引きこもり・自らを守り癒す

https://note.com/asotsunako/n/n65008b3c7b76 【ひきこもりが俳句を一年続けたら、大事なものを得られた話】より  麻生ツナ子

吾輩は、ひきこもりである。職業は、まだない。それでも一途に取り組めるものがあれば、奇跡のようなことだって起きるんだ。

noteで詩を投稿してたら俳句大会に誘われた俳句初心者。

noteでは最初、詩を投稿していた。中学生の頃から書いていた詩は私のさまざまな思いの吐き出し口で心の病気からひきこもりになったあとも細々と続けていたが、ネットに公開するようになったのはnoteを始めてから。

そんな詩の中にひとつだけ七五調のものがあった。それを見た当時の俳句大会の主催者が、参加してみないかと誘ってくれたのだ。

俳句歴も長くて才能のある人に直接誘ってもらえたのが嬉しくて、私は参加を即決した。

それが私の運命を変えるなんて、その時は思いもしなかった。大会でまさかの受賞、そして俳句沼へ。その俳句大会は去年の夏に初めて開催された。

note非公式の企画でありながら、最終的には100人近くの参加者、300以上の句が集まった。

そんななか私の句が最優秀新人賞、銀賞をダブル受賞。初心者でありながら俳句を評価されたこと、俳句を通してたくさんの人と繋がれたこと。これがひきこもりで孤独な私にとっては本当に嬉しいことで、俳句沼にダイブするのは当然であったと思う。

沼の中で私は「俳句ハイ」なる造語を生み出した。いわゆる「ランナーズハイ」の俳句バージョンだ。沼に浸かった人間が他の人も沼に引きずり込もうとするのは道理である。

多くの人を俳句ハイ状態にするべく俳句の企画を発案した。

俳句をnoteのコメント欄で募集しみんなで100句到達を目指そうという、「みんなで俳句100本ノック」。そこから派生し、他の人がリレー形式で記事を繋いで100句×10人10記事で合計1000句を目指そうという、「みんなで俳句千本ノックリレー」。

東京23区の地名や名所を入れた句を一区に一句以上詠み23区すべてを句にしようという、

「東京23区で秋の俳句23句」。これらの企画を発案し、達成させた。

ちなみに「みんなで俳句千本ノックリレー」は関わる人が多くなるにつれて進行スピードも速くなり、なんと2週間ほどで達成してしまった。

バケモノみたいに成長したこの企画は私の手に負えなくなり早々に手放したので、発案したとはいえあまり偉そうなことは言えない。

その後の秋の俳句大会や他の俳句企画にも参加し、そこで想像を超えるほどの反響をもらったことで私はますます俳句沼へと沈んでいくのだった。

夏井いつき先生の俳句サイトに応募。俳句沼にどっぷりと浸かった私は、とうとうnote以外の世界に足を踏み出す。「プレバト!!」というテレビ番組でお馴染みの俳人、夏井いつき先生が選者を務める俳句サイトに応募を始めた。

投稿フォームは初級者用と中級者以上用があり選べるのだが、noteで経験を積みそれなりに結果も残したと思っていた私はもちろん中級者以上で投稿する。

だがそこで私は、知らぬ間に高くなっていた鼻をバッキバキにへし折られるほどの挫折を味わうのだった。待てど暮らせど載らない俳句。中級者以上では特選・秀作・佳作・並選までの選と、類想類句を掲載し、選外の場合は掲載されないシビアなシステム。

結果発表の度に目を皿にして句を探すも載っていない。これがけっこう辛かった。

俳句を始めてからは褒められることばかりで自分には才能があるんだと思っていた。

それがプロの眼から見ると全然ダメなんだと思い知らされた。毎回出される兼題は知らない季語や馴染みのないものが多かった。俳句を始めて半年程度の私からしたら、まず言葉のイメージを掴むことに苦戦した。なんとか句を完成させ投稿しても、サイトには掲載されない。

noteで落選の報告をしては励ましてもらい、どこがダメだったのかアドバイスをもらいながら、(時に辛口のアドバイスに精神を抉られながら)なんとか投稿を続けた。

五度目の挑戦で初入選。めげずに投稿を続けて約半年、五度目の挑戦で並選に初入選を果たす。結果発表のページで自分の句を初めて見つけた時、思わずガッツポーズが出た。

念願の入選は、地の底まで落ちていた自信を一気に浮上させた。noteで報告すれば仲間が我が事のように喜んでくれ、そのことにも感動した。何度落選しても諦めずに続けたから入選を果たせた。けれど投稿を続けられたのは、時に励まし、時に厳しくアドバイスして、入選すれば一緒に喜んでくれるnoteの仲間がいたからだと思う。

俳句を通じて得たものは自信と。こうしてひきこもりの私が一年俳句を続けた結果、プロに選んでもらえる句を詠めるという自信と、句作における様々な感情を共有できる仲間を得た。

ひきこもりの私がこんなに素晴らしいものを得られるなんて、俳句を始める前の自分では思いもしなかった。これは私に訪れた奇跡だ。最後は俳句沼にずっぷりの俳句ハイな私らしく、

秋の句で締めようと思う。

繋がりは句の矜持なり星月夜     境遇を問わぬ世界に明の月


https://note.com/st_momo/n/n8ffb095452a7 【人生には季節がある。今は冬なのかもしれないね】

三輪 桃子(フリーランス言語聴覚士)

