Facebookごとう 孝二さん投稿記事 「一度きりの人生自分らしくあれ!」
本当は、嫌いな人と関わる必要はないし、嫌なことをやる必要もない。苦労も我慢もする必要ない。嫌いな人に関わり嫌なことをして苦労や我慢をすることなんて、別に偉いことじゃないんだから。それがあまりにも自分を苦しめることなら、そこから逃げることも悪くはない。とは言え、時には逃げ出す勇気も必要ってこと。
無理して頑張ってあなたの人生を台無しにするくらいだったら、いっそのこと放り出したっていい!
10代も1度きり 20代も1度きり 30代も1度きり 40代も1度きり 50代も1度きり
60代も1度きり 70代も1度きり たくさん泣いて たくさん悩んで たくさん後悔して
たくさん転んで たくさん傷ついて たくさん学んで たくさん笑って笑って
たくさんの思い出に感謝して1度きりの人生 自分らしくあれ!
マノマノ稲穂@manomano_farm
小学校の先生が児童に「雪が溶けたら何になる?」と質問したら多くの子は「水になる」と答えた中一人だけ「雪がとけたら春になるよ」言った子がいました。でもそれに対し先生は×をつけたと聞いて悲しい気持ちになった。感じたことを自由に表現できて否定ではなく承認の世界がもっと広がるといいなと
Facebook篠崎 朗さん投稿記事 【子どもをあまり褒めないでください‼️】
褒めて伸ばすのが教育だと思っていませんか?
シュタイナー幼児教育
私は昔からシュタイナー教育の理念に傾倒しており、上の子どもはシュタイナー幼稚園を卒園し、下二人は今も通っています。 早期教育のように早々と子どもに知識を植えつけるのではなく、子どもの成長を七年周期に、体、心、頭のバランスを整えていくことを大事にしています。
七歳までは体の成長、主に内臓、骨がしっかり育つ大事な時期と言われています。 この時期に知識を詰め込み、暗記などさせると、体を育てるために使うエネルギーが奪われてしまうことになるわけです。ですからシュタイナー幼稚園では、就学するまで一切字も教えてはいけないのです。
最初の七年間は体全身を動かすこと、それも指先から足先まで動かすことをとても大切にしています。 良い睡眠、健康的な食事と一日一定のリズムを大切にします。 そのリズムが健全なる肉体を形成し、家族や園や子どもの周りに存在しているものに対して絶対なる安心感へとつながり、子どもの心を安定させると言います。
でも、初めて娘を幼稚園に入れてびっくりしたことがありました。 それは保護者会にて先生に言われた言葉でした。
「お子さんをあまり褒めないでください」
私はそれまで子どもを褒めて育てることを意識していたので、その真逆を言われて戸惑いました。でも今では子どもたちを無理に褒めることはせず、自然な形の声がけをするようになりました。
子どもに限らず大人も褒められると嬉しいものです。でも、褒められることを意識し始めると、自分の本来の軸からずれていくことがあります。
例えば、子どもが本を読んでいるとします。 そこで、大人が 「本を読んでいて偉いわね!」 などと褒めると、子どもとして、自分は本を読むのが好きで読んでいるのに、 「本を読むと褒められるのだ」 と捉え始めます。 それまでは好きだからやっていたことも、変に意識し始めます。 読みたくなくても、褒められたい、認められたい、気を引きたい・・・・・と思う時に、本を読む姿を見せてきたりすることがあるそうです。 子どもも大人も自分が好きなことを、自分がワクワクすることをしている時は、人が褒めようが褒めまいが関係なく幸せな時間を過ごせます。
それは自分軸で生きられている時です。 でも私たちは徐々に外からの評価を意識し始まると、自分の意識が外に向き始めます。 認めてもらいがために、相手の合わせたり、相手が喜ぶことをやるようになります。 評価を得ることだけが自分の軸になっていくと、自分がどんなことに喜びを感じ、どんなことにワクワクを感じるかなどの感覚が鈍っていきます。
