Facebook相田 公弘さん投稿記事【一杯の豚汁】
3月14日。炊き出しボランティア3日目。大震災から4日目の夜、僕の人生観が大きく変わる出来事が起こった。昼間から準備していた1200人分の豚汁を作り、皆に配給していた。
正直、僕も料理人のはしくれだから もっと豪華なものを提供したいと思ったけど、1200人分の食材を考えると、こんなもんしか出来ない・・・。ちょっと申し訳ないくらいに感じてた。
殆ど肉の入っていない“豚汁”という名の野菜スープ。
僕の列に並んでくれた人に次々に豚汁を配っていると、その婆ちゃんは僕の前に現れた。
「おい兄ちゃん、オレの家は津波で流されちまったんだ。爺ちゃんも何処かさいっだがねぇ。
もう、なにもかも無くなっちまったからよ、豚汁、大盛にしてくれ。
それくらいしてもらってもバチ当たらんべよ」
正直、一瞬、悩んだよね。
なんか気難しそうな頑固婆ちゃんって感じだったし・・・。
かわいそうだけど、一人だけ大盛を認める訳にはいかないから、
「みなさ~ん。すみませーん。
このお婆ちゃん、津波で家やら全部流されちゃったみたいで~
かわいそうだから、特別に豚汁大盛でよそってあげても良いですかぁ~」
僕はありったけの大声で、後ろに並んでいる人達に聞いてみた。
ちょっとふざけた感じでね。
そしたら・・・なんと、みんな笑顔で一斉に首をタテに振りはじめたんだ。
僕は驚いた。
正直予想外だった。
だから、僕も満面の笑みで「これでもかよっ」てくらい、なみなみと豚汁を注いであげたんだ。
「ほいっ、おまたせ!超大盛の豚汁だよ!」
そう言って、ふとその頑固そうな婆ちゃんの顔を見ると、満面の笑みで、穏やかな顔で、でもちょっと涙目で・・・。
「おう。兄ちゃん、あんがとよ、この豚汁1杯でよ、全てチャラにしてあげるわ。
オレの財産全部と豚汁、交換だな。
また明日から元気で生きるべ。」
そして、最後にこう言ってくれた。
「震災あったけどよ、兄ちゃんと出逢えたから・・・良がった」
その瞬間!なんかもう僕は無我夢中で、婆ちゃんに抱きついていたんだ。
「絶対頑張んべな! 婆ちゃんありがとう。
ありがとう、頑張んべな!!」
そう言って僕は婆ちゃんとハグしながら号泣していた。
婆ちゃん、僕の方こそ婆ちゃんと出逢えて良かったよ。ありがとう。
※フェイスブックページより
Facebookディヤン ムディト投稿記事
84、目を覚ます為に、この機会を使いなさい
<OSHOの講話より> (チェルノブイリ原発事故後の講話)
質問:愛するOSHO。 このところ私は、地面が、自分の足元で崩れていくような感じをよく味わいます。私にはまるで、私が愛しているもの、或いは過去に私が愛して来たものが、全て壊れていくように思われるのです。
最近、ソビエトで起こったあの原子力発電所の大惨事は、全てがどれ程はかなく、また束の間のものであるかということを、痛い程はっきりさせてくれました。両親、息子、兄や妹、友達、そして愛する夫・・・すべてが危険にさらされています。
今この瞬間しかない、と考えることは、私にはとても辛いことです。私は、おそるおそる自分に「次には、一体何が起こるのだろう?」と訊ねています。でも、誰が誰に訊ねているというのでしょう?
全てが余りにも不条理で、余りにも空しく思われます。時には、自分が気が狂うのではないかと思うこともあります。
愛するOSHO、これは成長の一部なのでしょうか? それとも、病気に過ぎないのでしょうか?
