https://ameblo.jp/rocks-69/entry-11794695034.html 【名曲百選第二章(28)梅の花に託す想いと沈丁花に蘇る想い~松任谷由実】より
3月は、梅の花の季節でもありますね。
私の家の庭にも梅の木があるのですが、今年は冬が長く、今はまだ寒さに耐えて、暖かくなるのをじっと待っているように見えます。花芽は、たくさんできているようですので、開花が楽しみです。梅の花と言えば菅原道真の有名な和歌がありますね。
東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな
私はこの和歌が大好きで、東風が吹いて暖かくなったなら、主人である私がいなくても、春を忘れないで綺麗な花を咲かせ、その香りを遠く離れた私の所まで届けて欲しい、というような意味だと思いますが、梅の花を奥さんになぞらえてもいるんですね。
今は辛くても春は必ずやってくるから、春が来るのを忘れないで欲しい、という遠く離れてしまう奥さんへのメッセージでもあるのだと思います。
虚偽の告発よって左遷されてしまった菅原道真が詠んだ歌ですが、都から遠く離れた地にいても、奥さんや家族を思い案じ続けていたのでしょう。
菅原道真は、この歌を詠んだ二年後、奥さんや家族と再会する事も叶わずに亡くなってしまいます。 昔も今も人の想いは変わらないものですね。
今の日本の流行歌にも古典を彷彿させるような美しい名曲がありました。
春よ、来い/松任谷由実
淡き光立つ 俄雨 いとし面影の沈丁花 溢るる涙の蕾から ひとつ ひとつ香り始める
歌い出しのこの4行だけで私などは、思わず素晴らしさに唸ってしまいます。
今の歌の歌詞は、口語が多いのですが、文語で七五調を意識したような書き方をしてますね。
日本の伝統的な美しさや優雅さを表現する為なのでしょう。
沈丁花の蕾にあたった雨の雫を涙に喩え、沈丁花の花の季節が来るたびに君の事を思い出し涙が溢れる、そんな意味なのかなと思います。
沈丁花をモチーフにし、近づいてきた春の情景描写と君への想いを同時に表現しているんですね。 春よ 遠き春よ 瞼閉じればそこに 愛をくれし君の なつかしき声がする
瞳を閉じれば、君と暮らした幸せだった頃の思い出や懐かしい声が蘇ってくるが、それはもう手の届かない遠い春になってしまった。それでも春を待ち続けているんですよね。
おそらく、愛した君との永遠の別れを歌った歌であり、今でも変わらず消える事のない君への想いを歌った歌だと思います。
春よ、来い 作詞 松任谷由実 作曲 松任谷由実
淡き光立つ 俄雨 いとし面影の沈丁花 溢るる涙の蕾から ひとつ ひとつ香り始める
それは それは 空を越えて やがて やがて 迎えに来る 春よ 遠き春よ 瞼閉じればそこに
愛をくれし君の なつかしき声がする 君に預けし 我が心は 今でも返事を待っています
どれほど月日が流れても ずっと ずっと待っています それは それは 明日を超えて
いつか いつか きっと届く 春よ まだ見ぬ春 迷い立ち止まるとき 夢をくれし君の 眼差しが肩を抱く 夢よ 浅き夢よ 私はここにいます 君を想いながら ひとり歩いています
流るる雨のごとく 流るる花のごとく 春よ 遠き春よ 瞼閉じればそこに 愛をくれし君の なつかしき声がする 春よ まだ見ぬ春 迷い立ち止まるとき 夢をくれし君の 眼差しが肩を抱く 春よ 遠き春よ 瞼閉じればそこに 愛をくれし君の なつかしき声がする
春よ まだ見ぬ春…
今回は、ユーミンさんの超名曲、『春よ、来い』 をお届けいたしました。
瞼を閉じれば、何時でもそこには昔のままの変わらぬ君がいる、切ない歌ですね。
全ての人に、春よ来い、早く来い
https://ameblo.jp/neko-tomotyan/entry-12143728631.html 【知っているようで知らない菅原道真公の謎(その1・左遷篇)】より
受験シーズンも終わって、新しい年度が始まろうとしています。
各地の天満宮は、今年も合格祈願の人で賑わったのでしょうね。
前回、奈良の東大寺境内の「手向山八幡宮」にある菅原道真の歌碑について触れました。
道真公が腰かけたという石と歌碑の前に、赤い鳥居が捧げられといたのがとても印象的でした。
➡コチラ
菅原道真と言えば、当代きっての学者であったろうけど、
ただ腰かけて歌を詠んだという石を、こんなふうに鳥居を設けて礼拝するんだなぁ~と
ちょっと、不思議な感じをうけました。
菅原道真は今でこそ、学問の神様として人気ですが、もともとは、天神・雷神という祟りをなす怨霊神でした。各地の天神社、天満宮はその鎮魂慰撫のために建てられたのが始まりです。
知っているようであまり知らない天神さま・菅原道真公。どうして祟り神になったのでしょう?道真が生まれた9世紀半ばの平安時代―。
