http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/91245/1/ijs01_12.pdf 【Prospects for HAIKU ―芭蕉・寅彦・松山宣言―】 菅長 理恵 東京外国語大学准教授 より
はじめに
現在、世界では、日本語による俳句と、日本語によらないアルファベット表記の HAIKU の二つが広く行われている。ここに至るまでの両者の対話と交流は多岐にわたる。本稿では、芭蕉・寅彦・松山宣言という3つのキーワードにしぼって紹介し、そこから、今後の展望について考察してみたい。
一 世界に紹介された俳句
第 1 節 明治期~大正期
明治期に初めて俳句を日本の短詩として海外に紹介したのは、お雇い外国人として来日したバジル・ホール・チェンバレン、小泉八雲ことラフカディオ・ハーン、海外で最初の句集を出版したフランスの詩人、ポール-ルイ・クーシューらだった。
「一瞬のあいだ開かれた小窓」これはチェンバレンの言葉である。「何かを言わないスリルを残しておく詩」というのはラフカディオ・ハーン、「俳句のエッセンスは簡潔な驚きである」これはクーシューの言葉である。短い詩が、単なる言葉の切れ端ではなく、独立した世界を描く作品として成立する秘密を、これらの言葉が紹介してくれている。
フランスでは、ク―シューの熱心な普及活動もあり、1920 年に文芸誌『N・R・F』でハイカイ特集が組まれるなど、詩歌のジャポニスムとも言うべき流行を見た。浮世絵がフランス絵画に革命をもたらしたのと同様のインパクトを、「純粋な感覚にきりつめられた詩」 1 としての俳諧がフランス詩壇にもたらしたのである。
第 2 節 日本から見た俳諧一 季語について
日本の俳壇を率いる高浜虚子がヨーロッパを訪問したのは 1936 年のことだった。虚子は、ク―シューの作品に俳句らしさの片鱗を見たものの、フランス HAIKAI は日本の俳句とは似て非なるものと断じた。最も強い根拠は「季語がない」ということだった。
季語が必須かどうかという問題のほかに、気候風土の異なる地での季語の扱いや、文化背景による季語の含意の違いなど、季語をめぐっては多くの課題がある。HAIKU が世界に広まることによって、単なる約束事として季語があるのか、それとも季語が要請される理由があるのかという問いも、より切実なものになっていると言えるだろう。
1 ジャン・ポーラン(1917)「日本のハイカイ」(柴田依子(2004)より)
フランスでは現在も 「HAIKU」 ではなく 「HAIKAI」 という語が用いられている。フランス詩壇に与えた影響の大きさについては、イヴ・ボヌフォアの正岡子規国際俳句大賞受賞記念講演 「俳句と短詩型とフランスの詩人たち」 に詳しく語られている。
当時の俳人たちの関心は、日本以外の地で俳句を作ることが可能かということだった。そこでも問題の焦点は、日本とは異なる風土における季語の問題 2 だった。虚子の弟子のひとりである山口青邨が上海を経由してベルリンに留学し、「たんぽぽや長江にごるとこしなへ」「舞姫はリラの花よりも濃くにほふ」等の句を作ったのは 1937 年のことだった。日本人に理解できる季感とともに、日本とは異なる風土を詠み、中国やヨーロッパでは、どうやら俳句は作れるということを証明してみせた形になる。
第 3 節 日本から見た俳諧二 寺田寅彦の「俳諧・風雅論」
では、当時の日本人にとって、俳句とはどのようなものだと考えられていたのだろうか。1932 年に書かれた寺田寅彦の「俳諧の本質的概論」を紐解いてみよう。
俳諧はわが国の文化の諸相を貫ぬく風雅の精神の発現の一相である。・・・日本古来のいわ
ゆる風雅の精神の根本的要素は、心の拘束されない自由な状態であると思われる。
寅彦はここで、芭蕉の「風雅の誠を責めよ」という言葉を引いて、「私を去った止水明鏡の心をもって物の実相本情に観入し、松のことは松に、竹のことは竹に聞く」「この点で風雅の精神は一面においてはまた自然科学の精神にも通うところがあると言わなければならない。」と述べている。「天災は忘れ去りたる頃来たる」という言葉を残した自然科学者、寅彦らしい考え方だと言えよう。
また、「風雅」について、寅彦は次のように述べている。
風雅の心のない武将は人を御することも下手であり、風雅の道を解しない商人はおそらく
金もうけも充分でなかったであろうし、朝顔の一鉢を備えない裏長屋には夫婦げんかの回
