いにしへの香る光 円仁

https://akiusato.jp/history/bansaburo11.html 【中央政権から見た東北地方】より

3.1 大和政権(大和朝廷)と東北地方

(1)古代日本・・・・

 九州に上陸した弥生式水田農業を生活の基盤とする集団は、徐々にその勢力を広げ瀬戸内海を東に進んで、7世紀のはじめ奈良盆地に中央集権国家(大和朝廷)を樹立する。8世紀には、その拠点を京都へと移し現日本の骨格をつくっていくのである。

 この奈良で発祥した天皇を中心とする中央集権体制の文明思想は、稲作農耕文化を生活基盤の最先端とし、米を作り租税を納める集団のみを正義とした。稲作農耕文化のみが王道であり狩猟採取文化を巧みに感化させながら、畿内から関東へとその後も順調に支配を広げた。

 ・・しかし、関東地方を過ぎるとに急激に失速する。

 この頃、関東以北東北地方は、いまだ狩猟生活集団「蝦夷」が盤踞する奥州である。

‐‐中央政権の東北経営‐‐

中央政権の東北経営

 生活の基盤を狩猟採取に置き、広大な山野を駆けまわっているものは夷(えびす=未開人)であるとした。取り分け山の幸によって生きる縄文的な生活様式をかたくなに踏襲する連中を山夷と称し(「蝦夷」という名称もこの辺りからくる毛人ともいう。)奥州はまさにその一大拠点でこの頃の聖地とさえ言っていい。

◎景行天皇(日本武尊の東国遠征に際して・・)「日本書紀」

「わたしが聞いているところでは、東夷は性質が荒々しく、略奪を業とし、村に首長がなく、山には邪神が住み、平野には鬼がいて道をふさぎ人を苦しめているとのこと。冬は穴に宿り、夏は木の上に巣を作り、獣皮を着て、獣血を飲み、山野を鳥や獣のように飛び走り、恩をうけてもすぐ忘れ、恨みには必ず復習し、付近の住民の農家を略奪し、弓矢や刀を隠し持って集団を組み、討伐すれば草原にかくれ、山地に逃げ込むので手のくだしようがないという。東夷のなかでも蝦夷という集団が最も強暴と聞く。」

◎空海(奥州行脚の記録)

「日本麗城三百州、なかでも陸奥は最も柔げがたし。天皇赫怒し、幾たびか剣を按ず。やつらは髻(頭髪を束ねた状態)の中に毒箭を挿し、手をあげるごとに刀と矛を執り、田せず衣せず、鹿やとなかいを逐う。馬を走らせ刀を弄すること電撃のごとく、弓をひき、箭を飛ばす誰か敢えて囚えん。」

奥羽蝦夷を見る目、まったく失礼極まりない「奥州の連中は租税を納めない。聞く耳さえ持たない!何とも許しがたき奴ら、征伐して租税をとれ」と中央集権体制は憤慨した。

(2)かくして7世紀(658年)・・・・・

 大和政権(奈良盆地)は阿倍比羅夫に水軍をひかせ日本海を北上、秋田青森付近まずは沿岸地域から徐々に中央集権体制に組み入れる。

 8世紀(724年)には多賀城を設置、東北経営の拠点を築くとともに大野東人さらには坂上田村麻呂らを奥州征伐の総大将にして、蝦夷征伐に全力をつくす。中でも坂上田村麻呂の武勇とその功績は甚大かつ有名で、蝦夷の総大将アテルイとの壮絶な戦いに終止符をうち、今の岩手県水沢付近までを一挙に支配に納め、中央集権体制の北限として強靱な胆沢城(城柵)を築き、開拓農民(新田開発)を護った。

時の天皇(桓武天皇)は歓喜したに違いない。

(3)この頃の秋保・・・・・

 8世紀から9世紀の秋保の郷は、欽明天皇(539年頃)によって秋保温泉に「名取の御湯」の称号がすでに賜れ、多賀城開府によって東北の安定に積極的な政治体制のもと、開墾移民の集落形成とあわせ、和歌によって紹介された秋保温泉は、大和中央官庁から派遣されてくる官人の保養遊楽の地として、徐々に人が住み着きはじめたころと推察される。

 さらに秋保温泉より以西、長袋から馬場においては野中に熊野神社(現秋保神社)が坂上田村麻呂によって勧請された(808年)とあり、分社された祠を護り崇拝すべくわずかな人が住み、どこからともなく水を引き地べたを堀り起こしては水田の開墾をはじめ、極めて小さな集落を形成しはじめたとものと想像したい。(名取川流域の秋保は磐城郷(713年)と称されたとあり、福島いわき方面からの開墾移民によって水田の開墾がはじまったと推察されている。=和名類聚抄により)

