https://itoen-shinhaiku.jp/judge/special/ 【審査について金子兜太先生ありがとうございました】より
金子兜太先生ありがとうございました
「伊藤園お~いお茶新俳句大賞」の企画段階から様々な形でご協力いただき、最終審査員として第一回から新俳句大賞を支えていただいた金子兜太先生が、平成30年2月20日に永眠されました。謹んで生前のご尽力に深く感謝申し上げると共に、心からご冥福をお祈りいたします。
金子兜太先生は、新俳句大賞について「“俳句”という日本人にとって一番馴染みある形式で表現できる場を提供したことで、人々が潜在的に持っていた文化感覚を掘り起こし、その文化感覚の広がりが応募数に表れている」と評価いただいておりました。また、新俳句大賞を通じて俳句文化の継承と、人々の文化感覚をより一層高めたい、その一端を担って欲しいというお気持ちを持ち続けられ、新俳句大賞の審査に最後まで携わっていただきました。
新俳句大賞では、これまでの金子兜太先生の功績を讃えると共に、その御遺志を引き継ぎ、俳句の大衆化の継続とさらなる発展のため、第三十回新俳句大賞より、「金子兜太賞」を新設いたしました。
https://www.youtube.com/watch?v=9rUjKcDVDCQ
金子兜太先生語録
新俳句大賞は、国民文芸として俳句が持っている文化性とお茶の持っている市民の生活に浸透している文化性が、うまく溶け合っているのが非常に強い力だと思います。(第十二回懇親会)
いよいよ伊藤園の俳句は、本物になってきていると私は思います。現代俳句というのは、伊藤園を軸にできている。(第十六回懇親会)
新俳句大賞は日本の文化感覚を広めたと思います。俳句という一番馴染みやすい形式を通じて、今まで潜んでいてなかなか日常生活では出せなかった、一般の人の感覚を掘り起こした、俳句で表現できるようにしたと。(第十七回懇親会)
あとしばらくすると、「俳句の現在の姿は新俳句だよ」と、確信を持って言われるようになるだろう。(第二十二回講評)
私の長い俳句人生を顧みても、これだけ本当の意味で影響力のある俳句イベントは、他にないと思います。審査員を務めている他の大会は、季節が過ぎるように忘れてしまいますが、新俳句大賞は違いますね、思い入れがあります。(第二十八回最終審査会)
現代俳句協会で初めて話を聞いた時、「面白い、協力しよう」という気になりました。その判断は、間違っていませんでした。(第二十八回最終審査会)
最終審査会には、いつも新鮮な気持ちで参加します。新俳句大賞は、沢山の人々が俳句に触れ、俳句を詠む機会を創ってくれています。新俳句大賞の審査員が一番おもしろいのです。いい友達と出会える貴重な機会であり、いい先輩にも出会いました。 (第二十八回最終審査会)
作句が技術的なこと、言葉選びに偏ると、本来、高校生が持っている新鮮、柔軟な感性、感覚が殺されてしまう危険があります。技術は二の次、まずは感性、感覚を磨くことを心掛けるべき。(第二十八回講評)
新俳句大賞は、森澄雄もそうだったが、生きているうちは審査員をやり続けたいと思います。(第二十八回最終審査会)
現在の新俳句大賞の勢いや影響力は、江戸時代の川柳の隆盛に匹敵するのでないかと思っています。関わっている皆さんの力で、新俳句大賞を、さらに成長させ拡張していってほしい、私もまだまだ頑張ります。(第二十八回最終審査会)
Facebook髙橋 眞人さん投稿記事
こんにちは。【今日の名言】金子 みすゞ(詩人)
「遊ぼう」っていうと 「遊ぼう」っていう。「馬鹿」っていうと 「馬鹿」っていう。「もう遊ばない」っていうと 「遊ばない」っていう。そうして、あとで さみしくなって、「ごめんね」っていうと 「ごめんね」っていう。こだまでしょうか、いいえ、誰でも。
わたしが両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、飛べる小鳥はわたしのように、地面(じべた)をはやくは走れない。わたしがからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、あの鳴る鈴はわたしのように、たくさんなうたは知らないよ。鈴と、小鳥と、それからわたし、みんなちがって、みんないい。
