Hippocrates Hippokrates ヒポクラテス ③

http://www.arsvi.com/w/h01.htm  【Hippocrates Hippokrates ヒポクラテス】より

連続の一つとしては、一三世紀以降の大学の医学の時代に見られた自然主義がある。病の自然的解釈が行われる。一二世紀以前の世俗のサレルノ医学校もそうだったかもしれない。古代のヒポクラテス・ガレノス医学がすでにそうであった。十二世紀ルネサンスで再生するのは、まさに自然主義であり、自然治癒力への信念、自然の法への信念である。主に一三世紀以降の大学医学部で、まず医学の世俗化が起こったと言える。

 だが具体的な病理学説は前近代のものでは体液病理学説だが、近代のそれは病気の局在論であり固体病理学説であり機械の故障につながる見方で、ここには非連続がある。

◆篠田真理子, 20021020, 「生態学と環境思想の歴史」廣野喜幸・市野川容孝・林真理編『生命科学の近現代史』勁草書房:227-266.

(p252)

 社会・経済的形態や人間の精神に環境が及ぼす役割を重視する考え方には、長い伝統がある。西洋世界で最も古いものは古代ギリシャのヒポクラテス(Hippokrates 前四六〇?―前三七〇?)の作と伝えられる「空気、水、場所について」(ヒポククラテス[一九六三]七―三七頁)であろう。これは病気と季節、場所、風、水などの環境要因との関連を述べた前半と、アジアとヨーロッパの住民について居住地域と体格や気質、生活様式との関係を論じた後半とに大きく分かれてる(校正者注:原文まま)。前半部は医学史において展開し、後半部は、のちJ・ボダン(Jean Bodin 一五三〇―一五八六)を経てモンテスキュー(Charles de Secondat, baron de Montesquieu 一六八九―一七五五)の『法の精神』にも影響を与えた。

◆斎藤光, 20021020, 「生物学と性科学」廣野喜幸・市野川容孝・林真理編『生命科学の近現代史』勁草書房:267-306.

(pp273-274)

 よく知られているように生物学という記号の、また、生物学分野というアイディアの成立は一九世紀の初めである。本来的には、その時点以降、性科学の歴史は展開する。もちろんそれ以前にも重要な事柄が生成し、生物学へ、さらに、性科学へとつながっている。ギリシャ以来という図柄の中では、三つの重要な構図・出来事(*1)が見えてくるのであるが、それらを扱うのはやめ、一八○○年あたりからを記述していきたい。

(p305)

 (*1)三つの重要な構図・出来事を簡単に示すならば以下のようになる。第一に、ヒポクラテス(Hippokrates 前四六〇頃-前三七〇)対アリストテレス、のちにガレノス(Galenos 一二九-一九九)対アリストテレスという形になる動物、あるいは、人間の発生をめぐる異なる考え方の対立構図である。第二は、キリスト教が打ち出し広めたとされる、人々の肉欲と結婚をめぐる規範の構図である。第三は、科学革命期に出現した三つの出来事とその結果、あるいはその枠組みである。出来事は、動物の生殖物質をめぐる新しい理論の出現(「卵」というアイディア)、動物の生殖物質中の新しい要素の発見(「精子」の確認)、そして、雌雄性の植物への拡張である。結果あるいは枠組みは、主として生物学成立前夜の一八世紀に戦わされた、発生に関わる論争である。

◆Wissenschaftliche Abteilung des DRZE[生命環境倫理ドイツ情報センター], 2002, drze-Sachstandsbericht.Nr.1. Enhancement. Die ethische Diskussion uber biomedizinische Verbesserungen des Menschen. (=20071108, 松田純・小椋宗一郎訳『エンハンスメント――バイオテクノロジーによる人間改造と倫理』知泉書館).

(pp118-119)

 病気を説明するもろもろのモデルは、人類史の過程の中で、生物学の知識水準と社会的枠組みの諸条件、およびもろもろの文化的価値を一つに束ねた脈略のなかにあった。それゆえ、歴史的変化をたえずこうむってきた。大昔、病気は悪霊によって引き起こされる超自然的現象と受け取られ、魔術という手段によって追い払われるべきものだった。とはいえ、すでにバビロニアとエジプトの古代文明において、病気を自然的状態として捉え、適切に治療するという考え方が非常に早くから存在した。古代ギリシャにおいては、民衆に広く行き渡っていた魔術的な病気観と明確に一線を画して、ヒポクラテスの科学的医学が病因論的自然研究として成立した。こうした背景のもと、病気は自然(Physis)からの逸脱と等置された。自然は、正常状態(kata physin)に向かう運動として動態的に表され、医師は、逸脱を再び「自然へと連れ戻す(eis tan physin agein)」(Corpus Hippocraticum, De fracturis(*1))ことによって、この過程を支援するものとされた。自然からの逸脱は、体液の調和における撹乱として表された。そこから発達した体液病理学は、中世にいたるまで決定的な影響を及ぼし続けた。

◆荻野美穂, 2002, 『ジェンダー化される身体』勁草書房.

(p126-127)

 現在私たちが「卵巣」と呼んでいる女性の生殖器官は、西欧ではながらく「女の睾丸」と呼ばれてきた。それは、ほぼ一八世紀ごろまで男女の生殖器は本質的に同じものであるとする考え方が存在しつづけていたからである。西洋中世医学の基盤となっていたのはアラビア経由で輸入されたかレノス、ヒポクラテスを中心とする古代ギリシア医学であったが、とりわけガレノス医学の影響が強く、「西欧中世医学をほとんど一色に塗りつぶしたばかりでなく、その影響が近代深く入って一八世紀頃までも一部にはなお根強く残っていた」といわれる(川喜田1979:33)。

(pp130-134)

 もし男と女が本質的に同じ性器を備えているとすれば、なんらかの事情で性転換が起こったとしても不思議ではないことになる。事実、一六世紀フランスの著名な外科医アンブロワズ・パレは、もともとマリーと名付けられて一五歳まで女として育ったがある日突然に男に変わったジェルマン・ガルニエなる青年の話を紹介している。

 「彼が畑に出て、小麦畑の中へ入ろうとする豚どもをかなり荒っぽく追いはらっていた時、溝にぶつかり、それを渡ろうとして飛び越えたとたん、その身に外性器と男性の竿とが現れた。これらを内部に保持していた靭帯が切れたのである(Laqueur 1987:13)。」