 しかし馬場滝ノ原より以西においては人は住んでなかっただろう化外の地で、まして野尻二口は中央集権体制から完全に越脱した、蝦夷の割拠する本拠地にふさわしい山容をなしていたことからも、磐司磐三郎(兄弟?)なる東北山岳民族の主がいたにちがいない。

 蝦夷文化を引き継いだと思われるその集団は、多賀城や岩手胆沢城による東北経営が及んでもなお、豊かな山の幸によってその生活を維持していたことが容易に想像でき、

磐司磐三郎という二口山塊先住民の・・・・雄大な伝説のロマンがそこにある。

3.2 奥羽への仏教の布教と慈覚大師(円仁)の宗教活動

 一方 ・・・そういう奥羽地方であったから、稲作農耕文化の浸透もさることながら、すでに中央集権体制の中では一般的だった「仏教」もまた極めて入りにくかった。

 7世紀後半、平安遷都(奈良から京都へ)の立役者桓武天皇は、政治と権力を強奪しようとする精神が現れた奈良仏教を忌み嫌った。(遷都の最大の原因といわれている)さまざまな苦難ののち遷都に成功した桓武天皇は、政治が安定すると東北地方の制圧・経営に積極的な手段をとる。

 坂上田村麻呂の功績により軍事的な支配を収めた天皇は、仏教の新しい風を送りこみその徳をもって蝦夷を感化させ、東北経営の精神的安定を図ろうとした。(すでに国分寺は全国に配置していたが、あくまでも性質は鎮護国家の象徴的存在で、数も少なく民衆の心の安定にはつながらなかった。)

 桓武天皇は奈良仏教を忌み嫌った。と前述した。

 しかし、比叡山延暦寺開祖の最澄と教王護国寺(東寺のちに高野山金剛峯寺開祖)の空海だけは活動を容認・援助、拠り所にさえした。二人の人格に惚れるとともに、新しく輸入された仏教(密教)をこよなく珍重し・・・・入れ込んだ。

 この二つの宗教活動(平安仏教)は、桓武天皇亡き後も鎮護国家の新しい政策として支援を受け、中世宗教の基盤となった。

 最澄(伝教大師)の弟子が円仁(慈覚大師)(794年~864年)である。

 円仁は下野(栃木県)の生まれで、晩年関東・奥州を行脚し、さかんに寺院を建立したといわれている。天台宗開祖最澄の弟子で諸国行脚のあと中国に渡った。天台数学の体系を学ぶとともに、師匠最澄の無念をなし遂げるべく密教体系のすべてを習得し帰国した。

 最澄亡き後、天台座主(天台宗総主)となった円仁は宮廷直属の僧となるなど大いに活躍し、天台密教の祖として仰がれた人物である。

 円仁は清和天皇から、北関東から奥州の鎮護のため寺を建立するよう勅許を賜ったと山寺立石寺の由緒にある。(松島瑞巌寺・平泉中尊寺・象潟○○寺など今もなお名刹とされる寺をはじめ北関東から東北地方には円仁開基の寺が多いことからも、円仁の宗教活動は国家事業的要素が強かったと推察されている。)

天皇

僧侶

 二口山塊を構成する山形側に山寺がある。

 天台宗比叡山延暦寺別院の立石寺は、東日本天台宗の道場として全盛期には僧侶一千名を抱えたという寺で、今もなお参詣者の絶えない名刹である。

 開基は円仁(慈覚大師)で、しかも山寺は官寺であった。京都平安京直轄の官寺で、平安仏教を布教しながら奥羽鎮護或いは蝦夷安定のための手段として奥羽山中の拠点として築かれた。当時官寺としては天台宗比叡山延暦寺と東寺(真言宗教王護国寺)・西寺(後に衰退)が有名であるが、奥羽の辺境にもかかわらず官寺が設置された。時の天皇(清和天皇)の心境が推測される。

 円仁は生涯の中で二度、北関東から奥州にかけて弟子を率いて巡錫したという記録がある。一度目(829年)は渡唐留学前、北関東(誕生地下野)辺りまでと考えられ、二度目(856年)は53歳で帰国した後と推察されている。しかし、晩年の円仁は平安仏教界の重要人物として多忙を極めたとも言われ、弟子たちの目覚ましい活動もまた、円仁という人格の中に各地で躍動したと考えるのが普通で、円仁単独のものではないと推察するのが一般的である。

 当の山寺においても開基は円仁、開祖は安慧(あんえ)とされている。(山寺由緒)安慧は円仁の弟子で、円仁亡き後天台座主となった人物で「出羽講読師」として、山形に下向滞在したことが記してある。山寺開山に大きく貢献したのはこの安慧だという説が通説である。

