https://blog.goo.ne.jp/jokan_1948/e/f01cb94204f0448c0bc92fcf5fa030cd/?st=1 【息の緒 法螺貝のこと Ⅲ】より
いわゆる管楽器と呼ばれるものを吹き鳴らした時にも同じような感覚が得られるものかどうか解りませんが、法螺貝を山中で思い切り息を吹きぬき鳴らしてみると、その音の鳴動が身体全体にと伝動して何とも不思議な感覚にと包まれます。
山への登山は講を組み、数人の先達が同行の登拝の人々を案内しながら行われますが、その時のこと、父の法螺貝を吹き鳴らしている私の姿を見て、「よく鳴らせるもんだねー、練習してきたのかい」と講の元締めである講社の社長が声をかけてきました。
その言葉の後に、見咎められでもするのかと思いましたが、特別に注意を受けるでもなく心配したこともありませんでした。
注意を受けずに済んだのに安心して、あっ、そうだ、この機会に法螺貝と山岳信仰との関わりについて、この講社長に尋ねてみようと思いついたのです。
「山入りの時や修行が執り行われる時に、どうした理由や意味合いがあって法螺貝を吹き鳴らすのでしょうか」?。と聞いてみたのです。
答えは大体こんなものであったと記憶します。
サンゴの生息する海で、サンゴの成育を阻み、これを食い尽くしてしまうオニヒトデの天敵がホラガイであり、このように邪悪なものを退治する力にあやかり法螺貝を吹き鳴らすことによって周囲の邪悪を払うという意味がある。と言ったことを教えてくれたのでした。
周知のように修験道は、古来からの山に寄せる信仰と仏教(密教)とが一体になったもので、いわば神仏混淆の色合いを強く残していますから、法螺貝はこのどちらからか取り入れられたものだろうと私は想像していましたし、また、山を信仰の対象とする意味合いからしたら、その生息している場所が南海の海の中である法螺貝の存在とが、何か私の中ではしっくりと一体化して馴染めるもののようには思えないでいたのです。
私の独断的な感想からしたら、修験の中で法具として用いられている法螺貝の場合、おそらく密教の方からの影響の下で取り入れられたものでなかったかと思うのです。
講の社長さんの説明に逆らおうとした訳ではありませんでしたが、私は私なりに法螺貝の意味について、実際に山でこれを吹き鳴らしながら考えてみたのです。
身体に鳴動が伝わって、何かしら浄らかになるような感覚を得られる事実は、きっと、自分の身体だけに対してのものではなく、周りにいる人たち。大気。草花など等の周囲のすべてに影響を与えているように思えたのです。
オニヒトデを食べるという法螺貝の生態に拠ることよりも、音や細やかなこれに伴う振動に、こうした力や作用があるように思えたのです。
それと法螺貝が発する音波の振動が周囲の山にぶつかって、「やまびこ」となって返ってくることも体験しました。
「やまびこ」を山彦と書き、また、「こだま」と呼んで木霊と書き表した先人の感性が身に沁みて理解することが出来たような気がしたのです。
「やまびこ」や「こだま」は、こちら側からの呼びかけに対しての返答のように聞こえます。その返答の声の主を、「山彦さん」や「木の霊」からのものとして受け止ることのできる古人の感性を称えたいと思ったのでした。
法螺貝と言えば、山伏や密教の僧侶が持ち歩くもの。戦国時代の戦場で戦意を高揚させるため、あるいは合図・通信のための物とした印象がありましたが、山でこれを吹いた時に確信しました。
合図・通信のための道具としての役割は当然に法螺貝は持っていたでしょうが、この場合は交信する相手はヒトであります。
が同時にヒト以外にも、大げさに言えば万物に対して交信交流を働きかけるための「呼子」としての役割を負ったものでなかったか。そう思えたのです。
縄文の土笛を吹いた時にも、これを吹いたなら縄文人との交信ができるのではないかと夢想を抱いたものでしたが、山で法螺貝を吹いた時には、そうした思いをより強くに感じたのです。