奈良時代に確立された律令制度は、開墾された土地の私有を認める法律(墾田永代私財法)により、すでに有名無実化しており、地方では、貴族や寺社が荘園と呼ばれる私有地をどんどんひろげ、租税の徴収が滞り、朝廷の財政は破たん寸前でありました。
富士山は噴火し、地震や津波、飢饉も頻発する中、都では、藤原氏が娘や養女を天皇に入内させ、天皇の外祖父となって権勢をふるう摂関政治が始まっていました。
そんな時代に菅原家という学者の家系に生まれた道真は、幼い時から神童ぶりを発揮し、長じては、文章博士・財務や法務の官僚として異例の出世をしていきます。
5歳で和歌を詠み、11歳で漢詩を作りました。その文才・博学・見識は並ぶものがありませんでした。道真公44歳、讃岐守(さぬきのかみ)として讃岐に赴任しているときにおこった「阿衡の紛議(あこうのふんぎ)」。
時の関白藤原基経が「阿衡」という職名にこだわり宇多天皇(藤原系ではない)へ嫌がらせの職務放棄をして、政務が半年にわたり渋滞するという事態となります。
道真は、極秘に京に呼び戻され紛議の解決に当たり、関白藤原基経に意見書を提出し、基経も矛をおさめ一件落着となります。
紛議が長引けば、基経の名声にも傷がつくことを、条理を尽くして説いたのでしょう。博識・文才に加え、何よりも義を重んじ欲の薄い道真の言葉には、最高権力者をも従わせる力があったと思われます。
こうして政治家としても手腕を発揮する道真は、宇多天皇に重用されるようになり、下級貴族の家柄でありながら、要職を歴任し、宇多天皇譲位後の醍醐天皇の時には右大臣にまでのぼります。
その間、讃岐守時代につぶさに調査した地方の疲弊の実態や、朝廷の財政危機に対し、宇多天皇のもとで、「菅家廊下」と呼ばれた菅原家代々の私塾の門人たちを役人に登用しながら様々な政治改革を断行していきます。
私営田抑制策、国司に一国内の租税納入を請け負わせる国司請負、奴隷(私有民)制廃止など、それらはのちに「寛平の治(かんぴょうのち)」と呼ばれます。
実は、宇多天皇その人も若い時に「菅家廊下」に学んだかつての弟子のひとりでした。
その宇多天皇のもとで、着実に政治改革の成果をあげつつあった菅原道真。
また、道真の異母妹が宇多天皇に入内しており、娘の寧子は、宇多天皇の皇子の斉世親王に嫁ぐという近しい関係でもありました。
宇多天皇の行幸にお供して、紅葉を詠む。
藤原氏の権勢を削ぐような政治改革を断行し、天皇家に娘を入内させるという縁戚関係を築いていたことが災いしたのか、改革半ばの昌泰四年(901)、道真57歳の正月、突然醍醐天皇から宣命が下ります。
「右大臣菅原道真は、貧しき出自ながらにわかに右大臣にのぼり、専横を望んで卑劣な策を弄し、宇多上皇を惑わし、醍醐天皇を廃位せよとそそのかした。道真の狙いは、娘婿の斉世親王を擁立し、権力を掌握することにある。仁義を説く道真の裏には邪心あり。
よって重罪にすべきところ帝の恩情によって太宰権帥(ださいごんのそち)に任ずる」
これにより、道真は幼子一人を連れ、太宰府へと兵に囲まれ護送され、4人の息子たちも各地に配流になります。
太宰府への旅は、食事も満足に与えられなかったといいます。
「菅家廊下」出身の門人たちも処分の対象となったのですが、彼らをも排斥すると政務に支障を生じるというとりなしがあり、門人たちは処分を免れました。
道真たちが進めていた改革は周りから評価を受けていて、この後も改革は進められていきます。
この「昌泰の変」と呼ばれる政変劇は、藤原氏が昔からよくやってきた他の有力氏族を排斥してきたパターンです。
「宇多上皇―右大臣菅原道真」派が「醍醐天皇―左大臣藤原時平」派にあらぬ政変を企てたと讒訴されて、道真側がはめられたという構図です。ただ何か引っかかります。
確かに、状況的には政治権力抗争の様相を呈していますが、当時、宇多上皇は、仁和寺にこもり、歌会に興じるばかりで政治から遠ざかりつつありました。また道真は右大臣と言えども下級貴族の出身で宇多上皇以外に後ろ盾のいない政治的には弱い立場です。
片や、国家予算を超える資産と軍事力をたくわえ、天皇家にも深いつながりを持つ藤原氏。
「阿衡の紛議」でも明らかなように、藤原氏がそっぽを向けば、政務は滞るのです。
財政面でも軍事面でも藤原氏が朝廷を支えていて、蝦夷の反乱にも藤原家の私兵が投入されるという有様でした。
また、左大臣藤原時平は、19歳の時に、道真と入れ違いに讃岐守に就任しており、地方の窮状をみて、改革の必要性を感じていたのか、道真左遷後は「荘園整理令」をだし、班田(農地の支給)も行っています。
政治改革の方向性としては、決して道真と対立するものではなかったのです。
道真の左遷は決して、政治抗争の結果でなかったのです。
では、どうして時平は、道真を排さなければならなかったのか。
藤原家総帥藤原時平は、道真の何を恐れたのでしょうか?
