FaceboookPrem Sheelさん投稿記事
スピリチュアルな成長は、技術的な現象ではないのだから、いかなる技法も障害になり得る。
あなたは技法にしがみつき始めるかもしれない。それが何百万という人々に起こっていることだ。
スピリチュアルな成長を探し求めているうちに、彼らは技法を与えてくれる教師に出くわす。
技法は、彼らがもっと静まり、もっと穏やかに、もっと静かになり、大きな幸福を得るのを助けるが、そうなると技法は絶対的に欠くことが出来ないものになる。
彼らは技法を捨て去ることが出来ない。技法を捨てたら、その全ての体験も消えてゆく。
たとえ何年も実践していた技法だったとしても、3日もしないうちに全ての体験が消え失せている。
技法は、本当はスピリチュアルな成長を与えるのではなく、スピリチュアルに見える幻覚を作り出すに過ぎない。
というのも、あなたはスピリチュアルな成長が何であるのかを知らないからだ。
そしていいかな、目撃することは技法ではなく、それはあなたの本性だ。
技法は何らかのものを作り出す。見守ることは、ただあるがままのものを開示する。
むしろ逆に、それは引っかかっていたいくつかの幻影を破壊するだろう。
充分に見守っていなかったせいで、あなたは一度もそれらが幻影的な現象であることに気づかなかった。幻影は容易に作り出せるので、マインドは常に技法を楽しむ。
誰がその技法を使うのか?
マインドが技法の主人になる。見守ることはマインドを超えている。マインドは見守ることが出来ない。それはこの実在の中にあってマインドが出来ない、唯一のことだ。
マインドがそれを汚すことが出来ないのは、マインドがそれを邪道に導くことが出来ないのは、その為だ。
幻覚の中で生き、見守ることの単純で自然なプロセスを、一度も知ることがなかった多くの人達、多くのいわゆる聖者、預言者、救世主達がいた。どのような技法にも巻き込まれない方がよい。見守ることは、それほど純粋だ。
それを他のいかなるものによっても汚してはいけない。そしてそれは極めて全体的であり、
極めて完全であり、他の一切の支持を必要としない。
が、マインドはいつも何かの技法を欲しがる。なぜなら、マインドは技法なら操ることが出来るからだ。マインドはテクニシャンだ。
テクノロジーがその得意分野だ。が、見守ることはコントロールを超えている。それを超え、
その上にあり、そして実のところ、それはマインドにとっては死だ。見守ることがあなたの中で育ったら、マインドは死ぬ。そしてこれら全ての人々、超越瞑想を教えている
マハリシ・マヘッシ・ヨギのような人々は、マインドが完璧な心地よさを感じるよう技法を与えている。が、そこには一切成長というものがない。
これら全ての人達は、技法を与えることによって人類を搾取している。
それは進化を停止させるものであり、ゆえに最悪の搾取だ。
私は全ての技法に反対する。私はあなた方がすでに持っている、時たまあなた方も使うような、単純で自然なプロセスに賛成する。
腹を立てている時、あなたはどうやって自分は腹を立てていると気づくのだろうか?
そこにはただ怒りしかなく、誰も見守っている者がいないとしたら、
あなたはその怒りに気づくことが出来なかっただろう。怒りそのものが気づくことは出来ない。だから、あなたは自分が怒っている時も、怒っていない時も、気分がよい時も、気分がよくない時も、それに気づいているということだ。が、この見守ることを、マインドのあらゆる位相に、一貫して、科学的に、深く、トータルに使ったことはなかった。
私にとって、この言葉には、瞑想のまさに本質が含まれる。Osho - The Path of The Mystic
FacebookOSHO Japaneseさん投稿記事 ~人生に直面しなさい~
悲しみ、投げやり、怒り、絶望、不安、苦悩、惨めさにかんして、唯一問題なのは、あなたがそれらから逃れたがっていることだ。それが唯一の障害だ。それらとともに生きていかなければいけない。逃げることはできない。人生はそうした状況のなかでこそ、統合され、成長していかなければならない。それは人生のチャレンジだ。それを受け容れなさい。
それは変装した祝福だ。それから逃げようとしたら、どうにかして排除しようとしたら、問題が生じてくる。というのも、なにかを排除しようとしたら、それを直視しなくなるからだ。非難の目で見るために、それはあなたから隠れるようになる。それは無意識のなか深くへ入り込んで、あなたの存在の暗い片隅に隠れ、見つけられなくなる。あなたの存在の地下室へと移動し、そこに隠れてしまう。当然、深くへ入り込めば入り込むほど、それは多くの問題をつくりだす。あなたの存在の未知の片隅から働くようになり、あなたには手出しができなくなる。
だからとにかく、けっして抑圧しないことだ。とにかく、あるがままを受け容れなさい。それを受け止めて、出てこさせる――自分の前に出てこさせる。じつのところ、「抑圧してはいけない」と言うだけでは不十分だ。許されるなら、私はこう言いたい、「それと仲良くなりなさい」と。
あなたが悲しいのなら、それと仲良くなり、それを哀れむことだ。悲しみにも存在がある。それを許し、それを抱きしめ、それといっしょに坐り、その手を握りなさい。仲良くなるがいい。それを好きになりなさい。悲しみは美しい! それはよくないものではない。悲しいのはよくないなんてだれが言ったのかね? それどころか、あなたに深みを与えられるのは悲しみしかない。笑いは底が浅い。幸福は皮一枚の厚さしかない。悲しみは骨にまで、髄にまで入り込む。悲しみほど深く入り込むものはない。
だから心配しなくていい。それといっしょにいれば、悲しみはあなたをもっとも奥深い中心にまで連れて行ってくれる。それに乗っていけば、自分の存在について今まで知らなかったいくつかの新しいことを知ることができる。そうしたことは悲しみのなかでしか明らかにならない。幸せなときにはけっして見えてこない。暗闇もまたいい。暗闇もまた神聖だ。昼間だけが存在なのではない。夜もまたそうだ。私はこの態度を宗教的と呼ぶ……。
忍耐強く悲しみのなかにいることができれば、ある朝、突然、ハートのなかにどこか未知の源泉から幸せがわき起こってくることに気がつく。その未知の源泉とは清らかな人格だ。本当に悲しんだら、それを自分のものにできる。本当に絶望し、投げやりで、不幸せで、惨めになり、地獄に生きるようになれば、天国を自分のものにできる。その対価は支払っている……。
人生に直面しなさい。人生に立ち向かいなさい。困難なときはあるだろうが、ある日、あなたは気がつく。それらに立ち向かったおかげで、その困難な瞬間が自分に強さを与えてくれた。それらはあってしかるべきものだった。そうした困難な瞬間は通り抜けているときは辛いが、後になってみると、それが自分をもっとしっかりさせてくれたことに気がつく。それがなかったら、あなたは中心に据わり、地に着くことはなかっただろう。
Osho,The Art of Dying, Talk #10〜
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