きっと、ここで取り上げてきた縄文時代の「縄文の土笛」・「亀形土製品」・「大珠の石笛」にも、同じような要請を帯びて使われた側面があったに違いが無いのではないかと思えます。
南海で採れるというホラ貝を象ったものではありませんが、縄文時代の遺物の中に巻貝を象った精巧なつくりの土製品があります。あるいは、法螺貝と同様に音を発する為の道具として、縄文の古い時代から用いられていたのかも知れません。
http://ryuuranokai.blog.fc2.com/blog-entry-332.html 【白山龍鳴会の名称を授かった場所でもある八海山尊神社を紹介します。】より
八海山尊神社(はっかいさんそんじんじゃ)は新潟県南魚沼市の霊峰八海山の麓あります。
龍鳴の階は霊風園から神社に至る大石段で八十八段を数えます。
霊風園の広場から神社に向かって拍手を打つと、石段が鳴り響くことから龍鳴(りゅうめい)と呼ばれています。神様の歓びの感応(しるし)とされています。当会の「龍鳴」という名称を授かった場所の一つでもあります。
御祭神
国狭槌尊(くにのさづちのみこと)天津 天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)
木花咲耶姫尊(このはなさくやひめのみこと) 大山祇尊(おおやまづみのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
由緒によると、八海山そのもののいわれは、中臣鎌足公が御神託を頂いて御室(現六合目)に祠をもうけたのが始まりと伝えられます。
八海山には役行者小角、つづいて弘法大師が頂上で蜜法修行されたという、山岳信仰の社寺にみられる事業譚があり、古くから両部の霊場として知られていました。
歴史上の所見は、南北朝中期に編纂された「神道集」に越後の三の宮・八海大明神とあります。
寛政六年、大崎村出身の木食泰賢行者が木曽御嶽山の中興開祖・普寛と共に登拝道を開くに及び、八海山は御嶽山の兄弟山として列格し、次第に全国にその名を知られるようになりました。
大崎口登拝道は泰賢行者自ら、享和三年(1803)に切り開いたもので、これが大崎口里宮(現八海山尊神社)を世に知らしめた始まりです。
こうして八海山大崎口里宮は、御嶽信仰の霊場巡拝地となり、今日に至っています。
http://www15.plala.or.jp/kojiki/aboutkojiki.html 【古事記(こじき)について】より
今からおよそ1300年前に書かれた「古事記(こじき 又は ふることぶみ)」という書物があります。これは、日本の国が作られるはるか昔の神様についてのたくさんの物語が書かれています。日本だけではなく、世界中の国にそれぞれ同じような神様について語られた神話があります。ヨーロッパのギリシア神話は特に有名です。現代のように科学技術が発達している世の中に育ったみなさんにとっては、神話というと現実にはなかった空想(くうそう)の話ではないかと思われるかもしれません。たしかにその通りです。しかし、神話の中の神様は、その国の民族の数千年前もの先祖(せんぞ)の人たち(その時は、もちろん現代のように、電気も電話もテレビも車も飛行機もコンピュータもインターネットもない時代のことです。その頃は、地球が円いことも、世界がどんな形をしているのかも分からなかった時代です。ですが、まさしく現代に生きる私たちと必ず血のつながっているご先祖様が生きていた時代なのです。)が、様々な自然現象(それは、時には、地震や雷、干ばつや台風など人間を苦しめるものです。)を神の仕業(しわざ)と考え、恐れました。古代の人々は、豊かな想像力を働かせて、この目には見えない人間よりもはるかに超越した偉大な力を「神」として、奉る(たてまつり=)ことになったのです。