左遷のわずか2年後、失意のうちに亡くなった道真は、数年後から、怨霊となって現れます。
時平はじめ「昌泰の変」の関係者や藤原家の後継者が次々と早死にしたり、悶死するのです。
道真公左遷の本当の理由とは?そしてなぜ怨霊とされてしまったのか?
「天神さま・道真公」とは、本当はだれなのか?知っているようで知らない道真公の謎は、深まるばかりです。
https://ameblo.jp/neko-tomotyan/entry-12147062549.html 【知っているようで知らない菅原道真公の謎(その2・国史篇)】より
昌泰4年(901年)、宇多上皇をそそのかして娘婿の斉世親王(ときよしんのう)を皇位につけようと謀ってとして大宰府に左遷(実質的な流罪)された菅原道真。(昌泰の変)
その半年後に、太宰府に立ち寄った醍醐天皇の側近・藤原清貫に、道真はこう語ったといいます。
「みずから企てたことではないが、宇多上皇やその取巻きの源善(みなもとのよし)の意向を知っていながら、それを否定することができなかった。」
道真は、あくまでも無実を主張するものの、すっかりあきらめきった様子だったといいます。
「昌泰の変」の前年、前々年と、道真は、幾度となく、右大臣を辞任したい旨、また職封(報酬)を減じてほしい旨を願い出ていますが、いずれも聞きいれられませんでした。
それは、宇多上皇が斉世親王を皇太弟に立てようとしているという風説が、巷でささやかれ始めたころだったのでしょうか。
道真は、地位や権力を手放して、政治的野心など一切持たぬことを示したかったのかもしれません。
しかし、不穏な空気に追い込まれるように、道真は、「昌泰の変」の一番の首謀者とされ、太宰府に流されてしまいます。
道真当人のみならず、4人の息子たちも、土佐、駿河、飛騨などばらばらに配流され、当初は、私塾「菅家廊下」の門人たちも、処分の対象となっていました。(門人たちの大量処分は、政務に支障がでるとのことで、のちに撤回される。)
源善ら宇多上皇の取巻きの公家たちは、「謀反教唆(むほんきょうさ)」の罪名で「出雲権守」などに左遷となり、斉世親王も時をおかずに出家します。
こうして、「昌泰の変」という政変劇は終結し、改元されて「延喜」の世となります。
それにしても、菅家一門に対する処分が重すぎないでしょうか?
左大臣藤原時平は、皇位争い、権力抗争に見せかけて、実は菅家一門の排斥が目的だったのではないかとさえ思われる処分の内容です。
なぜ、藤原時平は、ここまで道真一門を排斥しなければならなかったのか?
その後の時平の動きにそのヒントが見えるかもしれません。
1.手柄を独り占め?
「昌泰の変」の後、宇多上皇はすっかり権威を失います。
宇多上皇は、道真左遷の報を聞いた時、内裏に駆け付け、醍醐天皇に道真の冤罪を晴らそうとしますが、門前で兵たちに押し止められます。
上皇は陽が落ちるまで門前で座り込むものの、ついにわが子の醍醐天皇に会うことはかないませんでした。
上皇の権威失墜は覆うべくもない有様でした。
一方、空席となった右大臣や大学頭(だいがくのかみ・道真の長男、菅原高視が務めていた)などの主要ポストには、当然のことながら「醍醐天皇―藤原時平」派の人間が座りました。
そして、のちに「延喜の改革」と呼ばれる、政治改革が進められていきます。
「荘園整理令」による土地私有化の制限、土地単位の課税への転換、私有民の禁止などが、時平時代に、官符として発令されています。
しかし、これらは、前回も書いたように、すでに道真らが進めていた改革の路線を継承したものです。
道真時代の太政官符などの法令文書はすべて廃棄され残っていないのですが、地方に残る古文書や帳簿によって、道真の時代にこれらの改革がすでに行われていたことが明らかになっています。
時の右大臣・道真の実務能力の高さや豊富な経験は、藤原家の中でも抜きんでて優秀であったとされる時平でも、当然比ぶべくもありませんでした。
しかし、藤原家総帥・左大臣藤原時平にとっては、改革完成者としての栄誉・手柄はなんとしても自らのものにしなくてはならなかった。
そこで、時平は、道真一門を排斥し、道真時代の法令文書をすべて廃棄して、改革の手柄の独り占めを狙ったと考えられます。
道真讒訴の本当の目的は、はたしてこれだったのでしょうか?