 さらに円仁は最初の二口巡錫の際に、「実玄」と「心能」という弟子を同行させ、山寺発見の後この二人を現地に残留させたとある。実玄は千手院と山王院を創建、心能は安養院を創建し師命にこたえた。その後安慧が赴任して後輩たちを励ますとともに本格的な山寺開山をとげたとある。そしてもう一人円仁の弟子に安然と人物がおり、円仁なきあと奥州における円仁開基と伝わる寺をことごとく巡錫し、立石寺においては五大堂を創建したとある。

3.3 二口における慈覚大師円仁の巡錫伝説 (高瀬見たり聞いたり・山寺千手院考から)

休石碑

休石碑 円仁は名取川を逆上り、その時には未だ開設されていない二口番所あたりを過ぎると清水峠を越え(山伏峠は山寺開山後に開通)高野村(現高沢)に下り、合の原という所にさしかかる。ここを過ぎたころ、喉が乾いて仕方ないので、道の端に大きな平たい石の下に沸く清い水で喉を潤しその場にしばし休憩をとったという。高瀬の平石水という場所の名称はここからくるもので、今の神明神社の裏に大きな石があり、最近まで清水が沸いていたという。

休石碑

休石碑 さらに暫く歩くと日は傾き夕方となり、日は西に没し大師はひどく疲れ果て、思わず路傍の石に腰を下ろして休まれたという。高瀬の休石という地名もここからくる。地元ではお堂を建てて今も大事に祀っている。

 また街道沿いの三宝岡地区には、この頃円仁の創建(856年)と伝わる最上山風立寺(今は寒居山風立寺)という天台宗の寺がある。山寺立石寺開基の前に円仁によって開山されたものとして伝わり、今もなお高瀬の人々によって厚い信仰がなされている。

地図

 円仁は風立寺開基のあと休石から、高瀬川支流を上り坐道峠を越え芦沢川(旧芦沢村)へくだったとされ、そこから山寺千手院へ向ったと伝わっている。高瀬から山寺へのこの峠は、当時狩猟民族の生活道として往還に使われていたことが知られ、峠を上りつめた頂上で大師が合掌をしたといい、下りは山寺という聖域に向かう峠ということから坐道峠と名付けられたという。

 山寺芦沢(旧芦沢村)では、円仁はこの坐道峠を越えた際、芦沢院付近で荏胡麻の切り株を踏み、その刈株を足裏に刺してしまい苦痛に絶えながら、そこに休んだという。村人は円仁の苦痛に心を傷め、その後荏胡麻の栽培を禁止することを円仁に誓い、以来申し合わせによって荏胡麻栽培禁止をかたくなに守っているという。

3.3 二口における慈覚大師円仁の巡錫伝説 (高瀬見たり聞いたり・山寺千手院考から)

休石碑

休石碑 円仁は名取川を逆上り、その時には未だ開設されていない二口番所あたりを過ぎると清水峠を越え(山伏峠は山寺開山後に開通)高野村(現高沢)に下り、合の原という所にさしかかる。ここを過ぎたころ、喉が乾いて仕方ないので、道の端に大きな平たい石の下に沸く清い水で喉を潤しその場にしばし休憩をとったという。高瀬の平石水という場所の名称はここからくるもので、今の神明神社の裏に大きな石があり、最近まで清水が沸いていたという。

休石碑

休石碑 さらに暫く歩くと日は傾き夕方となり、日は西に没し大師はひどく疲れ果て、思わず路傍の石に腰を下ろして休まれたという。高瀬の休石という地名もここからくる。地元ではお堂を建てて今も大事に祀っている。

 また街道沿いの三宝岡地区には、この頃円仁の創建(856年)と伝わる最上山風立寺(今は寒居山風立寺)という天台宗の寺がある。山寺立石寺開基の前に円仁によって開山されたものとして伝わり、今もなお高瀬の人々によって厚い信仰がなされている。

地図

 円仁は風立寺開基のあと休石から、高瀬川支流を上り坐道峠を越え芦沢川(旧芦沢村)へくだったとされ、そこから山寺千手院へ向ったと伝わっている。高瀬から山寺へのこの峠は、当時狩猟民族の生活道として往還に使われていたことが知られ、峠を上りつめた頂上で大師が合掌をしたといい、下りは山寺という聖域に向かう峠ということから坐道峠と名付けられたという。

 山寺芦沢(旧芦沢村)では、円仁はこの坐道峠を越えた際、芦沢院付近で荏胡麻の切り株を踏み、その刈株を足裏に刺してしまい苦痛に絶えながら、そこに休んだという。村人は円仁の苦痛に心を傷め、その後荏胡麻の栽培を禁止することを円仁に誓い、以来申し合わせによって荏胡麻栽培禁止をかたくなに守っているという。

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