古事記は、古代の日本人の先祖が、文字のない時代から口承(こうしょう)、つまり人から人へ語り継いで、頭の中に記憶してきた日本の神様たちの物語です。その豊かで大らかな想像力と日本人とはどういう民族が集まってできたのか(最初から、日本列島に日本という国があったわけではありません。)、また日本語という言葉や、現代まで伝えられている礼儀作法や生活習慣、宗教や道徳観などの日本人の伝統文化のルーツについての多くを知ることができます。
古事記には、神話の時代の物語の他に、神武天皇(じんむてんのう=日本最初の天皇)から推古天皇(すいこてんのう)までの古代の天皇の歴史についても記録されています。日本列島には、古代には、多くの豪族(ごうぞく)たちが、勢力争いをしていました。日本は、ひとつの国ではまだなかったのです。さまざまな地域で威勢をふるっていた豪族たちを征服し、従えて、ひとつの国として統一しようとする古代の天皇の活躍についての物語です。しかし、この中には、現実にはありえないような話も含まれているので、これをもって、古事記は正しい歴史を記録したもではない、従って古代の天皇は存在しなかったという人もいます。しかし、古事記が書かれた時代というのは、現代のように科学が発達していない時代です。神話の世界と現実の区別などはほとんどなかったのであり、現代人の考え方で判断するのは間違いだと思っています。
このサイトで紹介する「ヤマトタケル」も実在していたかを疑う説もあるようですが、私は、古事記の中で他の天皇に比べても、特に多くのページをさいて語られていることから考えて、この英雄は実在したか、少なくともそのモデルとなった皇子(おうじ=天皇の子)がいたと思います。まあ、そのあたりの判定は、いずれ専門家の方たちにしていただくことができるでしょう。仮にこの英雄伝が作り話であったとしても、この中には「ヤマトタケル」が詠んだとされる古代の最初(?)の日本語による詩(短歌)も収められおり、第一級の(世界的にも貴重な)文学作品として楽しんでみていただいてよいのでしょうか。この物語は、「ヤマトタケル」が多くの敵を滅ぼしていく武勇伝(ぶゆうでん)を中心に語られています。義経もびっくりする日本初のスーパーヒーロー(もちろん、人間の)です!しかし、私が思うにこの物語の主題(テーマ)は、「愛」と「勇気」だと思っています。スーパーヒーローの「ヤマトタケル」も人間的な弱さを見せ、ほろほろと泣いたり、自分を助けるために死んだ愛する妻への追悼の詩を詠むのです。「愛」と「勇気」!何事にも無関心、無感動になってしまった現代の日本人は、この言葉を聞くと赤面してしまうかもしれません。しかし、そういうあなたにこう問いたいと思います。あなたは、「愛」と「勇気」のどちらか一つでもお持ちですか?
(番外編)ヤマトタケル 白鳥の英雄伝説
http://www15.plala.or.jp/kojiki/yamatotakeru/yamatotakeru.html 【第1章 荒くれ皇子(あらくれおうじ)】より
◆ ◇ 登 場 人 物 ◇ ◆
天皇
景行天皇(けいこうてんのう=ヤマトタケルのお父さん)在位は、西暦 71年~130年(皇統譜による)
ヤマトタケル
倭建命 又は、日本武尊 =やまとたけるのみこと、この物語の主人公 です。子どもの頃の名は、オウスノミコト(小碓命)又はヤマトオグナ ノミコト(倭男具那王)といいます。
オオウスノミコト
大碓命 = ヤマトタケルの双子(ふたご)の兄
クマソタケル
熊曽建=九州地方の部族
イズモタケル
出雲建=出雲地方の部族
エミシ
蝦夷=関東から東の地方の部族。アイヌ
ヤマトヒメ
伊勢の神宮の女官、ヤマトタケルの叔母
オトタチバナヒメ
ヤマトタケルの妻
ミヤズヒメ
ヤマトタケルの二番目の妻
これは、はるか遠い昔(今からおよそ2000年前?)に、日本の近畿地方(現在の奈良県のあたり)にあったヤマトの国の皇子の愛と勇気の物語です。