2.勝者のための国史編纂?
時平は、さらに、道真が編纂に携わっていた「日本三代実録」の編者から、道真の名を消しています。
「日本三代実録」とは、「日本書記」「続日本紀」「日本後紀」・・と続く一連の官選国史「六国史(りっこくし)」の6番目最後の歴史書です。
720年に完成した「日本書紀」は、乙巳の変(いっしのへん・中臣鎌足(藤原氏の祖)が蘇我氏を滅ぼした政変)の折に焼失したとされる「天皇紀」「国記」に代わるものとして、日本の正史として新たに編纂されました。
そして、その後、歴代天皇の御代について書き継がれてきたのが「六国史」です。
「日本書記」では、藤原不比等が、「続日本紀」、「日本後紀」では、それぞれ藤原継縄、藤原緒嗣がと、「六国史」すべてにおいて、藤原氏が編集にかかわっていました。
最後の「三代実録」でも、時平が最終的な監修を行ったと思われます。
歴史は勝者の側に立って記述されるのが世の常であります。
藤原氏監修のもとでの「六国史」が、藤原氏の不都合な部分を糊塗、改ざんされて書かれていることは想像に難くありません。
「三代実録」においても、清和帝、陽成帝、光孝帝の時代におこった藤原氏の他氏排斥事件(承和の変や応天門の変)についてどう記すか、時平と道真とのあいだで、認識・意見の相違があり、それが対立点となったことは、当然考えられます。
また、892年には、道真編纂による「類聚国史(るいじゅこくし)」が完成しています。
これは、出来事を時系列に記している「六国史」の内容を、18の分類(神祇・帝王・人・歳時・音楽等々の18項目)ごとにまとめ、年代順に収めた歴史書で、205巻にのぼる膨大なものです。(現存は62巻のみ)
現代でいえば、百科事典のようなものでしょうか?
道真は、「菅家廊下」の門人たちを動員し、心血を注いで完成させたと思われます。
そして、その編纂過程において、道真は、「日本書紀」の大きな嘘に気づいたのではないでしょうか。
それは、藤原氏が手を汚してきた権謀術数の数々にもまして、そもそもの藤原氏の出自や氏族としての正当性にかかわることだったかもしれません。
あるいは、日本書記の中で神話としてごまかされている神武天皇以前の建国の歴史の新たな側面だったかもしれません。
いずれにしても藤原氏の存立基盤を揺るがすような内容だったからこそ、時平は菅原一族をばらばらにして、菅原家に残る“証拠”を抹殺しなければならなかった。
権力者藤原時平が、右大臣でありながら当時は政治的には孤立を深めつつあった道真を、あえて排斥しなくてはいけなかった本当の理由と何か?
それは、道真一門が、その歴史研究の過程において、藤原氏にとっての「不都合な真実」の証拠をつかみ、時平がその抹殺を図らねばならなかったということではなかったでしょうか。
正直な学者であり、また古代の出雲氏族を祖に持つ菅原道真にとって、日本の正史が歪められていることは、まさに断腸の思いだったのではないでしょうか。
道真は、配流先の大宰府でその「歴史のうそ」について周囲に話していたかもしれません。
というのも―
太宰府天満宮をはじめ各地の天神社・天満宮では、道真の命日の2月25日(現在の1月25日)「うそかえ祭り」という一風変わった神事が、千年以上たった現在でも続けられています。
「替えましょう~替えましょう~嘘をまことに替えましょう~」
といいながら、参拝者は踊りながら見知らぬ者どうしで、鷽鳥守り(うそどりまもり)や木彫りの鷽鳥をどんどん交換していくという変わったものです。
歴史のうそを告発しようとして左遷された菅原道真公。その道真公の命日に、「嘘をまことにかえましょう」とみんなで声をあげるのは、一番にお慰めする方法かもしれませんね。
https://ameblo.jp/neko-tomotyan/entry-12150221163.html 【知っているようで知らない菅原道真公の謎(その3・怨霊篇)】より
藤原時平らの讒訴により、大宰府に配流された道真は、職務も与えられず、粗末な住まいに、乏しい食糧で飢えをしのぐという惨状でありました。
配流されてわずか2年後の延喜3年(903年)に病のため太宰府にて死去。享年59歳でした。
「余見る、外国に死を得たらば、必ず骸骨を故郷に帰さんことを。思ふ所有に依りて、此事願はず。」(異郷で死んだ者は遺骨を故郷に返す習わしだが、自分は思うところがあるから、それは希望しない)と遺言した道真は、太宰府に葬られます。
1.やっぱり、祟り?