母さん知らぬ 草の子を、なん千万の 草の子を、土はひとりで 育てます。草があおあお 茂ったら、土はかくれて しまうのに。
明るい方へ 明るい方へ。一つの葉でも 陽の洩(も)るとこへ。藪かげの草は。明るい方へ 明るい方へ。翅(はね)は焦(こ)げよと 灯(ひ)のあるとこへ。夜飛ぶ虫は。明るい方へ 明るい方へ。一分もひろく 日の射すとこへ。都会(まち)に住む子等は。
蜂はお花のなかに、お花はお庭のなかに、お庭は土塀のなかに、土塀は町のなかに、町は星とタンポポ 青いお空のそこ深く 海の小石のそのように 夜がくるまで沈んでる 昼のお星は目に見えぬ 見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ 散ってすがれたタンポポの 川原のすきにだぁまって 春のくるまで隠れてる 強いその根は目に見えぬ 見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ
蜂はお花のなかに、お花はお庭のなかに、お庭は土塀のなかに、土塀は町のなかに、町は日本のなかに、日本は世界のなかに、世界は神さまのなかに。そうして、そうして、神さまは、小ちゃな蜂のなかに。
※3月10日は金子みすゞの命日(昭和5年)です。
FacebokOSHO Japaneseさん投稿記事
評価することは醜いーーそれは人々に苦痛を与える。あなたは一方で人々に苦痛を与え、傷つけ他方で彼らから愛され、尊敬されることを望む。それは不可能だ。
人々を愛し、彼らに敬意を表しなさい。そうすれば、その愛と尊敬の念は、彼らが多くの弱点や多くの失敗を変容する助けになるだろう。
なぜなら愛は、新しいエネルギー、新しい意味、新しい強さを与えるからだ。
愛は人々に、強い風、新しい太陽、激しい雨に耐えるための新しい根を与える。Osho
Facebook加藤隆行【大切の循環をまわす】
以前、「彼も大切にしたいし 自分も大切にしたい でもそれがうまくできない」とお若い女性からご質問をいただいたときにお答えしたこと。
「大切な人が大切なものを大切にできてるかな」って考えてみるといいですよ。
彼を大切にすることと自分を大切にすることを別々のものだと考えてしまうとどうやってバランスをとろうかと考えてしまう。
彼を優先すべきなのか自分を優先すべきなのか。そーするとどちらかが犠牲になという考え方になる。だから「大切にする」のやり方を少し変えてみる。「彼が大切なもの」いろいろあるだろう。趣味もそうかもしれんし親もそうかもしれんしいろんな価値観や”想い”もそうかもしれん。それを大切にしてあげる。相手を”優先する”、のではなく「そう思ってるんだね」「それが好きなんだね」「それが嫌いなんだね」「そういう考え方もあるよね」「それが大切なんだね」と大切にし、”尊重する”。相手の大切なもの、想いを大切に尊重してあげると
「ああこの人は 自分のことを大切にしてくれてる」と感じて、相手も自分のことを大切に尊重してくれるようになる。
すると、相手が大切なものの中に”私” が入るから自然と、私は私を大切にしようと思えるようになる。そして相手の大切なものを大切にできていて相手の大切な自分も大切にできている私は、私も相手も好きになる。
これは実は相手を優先する、(そして自分が犠牲になる)という方法では、絶対にたどり着けない。「大切にする」の中に、相手も自分も入れてしまう。「大切にする」の循環をつくる。
自分を大切にする、と彼を大切にする、を分離しない。それでは一緒に幸せにはなれない。
だから「大切な人が大切なものを大切に できてるかな」っていつも振り返って考えてみる。
*
そして⋯この循環をしばらく回してみると気づくことがある。
それでも彼が私を大切に尊重してくれていないようなら残念だけどその人とは循環が回せない人なのである。そのときはあたらしい循環を回しに行こう。それがあなたを「大切にする」ということです(^ω^)
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