こんな経験はないだろうか?誰かに言われた何気ない一言が、何年たってもまるで昨日起こったことのように鮮明に思い出されることが。

言葉は不思議だ。

話し手が言葉に込めたメッセージは1つだったとしても、聞き手の置かれている状況・経験・知識など様々な要因で、いかようにも変幻する。

それは時に思わぬ鋭さのあるナイフとなり、時に忘れることのできない救いになる。

今までに何度か「ターニングポイントになった言葉」に出会ってきたが、「救い」という点では、この言葉を越えたものはないかもしれない。

人生には季節がある。今は冬なのかもしれないね

今それを思い出し、ここに吐き出そうと思ったのは、今私の大切な友人が苦しんでいるから。彼女は自分で起き上がったり時に逆戻りしながら、前進しようと戦っている。

私の経験が彼女にとって良い意味を持てるかどうかはまた別次元の話だが、彼女をはげませる方法がなかなか思いつかないので、自分の回復過程をたどりながら思案したいとおもっている。

2016年、どん底到来

2016年、私はどん底だった。

その程度のどん底甘っちょろ!と思われる方もいるかもしれないが、少なくとも私が生きてきた30年の中ではどうも様子が違う1年だった。

『喪』が今年の漢字に選ばれてしまいそうな程、これがしっくり来てしまうような年だった。

物理的な所からいうと・財布 2回・携帯・iPad・時計(プレゼントで頂いて1週間後の悲劇)

これは、私が2016年のうちに無くしたものトップ4。

他にもこの年は本当によく小物を落とした年だったのだけど。よくもまぁ!こんなに金目のものを次から次へ。10年くらいかけて経験しそうな落し物をが、1年間に凝縮された感じ(笑)

仕事でも経験したことのないトラブルが起こった。

これまで患者様からのクレームが一度もないことは小さな自慢だったのに、初めて大クレームを受けた。それに止まらず、担当変更を命じられた。要は選手交代、クビだ。

私的にはボタンの掛け違いが理由だと思っていたが、担当のDrにもこっぴどく怒られた辺りからすると、きっとそれだけでは無かったのだろう。

他の仕事も、この年はやる気を持って望んでも空回りすることが多かったなぁ。

プライベートでは引きこもりになってしまった。

私は元々超アウトドア。新しい出逢いが大好きで、趣味は常に複数あり、毎週末は1人勝手に忙しくなっているようなタイプだった。そんな私が、外出する気にも新しい友達を作る気にもなれず、1人で家にいることが増えた。

当時の私界隈の中では、付き合い悪い友人ランキング、堂々の1位だったと思う。

追い討ちをかけたのが、最愛の祖母のステージ4末期ガンからの余命数ヶ月宣告。

家族みんなに愛された人で、家族間のバランスをとっていたのはまさに祖母だった。私はその数年前から母との間でギクシャクがあったが、大好きな祖母が間を取り持ってくれ、なんとか関係性が維持できていた。祖母が突然命のリミットを告知され、母は崩れていった。そして私との親子関係もこれまでの膿が隠しきれなくなり、泥沼化していった。

私自身も崩れていった。過去を嫌い、自分を嫌った。

そして、人に対して暴力的な言葉を投げかけるようになった。

その一番の被害者は、当時お付き合いしていた彼だった。相手を傷つける言葉をわざわざ選んでぶつけるようになったり、そうと思えば急に優しくなったり、超メンヘラ女と化していた。今思うと、本当に土下座して謝罪したいくらい。

心の崩れとともに、体調も崩れていった。

私はいつからか、毎日23時になると過覚醒状態になった。

即寝だけが人生の誇りくらい威張っていたのに、どうしたんだい、わたしのからだ。

そして、夜中に起きていていい事なんて一つもなかった。

夜中に送ってしまったメールの最低さと来たら。暴力性の塊だよ、あれは?

朝になる度に後悔し、夜中の自分を呪ったものだ。人を傷つけると、自分も傷ついていく。

母も彼も、それが大切な人であればある程、自分の苦しみは深くなっていった。

**

私はある時から、多くのカウンセリングやコーチングを受けるようになった。コミュニケーションの様々な方略セミナーにもいったし、本も読み焦った。根本は星占術で解決できるもしれないと思い、高額のスピリチュアルな方にすがったりもした。

今思えば、その時に得た学びが今の糧になってはいるのだけど、当時は何をやっても欲しい答えが見つからない気がして、心ばかりが疲れていった。

すくい・ゆるし

2017年が明けしばらく経った頃、ひとつの転機が訪れた。

様々な学びの甲斐あってか、少しずつ暴力性回避の方法を自分なりに学び、気持ちを整えられるようになっていた。家族関係も少しずつ整ってきていた。

それでも、祖母の命が危なくなり、2016年にトラブルを積み重ねた結果当時の彼とは少しずつ距離が開いていた。

もっと早く自分が学べていれば。もっと自分が大人だったら。私は1年前の自分がどうしても赦せなかった。

祖母の命にすがったり、彼に全てを受け止めてもらえない反逆として暴力性を発揮したり、母のことを自分と同じくらい赦せなかったり。どうして、どうして私は。

そう思いながらパーソナルコーチングを受けていたある日。自分を責め続ける私に、先生はこの言葉を与えてくれた。人生には季節がある。今は冬なのかもしれないね

最初は突き放されたように感じた。ついに先生からも諦められてしまった、と。でも先生はこう続けた。

「冬の間はどうあがいても冬なんだ。でも冬には終わりが必ずある。春を迎える準備のために、こうやって苦しみを積み重ねなければいけない時もあるんだ。人生はそうやって巡り巡ってるんだよ」