大災害というものは、人を、あるがままの現実に目覚めさせる。現実は、常に壊れやすいものだ。誰もが、常に危険にさらされている。ただ平常な時は、ぐっすり眠りこけている為に、それが見えないだけだ。
来るべき日々に対して、将来に対して、夢を見続け、素晴らしいことを想像し続ける。だが、危険が差し迫ってきた瞬間には、人は突然、未来はないかもしれないということに、明日はないかもしれない、自分には今この瞬間しかない、ということに気が付く。
だから、大災害の時というのは、非常に啓示的なものだ。大災害は、この世に何一つ新しいものをもたらさない。それはただ、あるがままの世界に気づかせるだけだ。それは、人の目を覚まさせる。
それを理解しなければ、気が違うことも有り得る。それを理解すれば、目覚めも起こり得る。
(中略)
この瞬間をどう使うかは、その人次第だ。恐慌に陥ることも出来れば、気が違うことも有り得る。恐怖にしびれ、涙にくれることも出来る。
だがそれでは、自分の家族にも、自分の友達にも、或いは自分の愛する者にも、何の役にも立ちはしない。それは自分にとっても、何の役にも立たない。
このロシアに起こった災害は、まさに、少しでも知性のある人間なら、自分の時間をもっともっと、瞑想にささげ始めることが出来るような、状況を創り出した。
何しろ本当に、明日が不確かなものだからだ。それは常に、不確かだったのだが、今となっては、それはこれまで以上に不確実だ。 この災害は、これから起こる一連の災害の、始まりに過ぎないかもしれない。
こういう原子力発電所は全部、決して本質的に、安全なものではないからだ。もし何かがまずく行ったら、そして今や我々は、一つの発電所がまずく行ってしまったことを知っているのだが、そうなったら彼らには、どんな力もない。彼らはただ、無力なのだ。
彼らは、自分達が作り出しているエネルギーを、制御することが出来ない。同じ災害が、アメリカにも起こり得るし、ドイツでも起こり得る。
焼失したこの発電所にすぐ並んで、同じ年齢の発電所が2つある。その2つは、同じ時期に同じ設計で作られたものだ。それには、同じ欠陥があるに違いない。直ちに2つ目の発電所が飛ぶという可能性は、いくらでもある。
そして3つ目も、そう遠いことではないだろう。そしてそういう災害が、他の発電所で働いている何千人という人々に、恐慌状態を引き起こすことも有り得る。
彼らは、所謂その制御された態度というものを、失うかもしれない。彼らはただ、熱に浮かされたような取り乱した状態で、これまで犯したこともないような過ちを、犯し始めるかもしれない。しかもそれは、間違ってボタンを押しただけで、起こりかねないことなのだ。
だが人間は、これを大いなる時として、用いることも出来る。私達はみんな、常に危険にさらされている。
あなた達も、この古いことわざを知っているだろう。「誰が為に鐘は鳴る、と尋ねることなかれ。そは常に、汝が為に鳴るものなり」と。
誰かが死ぬと、教会の鐘が鳴って、村中にそれを知らせる。だが決して、その鐘が誰の為に鳴っているのかを聞きに、人をやってはいけない。その鐘は常に、汝の為に鳴っているのだ、というのだ。
たった今死んだのが誰だとしても、その死は、全て自分の死だ。なぜなら人の死は全て、自分は永久にここにいるのではないということを、思い出す縁(よすが)だからだ。人の死は全て、目を覚ます為の機会だ。
死がやって来る前に、死を超えたものを達成する為に、生の機会を使いなさい。心配しても仕方がない。そんな事をしても、この瞬間を見逃すことになるだけで、誰の役にも立ちはしないからだ。
しかも危険にさらされているのは、自分の両親、自分の友人、自分の愛する者だけではない。全世界が、危険にさらされているのだ。それはただ、今日、危険な目に合う者もあれば、明日、危険な目に合う者もあるだろう。が、いずれにせよ、危険はある。
としたら、その危険の超越の秘法を学ぶのだ。その秘密というのは、もっとトータルに、もっと全身全霊で生き始める、ということだ。
もっと油断なく、醒めていなさい。そうすれば自分の中に、死の手が触れることの出来ないものを、見つけることが出来る。それこそが、唯一の避難所、唯一の防衛、唯一の安全だ。
そしてもしあなた達が、自分の友人、家族を助けたいと思うなら、その人達にこの秘密を教えてあげなさい。
今度起こったことは、これから何度も何度も起こることになる。原子炉の発電所は、非常に沢山あるし、それも技術やノウハウを知らない、技術的にはまだ牛車の時代にいるような、ほとんど2、3千年も遡ったような、未開の国にまで設置されているからだ。
(中略)
災害は、起こらずにはいられない。これは、ほんの始まりに過ぎない。
目を覚ます為に、この機会を使いなさい。
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