ある日、天皇は、毎日の食事の席に皇子のオオウスノミコトが出席しないことを不思議に思って、弟のオウスノミコト(のちのヤマトタケル)を呼んで、こうおっしゃいました。
「お前の兄は、どうして毎朝と毎晩の食事に来ないのだろうか。悪いが、お前から兄さんに食事の席に来るようによく話してみてはくれまいか。」
「はい、わかりました。そんなことなら、お安い御用です。」と弟は答えました。
しかし、それから五日経っても、オオウスノミコトは、一度も食事の席に現れませんでした。そこで、天皇は再び弟のオウスノミコトを呼び出して、尋ねました。
「わしがこの間、兄さんに食事に来るように伝えてもらうようにお前に頼んだが、どうなっているのだ。あれからも全く来ないのだが。」「ああ、それなら兄さんには、もうちゃんと伝えています。」「どのように伝えたのじゃ。」
「兄さんを少し懲らしめてやろうと思って、朝便所に用を足しにいくところを待ちかまえていました。兄さんが来たので、とっつかまえてから空手チョップで手足をへし折り、むしろに包んで投げ込んでやりましたよ。」 それを聞いた天皇は、自分の息子ながら、このオウスノミコトの乱暴さに恐れを感じました。
「この子は、小さい頃から気性も激しく乱暴だったので心配していたが、自分の兄までも殺してしまうとは、何という恐ろしい心を持っているのだろう。末恐ろしい限りじゃ。このままでは、父親の自分さえも殺されてしまうのではないか。若くて力もあり余っているようだし、少し試練を味合わせた方がよかろう。」と考えて、「九州にクマソタケルという二人の兄弟がいる。これは私たちに逆らう無礼な者たちである。お前が行って、この者達を滅ぼして来なさい。」とおっしゃいました。
http://www15.plala.or.jp/kojiki/yamatotakeru/yamatotakeru_02.html 【第2章 クマソタケルの征伐(ヤマトタケルの名の由来)】より
天皇の命令で、オウスノミコトは、クマソ(=現在の熊本県と鹿児島県の辺りの地域)へ出発することになりました。その時は、オウスノミコトはまだ15歳のあどけなさが残る色白の美少年でありました。髪の毛もその当時の子どもがするように額のあたりで結んでおりました。そして、伊勢神宮に仕えていた叔母のヤマトヒメの着物を借り、刀を懐に隠して出発しました。
ようやくクマソへ到着すると、さっそくクマソタケルの家を探しました。遠くからその場所を覗いてみたところ、兵隊たちが何重にもその家を囲んで警備をしていました。どうやら、家を新しく建てている様子です。
「なるほど、もうすぐ家の新築のお祝いの宴会があるに違いない。その日を襲おう。」とオウスノミコトは考えました。
しばらくして、家が完成した様子で、人々は、宴会の準備をしましょうと言って、忙しそうに騒いで、ご馳走の準備をしておりました。オウスノミコトは、宴会の日まであたりをブラブラしながら待っておりました。
いよいよ宴会の日がやってきました。オウスノミコトは、結んでいた髪をほどいて女の子のように下に垂らして、叔母さんから借りた着物を着て、女の子に変装しました。もともと、色白で美しい顔立ちをしていましたので、これではだれも男とは気づきません。宴会に招待された女性たちの間にまぎれ、まんまとクマソタケルの家に侵入したのでした。
クマソタケルの兄弟は、大勢の女たちや手下の者に囲まれて、上機嫌で酒を飲んでいました。すると、見かけない美しい娘に気づき、「おお、あの娘は、たいへん美しいではないか。さあ、こっちへ来て酒のお伴をしなさい。」と言いました。
クマソタケル兄弟は、このような美しい娘は、この辺では見かけないと不思議に思いながらも、その娘を間に挟み、飲めや歌への大騒ぎを続けました。宴会が最高潮に達した頃、娘に化けたオウスノミコトは、おもむろに懐から短刀を抜き、兄のクマソタケルの襟を掴みながら、その胸へ突き刺しました。刀は、貫通して背中まで突き出しました。あまりにも一瞬の出来事に兄のタケルは何が起きたかわからないうちに死んでしまったのでした。