自分を責める気持ちが消えたか?というとそれは違った。

でも、もがくほど状況が悪くなる、そんな経験を散々した2016年は、今思えばあんなにもがく必要がなかったかもしれないとも思う。

まぁもがいたからこそ、後悔とともに学べたのだけど。もがいてもどうしようもない時期があった、という概念。それが唯一過去の自分を赦せるきっかけになった。私にとっては救いの言葉となった。

雪解け

2017年の春。

立て続けにいろんなことが終焉を迎えた。

最愛の祖母は闘病の末亡くなり、その直後に彼とはお別れをした。母とはしばらく平和的冷戦状態になった。いろんなものを失ったのだけど、一気に雪解けを味わったような感覚だった。

2016年の苦しみはやはり季節のせいだと思い込める程、私は穏やかに2017年春を迎えることができた。そもそも私は大きなを勘違いしていたのだろう。

頑張ってどうにかなることもあれば、頑張ってどうにもならないこともある。

特に人の人生のタイミングや、他人と人生を重ねることは、自分1人の力ではどうしようもならない。それから時期的なもの。もし本当に人生に季節があると仮定すると、もがいてもどうにもならない事があったのかもしれない。

動物が食料もなく寒さを耐え忍ぶために冬眠するように、じっと待つしかないことがあるのかもしれない。少しずつだが、心地よい時間が戻り始めていた。

山に出かけたり、旅をしたり、自分に癒しの時間を設けたり、少しずつ自分を整えられるようになった。そして、夜11時になると眠れるようになっていた。

他人・季節はコントロールできない

あの時に学んだことは私にとって、今も自分の支えになっている。

まずは、他人をコントロールしようとしないこと。

自分でさえコントロール不全なのに、深層心理がわからない他人や他人の人生をコントロールできるわけがなかった。

祖母の人生を終えるタイミングだって、彼の考え方だって、母の元来の性格だって、私には何一つコントロールできるはずがなかった。

そして、私自身の季節。

何をどうやっても動き出せない季節があるのかもしれない。

あんなに引きこもりだったけど、春になれば自然と動き出すことができた。仕事にもプライベートにも前向きに打ち込めるようになった2018年。

春の訪れとはこのことか。

冬はもう2度と経験したくはないけれど、やっぱりこれからも定期的に訪れるのだろう。程度は違えど、誰だって平等に。

でも、冬の乗り越え方を少し学んだ。

冬があったから、大きな学びがあると学んだ。

何度も触れた「人生に無駄なことはひとつもない」という言葉はよく言ったものだ。

**

大切なともへ。

あなたの回復力を心から信じている。

でも本当に疲れた時は、「今そういえば冬だったな、休もう、休もう」そう思ってもいいんだよ。またおしゃべりしようね。


https://intojapanwaraku.com/culture/95994/ 【「天岩戸神話」天照はなぜ外に出なかった?日本史上最も有名な引きこもり伝説からステイホームの術を学ぶ】より

新型コロナウイルス(COVID-19)の流行に伴い、外出の自粛が求められる昨今。歴史ライター兼引きこもり好きの私は、ふと「そういえば、日本の歴史上で一番有名な引きこもりって誰だろう?」と思うようになりました。

そこで思いついたのが、日本に伝わる八百万の神々でもトップクラスの知名度を誇る神様「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」でした。天照が引きこもったことによって世の中に災厄が降りそそぎ、神々が力を合わせて彼女を外に出した「天岩戸(あまのいわと)神話」はあまりにも有名です。この神話は天照が出てきたことによって世界に平和をもたらすのですが、私はこう考えました。「新型コロナの流行する昨今では『彼女を外に出す方法』よりも、『彼女が引きこもれた』という事実に注目するべきではないか」と。

ここでは、天岩戸神話を「引きこもり」という斬新な視点から見つめ、人が外出を自粛するために必要な術を考えてみます。

ざっくり分かる天岩戸神話

まず、天岩戸神話から引きこもり術を学ぶには、やはりざっくりとでも神話の内容は理解しなければなりません。「そんなんもう知ってるよ!」とツッコまれてしまうかもしれませんが、本題に入る前にそこを整理してみます。

神々の時代、空の上には高天原(たかまがはら)という世界がありました。ここには太陽神・天照大御神をはじめとする多くの神々が暮らしていましたが、彼女の弟である須佐之男命(すさのおのみこと)はかなりの乱暴者でした。具体的には、田んぼの畦(あぜ:田の堤防代わりになる泥の加工)を破壊し、馬の皮を剥いでしまうなど、好き勝手に振舞い続けます。

あまりの横暴っぷりに我慢ならなくなった天照は「あ~もういい加減にして!」とブチギレ。自身は天岩戸に引きこもってしまいました。天照は太陽神でしたから、彼女が隠れたことで太陽の光が世界から消えてしまいました。当然、世界では作物が育たず、病気が流行するなど大変な騒ぎに。

困り果てた神々は「なんとか天岩戸から出てきてはもらえないだろうか……」と相談し、まず太陽を呼ぶ鳥とされた長鳴鳥(ながなきとり)の声で天照を外に出そうとします。しかしこの作戦は失敗し、次に天鈿女命(あめのうずめのみこと)が招霊(おがたま)の木枝を振って舞い、他の神々はひたすら騒ぎました。これは「楽しそうにしていれば、様子が気になって天照も出てくるのでは?」という考えからくるもので、予想通り天照は外の様子が気になりだします。