子どもにとっての最高に嬉しい時間というのは、褒められることよりも、一日の中で五分でも十分でもこちらが全身の意識を向けてその子と向き合う時間なのかもしれません。 子どもが絵を描いて見せにきた時に、何かしながら絵をきちんと見ることをせずに 「すごいわね!」 と褒めるのではなく、その瞬間は、やっていることをすべてやめて、言葉を発しなくても笑顔でその絵を数秒でも一緒に眺め、その後にその子の目を見て感じたことを伝えることが出来たとしたら、その子は最高の誉め言葉もらっている以上に嬉しく思うのかもしれません。
また、私は小さい頃から、自分の命そのものを讃えてもらっていました。 「愛する里香、素直な里香、明るい里香・・・・・」 自分の内奥に存在する本質的な性質に光を当ててもらえる言霊は大人になっても覚えています。
なぜ承認を得たいのか
私たちは今、大転換期の中で生きています。 神聖復活の時代です。 今までは、常に誰かの承認や賞賛を必要としてきた時代を過ごしてきました。 人から褒められることや認められることこそ何よりの喜びであり、それが生きがいになっていました。 自分が人の役に立てる時、自分の存在が輝く瞬間というのは本当に幸せな瞬間です。 しかしこれからは、外からの承認や賞賛ではなく、何よりも自分が本来の自分とまっすぐつながり、自分を愛し自分を賞賛し、自分が自分であれることを何よりも喜びに感じる時代になってくると感じます。
なぜ私たちが人からの承認を得たいと思うかと言うと、それはもしかしたら他と深いつながりを求めているのではないでしょうか。 共感や共振、 「私もあなたと同じ」 と確認し合いたい。 なぜなら私たちの奥深くでは、すべてと一つになりたいという願いがあるからだと思うのです。 神様から認められたい=神様とつながりたい、他から認められたい=他と深いつながりを持ちたい、そういう魂の本質的な欲求があるのかもしれません。
このように考えると、褒めるということは、相手に耳を傾け、その存在を認め、そこに生命としての深い共感を持つことなのかもしれません。
だからといって愛の言葉を放たなくてよいのかといったらそれは全く違います。 愛の言葉、ポジティブな言葉というのは自他を生かします。言霊だからです。 それを放てば放つほど周波数が上がりますし、光が満ち溢れます。 高いひびきの言霊を放つことは自分をも引き上げます。
ですから、それを制限することを勧めているのでは決してなく、外に合わせたり、好かれたいがために、心を込めずに良い言葉を並べるのではなく、目の前にいる人を全身で受け入れ、つながろうという姿勢を持つと、自然と相手に伝えるべく言葉が降りてくるのだと思うのです。 その流れてきた言葉は、どんな言葉であっても相手に響き、自分のハートも相手のハートも開いていくのだと感じます。 これを意識して “褒める” という行為を行なうと、それは決して一方通行の行為ではなく、相手と深いつながりを生む素晴らしい行為になり、無限の可能性を引き寄せていくと思うのです。
西園寺里香さん
https://iec.co.jp/media/corner/kojijyukugo/17 【和して同せず】より
わしてどうせず・・・・・・
人と協調していくが、決してむやみに同調しないということで、人とのなごやかな人間関係には心掛けるが、その場かぎりに、無責任に賛成したりしないという意味です。
「論語・子路」のなかに出てくる文言で、「君子は和すれども同ぜず。小人は同ずれども和せず」の前半部分を取ったものです。後半は、「つまらぬ人間は、やたらに人の意見に賛成するが、真に共感しているのではなく表面だけを合わせているのであり、友好関係は生まれない」ほどの意味でしょう。
「付和雷同」(礼記・曲礼上)は「雷が鳴ると、それに応じて反射的に響く音のように、自分の定見もなく是非の判断もなく、賛成する」ということでほとんど同意義です。
「和」というのは、われわれ日本人が大切にしている美徳の一つです。「和気諸々」というのは、「気分のよい、ほんわかした雰囲気」のことであり、ことを荒立てずにうまく調和していくことでしょう。
「和議」は「なかなおりの相談」ですから、大へん幅ひろく使える語句といえます。しかし、だれとも友好関係を保ちながら自分の主義主張を曲げないことはなかなか難しいことだと思います。
