Facebook藤井 隆英さん投稿記事【 生きているという喪失 】
生は死があるから残酷であり 死は生があるから残酷である
生きるために産まれた私たちは 生き方しか知らない
死ぬことを前提に産まれた私たちの 死に方は誰も知らない
産まれるときに死ぬことを知り 死ぬときに産まれることを知る
生きた者しか死ぬことはできず 死ぬ者からしか産まれてこない
生の世界から死の世界は見えず 死の世界から生の世界は見えぬ
それでも生きる 生きるために生きる 死ぬために生きる 死ぬまで生きる
欲望は生きる力になり得ないただ、生きているという喪失を 解消するだけのものである
絶対に 死にゆく者とともに 死にゆく私とともに 生きているという喪失を 死ぬまで作り続け 死ぬという喪失を 生きながら認め続ける 生き方さえもおぼつかない私が
生き方しか知らない全ての者と共に 死ぬ時まで生き続ける 自分である自分を認めるために
自分でない自分を感じるために 死の安らぎに見守られながら 死の恐怖におののきながら
生きる 生のそばにいる死と共に 死のそばにいる生と共に 自分を認めたい欲望と
認められるべき希望を持ち 変えられないこの瞬間を 私が生きる事で あなたが活きる事を
あなたが生きることで 全てが活きる事を 私はただ、信じ願い 死と共に生き続ける
藤井隆英 著
http://dorosya.net/082/syokubutu.html 【聖書の植物- 野の花から-】より
「人の日は、草のよう。 野の花のように咲く。」(詩篇103:15)
「「呼ばわれ」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。【主】のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。
まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ書40:6)
https://www.jcf.org.nz/270-bible/ 【(270) “草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。”】より
1445年にグーテンベルクによって「活版印刷術」が発明されて以来、『聖書』は今に至るまで毎年世界のベストセラーです。一体『聖書』の何がそうさせるのでしょうか?ある匿名の著者が残した次のような文章があります。
「聖書には『神の心・人間の性質・救いへの道・罪人の宿命・信じる者への祝福』が書かれている。聖書はあなたを導く光であり、あなたを育む食物であり、あなたの心を元気づける。聖書は人生の旅路のためのロードマップであり、人生航路の羅針盤であり、人生上の戦いのための武器であり、人生の舞台を最高に演じるための脚本である。聖書は驚くべき富を得させる鉱脈であり、ごまかしのない喜びの源である。その教えは聖く、その訓戒は不動であり、その履歴には誤りがなく、その宣告は不変である。その至高の主人公はキリストであり、その内容は私たち1人1人のためにデザインされており、それらの最終目標は神の栄光である。これを読むことによって知恵を与えられ、信じることによって安息を与えられ、実践することによって全人格的に健康になる。この聖書をゆっくりと、ひんぱんに、祈りを込めて読みなさい。そのことばをあなたの思いに書き付け、心を治めさせ、それに導かれて歩みなさい。これはあなたの生涯の中に与えられており、やがてその生涯の終わりのさばきの時に神の前で開かれ、そして死の向こう側の永遠の世界においても認められる。そこには人類にとっての最大の使命が述べられており、人生における私たちのすべての労苦に対する大いなる報いが約束されており、またそれらの神聖な内容を『取るに足らぬもの』とみなす者たちへの確かなさばきが宣告されている。」
聖書は単に「重視されるべきもの」ではなく、日々の生活の中で「読まれ」「実行に移され」て行くべきものなのです。だてに600年も「世界のベストセラー」を記録しているわけではありません。さあ、あなたも今日からこの『聖書』を読み、行動に移し始めてみてください!
https://tokyochuobaptist.jimdofree.com/2019/06/26/%E8%81%96%E5%8F%A5/ 【「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」イザヤ40:8】より
対人関係で問題が起きて、心が暗くつらくなる事があるだろうか。人から批判されたり、攻撃されたりすると、トゲのある言葉が心に刺さる。又、人からのちょっとした言葉が、ひどく気になり、不安になり、落ち込んでしまう。心を探ってみて、もし自分の側に、非があれば、悔い改めることと相手に謝ることが必要だ。しかし幾ら考えても、自分に落ち度が無いなら、理不尽な言葉なら、人の言葉でなく、御言葉に目を向けて行こう。
心暗くなり、落ち込むのは、自分の中で人の言葉が第一になって、重きを置いているからではないか。その根には、人に良く思われたいし、好かれたい、嫌われたくない思いがある。人からの評価が欲しい。しかし神の言葉と人の言葉と、どちらが大切なのだろう。御言葉が飛んで、人の言葉に振り回されていた事に気づく時、平安が戻る。御言葉を受け取り、御言葉を握っていよう。
御言葉によって、人からの批判や状況を見る時に、神視点で人の言葉や状況を見ることができる。心に平安が無いなら、心がつらく苦しいなら、神の言葉でなく、人の言葉のほうを受け入れている。「すべての人は草」だと言っている。人の言葉は草のようだと。草は枯れてしまう。
草は枯れ、花はしぼんでしまう。だが、私たちの神のことばは永遠に立つと。今、心がつらく、平安が無いなら、自分の言葉や人の言葉に振り回されていないだろうか。御言葉に目を向けよう。御言葉から平安が臨む。我に返れて、御心へと導かれる。
・・・・・・・・・・・・人からの、愛のある信仰的、建設的な忠告や助言はどんなに痛くても聞く事が大切だ。しかし人からの、根拠の無い理不尽な言葉や、悪意ある言葉は聞き流そう。聞くべき言葉と聞き流す言葉がある。そして何よりも神の言葉に聞いて行こう。
0コメント