「えっ、わたしが引きこもっているのになんで楽しそうなの? 困ってるんじゃないの?」と思った彼女は、天岩戸を少しだけ開いて外を見ました。そんな彼女に神々は「いや、実はあなたより美人で立派な神様が来てくれたんですよ」と言い、鏡で天照の顔を映し出して見せました。鏡を使っているのですから天照は自分の顔を見ているわけですが、自分の顔だとは気づきません。興味をそそられ「もう少し見せてよ」と体を乗り出した隙に、神々は岩を開け放って彼女を外に出しました。世界には光が戻り、明るく平和な時代が戻ってきたということです。めでたしめでたし……。

というのが、「天岩戸神話」の概要です。個人的にはいま読んでもかなり面白い神話だと思っていて、「暴れまわる須佐之男に呆れて引きこもってしまうが、やっぱり楽しそうな外の様子が気になってしまう」天照の可愛らしさのようなものに目を惹かれます。

天照は「生きていけた」から「引きこもれた」

さて、いよいよ本題に入ります。今回私が気になっているのは「天岩戸神話で、天照はなぜ引きこもることができたのだろうか?」という点でした。身もフタもないことを言ってしまえば、「彼女が神様だから」というのが答えなのでしょうが、もう少し深い部分まで考えてみます。

すると、そこからは天照が「引きこもっても生きていけた」という事実が浮かび上がってくるように思います(そもそも神なんだから死なないんじゃ? という疑問はひとまず置いておくとします)。もし仮に、彼女が「天岩戸に引きこもっていたら100日後に死ぬ」とかの有名なワニのような運命が待っていた場合、それでも天岩戸に居続けるでしょうか。個人的な考えですが、弟への失望で死ぬところまでいくとは思えません。そもそも、死ぬなら引きこもる前に死ぬでしょうし。

そう考えれば、天照の行動は「死なないから外に出なくて済んだ」とも言えるわけです。ここには、現代の外出自粛につながる大きなヒントが隠されているように思えます。神話であろうが実社会であろうが、「生活が保障されていれば、外に出ない選択もできる」ということが示されているように感じるからです。

例えば、営業自粛が叫ばれる中で、今でも営業を続けているお店があったとしましょう。感染拡大の可能性を考えれば、確かに褒められたものではないかもしれません。しかし、営業を強行する経営者たちに言わせれば「営業を止めたら死んでしまう」という切実な思いがあるのは間違いないでしょう。彼らが天照のように「引きこもる」ためには、やはり「生活の保障」が必要なのではないでしょうか。

楽しそうなことがあると、つい外に出たくなってしまう

そして、天岩戸神話にはもう一つ、現代につながる重要な観点があると考えます。それは、「天照が楽しそうな様子を聞いて外に出てしまった」という点です。少なくとも神話が私たちに知られるようになった時代から、楽しそうな様子は人を外に出す力があると思われていたのでしょう。

しかし、現代は天照の場合とは全く異なり、人を外に出してはいけない時期に差しかかっています。この場合、私たちは「天照を外に出す」のではなく、「天照を引きこもらせる」方法を考え出さなければなりません。となれば、私たちがすべきことは一つです。

私たちは「天照が外に出たくならない」ように、自宅の外で楽しそうな様子を見せないようにしなければなりません。あるいは、「自宅の外に楽しいことがある」という情報を入れないというのも重要になってくるでしょう。

すでにコンサートやスポーツといった大規模なイベントはほぼ中止、あるいは無観客での開催に切り替わっているので問題ないですが、仲間内でもこの意識を共有する必要があります。例えば、自分と仲の良い友人たちに「今度外に出て遊ぶんだけど、お前も来ない?」と誘われてしまえば、たちまち天照と同じく「ちょっと気になるな」という気持ちになっても不思議はないからです。

幸い、多くの人は不要不急の外出をしなくても生きていける状況にあります。天照が出てこないと世界が危うくなってしまう状況にいた神々とは、立場が大きく異なるのです。ですから、私たちは「外に楽しそうなことがない」環境をつくり、さらに「自宅にいても楽しい」ということ、あるいは「おうち時間の楽しみ方」を考えていくことが大切です。

天照が「天岩戸暮らし」を楽しむにはどうすればよかったか

おうち時間の楽しみ方を考えるヒントは、今回の本題である天岩戸における天照の暮らしぶりにあると思います。天照が天岩戸に引きこもったのは、言ってみれば「衝動的」な思い付きがキッカケでした。弟の行いに耐えかね、「も~アッタマきた!」とこもってしまったのはここまで見てきた通りです。

しかし、いざ引きこもってみると、ぶっちゃけ天岩戸生活はすごくつまらなかったのだろうと想像できます。もともと気持ち的にブルーだったこともあるでしょうが、外が騒がしくて楽しそうだから顔をのぞかせてしまうあたりからも、引きこもり暮らしがハッピーなものではなかったことがよく分かります。

では、いったいなぜ天照は引きこもり暮らしを満喫できなかったのでしょうか。「もともとアウトドアなタイプだったから」というのもありそうですが、私的には「引きこもりの準備不足」が原因ではないかと考えます。私はかなり「引きこもり偏差値」が高いほうだと自負していますが、ある程度長い期間引きこもる前にはしっかりと準備をします。記事を書くための本や情報を仕入れ、ヒマつぶしのための本やゲームを揃え、そして晩酌用にお酒を買い込む。こうした準備があってこそ、引きこもり生活は充実したものになるのです。その点で、やはり衝動的に引きこもってしまった天照は備えが足りなかったのでしょう。