キャーという悲鳴とともに、宴会に出席していた家来や女たちはあわてふためきながら、一斉に逃げ出しました。弟のタケルも驚いて逃げ出しましたが、オウスノミコトは、これを階段まで追いかけました。そして、背中の皮をぐっと掴むと、尻から刀を突き刺したのです。すると、弟のタケルが言いました。「どうか、その刀を抜かないでください。わたしは、あなたに言いたいことがあります。」「よし、話せ。」 オウスノミコトは、弟のタケルをしばらく、押し伏せておきました。「あなたは、どなた様ですか。」「われは、ヤマトの国(纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮(現在の奈良県桜井市あたりにあった皇居))で天下を治められている景行天皇の皇子で、名前は、ヤマトオグナというものだ。わが父の天皇が、お前たちクマソタケルは、ヤマトの国に従わない無礼者であるから殺してこいとご命令になったので、やってきたのだ。」「なるほど、きっとあなたのいうとおりでしょう。西の国には、わたしたち以上に強いものは、おりません。しかし、ヤマトの国には、わたしたち以上に強い方がいることが今わかりました。だから、わたしたちの名をあなた様に差し上げましょう。あなたは、今日からヤマトタケルと名乗られるがよいでしょう。」
こう言い終わったので、ヤマトタケルは、弟のクマソタケルの体を熟した瓜(うり)のように、刀で切り刻んでしまいました。
このようなことから、オウスノミコトは、ヤマトタケルと呼ばれるようになったのです。さらに、ヤマトタケルは、大和の国へ帰る途中、西の国の山の神、川の神、海峡の神をもみな従わせたのでした。
http://www15.plala.or.jp/kojiki/yamatotakeru/yamatotakeru_03.html 【第3章 イズモタケルの征伐】より
ヤマトタケルは、大和の国へ帰る途中、出雲(いずも)の国(現在の島根県東部)に立ち寄られました。そこには、イズモタケルというヤマトの国に逆らうものがいると聞いたので退治してやろうと思ったからです。
ます、ヤマトタケルは、笑顔で親しげにイズモタケルに近づき、友だちになりました。そして、ある日、二人は一緒に斐伊川(ひのかわ)へ水浴びに行く事になりました。そこでヤマトタケルは、ひそかに樫の木でにせの刀を作り、それを腰に差して行きました。二人は、服を脱いで水浴びを始めました。ヤマトタケルは、先に川から上がって、イズモタケルが外しておいた刀を腰につけて、「やあ、あなたの刀は実に見事だ。わたしの刀と少しの間だけ交換してみましょう。」と、冗談のように言いました。
その後から、イズモタケルも川から上がって来て、ヤマトタケルのにせの刀を腰に差しました。そこで、ヤマトタケルは、「ぜひ一度、あなたのこの見事な刀で、お手合わせを願いたい。」と言ったので、二人はお互いに刀を抜こうとしましたが、イズモタケルが持っているのはにせの刀なので、抜くことができません。「むむ、これは・・・。」
イズモタケルがこうつぶやいた直後、ヤマトタケルは刀をすばやく抜いて、一瞬のうちにイズモタケルを切り殺してしまいました。 ヤマトタケルは、イズモタケルの征伐についての感想を歌で詠みました。
やつめさす 出雲建(イズモタケル)が 佩(は)ける刀(たち) つづらさわ巻き さみなしにあわれ
たいへん強いイズモタケルが差していた刀は、たくさんのつづらで巻かれていて見た目は立派だが、中身がない。ああ、かわいそうに。このように、ヤマトタケルは、逆らう人々を次々と征伐され、ヤマトの国に帰り、天皇にご報告されました。
http://www15.plala.or.jp/kojiki/yamatotakeru/yamatotakeru_04.html 【第4章 ヤマトタケルの東征(とうせい)】より