 そしてパレは、体内の熱の高まりに激しい運動が加わると、それまで外に出るのを妨げられていたものが外へ押し出されることがありうると説明している。

 ただし逆の方向、すなわち男が女に転換するケースはありえないとされた。なぜならアリストテレスが言うように、自然は最も完全なもの(男)を創ろうとするのであって、不完全なもの、すなわち女がより完全な男に変わることはあっても、逆はありえないからである。ヒポクラテスはスキタイ人の「男が女になる病気」について報告しているが、それは男性が性的に不能になった結果、女性として暮らすようになった例であった(植島1980:13-16)。

 次に生殖器官の形態上の相似性は、機能面での相似性にも結びつきうる。すなわち、もし性交によって受胎が実現するためには男の側の快楽と射精が必要であるとすれば、女にあっても同様のことが言えるのではないか。こうしてヒポクラテスやガレノスは、女も男と同じように性の快楽の頂点において子宮内で精液を射出し、それが男の精液と混じりあうことによって受胎が成立するという、「二種の精液」説を唱えた。たとえばヒポクラテスは次のように説いている。

 「女は性交中に陰部を摩擦し、子宮を動かす時に櫟りを子宮に感ずる。そして其れが身体に快楽と熱感とを呼起こす。其の際、女は身体から多量の精を子宮に注いで子宮が湿潤して来るし、又子宮口が広く開いてそれが往々外に流れる。女と云ふものは性交の初めから男が射精し終るまでの全時間快楽を持続する。女が劃しい性交の欲求を持つ時には男よりも先に射精を終る。……婦人が性交を完了しても、それが受胎に至らぬ時には男女両方の精が流れ出して了ふ。之に反して、若し受胎する時には精は流出しないで子宮内に留る。そして子宮がこの精を取った時には直ぐその口を閉じて精を其中に保持し、其処で男女の精が混合するのである(今1931:158-159)。」

 これに対しアリストテレスは、女が精液を出して生殖に寄与することはなく、胚の発生にあたって女はただ場所と質量を提供するだけの受動的な存在であり、男の精液のみが胚に運動原理と形相と目的を与えると考えた。真に子供の親と呼べるのは父親だけであり、女は「生殖力のない男」にすぎない。アリストテレス説では、女の経血は、女の不完全性ゆえに精液にまでなりえなかった。「純粋でなく、〔さらに〕仕上げを要する精液」と考えられていた。すなわち女の女たる所以は、生物発生における無能力性であり、雄こそが「原理で、原因であり、また雄は何かができるという能力の故に雄なのであり、雌はできないという無能力の故に雌」なのであった(島崎1969:134-135)。

 この問題に関してはヒポクラテス・ガレノス派、アリストテレス派それぞれの内部でも多様な立場が存在しており、一九世紀になって女性における卵の存在が確認されるまで、人間がいかにして発生するかについてさまざまな論争がくり広げられた(McLaren 1984=1989:45-50)。だが一般の人々の間では、女にも精液があり、それが射出されなければ受胎が成立しないというヒポクラテス・ガレノス的な考え方が広く支持されていた。女にも男と同じ生殖器が備わっているばかりでなく、現実に性交において女も男と同じような欲望や歓喜を示すではないかというのがその論拠であった。

(略)

 またジョン・サドラーは『病める女性の秘密の姿見』(一六三六年)で男女双方のオーガズムの重要性を指摘し、「男が早すぎて女が遅すぎ、そのために両者の穂液が受胎のきまりの要求通りに同じ瞬間に合流しない」ことが不妊の原因であると述べている。そこで男は「彼女を愛撫し、抱きしめ、くすぐって」、女が十分な快楽にまで至れるように力を尽くさねばならないのであった(Laqueur1987:11)。さらにヒポクラテスの説にしたがうならば、性交とその快楽はたんに受胎のためばかりでなく、女の健康にとっても必要なものと考えられていた。

 「女と性交との関係は、女が性交を為す時には健康に適し、若し性交を為さぬ時には健康上却て良くない。即ち性交は一方に於て子宮を湿潤せしめて乾かすことなく、他方に於て血液を温め湿潤ならしめる故月経が極めて順調となる。即ち子宮が乾燥し過ぎれば強く収縮して身体に痛を起し、月経の不順は身体に痛を起すものである(今1931:159)。」

(pp136-137)

 もっともこうした伝統的な性モデルを信奉していた人々が、生殖において男女をまったく対等なものととらえていたというのではない。たとえば精液は血液が純化されて作られると考えられていたが、女は男より冷湿であるため男のように完全な精液を作ることはできず、不完全な精液しか作れないという考え方があった。完全な精液とは男児を作ることのできる精液であり、不完全な精液からは女の子が生まれる。そして子宮内でどちらの精液が優勢をしめるかによって、胎児の性別が決定されるのであった。あるいはまた、男の液も女の液も同じように胚のための粉質を提供するとしても、男の場合はそれが人体の中心である心臓となり、女の場合はヘソの緒となるとか、胎内で男の子はより熱い位置である右側に、女の子は冷たい左側に位置するといった具合に、つねになんらかの形で両性間の優劣が想定されていた(Maclean 1980:32;Horewitz 1987:88)。だが一方ではヒポクラテスの「女子から出る精にも男子からの射精にも強性のものと弱性のものとがあって、男子には女性的な精があり、又女子に男性的な精が存在」するという説を支持する人々もおり、必ずしも唯一の定説が支配していたわけではなかった(今1931:159)。またここでの性差はあくまでも同一極内での序列、上下関係であって、後に見るような男女をまったく異質なものと見る感覚ではなかった。すなわち男と女はいわば相互乗り入れの可能な連続体として同一線上の両端に位置づけられていたのであり、このことは両者の中開体として、より女に近づいた「女々しい男」や男により近い「女丈夫」、あるいは両者を一身に兼ね備えた両性具有者がいると考えられていたことからもわかる(Maclean 1980:32,38-39)。

(pp138-139)

 あるいはまた、さまざまな体液の間にも互換性があると信じられていた。前述のように精液は血液の精髄と考えられていたし、経血は体内の他の血液、あるいは鼻血や怪我の血のような他の場所からの出血と同じものと見なされていた。経血はまた、時と場所に応じてその姿を変え、女が妊娠した場合には胎内の子供の栄養となり、子供が生まれてからは母乳に変化して再び子供を養うと考えられていた。つまり「母乳は血液が白くなったものにほかならない」のである(Crawford 1981:51)。ガレノス流の考えによれば、体内の過剰な血液を排出するのが月経であり、男の場合は溶血によって月経と同じ効果を得ることができた。一方ヒポクラテスは、月経の目的は体内の不純物の除去であるとした。体熱の高い男は発汗によって血液中の不純物を取り除けるが、より冷たい体質を持つ女はそれができないため、月経の持つ浄化作用に頼るのである。いずれの立場をとるにせよ、月経は健康維持のために不可欠な正常なプロセスであり、男にもなんらかの形でそれに相当するものがあると考えられていた。