翌年の延喜4年(904年)にかけて、各地で旱魃が起き、疫病も流行します。延喜5年には、彗星が出現し、人々を恐れさせました。延喜6年(906年)に、道真左遷に与した藤原定国が41歳で死去し、2年後の延喜8年(908年)には、かつては道真の弟子でありながら、道真左遷を助けたとされる藤原菅根が謎の熱病で悶死すると、巷では道真の祟りではないかという風評が流れるようになります。翌延喜9年(909年)には、藤原家当主・左大臣時平も熱病にかかり加持祈祷の甲斐なく39歳の若さで悶死。
両耳からヘビが垂れている時平の末期の姿。
ヘビは、時平の病気快癒を祈祷する僧侶の浄蔵(画面右下)を一喝し、浄蔵が退出したとたんに時平は絶命したといいます。
天候不順は激しさを加え、京には隕石が落下。
定国、菅根に続く時平の死で、藤原家はパニックに陥ったのしょうか、時平の弟の忠平が、かつての菅原家の一隅に鎮魂(たましずめ)の祠を建立します。どうやら、このあたりから「天神信仰」が始まっていくようです。
延喜9~10年、旱魃や疫病が続く。延喜11年、洪水。延喜13年、道真のあとをうけて右大臣になっていた源光(みなもとのひかる)が、急な雷雨で馬ごと泥土に埋まり死亡。
人々は、突然の雷雨と増水を怪しんで、天神の祟りではないかと噂します。
延喜19年(919年)に、祟りを恐れる醍醐天皇の勅をうけて、道真の墓所の上に「太宰府天満宮」が竣工します。しかし、天神の怒りは鎮まらなかったようです。
4年後の延喜23年(923年)、皇太子保明親王(やすあきらしんおう)が21歳で、急な熱病にて死亡。その後、3歳になる遺児・慶頼王(よしよりおう)が皇太子となります。
その年、源公忠の進言により、元号が「延長」に改元されます。また亡き道真を右大臣に復し、正二位とするという詔が出されたりしました。
臨死体験後生き返った源公忠が、帝に「冥府で、帝の非道を訴える道真らしき大男をみた。すると冥府の役人が、公忠に『改元をしたらよからう』と助言してくれた。」と進言しているところ
しかし、改元の甲斐なく、延長3年(925年)には、慶頼王が、わずか5歳で病没。
相次ぐ皇太子の早逝に、藤原家は動揺し、この後皇太子となった寛明親王は、祟りを恐れて3歳まで固く閉ざした部屋の中で戸外に出ることなく育てられたといいます。
さらに変異は続きます。
延長8年(930年)6月、その日、宮中の清涼殿では、公卿たちが集まり、雨乞いの合議していたところに、急に黒雲がわき起こり、雷鳴が鳴り響くなか、鋭い閃光が清涼殿を貫いたのです。この落雷による数名の死者の中に藤原清貫の無残に焼け焦げた姿がありました。
清貫が醍醐天皇の側近で、かつて道真左遷の宣命を読み上げ、配流後は、道真を訪ね調書を取った人物であることから、その死は道真の祟りであると噂が広まります。
側近清貫の無残な死に様を目の当りにした醍醐天皇は、その衝撃と恐怖で病臥、その年の9月に崩御。(享年46歳)
読経の声が低く響きわたり、諸臣が涙をぬぐう中、醍醐上皇(画面左上)は、僧侶にカミソリを当てられて落飾したのちに息を引き取ったといいます。
こうして、昌泰の変の関係者は、道真配流後の901年から930年の間の30年のあいだに、次々に早死や変死、悶死をとげるのです。
2.祟りの背景
このような死亡の状況とは、当時の医療や衛生環境、平均寿命から見てやはり異様なのでしょうか?それとも、多少は早逝の傾向があるものの、普通に見られたことなのでしょうか?