老子の思想が、融通無碍で自由に流れに従うのに、孔子の方は筋を通して、自分の説を曲げないというやや道徳臭のあることがこの格言のなかにもよく表れています。人間関係をよくすることをすすめながら、自説を曲げてはいけないと戒めているのです。世のなかに「清濁併呑む」ような生き方を実行している人も少なくないのです。こちらの方は、広く、どのような人とでも交際し、受入れるということです。
「清濁併せる」は、いいかえれば、正しいものも邪なものも、また善人も悪人も区別しないことで孔子流では受け入れられない態度です。「史記・酷吏伝」に「清濁を制治す」というところからでたものですが、「清濁併呑む」の方はわが国で作られた成語であるとされております。
一般の会話で、「裃を脱いで話しましょう」「まあ、そう固ぐるしいことは言わずに……」「建て前論ですが……」などと、なんとか妥協を引き出そうとするのが、わが国社会の風土であり、パラダイムです。
このような社会的な基盤のなかで協調して暮らして行くためには、大筋で同意できさえすれば、「同ずる」こともやむを得ないといえましょう。
倫理、道徳の退廃、ビジネスモラルの低下など、有識者にとっては嘆かわしい世相の中で我々は暮らしています。「節を曲げない」ということはいつの世にも難しいことでしょうが、現代社会でもおなじことがいえます。
Facebook池内 秀暢さん投稿記事 ·
私たちは同じ趣味を持っている方や価値観の共有できる方と、コミュニケーションが密になり、そうでない方とは、遠ざける・・・・という傾向が時々あるように思います。
また価値観が異なる方の場合には、ついついバトルが生じてしまいがちですね。
今回のコロナ騒動を側面から見てみましても、SNSにてワクチン肯定派と否定派の論調も、このようなことが見受けられます。
過去投稿で、日本人独特の「和の精神について」大切だと感じる投稿をコピーさせていただきます。 ・・・・以下
■「和」の意味するもの・・・違いを認める
和の意味するもの 「異なりを認めつつ一つを生きる」「異なりを認める」 という事について・・・・・
人間は、それぞれ人種も違えば顔も違う。 性格や大切にしているもの・価値観や境遇 一人として同じ人間は存在しない。
異なりを認めつつ・・・・というのは、人間それぞれ考え方も違う 大切にするものも違う。
それは人それぞれの個性であり特徴であるわけです。
自分と意見が違うからといって、相手の言動を否定してしまえばこれは 「異なりを認めない」 と、いう事になります。
私はこういう考えだ あなたの考えはそういう考えなのですか。
私が大切にしたい価値観はこれです。あなたが大切にしている価値観はそれですか。
なるほど・・・と、言葉で言えば このようなことが 「異なりを認める」 という事になるわけです。
しかし、異なりを認めたならば、それだけではいけません。
もしそれで終わってしまうと、あなたはあなた・私は私 とそっけない関係になって、個々の生き方・生活の仕方 になってしまいます。
もし家庭の中で、このような人間関係になってしまうとするならば自由にできる 干渉され とやかく言われずにすむ・・・・という利便性は得ることができます。
自分は自分・パートナーはパートナー・子どもは子ども・・・・・と、それぞれが別々の人間になってしまい、そこには共感・共生・創造・愛 といった、人間には欠かすことのできない幸福感を享受することが出来なくなります。
そこに必要なものが、「一つを共に生きる」 という関係です。
一つ・・・というのは、自分が身を置いている人的組織という事が言えます。
家庭・地域・学校・会社・・・社会 という事です。
この自分が、その時々で身を置いているグループの中で、「共に生きる」という発想です。
個人の誕生のプロセスを見ると、この通りの「和」の精神にのっとり私たちが生まれてきたことがわかります。
精子と卵子が結び付く。受精卵が誕生するわけです。
ここに異なりを認めなければ、受精することはないでしょう。そしてともに一つを生きるために、お互いがお互いの個性を合わせて、すなわちそれぞれの染色体が融合し遺伝子が誕生する。この遺伝子の設計図にのっとって細胞分裂が始まってゆく。
一つの受精卵が二つになる。ここに創造が始まってくるわけです。