(pp256-257)

 古代ギリシアでは新生児の殺害や遺棄は罪ではなく、とくに虚弱児や奇形児を遺棄することは市民社会にとって必要と見なされていたようである。「どんな子供が育てるに適しているか」というヒポクラテスの問いは、この新生児の選別を前提としている。スパルタではそれを決定するのは長老たちの役目であった。父親が新生児を長老たちの前へつれていくと、彼らはその体を調べ、弱い子や障害のある子は近くの山の麓にある洞窟に捨てることになっていた。他のポリスにも類似の慣習はあったようで、アリストテレスは奇形児の養育を禁ずる法の制定を主張し、正常児については従来の慣習で捨て子が禁じられている場合には捨ててはならないとしている。テーバイでは例外的に新生児遺棄を禁じ、ポリスが子を引き取ったが、その子は成長後は養育費提供者の奴隷となった。紀元前四世紀頃のアテネでは、市街取締役の仕事の一つが、壺に入れて捨てられた嬰児の死体を国有奴隷に片づけさせることであったと伝えられる(村川1969)。

 障害児が常套的に排除されたのは、優生思想以外に、不吉な前兆として恐れられたためもあったようだ。

◆小林亜津子, 20041120, 『看護のための生命倫理』ナカニシヤ出版.

(p9)

 「積極的安楽死」の合法化に対しては、医師会をはじめ、政治や宗教の領域からも、強硬な反対意見が出されている。

 まずは、患者に致死薬を投与して殺すことは、医師の職業倫理に反するという意見である。当然ながら、医師には患者の生命を救う職務があり、殺すのは医療行為を逸脱してしまう。医師の職業倫理を表わした「ヒポクラテスの誓い」には、致死薬の投与はしないという「誓い」がはっきりと明文化されている。

(p60)

 「ヒポクラテスの誓い」にもあるように、医師や看護者は、目の前にいる患者の最善の利益のために尽くす義務がある。だが、ダブル・ブラインド・テストでは、当の医療従事者たちが、リスクのわからない、ましてや五〇%の確率でニセ薬を飲まされる可能性のあるような「実験」(トライアル)に患者を晒すことになるのである。

 さらに、プラシーボを投与されている患者のなかには、当然(ニセ薬なのだから)、病状の改善がみられず、なかには容態の悪化する人もいる。これは、先の「被験者優先の原則」に反するのではないか。

 かといって、情報を制限しなければ、正確な薬のデータというのは採れなくなる(自分がプラシーボ組だと知った患者たちには、「プラシーボ効果」は起こりにくいだろうから)。実は、この問題は二〇〇年以上も前から議論されており、未だに解決のついていない問題なのである。

(p168)

 「医療資源」の「配分」自体は、すでに紀元前四世紀頃に、哲学者のプラトンが『国家篇』「第三巻」(四〇六D―四〇八B)のなかで論じている(プラトンは慢性病患者の治療に対して消極的である)。だが、医療者は往々にして、こうした問題を直視することを避けがちである。医師なら誰でも知っている「ヒポクラテスの誓い」では、医師はまさに目の前の患者のためだけに働くことを誓っているし、「わが手に託されたる人々の幸のために身を捧げん」(『ナイチンゲール誓詞』)と誓う看護者もまた、目の前の患者のケアに専心する誓いを立てている。こうした立場に立つ限り、医療従事者は、患者の選択という「配分」問題を視野に入れようとしてはいないのである。

◆宮坂道夫, 20050315, 『医療倫理学の方法――原則・手順・ナラティヴ』医学書院.

(pp.x-x)(*第1講 「倫理規範と倫理綱領」冒頭)

 医療倫理という観点から古代医療の史料をながめると,倫理についての記載が残っている例はあまり多くない。医療が信仰や風習と深く結びついていたために,医療従事者に特別な倫理が求められたというよりは,それぞれの社会で共有されていた信仰や慣習のなかに倫理規範が組み込まれていたからだと考えられる。また,その倫理規範にしても,文章として書かれたものよりは,先輩から後輩へと口伝されたり,先輩の振る舞いを見よう見まねで学ぶことによって受け継がれていくことが普通だった。医療従事者が自分たちが守るべき倫理規範を明文化したものを倫理綱領と呼ぶが,古代医学の倫理綱領として現在に伝えられる数少ない例が,有名な古代ギリシャの「ヒポクラテスの誓い」である。ヒポクラテスHippokrates(紀元前460頃~375頃)は,古代ギリシャ・コス島の医師で,西洋医学の祖と称される人物である。「ヒポクラテスの誓い」は,ヒポクラテス一人の著作ではなく,彼が属していた医師集団の共作と考えられている。

 注目すべきなのは,「ヒポクラテスの誓い」の内容に,現在でも通用するような倫理原則([第2部]で詳しく学習する)が含まれていることである。そのために,「ヒポクラテスの誓い」は,今日でもしばしば医療倫理の原点といわれている。次に示す「ヒポクラテスの誓い」を読んで,それがどんなものか考えてみよう。

●ヒポクラテスの誓い(抜粋)

 私は私の能力と判断をつくして患者のためになるよう養生法を施し,害となるものを決して与えません。たとえ依頼を受けたとしても,致死薬を与えず,そのような相談にも応じません。また,婦人に有害なペッサリー〔堕胎のための器具〕を与えません。私は生活と技術を純潔かつ敬虔に保ちます。結石をもつ患者に対して手術を行いません。これは,その専門家にまかせます。誰の家を訪問するのももっぱら患者のために門をくぐり,故意の悪意による過ちを決して犯さず,とりわけ相手が自由人でも奴隷でも,女性でも男性でも,決して性愛の対象としません。治療時やそれ以外の時に見聞きしたことで,人々の生活について他人に漏らすべきでないことは,口外せず沈黙を守ります。

 (川田殖(1988)ヒポクラテス「誓い」を読む(1),山梨医科大学紀要,5:41─47.等を参考に私訳)

