史』)
小西甚一はこのように記す。高浜虚子は、「客観写生→主観→花鳥諷詠」というパラダイムによって、最初から「近代性」を放擲していた、ある意味での確信犯とも考えられる。だが、虚子の態度を是とする人、というより信奉する人々が多数存在する事実を否定はできない。
虚子が、俳句は花鳥諷詠の詩と規定したとき、それは、俳句の本質規定であると同時に虚子自身の本質規定であった。虚子自身の生き方の宣言であったといってもよい。ただその宣言は、外に向かってなされたものではなく、あえて尋ねられれば確信というよりほかはないようなものだったろう。諦念であり、知天命である。(川崎展宏『高浜虚子』)
むしろ「反近代」にこそ高浜虚子の存在理由があるのではないか、と川崎展宏は示唆する。「(花鳥諷詠は)諦念であり、知天命である」とする展宏の筆致に反論はできない。けれども、そこにこそ、虚子の「人間不在」の文学精神を指摘する人もいるにちがいない。「客観写生→主観→花鳥諷詠」という虚子の「諦念」は、ざっくばらんにいって、徹頭徹尾、俳句創作する一個人に収束され、外の世界(自然)をやさしく受容するものの、たとえばそこに「批評」は存在しない。むろん、川崎展宏がいうように、最初から「批評」をもちこまない「諦念」なのだから、「批評」の登場する余地もない。
とても大事なことと思われるので、あえてここに書いてみるが、「写生」という俳句の「革新」を行った正岡子規の文学運動のテーゼを、高浜虚子はあえて異なる方法と内容で、それを私たちに定着させた。柄谷行人は、いみじくも「要するに、子規が『写生』という言葉で語っているのは、言語の多様性の解放ということです。『写生文』の本質も実はそこにある。しかし、むろん、それを自覚していたのは漱石だけであって、高浜虚子ではない。」(柄谷行人編『近代日本の批評Ⅲ』)といっているのは至言だろう。ここにこそ、虚子と「写生」の本質が垣間見える。子規の提唱した「写生」の内容をもう一度再検証し、それが虚子を経由してどう現代俳句につながっていったかを精緻に調べることによって、あるいは「想像力」という、もう一つの俳句の楕円の中心が見えてくるのかもしれない。
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