神々の世にどのような娯楽があるのかは分かりません。しかし、少なくとも密室でヒマをつぶすための手段はあったはずです。個人的には、弟への怒りを創作活動に向けて「弟をひどい目に遭わせる小説」や「怒りを表現したアート作品」あたりを作っていれば、気が紛れたのではないかと思います。芸術的に優れた作品は、得てして強烈な感情に裏打ちされているものですし。

そして、怒りのパワーを創作に向けているうちに、なんだか弟を許す気持ちになっても不思議はないと思うのです。皆さんも経験したことがあるかもしれませんが、何かに打ち込んでいると他のことは案外どうでもよくなってしまいがちです。そうなれば、後は自由気ままに引きこもり生活をエンジョイするだけですね。

もちろん、私たちは天照のように怒りをぶつける必要はないでしょう。ただ、「準備が不足すると楽しめるものも楽しめない」というのは、神話でもリアルでも変わりはないと思います。言うまでもなく「引きこもりを楽しめなかった天照」が真実の姿というわけですが、私たちは「妄想の中にだけ存在する、準備万端で引きこもりをエンジョイできた天照」になれるよう、引きこもり生活に対して真剣に向き合うことが重要かもしれません。

https://toyokeizai.net/articles/-/271206 【私の引きこもり生活がある日ふと終わったワケ

風呂に入らず、昼夜逆転も】より

小学4年生で不登校をし、現在はフリースクール「東京シューレ流山」でスタッフを務める原野有里さん(29歳)にお話をうかがった。原野さんは、自身の不登校をふり返って「健全にひきこもれたのがよかった」という。

――不登校になったのはいつからですか?

きっぱり行かなくなったのは、小学校4年生の9月1日からですね。でも思い返すと小3ぐらいから学校がしんどかったなと思います。まじめで几帳面な性格だったんです。小学校中学年になると宿題やミニテストが増えてくるんですが、先生の言うことやまわりの空気を読み取って完璧にこなそうとしていました。

当記事は不登校新聞の提供記事です

たとえばノートに10種類の漢字を5回ずつ書く宿題があると、チラシの裏に何十回も練習してからノートに清書していましたね。

ほかにも、女の子たちと同じものは好きじゃなかったし、あんまり明るい性格でもなかったから、目立つ子たちから嫌がらせや陰口を言われてハブられるようになったんです。

小4夏休み明け“体が動かない”

仲のよい子はいましたけど、どんどん疲れていきました。それでも小3の1年間と小4の1学期は行ったり行かなかったりの「五月雨登校」を続けていました。完璧主義だったので、行くからにはキッチリやらなきゃいけなかったし、学校へ行かなければ自分には価値がないと思っていたんです。

でも、小4の夏休み明けに、学校へ行こうと思ったら、起きられない、体が動かない、パジャマから着替えられないという状況になりました。

親には学校がしんどい理由を言えなかったですね。自分でも整理できていないから表現できないし、当時は「理由がわからなかった」というのが本当のところです。今こうやって話せているのは、大人になってふり返れるようになったからだと思います。

――不登校になったとき、ご家族の反応はどうでしたか?

母も最初のうちは「着替えなさい」「ちゃんとご飯食べなさい」「学校の時間はテレビ観ちゃダメ」みたいな感じでした。だから家にいても学校のプリントやミニテストで勉強していましたね。

家で勉強するのはイヤでしたが「ただでさえ学校へ行ってないのに、こんなに不真面目になった」という引け目があったからです。そういう自己否定感がありました。

適応指導教室に通う生活へ

そのうち適応指導教室(現・教育支援センター)というのが近くにあるのを見つけて行くことになったんです。部屋に入ると、ちょうど同い年くらいの女の子や、ちょっと上のお姉さんが数人いました。お絵描きが好きでおとなしそうな、安心して話せる感じの不登校の子たちでした。

自分以外にも不登校の子がいて、みんな不まじめなわけじゃない、仲間がいるんだと思って心強かったですね。仲間に会えたという意味では、適応指導教室があってよかったと思っています。

その適応指導教室には週に1回、自分の予定を決めるという時間がありました。ずっと遊んでいてもいいんですが、まわりの子が給食や好きな授業時間、放課後だけ学校へ行くという予定を書いていたんですよね。

ほかの人の予定を見て、私も週に3回くらい給食登校をしていました。

――不登校の子への対応はどんな感じでしたか。

適応指導教室ですから学校へ戻そうという働きかけはつねにありましたよ。

私の通った適応指導教室は、文字どおり「学校への適応」を指導するところでした。給食登校も、ただ給食を食べに行くだけじゃないんです。学校復帰のためのワンステップに位置づけられていました。

そういう指導のなかでは「今度、授業へ行ってみない」と聞かれたら、行くしかなかったんです。だって断れない人間だったし、行かないと自分で自分を認められる要素がなくなってしまう。

「行ってみたら」という声がけは、私にとっては「行きなさい」と、ほぼ同義でした。

そんな生活を続けていましたが、小6の春か夏ごろに、今までがんばって張りつめていたものがパチンと切れてひきこもりました。お風呂にすら入らず、昼間は寝ていました。食事も冷蔵庫のものを全部食べる日もあれば、一日中何も食べない日もありました。