 ここに書かれている「患者のためになるよう養生法を施し,害となるものを決して与えません」という文章には,無危害原則(患者に危害となることを行わないこと),および恩恵原則(患者の利益になることを行うこと)という,今でも通用する倫理原則がはっきりと述べられている。また,「誰の家を訪問するのももっぱら患者のために門をくぐり,故意の悪意による過ちを決して犯さず,とりわけ相手が自由人でも奴隷でも,女性でも男性でも,決して性愛の対象としません」と,私利私欲によって行動しないことを強調しているが,これは今日の正義原則(医療の実施にあたって公平・公正であること)に通じるといえるかもしれない。さらに,患者の秘密を他に漏らさないという守秘義務についても書かれている。これらはどれも,時代や社会を超えて通用する考え方である。

 では,「ヒポクラテスの誓い」と現代の考え方を比べると,医療倫理はどこが異なるのだろうか。まず,無危害原則や恩恵原則という抽象的な考え方は同じでも,その具体的な内容が異なっている。患者への危害として致死薬,ペッサリーをあげている。致死薬は現在でも安楽死や自殺幇助([第8講]参照)としてごく一部の国でしか認められていないが,ペッサリーのような避妊や堕胎は広く認められている。逆に,恩恵とみなしていたのは,現代とはかなり違った考え方に基づく食事療法などの養生法であった。つまり,無危害原則や恩恵原則は同じでも,時代や社会の医療技術や価値観によって,具体的な内容が変化する,ということである。

 しかし,もっと本質的な相違点がある。それは,「ヒポクラテスの誓い」に自律尊重原則(患者の自律・自己決定を尊重すること)が欠けていることである。古代の医療倫理では,患者にとって何が有益・無益かを判断するのは,患者ではなく医師だった。このような倫理観をパターナリズムpaternalismと呼ぶ。これは,高度な専門的知識を身につけた医師を父親に,医学知識をもたない患者を子どもになぞらえ(paternalismのpaterは「父親」を意味する),医師は患者にとって何がよく何が悪いかを判断し,患者は医師の判断を素直に受け入れるべきだとみなす考え方である。今日では患者の権利を尊重し,パターナリズムはしばしば否定的にとらえられている。「ヒポクラテスの誓い」は,医療倫理の原点であると同時に,パターナリズムを象徴するものとしてみられることがある。

 患者優位の関係

 しかし,古代の(あるいはもっと後の時代までの)医療を医療従事者と患者の関係という視点で比較すると,現代よりも患者の地位が高かったといえるようである。ごく一般的にいって,古代においては,すぐれた医師を呼べるのは,恵まれた社会階層の人々であった。それに対して,医師たちは必ずしも社会的地位が高い集団ではなく,現代と比べると患者優位の医師─患者関係が成り立っていた様子がうかがえる。たとえば,インドや中国の古代医学では,医師は患者の裸身を見たり,患者に直接触れることを許されず,布に開けられた穴を通して触診を行ったり,患者に見立てた人形を使って診察を行うことがあった。また,ヒポクラテスの時代のギリシャ医学でも,医師たちは異なった流派に分かれて競合しており,自分たちが他の流派よりもすぐれていることを訴える必要があった。「ヒポクラテスの誓い」には,単なる倫理綱領としての意味だけでなく,自分たちの医術の正当性をアピールする意味があったとされている。

 日本の医療倫理についても,この点は共通しているようである。日本でも,天皇が朝鮮半島から医師を呼び寄せたことが知られており,外来の進んだ医学が,特別な階層の人々によって利用されていたことがうかがえる。現存する日本最古の医学書として,(912~995)が中国(隋)の医学を記述した『医心方』が有名であるが,これが書かれたのは10世紀末で(丹波康頼は984年に『医心方』を天皇に献上したとされる),ヨーロッパやインド,中国などの古代医学よりかなり後の時代である。しかし,そこでは医師の心得として,現在でもしばしば「医は仁術」といわれるように,仁という倫理原則が強調されている。「仁」とは,孔子(紀元前551~479)が提唱した非常に古い儒教道徳であり,自己抑制と他者への思いやりを意味した。「孝」が親を敬い,尊ぶべきだという倫理原則であるのに対して,仁はもっと広い対象を想定していた。つまり,赤の他人に対しても,親に対するのと同じような思いやりをもち,自分を抑制すべきだという倫理原則が仁であった。

 このように,古代医療における医師と患者の関係は,現代とはかなり異なったものであった。自律尊重原則という倫理原則が欠けていると述べたが,患者優位の関係においては,そのような考え方はあまり必要ではなかったのかもしれない。後にみるように,患者の自律・自己決定を尊重すべきだという考え方が医療のなかで確立するには長い年月を要したが,それはこの力関係が逆転して「医師優位」となった時代を経てからのことである。

 中世から近代にかけての医療倫理の変化

 西洋医学の歴史を振り返ると,古代ギリシャのヒポクラテス医学の影響が非常に長く続いたことにあらためて驚かされる。その中心にあった考え方は,体液病理説と自然治癒力説である。体液病理説は,人間の身体を構成する体液があり,何らかの原因でその調和が乱れることで病気が起こる,という考え方である。これが固体病理説─病気の実態は,体液ではなく組織にある─を唱えたウィルヒョウVirchow, R.(1821~1902)や,解剖学や病理学の誕生によって否定されるのに,2000年以上の歳月を要した。否定されたとはいえ,ベルナールBernard, C.(1813~1878)の内部環境説や,キャノンCannon, W.B.(1871~1945)の恒常性(ホメオスタシス)説など,体液病理説の流れをくむ考え方は,現代までも引き継がれている。また,自然治癒力説は,体液の調和を取り戻す力は本来人間の身体に自然に備わっており,この力を助けるのが医学の主な役割なのだという考え方である。これについても,現代医学では免疫,生体防御,再生といった仕組みが解明されているし,基礎体力を向上することが健康の維持に重要だといわれている。今日でもそれなりに生きている考え方といえるだろう。

 医療倫理についても同様で,その内容に大きな変化が現れるまでには,非常に長い年月がかかった。変化を引き起こすことになったきっかけは,中世に宗教者たちの手によって集約的な医療施設の原型が作られたことと,近代に入って現代医療の基本構造が完成したことにある。