ところが、天皇は、こうおっしゃて、ヤマトタケルを驚かせました。「東の方の十二ある国々(伊勢、尾張、参河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総、常陸、陸奥)には、まだ乱暴な神々や従わない人々がたくさんいる。それらをみな征伐して来なさい。」
天皇は、このようにしきりにおっしゃって、キビノタケヒコ(吉備の臣の祖先で、ミスキトモミミタケヒコ)という者をお伴にされ、ヤマトタケルを征伐に行かせる時に、柊(ひいらぎ)の木で作られた長い矛(ほこ)をお授けになりました。
ヤマトタケルは、天皇の命令を受けて、やむなくヤマトの国を出発しましたが、まず伊勢神宮を参拝(さんぱい)するために、立ち寄られました。そこで、その神殿にお仕えになっている叔母さんであるヤマトヒメに、こう訴えられたのです。
「父の天皇は、わたしが一刻も早く死んでしまった方がよいと思われているのでしょうか。なぜなのでしょうか。わたしは、西の国の悪い者たちをすべてやっつけて、ヤマトヘ帰ったばかりというのに、すぐに父は、兵も与えてくれずに、さらに東の十二の国の悪人たちを征伐して来いとおっしゃった。これはどう考えても、わたしのことを早く死んでしまえと思われているからにちがいありません。」このように、悲しみながらすすり泣くヤマトタケルの姿を見たヤマトヒメは、どてもかわいそうに思って、天皇家の宝である叢雲の剣(むらくものつるぎ=スサノオノミコトが、八岐大蛇を退治したときに、その尾から出て来た刀。)と一つの小さな袋を授けて、こうおっしゃいました。「もし、あなたの身に危ないことがあれば、この袋の口を開けなさい。」 元気を取り戻したヤマトタケルは、伊勢を出発し、尾張の国(現在の愛知県西部)へ入りました。ヤマトタケルはそこで、尾張の国造(くにのみやつこ=大化の改新以前の各地方を統治した豪族)の先祖にあたるミヤズヒメという美しい女性と恋に落ちました。彼女の家へ行って、結婚をしたいと思われましたが、東の国の悪者を退治して帰ってからにした方がいいと思いなおしました。それで、ヤマトタケルは、ミヤズヒメと結婚の約束をしてから、出発されました。そして、山や川の乱暴な神やヤマトの国に歯向かう人々をみな従えました。
http://www15.plala.or.jp/kojiki/yamatotakeru/yamatotakeru_05.html 【第5章 草薙の剣(くさなぎのつるぎ)】より
そして、ヤマトタケルは、相模の国(現在の神奈川県)に入りました。すると、相模の国造たちが、「この野には、大きな沼があって、そこに住んでいる神は、とても乱暴な神です。」
と嘘を言って、ヤマトタケルをだまそうとしたのです。ヤマトタケルが、その神を見てやろうと思って、その野に入ったところ、待ち伏せしていた国造たちが、いっせいに野に火を放ちました。火はたちまちのうちに、ヤマトタケルの周りを包み込みました。「ちくしょうめ、だまされたか。」 と言って、ヤマトタケルは、叔母のヤマトヒメの言葉を思い出し、もらった袋の口を開けました。するとそこには、火打石が入っていました。そこで、ヤマトタケルは、まず草を刀で切り払って、その切った草に火打石で火をつけました。するとどうでしょう、燃え上がった火が向かい火となって、周りの火も鎮まりました。そこで一旦、ヤマトタケルはその場所を逃げ出し、隠れていた国造どもをすべて切り殺し、その死体に火を付けすべて焼いてしましました。 このようなことから、今では、その刀を草薙の剣(くさなぎのつるぎ)三種の神器の一つ。熱田神宮に祀られる)といい、この場所を焼津(やいづ=静岡県焼津市?)というようになったのです。
http://www15.plala.or.jp/kojiki/yamatotakeru/yamatotakeru_06.html 【第6章 オトタチバナヒメ】より