――なんで昼夜逆転しちゃうんでしょうか。

朝は一般社会の動き出すときだからイヤなんです。自分と同じくらいの年齢の子たちが目の前の道路を通ったりするから。でも夜は静かで「こうしなきゃいけない」のある世の中からちょっと離れた感じがするんです。

みんなとちがう世界にいられる夜は居心地がよいので、自然に昼夜逆転していきました。

朝食の準備をしている母に、夜中のテレビやラジオ番組の内容を話し続け「あぁスッキリした! 寝るわ」と言って自分の部屋にこもる生活でしたね。

母は「そうなんだ」「へぇ」と言って、ただ聞いてくれていました。今思い返してみると、どんなときも母は何も言わなかったですね。どんなに長いあいだ、お風呂に入ってなくても「お風呂に入ったら」とは言わなかったです。

――お母さんが聞くだけでいてくれたんですね。

母がすべてを受けいれてくれたので、落ち着きましたね。だからひきこもっていた時間は、今の自分のことを精いっぱい考えられた時間でした。ひきこもって本当によかったと思っています。あのまま流されるままに生きていたら、手首を切っていたんじゃないかなと思います。

私は不登校だけでなく、ひきこもりも肯定しています。ひきこもりって「健全なひきこもり」と「不健全なひきこもり」があると思うんです。健全なひきこもりは家のなかを居心地よく感じていて、自由にすごせます。

一方で「ちゃんとしなさい」とか「いつまで寝てるの」という空気が家のなかにあって、子どもが追いつめられちゃうのはひきこもりのほうが「不健全だな」と。

事件で見聞きするようなひきこもりは「不健全さ」ゆえに追いつめられたからだと思っています。

親の気持ちが外に向かうと

――でも不登校で子どもが家にいると親もストレスがたまります。将来の見えない不安もあるし……、どうしたらいいんでしょう。

私がひきこもったころ、母は親の会を立ち上げたんです。その親の会などで学んでいたんだと思います。

それと母は押し花が好きで、家にいないことも多かったんですね。家でも外でもいつも楽しそうにしている母の姿を見ていました。だからお母さんは家にいないほうがよいと思うんですよね。

お母さんは好きなことのために家にいない、子どもは家や安心できる居場所ですごすというのがベストじゃないでしょうか。

――ひきこもりはどうやって終わったんですか。

自然に終わりました。小6の春に、兄と楽しく遊んでいたころの夢を見たんです。目が覚めて「楽しいときがあったなぁ」と思い、兄弟で遊ぶために外に出てみたんです。

こんなふうにパッと外に出られたのは「ゆっくり休めた」からだと思っています。ひきこもってゆっくり休めたからこそ、外に出られたんですよね。

ひきこもりを終えてから「○○しなきゃいけない」という気持ちは、少しやわらいでいました。給食登校をしなくてもいい、適応指導教室だけですごしてもいい。そう思えるようになり、中学生時代は、家と適応指導教室と学校、3つの場を行き来していました。

学校を休んでも大丈夫だよ

――最後に不登校や学校に行きたくない子に向けてメッセージをお願いします。

学校は休んでいいよってことですね。でも、そういう子たちってどんなこと言われても届かないと思うんですよね。だから保護者の方に向けてのメッセージにします! 

学校に行かなくても、大人になる道はいくらでもあることを伝えたいです。内申書がなくても受けられる高校はたくさんありますし、私が卒業した高校は入学試験もありませんでした。フリースクールという道だってある。もし学歴が心配だったら「高等学校卒業程度認定試験」もありますね。

高校へ行かずに就職している大人や、フリースクールに通ったことで不登校を1ミリも否定的に捉えていない人もたくさんいます。それに学歴をつけなくても安心できる居場所で安心できる仲間たちとすごしていたら、いくらでも楽しい大人になれるんです。

楽しくすごしていた人は、どこに行っても楽しめるから平気なんですよね。子どもは自分のことを自分でちゃんと考えて、自分に合った道を自分で探します。

だから保護者の方も、情報収集をして高校以外にも進める道がたくさんあることを知ってほしいです。

――ありがとうございました。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/518126/ 【引きこもり18年、去った老親…残したメモには「家族も限界」】より

男性の自宅には数カ月に1度、差出人不明の手紙が届く。中の便箋には「元気にしてますか」と男性を案じるメッセージが記されている(写真の一部を加工しています)

両親が書き残していたメモを手にする男性。両親は5年ほど前、自宅から姿を消した=10日午後、大分県

 長期間引きこもり状態にある人や家族をどう支援していくか、課題になっている。当事者はどう感じているのか。仕事に失敗して以来、かつて20年近く自宅にほぼ引きこもっていたという大分県の男性(54)に話を聞いた。自立に向かうきっかけは、思わぬ出来事だった。

 残暑も終わり、涼しくなり始めた朝。目覚めると、家にいるはずの両親が見当たらなかった。寝具や食器は持ち出され、車もない。居間のテーブルには、わずか2行の書き置きが残されていた。

 ≪後のことは市役所に相談してください≫

 大分県北部の海沿いの地域で、男性と同居していた両親の行方が分からなくなったのは2014年9月。男性は当時49歳、両親は70代だった。「今後どう生きればいいのか」。男性は途方に暮れた。

 男性は20代の頃、東京で会社を起こし、広告関係の仕事に携わった。当初は順調だったものの、大きなプロジェクトの重圧に耐えられず、結婚を考えた女性とも破局。身も心も疲れ切って、31歳で故郷に戻った。