数が多かったであろうと思われる。これが日本人である。
「風雅」を英訳する際には‘elegant’という言葉が用いられるが、この寅彦の風雅論には、生き方の姿勢、余裕のようなものが風雅であるというとらえ方が見て取れ、別の訳を探したくなる。
末尾の部分で、寅彦はこのように述べている。
西洋人には結局俳諧はわからない。ポンドと池との実用的効果はほぼ同じでも詩的象徴と
しての内容は全然別物である。「秋風」でも西洋で秋季に吹く風とは気象学的にもちがう。
その上に「てには」というものは翻訳できないものである。しかし外人の俳句観にもたし
かに参考になることはある。翻訳と原句と比べてみることによって、始めて俳句というも
のの本質がわかるような気がするのである。いったい昔からの俳論は皆俳諧の中にいて内
側からばかり俳諧を見たものである。近ごろのでもだいたいそうである。しかし外側から
見た研究も必要である。
2 東京日日新聞に掲載された高浜虚子「熱帯季題小論」(1936)をはじめ、ホトトギス誌上での座談など、活発な議論が行われていた。
西洋人には俳諧はわからないと言い切ってしまっていることについては、現在の読者には異論があるだろうが、当時の考え方と根拠が、ここには示されている。その一方で、外側から見た研究も必要だというのは、研究者らしい姿勢であり、ここに、両者の対話・交流の芽を見ることができる。
二 俳句の受容と HAIKU の広がり
第 1 節 禅と俳句
20 世紀半ば、鈴木大拙、ブライスにより、俳句は、禅思想を体現する詩として、新たに英語圏に紹介され、広まった。ブライスは「俳句は、われわれが知っているのに、知っているとは知らなかったことを知らせてくれる」と言っている。あたかも禅問答のような紹介である。
1950 年代から 60 年代にかけて北アメリカに Zen-Buddhist が増え、ビート派詩人たちが多くのHAIKU 詩を書いた。1963 年には最初の俳句専門誌 American HAIKU が創刊され、1968 年には HaikuSociety of America が設立されるなど、一般の人々の間にも、俳句が広まっていった。この HSA が年1 回刊行しているジャーナルの名前は、“Frogpond”という。これは、鈴木大拙により紹介された芭蕉の古池の句を鑑としていることを示していると考えられるだろう。
第 2 節 日本語人/非日本語人による普及
20 世紀後半には、俳句はますます広がりを見せる。その普及に貢献した人々には、日本語人と非日本語人がいる。ここで日本語人というのは、日本語を母語としている人、もしくは日本語を十分に使いこなしている人であり、非日本語人というのは、そうでない人をさす。
セネガル・モロッコ・バチカン大使などを歴任した外交官の内田園生 3 はイタリアやセネガルに俳句人口を定着させた。
ブラジル移民として日本語で俳句を作るだけでなく、ポルトガル語 HAIKU の普及につとめたヒデカズ・マスダや、日本語を教育言語として育ち、『台湾歳時記』を編んだ黄霊芝も、日本語人に数えられるだろう。
もちろん、A History of Japanese Literature の著書、ドナルド・キーンも忘れてはいけない。外語大の留学生の多くが、日本文学のテキストとして読み、この本によって俳句を学んだと言っている。
非日本語人として世界中の英語圏に HAIKU を広めた功労者はウィリアム・J・ヒギンソンだろう。
The HAIKU Handbook は、世界で最も読まれた HAIKU の本と言われている。紙媒体の他に、だれでもアクセスできる Web 上のオープンソース 4 にもなっている。
Why HAIKU? という章には、次のように書かれている。
3 内田園生は 2009 年、ヒデカズ・マスダ、黄霊芝は 2004 年の正岡子規国際俳句賞受賞者である。
4 英語・日本語の両方が載せられている。
俳句作りはある事柄、ある事象を見つめる瞬間、あるいは以前にそれを見たときよりもっ
と明瞭に見ようとする瞬間をとらえることである。作者はこの対象や事象をとらえようと
立ち止まって書き留めなければならない。我々が俳句を鑑賞する時間は、おそらく我々自
身を発見する時間でもある。
俳句は作者の経験の瞬間を我々に与えてくれるだけでなく、我々自身の経験の瞬間を与
え続ける。俳句の中心的な役割は、対象や事象を我々に触れさせるだけでなく、それを互
いに共有するのである。もし我々が作者であれば、読者と一体になり、もし我々が俳句を