私には、生前の道真公からいって、死後、怨霊となって関係者を呪い殺すとはちょっと考えにくいのです。
そもそも、祟りというのは、祟られる側の後ろめたい気持ちや、罪悪感があったうえでの話だと思われます。藤原氏側にうしろめたい気持ちがあったところへ、日食や彗星が天に現れ、また、旱魃等の異常気象の天変地異が続きます。当然、飢饉や、疫病も流行します
こうして人々の不安や不満が大きくなり、その矛先は為政者で権力をふるう藤原氏へと向かうでしょう。また、その藤原氏の専横の犠牲となった道真に対しては、同情心や「道真公が、もしいたら」いう気持ちにもつながっていきます。
このように社会全体を不安が覆っているところへ、権力者藤原氏に対する不満や鬱憤、それに道真に対する同情心が入れ混じった社会全体の空気感というものが、怨霊・道真公が現れる背景となったと思われます。
藤原家のうち続く不幸をみて、「それ見たことか」と留飲を下げる者も少なからずいたでしょう。「時平公があのような死に方をされたのは、道真公が祟られているのじゃ。」
「なんでも、僧侶の浄蔵殿が祈祷を始めたら、時平公の両耳からヘビが出ているのが見えたそうじゃで。恐ろしや。恐ろしや。」口さがない京の人々は、口々に噂をしあい、日ごろの鬱憤を晴らしたのではないでしょうか。修行中に絶命して生き返ったという僧侶が語った話は、たちまちに広がりました。
「菩薩様のお導きで地獄を巡っておりますと、塵にまみれてあわれな裸同然の4人の亡者と出会いましてな。地獄の長に聞きましたところ、そのうち一人は、延喜帝(醍醐天皇)だというておりましたわ。」それでは、残りの3人は、誰じゃ、誰じゃと盛んに議論されたそうです。
源公忠が、改元を進言したのも、祟りに怯える帝や藤原家に、「冥府の役人が改元がよかろうと申しておりました」などと、もっともらしいことを言って取り入ろうとしたのでしょう。
また、同族の藤原氏の中にも、時平派が祟られていると演出して、自派の伸張を図ろうとしたふしも窺えます。こうして、天地ともに不安定な状況の中、人々の様々な思惑・策謀が入り乱れて、「怨霊・道真公」が形づくられていったようです。
とはいえ、2人の皇太子の夭折により、時平の血筋は藤原北家の嫡流からはずれて、その子孫たちは中流貴族に没落していったのですから、「やっぱり、祟りじゃ~」ということになりますかね。
雷の直撃をうけて、藤原清貫が無残に焼け死んだときは、さすがに、人々は、慄然としたのではないでしょうか。「天神・道真公は雷神さえも意のままに随えている・・。」と
画面右下の倒れている人物は、藤原清貫でしょうか
では、道真公が、死後に姿をかえたとされる「天神」とは、どのような神様なのでしょう。
全国に1万社とも2万社ともいわれ、私たちの最も身近な神様ともいえる「天神さま」
非業の死を遂げ、怨霊となったと信じられた道真公は、さらに「天神さま」となって今もなお信仰を集めています。人々が道真公の背後に見ていた「天神さま」とは?次回は(その4・天神篇)です。
https://ameblo.jp/neko-tomotyan/entry-12157075239.html 【知っているようで知らない菅原道真公の謎(その4・天神篇)】より
(その1・左遷篇)(その2・国史篇)(その3・怨霊篇)と菅原道真公にまつわる話を書いてきましたが、今回は(その4・天神篇)ということで、京都の北野天満宮の謎を中心に、天神としての道真公の背景に触れたいと思います。
北野天満宮は、祟りをなす道真公の荒ぶる御魂を鎮魂し、さらには、天神として祀ることで国家平安を祈念する全国の天満宮の総社です。
人々の様々な思惑や策謀によって怨霊として恐れられ、天神・雷神とされた道真公ですが、(→「その3・怨霊篇」)、まずは、道真公とはあまりゆかりのない北野の地に祀られることにになったいきさつから見てみましょう。
1.天神・道真公のお告げ
道真公が死去して40年目の942年、京に住む多治比文子(たじひのあやこ)という老女に天神の霊がおりて、「われを右近の馬場のある北野に祀れ」という神託がありました。
この多治比文子とは、道真公の乳母だったとも、巫女だったとも、幼女だったとも諸説ある不思議な人物です。それから5年後、今度は、近江の比良宮の神官の7歳の息子に天神がおりて、再度「われを北野に祀れ」という神託がおります。
これに驚いた父親の神官・神良種(みわのよしたね)は、先の多治比文子やその親族らとともに、北野の朝日寺の僧・最鎮に相談し、947年に北野に神社を建立し、道真公を祀っておりました。
その噂は、関白藤原忠平にも届き、忠平は息子の右大臣藤原師輔に命じ、959年には藤原家の私財が投じられた壮麗な神殿が完成します。そして、987年に一条天皇の宣命によって正式に「北野天満宮」が誕生したのです。
右大臣藤原師輔の私邸を移築したと伝わる本殿は優美で壮麗です。
藤原氏は、やはり天神の祟りが怖かったんでしょうね。
京と近江で同じ内容の神託が下されたというのは、その神託に信ぴょう性があるとみるべきなのでしょうか、それとも何らかの作為によるものとみるべきなのでしょうか?