 集約的医療施設の誕生

 ヒポクラテスはいわば正統派のアカデミックな医学の祖であるが,今日でいう社会福祉や慈善活動としての医療の起源も見落とすべきでない。社会的地位も高くなく,裕福でもないような病人に対して,必ずしも専門的,科学的ではないにしても,可能なかぎりケアの手を差しのべる─洋の東西を問わず,こうした慈善活動としての医療も古くから行われていた。それが特に組織だって行われたのは,宗教者たちの手による慈善活動である。ヨーロッパの有名な例をあげると,ベネディクト修道会の創立者であるイタリアの聖ベネディクトゥスBenedictus(480頃~543)は,モンテ・カッシーノ修道院を創立し,そこに福祉施設を設けて,病気の人たちなどに食事を与え,ケアを行った。また日本では,仏教思想に基づき,悲田院や施薬院を設けた光明皇后(701~760)や,(1201~1290),(1217~1303)らの活動が有名である。鎌倉時代に患者の収容所として作られた「非人宿」等と呼ばれる施設が,西洋の療養施設と類似している。ここでは,キリスト教の場合と同じように,社会的地位の高い人や宗教者などの手によって,放浪者や地域社会から疎外された人々を収容した。このように,中世という宗教の社会的影響力の大きかった時代に,西洋と日本で,今日の病院の原型といえるような集約的医療施設が作られていたことは興味深い。

 医療倫理という観点から重要なのは,医療の手の届かなかった人々の救済を行うために作られた集約的医療施設が,医療者と患者の関係に大きな変化をもたらしていくきっかけになった,という点である。特別な社会階層の人人を中心に往診などの医療が行われていた時代には,患者は少数であり,競合する医師集団のなかから自分の好きな医療者を選ぶことができた。しかし,病院のような施設で集約的な医療が行われるようになると,この関係は大きく変わり,医師は時代が下るにつれて社会的地位を向上させていく。医師は大学で専門教育を受け,国家によって統一的な資格を与えられた少数のエリートになり,患者は貧しく,社会階層も高くはない多数の人々によって構成されるようになった。こうして,現代に通じるような医師優位の関係が生じることになった。この関係は,次に述べるような近代科学の発達の時代にさらに強まってゆく。

◆関根透, 200503, 「臨床試験における被験者保護に至る倫理的な流れ」『鶴見大学紀要(第4部 人文・社会・自然科学編)』42:23-27.

(p25)

 さて、「医の倫理」から「生命倫理」へ至る世界の流れを見てみよう。医の倫理の発端は大変古く、BC400年頃の『ヒポクラテスの誓い』まで遡ることができる。これは医師自律による職業倫理で、西欧では長く信奉されてきた。第二次大戦後の1948年に世界医師会総会は、『ヒポクラテスの誓い』は、あまりにも古いので現在の医の倫理にそぐわないとして、現代流に改めることにした。それが現代版『ヒポクラテスの誓い』といわれる『ジュネーブ宣言』である。次いで、翌1949年に世界医師会総会は『医の倫理に関する国際綱領』を採択した。ここまでが「医の倫理」に関する規定である。

◆高橋龍太郎, 20050825, 「高齢者医療とケア」川本隆史編『ケアの社会倫理学――医療・看護・介護・教育をつなぐ』有斐閣:81-103.

(p82)

 いまさら「医は仁術である」などという古めかしい言葉が流行る時代ではない。近年では、医学・医療の始祖とされるヒポクラテスにパターナリズムこの言葉の日本語訳として、私は、一族・一家の家長を中心とする体制という意味で家父長主義を好むの傾向を見出してそれに対する批判もしばしば行われる。「医は仁」にも同様の考えが含まれているとの指摘もある。「医は仁」は今風に姿を変えて全人的医療とよばれるようになった。医療側にいる私たちからすると気恥ずかしい気もするけれども、少なくともこれから医師をめざす医学部学生へ行われる医学教育の一環として強調されている。

◆池川清子, 20050825, 「実践知としてのケアの倫理」川本隆史編『ケアの社会倫理学――医療・看護・介護・教育をつなぐ』有斐閣:137-158.

(pp140-142)

 看護という人間的営みを成り立たせている根源的な人間の能力、すなわち実践知としての配慮的行為であるケアは、原始医術にまで遡れるが、学問的な範疇としては、ギリシアにおけるディアイタ(養生法・訓)にその起源を求められる。古代ギリシアにおけるディアイタには二つの流れがあった。その一つが、宗教的な医療におけるディアイタであり、もう一つが、「ヒポクラテス集典」に象徴される合理的・経験的医学におけるディアイタであった。

 古代ギリシアにおけるケアは、病気になる前の健康状態に対する配慮であり、言い換えると、健康でよく生きるための日常生活上の驚くべき養生法(ディアイタ)であったことが明らかになっている。そしてディアイタは、我々人間を超えた次元の大きな自然の秩序に由来するものであった。P・L・エントラルゴによると、古代からのディアイタは、神と人間との関係を規定した三つの本質的契機との密接な結合を意味している。この本質的契機とは、ミクロコスモスとしての人間理解、カタルシスの意味での浄化、宗教儀式としてのテラペイア(奉仕)、ないしはトレスケイア(礼拝)である。ミクロコスモス的人間観とは、人間を小さな宇宙とみなす人間観である、ディアイタと人間の小宇宙的理解との関係は、「人間の本性(ナトウーア)〔自然〕がその構造、過程、リズムなどの点で、普遍的自然 ― つまり宇宙 ― のひとつの似姿であるとするなら、ディアイタとはとりもなおさず人間の生き方(栄養の摂取、環界との関係、労働、性生活、政治的・社会的生活など)を自然にならって正しく整える」(エントラルゴ、1985:4頁)ことである。

 カタルシス(浄化)は聖職者による一定の行為を媒介として罪からの解放という意味と、もう一つは、ある種の瀉下剤の作用による病気の治療や軽減、という二つの意味があったようである。宗教的理解においても治療的理解においても、ディアイタは浄化するものであった。

 テラペイア(奉仕)、ないしはトレスケイア(礼拝)については、ディアイタが宗教儀式の一部として理解されていたことを示すものである。これらの宗教儀式の最終目的は、「人間の怠惰で罪深い日常生活の結果として失われたピュシス〔自然〕の正しい秩序を儀式的に再建することにあった」(同上:9頁)。

 人間の生き方を自然にならって整えることを目的としたディアイタは、もう一つの流れであるヒポクラテス医学を生むことになる、ヒポクラテスが病気の自然的原因としてあげたものは、季節・気候の不順、食事その他の不摂生、不健康な職業などの外的要因である。

 以上述べてきた古代ギリシアにおけるディアイタの二つの流れは、人間的自然の正しい秩序づけこそが、「自然治癒力」による病気からの回復であり、また健康保持を可能にする方法であることをわれわれに教えているのである。

 中世ほどケアが人間の実存的問題と強く結びついた時代はなかったといえよう、病の中においても、人々はその意味を人間の救済の必要性として経験し、ケアによる癒しの中に救いをみていたのである。

◆香川知晶, 20050825, 「生命倫理教育の反省 大学」川本隆史編『ケアの社会倫理学――医療・看護・介護・教育をつなぐ』有斐閣:281-305.