鑑賞するならば、作者といわばその瞬間を共にするのである。
ここでは、俳句は作者と読者の共同作業であることが紹介されている。俳句は、実は、作り手の層と読み手の層がほぼ一致するという特別なジャンルである。読み手は、心を震わせる作品に会うと自分も作ってみたいと思い、作り手は、自分の世界を深めるためにほかの人の作品を読む。また、俳句には「句会」という互いの作品を共有する楽しみ方があり、人々の和を広げる役割も果たしている。
また、ヒギンソンは、季語の紹介にも力を尽くした。山本健吉によって選定された基本季語 500 選の英訳、THE FIVE HUNDRED ESSENTIAL JAPANESE SEASON WORDS も、Web 上のオープンソースとしてよく使われている。
ここに来て、俳句は、 5・7・5 という最短の詩型を持ち、季語を有する自然詩、という明確なプロフィールを持つ文学ジャンルとして、認識されるようになった。シンプルなルールという誰にでも作れる間口の広さと、果ての無い奥行きの深さにより、多くの愛好者を得て、様々な言語で作られ、読まれるようになってきたのである。
一般に、詩人は特別な存在とされるが、俳句は、いわゆる詩人たちのほかに、一般の人々が作者となることができる詩形である。日本の小学校と同様、カナダの小学校でも、学校で俳句・HAIKU を作ることが盛んに行われている。
三 俳句・HAIKU の交流の現在
このような海外における HAIKU の受容の様子を日本に紹介したのが、1992 年に出された佐藤和夫の『海を越えた俳句』だった。
佐藤はこの本の末尾で 3 つのことを指摘している。
・日本人にとって季語は重要だが、外国人が俳句に惹かれるのは季語があるからではない。
・俳句の魅力は、はっとさせるような意外性と短さである。
・HAIKU の世界は芭蕉・蕪村・一茶・子規までで止まっている。現代俳句はほとんど紹介されていない。
ここで指摘された、日本語の俳句と世界の HAIKU との共通の拠り所が「芭蕉・蕪村・一茶・子規」までであるという状態を何とか打破しようという動きもある。
その一つが、国際俳句交流協会の設立である。初代会長は内田園生氏で、世界の俳句愛好者の親睦と相互交流の促進を目的としている。2016 年現在の会長は有馬朗人氏で、世界各国 16 の俳句協会と姉妹提携を結んでいる。
交流促進の一つの試みとして興味深いのが、英語俳句のススメである。日本人にも、英語で俳句を詠み、共通言語として英語を活用することを勧めている。
こうした英語による作句もしくは英訳を通して非英語圏との交流も盛んに行われている。世界 13 カ国に俳句協会が作られ、俳句愛好者が集う大会が開かれている。また、日本航空・国際交流基金により、こども俳句大会が世界各地で開かれている。
2011年にノーベル文学賞を受賞したスウェーデンの詩人、トランストロンメルがスウェーデン語で5・7・5 シラブルの俳句詩を書いていたことは記憶に新しいことである。
日本語訳を一つ紹介しよう。
高圧線の幾すじ/凍れる国に絃を張る/音楽圏の北の涯て
『悲しみのゴンドラ Soegegondolen』
エイコ・デューク訳
もう一つ紹介しておきたいのが、1999 年に子規生誕の地松山で出された「松山宣言」5 である。全7章からなるこの宣言から、4 つの章を紹介する。
3 なぜ世界へ広がりえたのか : 俳句本質論
4 定型・季語の問題
6 俳句の国際化・普遍志向・独立志向
7 詩を万人の手に取り戻そう :二十一世紀における世界の詩の革命
まず、第3章の俳句本質論をみてみよう。全文を引用すると長くなるため、エッセンスを抜粋して示す。
・ たった十七音で独立した詩として完全に成立してしまう。
・ 俳句は、「自然の中の生き物としての我の自覚」を呼び起こし、それによって「他の生き物との共生共感を基本とする心性の獲得」がもたらされる。
・ 俳句は民衆の詩である。・・・日常生活の何を詠んでも良いという自由さがある。
次に、第 4 章、定型・季語の問題である。
・ 五七五のリズムは日本語特有のリズムであり、他言語に無理やりこのリズムを押し付けてみても同様の効果を到底生み出しえない。
・ 風土が違うところに日本の季語を持ち込むことには無理がある。
・ 世界に俳句が広がるとき、俳句を短詩とみなして、定型・季語についてはそれぞれの言語にふさわしい手法をとることが適当である。