「神託」の内容とはおおよそ次のようなものです。
「私が、生前、屡々遊んだことのある北野の右近の馬場に祠を造ってほしい。そうすれば、胸の憤りも鎮まると思う。
私が懐くはげしい恨みの念は炎となって天に満ち,私の従類の雷神,鬼類は世界の災難を引き起こしている。私は不信の者を疫病にしたり,雷神に踏み殺させている。
人々は加茂神社や八幡社のみを崇めるが,私を崇める人に対しては守護を与える。」
また、神託通りに、同地に松の種をまいたら、一夜にして松の林になったという奇瑞譚も語られたりしました。
こうして、道真公の祟りの恐怖が記憶に新しかった当時、神託はたちまちに世に広まり、ついに朝廷や藤原氏を動かしたようです。
どうやら、多治比文子やその親族と近江の比良宮の神良種らは、もともと何らかのつながりがあり、彼らは北野に道真公を天神として祀ることを目的に神託を世に出したということだったのではないでしょうか?
そして、僧・最鎮もまた、彼らに同調し協力したのでしょう。
「多治比氏(たじひし)」とは、別名「丹治氏(たじし)」ともいい、道真公の祖先・土師氏(はじし)の一氏族とされています。文子が道真公の乳母というのは、年齢的に無理な話ですが、何らかの同族関係がみとめられるのかもしれません。
ともに、それぞれ天穂日命(あまのほひのみこと)、彦火明命(ひこほあかりのみこと)を始祖にもつ出雲系の氏族と考えられます。
また、近江・比良宮の祭神は「猿田彦命」で、これもまた出雲の神であり、神官の「神氏(みわし)」は、「大神氏(おおみわし)」の一族で、やはり出雲系です。
また、比良宮は、修験道の道場という面もあったようで、僧・最鎮は、修験道にも通じていて、比良宮で修行したといわれています。
出雲氏族でありながら異例の出世を遂げ、最後は藤原氏の讒訴によって太宰府で失意の死をとげた道真公。
北野天満宮の建立の陰には、その道残公を怨霊とすることで、祟りを恐れる藤原氏に北野の地に社殿を造らせようとした多治比氏ら出雲系のグループの動きがあったようです。
でも、なぜ北野なのでしょうか?北野には何があったのでしょうか?
多治比文子を祭神とする京都市下京区の「文子天満宮」
北野天満宮にも配祀されていますが、神として祀られる文子さんって何ものだったのでしょう。
2.北野天満宮の不思議
北野天満宮には「天神さんの七不思議」がありますが、その中に「筋違いの本殿(すじちがいのほんでん)」と呼ばれる謎があります。北野天満宮のHPによると、「参道の正面に本殿がそびえ立つ。というのが多くの神社で見られる光景ですが、当宮の楼門参道の正面には摂社の地主社が立っています。これは、もともとこの地には地主神社があり、のちに菅原道真公をおまつりする社殿を建てたという歴史的な理由から、本殿は地主社の正面を避けて建てられました。」
北野天満宮案内図
多治比文子らは、当初北野に道真公をお祀りしようとした際、もともとあった地主神社の祠の傍らに、あえて社殿を築いたようです。そして、のちに社殿が整備された時には、なぜか、参道の先に地主神社が建ち、道真公を祀る本殿へ行くには、参道を西へ大きく曲がらなければならないという配置となったのです。
北野に古来から祀られていたという地主神社。
普通、参拝者は一の鳥居や楼門で頭を下げますが、この配置では、参拝者は期せずして地主神社も礼拝するかたちとなります。
天皇や藤原氏をはじめとする権門の人々が、天満宮に参拝する時は、同時に地主神社にも頭を下げることとなるのです。
本殿が摂社である地主神社の正面を遠慮して建っているとはどういうことでしょう。
一体、地主神社の神とは、どんな神様なのでしょうか。
「続日本後紀」では、「836年に遣唐使のために天神地祇を北野に祀る」とあり、北野天満宮のHPでもその記述をうけて、「地主社は、天神地祇を祀っている」と紹介されています。
しかし、遣唐使の航海の無事を祈願するのに、すべての神々を祀るというのは、あまりに総花的ではないでしょうか。「続日本後紀」の編者は、藤原氏に遠慮して本当の神様の名前を出せなかったのかもしれません。落雷の多い北野の地は、その100年ほど前から、雷神に豊穣を祈願する祭祀が行われていたといいます。
なぜ、雷神が作物の豊穣に関係があるかというと、雷は、降雨と稲妻をもたらします。
雨は土地や作物を潤し、稲妻はその名に「稲」があるように、空中で放電することで、空気中の窒素を固定し、土地に窒素という養分をもたらし稲の生育を助けるのです。「雷が落ちたところは、稲がよく実る」ということを、古代の人は経験的に知っていたのでしょう。
北野天満宮の本殿の背後に控える地主神社の祭神は、もともとは古来から信仰されてきた自然神の雷神様だったのでしょうか。
3.上賀茂神社の別雷命とは?