 それからは定職に就かず、自宅で過ごす日々。知人の勧めで病院に行くと「不安神経症」と診断され、向精神薬を服用するようになった。経済的に余裕のあった両親に金銭を無心し、酒場に行く夜もあったが、ほとんど自宅にいた。母に「働いてほしい」と言われた時には、いらいらして冷蔵庫を殴ったこともある。

男性は「18年間、病院に通いながらそんな生活を続けた。家族のほかに社会との接点もなく、意欲も失っていた」と振り返る。

 内閣府によると、半年以上、家族以外とほとんど交流せず、趣味の用事やコンビニなどにだけ外出する人は「広義のひきこもり」とされる。厚生労働省の担当者は、男性の生活状況について「広義のひきこもりにあたる可能性がある」と言う。

 両親がいなくなった後、男性は次第に「自分ではい上がるしかない」と思うようになった。思い切って市役所に相談に行き、生活保護の受給手続きをした。向精神薬の服用を断ち、仕事探しも始めた。現在は生活保護を受けず、派遣社員として働きながら、洋服や食料品の輸入販売にも携わっている。

 結果的に、両親と離れたことが自立のきっかけになったが、両親の真意は分からないままだった。ある日、自宅を掃除していると、ノートに挟まったメモ紙が出てきた。そこには複雑な親心が記されていた。

 ≪行動を起こしてほしいと思っても、言えば暴れて手のつけようがなくなる。一番つらいのは本人かもしれませんが、家族はもっとストレスがいっぱいです≫

殴り書き「家族も限界」 男性、49歳で自立促され

 大分県北部で暮らす男性(54)は18年間、定職に就かず、実家にこもる生活を続けていた。行方不明となった70代の両親が書き残したメモ紙には、その心情がつづられていた。

 《40歳、50歳代の人は親も亡くなり、1人になってしまいます。兄弟も自分の生活でいっぱいですし、家族全員の心は、いつもひっかかっています》

 《当人も家族も限界に来ている人が多い。だから本人も自暴自棄になり、事件を起こしたりする人も多いのではないでしょうか》

 老いや病気に直面し、息子を養う将来への不安。そんな事態を受け止めてくれない政治行政への不満-。相談窓口に寄せる文書の下書きだろうか、チラシ3枚の裏面にびっしり殴り書きしていた。複数の関係者によると、両親は行方不明になる前、市役所に相談に行っていた形跡がある。

 男性は自らを残して去った両親に対し、恨めしさとともに「もう迷惑をかけなくてもいい」と、ほっとした気持ちもあった。メモの内容を踏まえ、今では「両親は自分を突き放し、自立させようとした」と考えるようにもなったという。

 両親の行き先は知らないままだが、自宅には数カ月に1度、差出人不明の封筒が届く。中には数千円の現金と便箋が入っている。

 《1人になって1年になりますね。だいぶん細くなっているでしょうね。1年間、1人で暮らせたら大丈夫ですね》

 手紙は既に10通以上。しっかりした筆跡から、男性は「きっと、どこかで元気で暮らしている」と推し量る。覚悟して家を出た両親を捜す気はない。いつか戻ってくれば、今度は自分が両親を支えるつもりだ。 

親と本人を一定程度、物理的に引き離す-。こうした手法は、一部の支援団体が試みている。NPO法人・ニュースタート(千葉県)の場合、1人暮らしや寮生活を体験させることを自立への第一歩としているという。

 「親子が同居したままだと、親は子を手放さず、子は親の目を気にして主体的に動けなくなる。共依存の関係が引きこもりの長期化を招く」と、支援に当たるスタッフは話す。

 もちろん、大分の男性のように、親が離れることによって必ず良い方向に向かうとは限らない。引きこもりとなるきっかけは不登校や受験での失敗、就職難、人間関係のトラブル、病気などさまざま。一人きりで支援を求めることができず、困窮したり、自暴自棄になったりすることもある。

 専門家や支援者の指摘に共通するのは、頭ごなしに怒ることの危険性だ。

 精神科医の斎藤環・筑波大教授によると、元農林水産事務次官が息子を殺害した疑いが持たれている事件などを受け、心配した家族が引きこもりの子を怒ってしまうと、子も不安になり、反発するという。斎藤教授は「インターネット上では、元次官について『よくやった』といった心ない言葉が飛び交う。それを引きこもりの人が見れば、非常に痛い言葉だと感じる。感情が暴発すれば、親子間の新たな事件につながりかねない」と警鐘を鳴らす。

 引きこもり当事者の家族でつくる「福岡楠の会」事務局の吉村文恵さん(79)は、「働け」と強く迫ると家庭内暴力につながると懸念する。「本人も働かないといけないのは分かっているが、力がなく、動きだせない状態に陥っている。第三者が介入すれば、本人の攻撃性も緩む。まずは相談機関を訪ねてほしい」

 それぞれのケースに応じ、手探りで支援を考えるしかない。大分の男性は言う。「かつて周囲の人々は腫れものに触るように私と接していた。偏見の目で見るのではなく、しっかり話を聞いてほしい、きちんと耳を傾けてほしい。そう思っている人は少なくないのではないか」

https://www.nippon.com/ja/column/g00455/ 【精神科医が見たひきこもりの現実】より

「社会的ひきこもり」という言葉が誕生してから20年近くたつ。社会から姿を隠している彼らの実態は、いまだによく知られていない。ひきこもりの当事者とその家族の相談を長年行っている精神科医がその実態と現状について語った。