5 有馬朗人、芳賀徹、上田真、金子兜太、ジャン・ジャック・オリガス、宗左近の連名による宣言。この宣言と同時に、愛媛県文化財団により正岡子規国際俳句賞が創設された。
そして、第 6 章、俳句の国際化・普遍化について。
・ 自然破壊の問題に対しても、人間が自然を守るというより、自分もその自然の一部としてあるという認識を基本的な特性とする俳句が果たす役割は大きなものがある。
・ 人間が心の癒しを受けつつ自然との共鳴・共生・共感を取り戻すことは、21 世紀に向けて世界のあらゆる詩歌に求められていることだろう。
第7章の結びでは、
・ 全世界の詩人が詩の運動として、自国の言葉をどこまで短縮し、凝縮することができるか、追求することを期待する。
として、詩としての普遍性を持つ俳句・HAIKU により、新しい詩歌の可能性を、ともに開いていこうと呼びかけている。
21 世紀に入り、世界各国で新しく俳句協会や研究会が設立される際には、この松山宣言が欠かせないレファレンスとして常に参照されている。日英両言語でウェブ上に公開されているため、参照しやすいということもあるだろう。
2004 年に正岡子規国際俳句大賞を受賞したアメリカの詩人ゲイリー・スナイダーは、受賞記念講演「松山への道」の中で、季語を‘seasonal signals’と呼び、アメリカ人が大地と響きあう詩的な言葉を編みだすのには数世紀かかるだろうと述べた。松山宣言の趣旨を汲み取った上での詩人としての発言であっただろう。
四 俳句・HAIKU の展望と芭蕉
読み手と書き手とがほぼ一致している俳句・ローマ字表記の HAIKU というジャンルにおいては、よりよい作者になるための文学批評が、日々活発に行われている。一つの在り方が、句会である。多くの場合、最後に名乗るまで作品は匿名状態に置かれ、参加者全員がそれぞれ自分なりの鑑賞や意見を述べ、互いに講評しあう。議論が戦わされることもある。そのような批評の場において常に参照されるのが、芭蕉である。芭蕉の俳論における「松のことは松に習え」「風雅の誠を責めよ」「高く悟りて俗に還れ」などの言説は、現在でもなお、それをいかに言葉の形で実現すべきかという議論を呼んでいる。日本だけでなく、海外でも同様である。
このように、三百年が経過してなお、芭蕉が参照しつづけられる秘密は、永遠に変わらないものを求め続けた姿勢にあるのだと思われる。「不易流行」や「古人の跡をもとめず、古人の求めたるところを求めよ」といった言葉が、時代を超えて、普遍的な詩の魂を求める道を指し示しているのだろう。
万物は流転する。写し取ろうとする自然は刻々と移り変わり、見る人の状況や考え方も時代によって変化する。その瞬間瞬間を切り取る短詩型もまた、一所に留まってはいられない。ただ一つ変わらないものは、詩を求める魂の先達としての芭蕉の姿なのである。これからも世界の俳人たちは、芭蕉の歩みを鑑として、それぞれの道を模索していくだろう。
参考文献
寺田寅彦 1932 「俳諧の本質的概論」『寺田寅彦随筆集 第三巻』岩波文庫所収
ウィリアム・ヒギンソン 1985 The Haiku Handbook: How to Write, Share, and Teach Haiku 講談社インターナショナル
佐藤和夫 1991 『海を越えた俳句』丸善ライブラリー
松山宣言 1999 http://haikusphere.sakura.ne.jp/tra/1999/matsuyama-sengen.html 2016年8月31日最終閲覧
イヴ・ボヌフォア 2000 「俳句と短詩型とフランスの詩人たち」『国際俳句フェスティバル 正岡子規国際俳句賞2000 関連
事業記録集』所収
黄霊芝 2003 『台湾歳時記』 言叢社
ゲイリー・スナイダー 2004 「松山への道」『国際俳句フェスティバル 正岡子規国際俳句賞2004 関連事業記録集』所収
柴田依子 2004 「詩歌のジャポニスムの開花 : クーシューと『N・R・F』誌(一九二〇)「ハイカイ」アンソロジー掲載の経緯」
『日本研究』第29集 国際日本文化研究センター
内田園生 2005『世界に広がる俳句』角川学芸ブックス
T.トランストロンメル著 エイコ・デューク訳 2011『悲しみのゴンドラSorgegondolen増補版』思潮社
有馬朗人ほか 2014『創立25周年記念シンポジウム 2014 欧州と日本の俳句』国際交流協会
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