雷神といえば、京都には「葵祭」でも有名な「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」(通称は上賀茂神社)があります。
今年の葵祭で斎王代が身を清める「御禊(みそぎ)の儀」の様子。
『賀茂縁起』には、6世紀欽明天皇の御代、日本国中が風水害に見舞われたとき、占いで賀茂大神(賀茂別雷命)の祟りであると出たので、4月吉日を選び馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがら)をかむりして盛大に祭りを行い、風雨をおさめたことが「葵祭」の起こりであるとに記されています。
794年に平安京が遷都されたさいに、桓武天皇は、この上賀茂社を都の総鎮護とさだめ、都の鬼門の守り神、総地主の神として厚く崇めました。
桓武天皇は先の長岡京時代には、早良親王らの祟りや天災や疫病の流行に悩まされ、わずか10年ほどで都を平安京に遷さざるを得ませんでした。
そして、その桓武天皇が、新都・平安京の総鎮護の神と頼んだのが、上賀茂神社の「別雷命(わけいかづちのみこと)」だったのです。
この「別雷命」とは、どんな怨霊をもしのぐ強力な神で、ただの自然神以上の神様のようですが、一体どんな神様なのでしょうか?
また、当時の人は、北野天満宮に道真公が天神・雷神として祀られた時、上賀茂神社の「別雷命」との関係をどのようにみていたのでしょう。
「山城国風土記」は、「別雷命」について、次のように伝えています。
「建角身命(賀茂氏の祖)の姫・玉依姫が(たまよりひめ)が賀茂川の上流から流れてきた丹塗矢を寝所に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命であり、丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神(ほのいかづちのかみ)である」
これによると「別雷命」とは、丹塗矢に姿をかえた火雷神と賀茂氏の姫とあいだに生まれたことになっています。確かに、「別雷命」とは、別れた雷ということで「火雷神」の子供ということになるのでしょう。
全国の神社の由緒や伝承を調べて独自の古代史を構築する小椋一葉氏によれば、イカヅチ―ワケイカヅチの親子は、出雲のスサノオとその第5子ニギハヤヒにあたるとされています。
その根拠となった各地の雷神社(いかづちじんんじゃ)等の調査の詳細については、ここでは割愛しますが、私としては、平安京の総鎮護の神「別雷命」を、「ニギハヤヒノミコト」であるとすることには何ら疑義を感じません。
出雲から畿内へ雄飛し、その地を「そら見つやまとの国」と名付け、ヤマトを治めていた王・ニギハヤヒ。それは、神武天皇の東遷よりもずっと前のことだったのです。
そして、その後、歴史からは、どういうわけかニギハヤヒの名は消えて、怒れる怨霊神とされてきました。怒れる怨霊神は、怨霊神であるがゆえに強力な守護の力を発揮します。
ニギハヤヒは、その後、別雷神と呼ばれるようになり、その「和魂(にぎみたま)」によって、人間に豊かな恵みをもたらし、また、「荒魂(あらみたま)」が発動されれば悪霊をも退散させる強力な神となったのです。
北野にもともと祀られていた地主神社の神とは、別雷神・ニギハヤヒノミコトの流れをくむ神だったのではないでしょうか。
それゆえ、多治比文子ら出雲氏族の血をひく者たちは、ニギハヤヒの名を抹殺した藤原氏に社殿を造るよう働きかけ、さらには、参道の正面に地主神社がくるように配置したものと考えられます。
北野天満宮とは、歴史から抹殺された古代出雲氏族の末裔たちが、「ニギハヤヒノミコト」という古代日本の基礎を築いた出雲の王を、道真公に託して蘇らせ、鎮魂しようとした神社だったのではないでしょうか。
古代日本建国の途上で、無残に砕かれた出雲の栄光。
その後は、古事記や日本書紀が建国の歴史をおおきくゆがめ、出雲の名すら消されてしまいました。これについては、またいつか詳しく書いてみたいと思っていますが、道真公はこの国史が描く歴史のウソを告発しようとし左遷されたのかもしれません。
未だ埋もれたままの本当の歴史。
本当の建国の歴史を知りたいと思う人が一人でも増えれば、いいなと思っています。
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