(pp285-287)

 現在でも、医の倫理というと、ヒポクラテスの「誓い」が引き合いにだされることが多い。そこに、医の倫理の根本精神が簡潔に示されているとされるからである。碓かに、「誓い」は、医療の目的が患者の救済にあることをはっきりと宣言していた。「傷つけることなかれ」という格率に要約される精神は、今も変わらぬ価値をもつ。しかし同時に、「誓い」には、医療は医師が患者に対して施すものだという医療観も容易にみてとれる。医療パターナリズムである。その点を、話をごく単純化して、医療を患者と医師の1対1の関係にきりつめて説明してみよう。病気となった患者は日常の責任から免除され、医師の診察を受け、その指示に従うことが求められる。医師は、患者のためを考えて、すべてを決めてやらなければならない。決めるべきことには、医療の技術的問題だけではなく、患者のためによりよい価値を選択することも含まれている。病者には価値選択の重荷を課してはならないからである。患者はすべてを医師におまかせすればよい。しかし、このようなかたちで医療を理解すれば、医療をめぐる倫理的問題はもっぱら医療専門職の問題とならざるをえない。問題が患者にかかわるものであっても、それを考え、決定するのは専門家以外にはないからである。こうして、医の倫理は、医療専門職の職業倫理に重なることになった。これに対して、生命倫理は、専門職倫理を医療倫理に置き換える伝統への批判という意味をもつものであった。

 ライクがいうように、生命倫理にも、医療専門職の職業倫理にかかわる問題は含まれてはいる。専門職集団の職能と位置づけは、生命倫理にとっても大きな問題である。しかし、それが問題のすべてであるわけではない。そもそも、病気だからといって、患者が病者の役割を強いられて、すべてを医師の手に委ねなければならないというのは、事柄が自分にかかわることなのだから、おかしいのではないか。医療の専門家だけが問題を論じればよいのではない。むしろ必要なことは、問題を患者が属す社会の中に置き戻してやって考えることである。それがライクの定義のいう「道徳的な価値と原則の光に照らして吟味する」ということの意味である。医療の専門家以外の素人も医療の問題を語り、社会の倫理規範によって問題を検討することが生命倫理を支えている。ヘレガースもケネディ研究所を設立する際に、神学者のライクやL・ウォルタズを研究員として招聘していた。これは、医療パターナリズムにたつ医の倫理の伝統からすれば、ごく新しい発想であった。非専門家が語ることによって、生命倫理が生み出される。

(p290)

 こうした問題意識は、遺伝子組み替え技術の原理が確立されようとしていた1970年代初頭に特に強く現われていた。新しい段階を迎えつつある生物学や医学の研究が予測させる未来社会への懸念、それは生物医学研究の意味とともに、人間の条件や社会のあり方を根本的に問い直そうとする志向を呼び起こすものであった。しかし、実際の米国における生命倫理の成立を考えると、求められたのは文明論的視野にたつ問いかけではなかった。そうした大きな問いへの志向は、あくまでも背景にとどまる。もっと個別的で具体的な問題が、非専門家の登場を余儀なくさせるような事情を生んでいたからである。その一つが、人間を被験者とする実験(ここでは簡単に人体実験とよぶ)を含む医学研究の問題であった(香川、2000)。

 医療は本質的に実験的な性格をもつ。患者の個人差を考えると、どのような医療行為も絶対とはいえず、人体実験的な意味合いを払拭することはできない。また、新しい療法は常に人体実験から始まらざるをえない。こうした医療のもつ不確実性、人体実験的な性質は、それこそヒポクラテスの昔から気づかれていた。とはいえ、それが正面から問われることはほとんどなかった。医学の実験的性格や実験の重要性がはっきりと意識されるのは、はるかに遅く、医学に自然科学的な手法が導入される19世紀半ばあたりからである。そして、その倫理性が本格的に問題にされるのは、さらに後の第二次大戦以降といってよい。大戦中のナチス・ドイツの医師たちによる人体実験が、人道に対する罪として裁かれたからである。

◆関根透, 200603, 「明治時代における医の倫理観の流れ」『鶴見大学紀要(第4部 人文・社会・自然科学編)』43:118-113.

(pp114-113)

 この頃、医の倫理の重要性に注目していたのが富士川游である。彼は政治に関心を示さず、専ら日本の医学史や医の倫理に関心を示し、日本初の体系的な医学史『日本医学史』という名著を著している。そこには、日本医学の社会性の欠如した姿を指摘したり、西欧の医学知識と医学技術のみを求める日本医療に憂慮した説を唱えたりした。親鸞に傾倒していた彼は、医療には宗教的な心情が必要であることも説いた。

 富士川游は西欧のヒポクラテスやフーフェラントの医の倫理観にも関心を示している。彼は明治四十二年(一九〇九)に撰述した『医箴序言』で、「希ろうの医聖・ヒポクラーテスは、尊敬せらるべき医家たるべき性質として最高の要求をした。ヒポクラーテスはただ善人のみ良医たることを得べし。医の術たるや、神に対して敬虔の意を表し、人に対しては親愛の情を尽すべきものなり、といった。又、医家は自己の利益を顧慮することなく、献身的に、又無私的に病者のために奉仕の生活をすべきなり、と教えた。人間を愛することが真にその術を愛する根源なり、と説いた。ヒポクラーテスが西洋の医学界にありて万世の師宗と仰がれるのは、独りその学術の上に於ける卓抜の見識によるのみではなく、又医家の倫理に重きを置いて医家の人格を向上せしむることに努力したことにその因由を存すると言わねばならぬ」と、ヒポクラテスの医の倫理観を紹介している。この『医箴序言』を基にして、昭和十年(一九三五)に克誠堂書店から発行され、表題が『医箴』となった。ここでは、富士川游が先人の医の倫理を項目ごとにまとめて紹介している。

◆市野川容孝, 20061222, 「隔離される身体」荻野美穂編『資源としての身体――身体をめぐるレッスン2』岩波書店.