いま日本において、多くの若者たちが、この社会から続々とコンセントを抜き始めている。

社会とのつながりを持たない彼らは「社会的ひきこもり(以下、ひきこもり)」と呼ばれている。しかしその実態は、まだまだ一般的に知られていない。ひきこもりは1000人いたら1000人とも、ひきこもり方、背景や経緯もそれぞれ異なり、千差万別だ。一体ひきこもりとはどのような者たちなのか。

「ひきこもり」の定義とは以下のものだ。

①就労・就学していない。

②精神障害ではない。

③家族以外の他者との交流を持たず6カ月以上続けて自宅にひきこもっている状態。

この定義の中で、最も重要なのは、③だ。彼らは、1人の友人もなく、社会的に孤立している。都会の真っただ中で、孤立し、社会との関わりを持たない者たちだ。

一説にはこのような者たちが、日本の社会の中で100万人いるとも言われている。100万人のひきこもり当事者と、何十年もひきこもる子どもを抱える親200万人の数を合わせると、20歳以上の人口の3%近くに達する。とても無視できない数であり、大きな社会問題となっていいはずだが、多くの人々はなぜかこの問題に無関心でいる。

多くの日本人は、ひきこもりを、仕事もせず親に養われている存在で「甘えている」とか「怠け者」とみなしている。強調しておきたいのは、好きこのんでひきこもる者は1人もいないと言うことだ。もしそれが『甘え』や『怠け』というのなら、なぜひきこもる者やその親たちは、こんなに苦しんでいるのか。

キーワードは「恥」と「葛藤」

ひきこもりを理解するためのキーワードは「恥」と「葛藤」である。ひきこもりの当事者たちは、一般の人と同じように働けない自分を深く恥じている。皆と同じように働けない自分は人間のクズであり、一生幸せになる資格はないとまで思い詰めている。親の期待を裏切って、親に申し訳がないとほとんどの者が感じている。

「葛藤」とは、社会に出ていけない自分と、それを責め続ける自分とがとことん追い詰め合う内戦状態であると言ってよい。消えてしまいたい、生まれてこなければよかったと、多くの者たちが語っている。中には苦しさのあまり、疲弊しきってベッドから起きられない者もいる。この葛藤の苦しみが、何年も、時には何十年も続くのだ。

深刻なケースでは、トイレやシャワーを使う以外、まったく部屋から出ようとしない。食事も家族が寝静まった夜中に冷蔵庫の中のものをあさって食べる。同じ家にいながら家族との会話もまったくなく、家族と接触することを極度に恐れている。ある母親は、子供が12歳からひきこもりになって以来、子供と言葉を交わしていないため、声変わりした声を聞いたことがないと嘆いていた。

彼らは雨戸やカーテンをいつも閉じっぱなしにしており、自分が部屋にいる気配を消そうとする。一切の音をたてないために、TVやパソコンを見る時もヘッドホンをつける。歩くときも足音を忍ばせて歩く。人によっては、真夏でも真冬でも、冷暖房をつけない。なぜだかわかるだろうか。冷暖房を使うことで、自分の存在や行動を家族や近隣に悟られたくないからでもあり、自分にはそれらの家電を使う資格もないと思っているからである。このように苦しみの中でもがいている者を「甘えている」や「怠けている」と一刀両断に片付ける前にもっと彼らのことを知ってほしい。

「働かなくてはいけない」けれども「働けない」

彼らが恐れているのは、他者から「今何をしているか」と聞かれることである。あるクライアントは、「その質問を恐れて、まるで逃亡者のように逃げ回る」と語っている。その結果、友人、知人、他者との交流を自ら断ってしまう。

ひきこもりの6割前後に就労経験があると言われている。彼らは常識を越えた過重労働(時に月200時間を超える残業)や慢性的なパワー・ハラスメントを受けてきた者が多い。その結果、働くことへの強い恐怖感や生理的拒否感を持ってしまう。

ひきこもりの定義で述べたように、彼らは精神障害でない。障害でないのでこれといった治療薬や治療法もなく、本人の変化を見守ることしかできない。「働かない」のではなく、「働けない」もしくは「働けなくなった」者もいる。一般的に漠然とひきこもりは、精神障害をもっているか、心の弱い人たちと思われている。しかし、ひきこもりとは心が強いとか、弱いという「心の問題」ではなく、「(自責感から)働かなくてはいけないけれども働けない」という「労働問題」としてみる視点も必要かもしれない。

2016年11月創刊の『ひきこもり新聞』。ひきこもり当事者、関係者が執筆。インタビュー、コラム、自助会やカウンセリング等の情報を提供する、当事者による当事者のためのメディア

では、この深刻なひきこもりという状況から、彼らをどうやって救出できるのであろうか。中には無理やり引き出すような強制的な介入も行われてきたが、うまくは行っていない。その一方でここ数年、当事者によるさまざまな活動やネットワークで支えあう仕組みが生まれつつある。カウンセラーや精神科医との連携、当事者による当事者を対象とした集会や、当事者による新聞『ひきこもり新聞』発刊などの動きもある。親御さんとカウンセラーのカウンセリングによって家族のダイナミズムが変わっていき、当事者が変化していく例もある。時間はかかるが、当事者が社会とのつながるきっかけを見つけ、社会のひきこもりへの理解を少しずつ広め、受け入れられる環境を整えていくしかないだろう。

ひきこもりとは、社会とつながりたくてもつながれない人たちが、この日本社会で生き延びるための、ギリギリの戦略であり、自らの尊厳を守るための自己防衛として、最後に残された選択であるのかもしれない。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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