精子と卵子が異なりをお互いが認めて一つを生きようとすることから創造が始まったわけです。
受精卵の細胞分裂がある程度進み、みな同じ細胞なんだけど、ここにも見事な和の精神が働きます。
この時の細胞は、なんにでもなれる細胞であるのに、全体を創造していくために 、分業・専門が始まります。
心臓になる細胞・腸になる細胞・骨になる細胞・脳になる細胞・皮膚になる胞・・・・・・と、異なりをわざわざ作っていくのです。
すなわち異なりがなければ、小さな全体も大きな全体もできてこないわけです。
そして、それぞれの臓器などができてきて、生まれてくるころには、すべての内臓諸機関や人体が形成されて誕生してくるのです。
それぞれの異なりを認めた臓器 自分の個性を生かしながら、しかし他の臓器と関係性を保って、私たちの内なる自然はあなたという全体を生かすために、24時間働いてくれているのです。
ここに私たちの身体は、「異なりを認めつつ一つを共に生きる」という「和」の精神により生み出されたことが理解できると思います。
誠に自然の人体というのは素晴らしいものです。
自然の摂理からすれば、「あなた」は、自分を取り囲んでいる人的環境のために、他人と異なりを認めつつ、一つを生きなければならないのではないでしょうか?
そして自分を包括している集団のために、一つを共に生きることがよりよく 「あなた」 が、生きる賢明な選択になるのではないでしょうか?
現代医学の盲点は、この和の精神があって誕生してきた生きた人体を部分部分に分けて、治療するところに問題があります。
そこに現代医学が抱えている未来への課題を見るようです。
心臓専門・皮膚専門・脳神経専門・内分泌専門・・・・・などと大きな病院にいけばいくほど、専門化しています。
ガンをはじめアレルギーやストレス障害・糖尿病などの生活習慣病。
これらは人間全体を診察・洞察しなければ治らないのではないでしょうか?
医学もそれぞれの専門は専門で、それは個性であり特徴であるのでいいことなのですが、閉鎖的にならず他の専門の分野と協力して一つ すなわち 健康 を実現するために取り掛かっていただくことを期待してやみません。
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すべては相互作用・和して同せずです。
願いが叶わないとき 叶える力のない自分を責め、自己嫌悪に陥り、自分を愛せなくなる(セルフエスティームを失う)という 危機が生まれます。落とし穴への注意が必要です。
「できない自分」を責め、嫌悪する卑屈の堂々巡りにはまると「できる他人」を妬み、嫉み、嫉妬し 蹴落とすべき競争相手に仕立てます。
いつの間にか世界が敵になり 自分の居場所を失うことになります。どうすればいいのでしょう?「叶わない願い」は「真実の願いではない」ことに氣づく必要があります。叶わない願いの背景に どんな真実の願いがあるかを問う必要があるとも言えます。
和多志たちは 通常 呼吸することに意識を向けません。生命体の生きるための活動に あまり意識を向けません。潜在意識の思いにも あまり意識を向けません。
しかも和多志たちの脳は 実際の体験も イメージも同じ刺激として受け取ります。
イメージトレーニングの話は広く知られた事実です。
マイナスイメージを持ち続ければマイナスの現象を引き付け、プラスイメージを持ち続ければプラスの現象を引き寄せることになります。
ナポレオン・ヒル著の「思考は現実化する」はあまりにも有名な書籍です。
息をすることは生きること・息の仕方は生き方と言われます。命はあたかも オートマチックに維持されているような錯覚に陥り 「顕在意識の力を悠に超える潜在意識」に突き動かされている自分に無自覚であれば 真実の自分を見失っているということです。
「願いが叶わないとき」を 「真実の自分に出会いなおすチャンス」と捉え 自己一致をしながら 自己実現の喜びに生きるものになりたいと願います。
問題だと感じた時 自分の問題か、相手の問題か(相手への期待外れ)を整理することは大切です。相手に変わって欲しい問題の場合は、コミュニケーションしかありません。