 一四世紀半ばの黒死病大流行の後、ヨーロッパ各国では伝染病対策が危急のものとなるが、ミラノ大公のG・G・ヴィスコンティ(Gian Galeazzo Visconti一三五一―一四〇二)がとった方策は一つのモデルとなった。ミラノに近いソンキノで一三九八年に疫病が発生した際、ヴィスコンティは、ソンキノからやって来る者は誰であれ、ミラノに入ることを禁じた。さらに彼は、翌九九年に、感染者はその自宅に監禁すればよいというミラノ市議会の案をしりぞけて、疫病の感染者を全員、特別の病院に隔離収容し、感染の疑いのある者もミラノの外に追放した。

 また、イギリスで一六〇四年に制定された「疫病法」は、感染者が出た場合、本人とその家族全員を自宅に監禁し、そこからの人の出入りを民兵によって禁止させ、さらに感染者の衣服や寝具を残らず焼却する権限を、地方政府関係者に与えた。

 これらの疫病対策が、感染者一人一人を気づかうものでないことは明らかだ。それがまず第一に守ろうとしたのは、まだ感染していない健康な人びとの利益であり、そのためには、すでに感染した者の健康や生命を犠牲にすることさえ勘定に入れられているのである。

 「益を与えよ、さもなくば無害であれ」―「流行病」(第一巻)と題された論考の中で、ヒポクラテス(と総称される著作家たち)は、医師の心得をそのように説いているが(ヒポクラテス一九六三、一二四頁)、この論考で興味深いのは、ヒポクラテスが流行病について書きつつも、感染という現象には全く注意を向けず、それゆえ感染者の隔離を必要な方策として説いてもいない点である。少なくともこの論考において、ヒポクラテスは、症例を丁寧に記述しながら、それがどのような経過をたどり、予後がどのようなものかを詳らかにするだけである。ヒポクラテスは、すでに流行病にかかった人びとに対して「益を与えよ、さもなくば無害であれ」と言っているのである。

 右のヴィスコンティや、イギリスの「疫病法」に見られるのは、これとは全く逆のベクトルである。それは、健康な人びとに対して「益を与え」「無害であろう」とするのであり、そのためには、すでに感染した患者に対して「益を与えず」「有害である」ことさえ正当化されているのである。

 このような転換だけではない。公衆衛生の能動的主体は、その健康が問題となる個人ではないと先に述べたが、公衆衛生の対象もまた、そのような個人ではない。それが照準しているのは「人口」という集合体であり、一人一人の人間が問題となる場合でも、それはこの集合体という観点に照らしてである。

 この眼差しは牧人のそれに似ている。

◆松田純, 200701, 「エンハンスメント(増強的介入)と〈人間の弱さ〉の価値」島薗進・永見勇監修『スピリチュアリティといのちの未来--危機の時代における科学と宗教』人文書院:114-130.

 小さな「生きとし生けるもの」のなかに大いなる生命いのちが宿る。これは古今東西の宗教の直観であり,原始のアトミズムに通じるものでもある。例えばヒポクラテスやパラケルスス(1493/94-1541),安藤昌益(1703-1762)25などの人間・宇宙観のなかにもイメージされている。ヒトゲノム解読以後のゲノム科学はこの壮大な地球生命誌のドラマを,<全生命の共通祖先>とその後の進化として詳細に解き明かしつつある26。その意味で科学と宗教が対立する時代は終わった。

◆山本龍彦, 20070220, 「血縁者への遺伝情報開示--米国での裁判例から」福島義光 監修・玉井真理子 編集『遺伝医療と倫理・法・社会』メディカルドゥ:150-164.

(pp150-151)

 医療従事者が患者の医療情報を秘匿することを誓う「ヒポクラテスの宣誓」は、時代を経るにつれて修正を迫られてきた(注釈1)。すでに20世紀の初めには、結核や猩紅熱のような伝染病患者を治療する医師は、医学校の卒業時に謳い上げた「宣誓」に倣い、これまでどおり患者本人の利益のためにその医療情報を秘匿すべきか、それとも、感染のリスクを負った第三者のために当該情報を開示すべきかについて悩み始めたのである(注釈2)。「法」も、こうした苦脳に応じて、第三肴の利益を患者本人の利益に優位させ、本人の同意なくその医療情報を第三者に開示し、リスクなどについて説明する義務ないし特権を医師に対して認めることがあった(注釈3)(注釈4)。近年のアメリカでは、医師がある者のHIVテストの陽性結果について、その接触者のために本人の同意なく開示することを認める州法さえ存在している(文献5)。

 ところで、21世紀を迎えた現在、このようなヒポクラテスの宣誓の「例外」に、また新たな一頁が加わろうとしている。遺伝子テストの結果、すなわち「遺伝情報」の開示に関わる「例外」である。以下、アンドルーズ(Lori B. Andrews)の言葉を借りよう。

 「医療遺伝学の分野で働く医療従事者は、感染病で昔しむ患者を抱える医師または潜在的攻撃性を有する患者を抱える医師と同様の開示義務を有すると考えることができる。研究・カウンセリング、検査・テスト・治療を通して、ある者の遺伝的ステイタスに関する知識を増す医療従事者は、遺伝病が遺伝するがゆえに、常に、患者のみならず、彼ないし彼女の配偶者または血縁者にとっても価値ある情報をもつことになる」(注釈5)。アンドルーズによれば、遺伝子テストの普及が、医療従事者にこうした「ジレンマ」を課すものであるかぎり、そこにヒポクラテスの宣誓の「例外」が生ずる新たな可能性があるというのである。

 ただ、仮にこのような新たな「例外」の創設を認めるとしても、それが妥当する具体的状況が問題となる。例えば、ある遺伝性疾患のリスクは認められるが、それについて効果的な予肪法、治療法がない場合であっても、医師は血縁者に対して患者の遺伝情報を開示すべきなのであろうか。また、医師は保険証に記載がないような「遠戚」に対しても開示すべきなのであろうか。このようにみると、医師に開示義務が認められる文脈は、そう簡単には確定しないように思われるのである。

 そこで本稿では、血縁者への遺伝情報の開示が問題となったアメリカの裁判例を素材に、遺伝医療の文脈でヒポクラテスの宣誓の「例外」が妥当する範囲について若干の考察を加えることを目的とする。

(p157)

 以上、本稿は、アメリカ裁判例および学説をを通して、遺伝医療におけるヒポクラテスの宣誓の「例外」の妥当領域について検討してきた。それによれば、裁判所は、①一般に、血縁者に対する医師の配慮義務を認めながら、直接血縁者に開示する義務まで認めるか否かについては判断を異にしていること、②しかし、近年のモロイ判決を踏まえれば、最近親者への直接的開示が認められる傾向にあること(図①)(校正者注:図は省略)、③学説は概ね家族の自律性、親の権利、血縁者の知らされない自由などを重視し、慎重な比較衡量論によって開示義務ないし開示特権の認められる場面を導出しようと試みていることが明らかにされた。このような帰結は、遺伝療法における患者情報の開示について十分な論議がなされているとは言いがたい日本の状況に対して、一定の示唆を与えることになろう。

◆アン・ウィリー(竹田恵子訳), 20070228, 「遺伝子決定論と遺伝子例外主義」山中浩司・額賀淑郎編『遺伝子研究と社会』昭和堂:81-100.