相手を責めるのではなく、アイメッセージで感じていること、望んでいること、自分にできることなどを伝えましょう。自分の問題の場合は感情への対処が必要か、事柄への対処が必要かを検討しましょう。否定的な感情を描き変えたいときは怒りを鎮める方法が役に立ちます。
事柄への対処はマインドマップが役立ちます。
自分への愛を回復するためには 以下をご参照ください。
http://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm/kojinnsessyonn.htm
以下は紹介しているエクササイズの一例 「性格のリフレーミング」です。
① あなたの欠点は? できるだけ沢山挙げてみてください。
② 次は「欠点と思っていることに隠された長所」を 探して下さい。
例えば優柔不断が欠点と思っているとします。隠されていることは?「優しい」「慎重」「熟慮」…色々考えられると思います。
③ 「それは素晴らしい私は優しい」と言ってみましょう。
自分で数えあげた欠点の全てに隠された長所があることが納得できるまで・・・・
④ 次は欠点の反対語を考えます。
「優柔不断」が欠点と思っている人は「即決即断」を理想的なことだと思い込んでいるかもしれません。
⑤ その理想に潜む 一番避けたいことを探します。
「独善」「独りよがり」「孤立」…これも色々考えられると思います。
⑥ 「それはいけませんね。独善的な人」と言ってみましょう。
性格は個性であり 長短がないこと、単なる好みであることが納得できるまで・・・・
誰かと一緒にやってみると ありのままの自分を愛し受け入れる手助けになりますよ。
自分の想念、信じ込みから自由になり 本来の自分を取り戻す喜びを体験してください。
*
ストレスがあると胸が詰まります。
胸が詰まると呼吸が浅くなり 情緒すら不安定になります。任脈の詰まりを取るための 任脈ほぐしを2例紹介します。
任脈ほぐしをすると胸はもちろん肩まですっきりし、溜まっていたストレスが解消されます。また任脈の緊張が解けて心が楽になるのを感じます。
任脈ほぐし
*両肘を肩の高さで直角に折り曲げ、頭を挟んで山形を作り、正面を向いたまま、音楽に合わせて 左右に100回捻じります。
*胸の前に両肘を持ちあげ 手の平を上に向けて構える。左右の手を交差します。右上、左上を交互に。(任脈ほぐし)
手の平を下に向け、拳にして左右の手を交差します。右上、左上を 交互に。(肩甲骨ほぐし)任脈ほぐしと肩甲骨ほぐしを組ませてすると効果的です。
内臓ほぐし
足を閉じ手を腰の所に構えます。
音楽に合わせて背骨を軸にして上半身を左右に捻ります。
手を車輪のように回転さすと リズムに乗りやすくなります。
どこかに痛みが生じてもそこに意識を向けて続けましょう。
手をほぐす
手の平には足の裏と同様に 沢山の「つぼ」があります。 拳を握って開く動作を 休まず30~50回繰り返したり、手の平をマッサージすれば 全身に溜まった疲労を回復することが可能です。
「つぼ」に強い刺激を与えるよりも やさしく もみほぐすことが大事です。
耳たぶほぐし
耳には沢山のつぼがあります。耳たぶを引っ張ったり 回したりするとよいでしょう。
関節ほぐし
関節は濁ったエネルギーが最も溜まりやすい場所です。関節を使えば熱が生じ、骨に溜まり、筋肉に溜まるからです。以下の順に関節を回してゆきます。いずれも吐く息とともにゆっくり、大きく回してゆきます。
1.手首回し 肩の力を抜いて、手首を最大限外側に回す。
2.肘回し 手はみぞおちの高さ。両腕の角度は60度程度(丹田に力が感じられる程
度)外側に回転しながら捻じる。
3.肩回し 肩を外側に抜く感じで、最大限引っ張る。
4.腰回し 両腕を前に出し 左→上→右→下、 右→下→左→上と回す。
5.骨盤回し 両手を骨盤に当て 会陰を中心に 大きく腰を回す。
6.股関節回し 太ももを最大限持ち上げ 股関節を回す。左右それぞれ内回し、外回し。
7.膝回し 膝に体重が乗らないように、足の裏に体重を乗せて、腰の力は抜く。
8.足首回し 足首と股関節を一緒に回す。体重を乗せて足首を押す。
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