 米国文化における医療の守秘義務に対する考え方は、以下のようなヒポクラテスの誓いに由来する。「医に関するかどうかにかかわらず、他人の生活についての秘密を守る。私はこのようなことを話すのを恥ずべき行為と捉え、誓いを守りつづける」(Garrison and Schneider 2002)。最新の米国医師会の医療倫理の原則は、この考えを「医師は法の制約の範囲内で、患者、同僚、他の医療専門職の権利を尊重し、患者の信頼とプライバシーを守るものとする」という現代的な記述に変えている(Garrison and Schneider 2002)。このような考え方は「プライバシーの必要性」という基本的な前提から生じている(Leino─Kilpi et al. 2000)。プライバシー概念には多くの側面がある。例えば、物理的な隔絶や領域、心理的な必要性、個人や集団との社会的な相互作用、情報へのアクセスや保護などの情報プライバシーがある。遺伝情報と遺伝子検査(遺伝学的検査genetic test)の結果に直接関わる問題は、たいてい後者のプライバシーである。プライバシーに対する考え方には、自分の情報のどの部分を誰に開示するのかを個人が管理するという前提がある。個人が管理する「プライベートな情報」と「機密(confidential)情報」の違いは、機密情報が、ある状況において他者に開示されてしまうと、最初の範囲を越えて再開示されてしまう点にある。遺伝情報を含む機密な医療情報は医学的治療や医療サービスへの支払いのために医療の場で再開示されるが、「知る必要」がない場合には開示されるべきではない(Committee on Assessing Genetic Risks 1994)。

◆山口昌樹・竹田一則・村上満, 200705, 『人間科学と福祉工学』コロナ社.

(p21)

 医療は,医師たちの科学的な知識,技術,観察と実験に基づいた「治療の実践」によって進歩してきた。実験を抜きにして医療の進歩はあり得ないが,それを行うためには,被検者の利益や幸福に結び付くための規範が必要とされる。

 表1.5は,医の倫理に関する世界的な出来事を示している。紀元前4世紀のヒポクラテスの誓いは,治療者としての医師の倫理の起源として有名である。倫理観とは,それぞれの国の倫理思想を基盤にしており,わが国では聖徳太子が17条憲法で「和をもって貴しとなす」という日本人社会のあり方を提示している。しかし,これら文化に根差した素朴な道徳観だけでは,世界的な規模で発生する諸問題に対応できなくなってきたのも事実である。

◆Lanzerath, Dirk(松田純・小椋宗一郎訳), 20070915,「病気という概念がもつ規範的な機能と,人間の生活世界の医療化――人体改造技術とエンハンスメントは人間の未来を決定するか?(Krankheit und der kranke Mensch)」国際シンポジウム『医療・薬学の歴史と文化』講演原稿,於静岡B-nest静岡市産学交流センター7階大会議室.

 http://life-care.hss.shizuoka.ac.jp/kusuri/news/20070915/02.pdf

 医術( 医学)10は伝統的には, その施術者の行為が非常に狭い目的に向けられている点に特徴があった。これに対して自然科学や技術は( それゆえバイオテクノロジーも), 原則的に目標が限定されていないという特徴をもつ。医療が生命科学や生命工学の手法を提供するものとして自他ともに理解されるようになればなるほど, 医療はむしろ技術的実現可能性と顧客の望みに合わせた純然たるサービスとみなされるようになる。現代の「サービス医療」の目標11として, 生活の質の向上や「完璧な」健康状態(wellness)の達成などが論じられている。これらによって能力向上の意味での人間本性の改良が医学的に望ましいこと12となり,かくして病気の治療のほかにエンハンスメントがつけ加わってくると予想される。こうして「患者」から「顧客(Kunden) 」への変化が起こる。そのような医療行為は市場において需要と供給のバランスによって調整される。医師と患者との信頼関係はこれまでは医療の目標によって拘束されていた。この関係が純粋に個人的な契約関係によって置き換えられ, この契約関係が人間本性の改良すなわちエンハンスメントをも許容するようになる13。

◆奥野克巳・山崎剛, 20071010, 「病気と文化ーー人間の医療とは何か?」池田光穂・奥野克己編『医療人類学のレッスン――病をめぐる文化を探る』学陽書房:31-54.

(p40)

 また、古代ギリシアの医学についても、ヒポクラテスのような人物が知られているように、やはり当時の医学思想が記録として残っている。ギリシアでは、エジプトのような医療と宗教との密接な結びつきはなく、固有の医学が発達したようである。古代ギリシアの医学では、身体を構成する4つの体液である血液、粘液、黒胆汁、黄胆汁が重視された。病気の原因は、この4つの体液のバランスが崩れることで起こると考えられ、このような体液に基づく病因論はヨーロッパでも、長らく信じられていた。

 アメリカの医療人類学者フォスターは、こうした世界各地で見られる多様な医療の性格を理解するために、病因論の体系を、おおまかに2つに分けた。それは、<パーソナリスティック>な病因論体系と<ナチュラリスティック>な病因論体系と呼ばれるものである[フォスター/アンダーソン1987]。

◆奥野克巳・森口岳, 20071010, 「グローバル化する近代医療ーー医療は帝国的権力か?」池田光穂・奥野克己編『医療人類学のレッスン――病をめぐる文化を探る』学陽書房:125-146.

(pp125-126)

 近代医療は、なぜ、そしてどのようにして、今日見られるように地球上に広く拡散し、誰でもがかたわらに置くべき医療として、強い信服を寄せられるようになったのかという素朴な疑問に出会うことになる。

 紀元前5世紀にヒポクラテスによって、病気は自然発生するものであると捉えられた。その後、ルネサンス期のデカルトの心身二元論によって発展の足がかりを与えられた科学的な医療は、ヨーロッパという地球上の一角において行なわれていたにすぎない。ところが、そのような医療が近代になって一気に、ヨーロッパだけでなく、地球上に広くもたらされ、行なわれるようになった。この近代医療が地球上へと波及するようになった起源は、ヨーロッパの列強諸国が、軍事力を後ろ盾として競い合った植民地時代にある。

*作成:植村 要

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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