それからヤマトタケルはさらに東を目指して進んで行きました。走水海(はしりみずのうみ=現在の神奈川県三浦半島と千葉県房総半島との間の水道)を渡ろうとしたところ、その海の神が波を起こしたため、船はくるくると回転してしまい、一向に前に進むことが出来ませんでした。すると、この船に一緒に乗っていたヤマトタケルの妻の一人のオトタチバナヒメが立ち上がっていいました。
「わたしが、この乱暴な海の神を鎮めるために、あなたのかわりに海に入りしましょう。あなたは、天皇から命じられた任務を立派に果たして、ご報告申し上げなければなりません。」
そうして、オトタチバナヒメは、海の波の上に菅(すげ)で作ったござを八枚、皮で作ったござを八枚、絹で作ったござを八枚敷いて、その上にお降りになって、次のような歌をお詠みになりました。
さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも
これも、あの相模の国の野で燃える火の中で、わたしの名を呼んでくださった愛するあなたのためですもの。
そして、オトタチバナヒメは、海に身を投げたのでした。すると、荒波はおさまり静かになって、船は無事に海を渡ることができました。
それから七日後、海岸にオトタチバナヒメが身につけていた櫛(くし)が流れ着きました。ヤマトタケルの目から、愛する妻を失った悲しみの涙があふれ出しました。そこで、オトタチバナヒメのお墓を作り、その中に櫛を納められました。
ヤマトタケルは、さらに東へ行って、乱暴なエミシたちをことごとく倒し、山や川の悪い神々もすべて従えました。そして、西へ引き返す途中の足柄(神奈川県足柄町)の坂の麓(ふもと)で、乾飯(かれいい=乾れ飯。携帯の食糧)を食べていたところ、その坂の神が白い鹿に変身して下りて来て、ヤマトタケルの前に近づいてきました。ヤマトタケルは、鹿が近づくのを待って、すばやく食べ残したネギ(ノビル)を投げつけると、それが目にあたって、鹿は死んでしまいました。そして、坂の上に登り、今来た東の方角を見て、三たび亡くなったオトタチバナヒメのことを思い出され、何度も嘆きながら、こう言いました。「ああ、我が妻よ。」 だから、この東の国々のことを「あづま(吾妻)」というようになったのです。
ヤマトタケルは、相模の国を出て甲斐(かい)の国(現在の山梨県。甲州)へ入られました。して酒折(さかおり=現在の山梨県酒折町)の神社に行かれた時に、次のように歌を詠まれました。 新治(にいはり) 筑波(つくば)を過ぎて 幾夜か寝つる
常陸の国(現在の茨城県)の筑波を過ぎてから、これまで幾晩寝たのだろうか。
すると、神社の境内でかがり火をたいていた老人が、その後に続けてこう歌いました。
かがなべて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を 夜は九夜、昼は十日の日数をお重ねになっております。ヤマトタケルは、その老人を誉めて、吾妻の国造に任ぜられました。
http://www15.plala.or.jp/kojiki/yamatotakeru/yamatotakeru_07.html 【第7章 ミヤズヒメとの恋】より
ヤマトタケルは、甲斐の国を出て信濃の国へ行き、そこで信濃の坂の神たちを服従させました。それから尾張の国(現在の愛知県西部)に戻られて、以前結婚の約束をされたミヤズヒメの所へ行かれました。ミヤズヒメは、ヤマトタケルと無事に再会できたことにとても感激し、最高のごちそうでおもてなしをされました。その時、とても大きな杯でヤマトタケルの活躍を祝福なされました。ヤマトタケルは、ミヤズヒメのもてなしに今までの戦いの疲れもいやされる思いがいたしました。
ヤマトタケルは、ミヤズヒメの着物の裾(すそ)に血が着いているのに気がつき、それを見て次のように歌われました。
ひさかたの 天(あめ)の香具山(かぐやま) とかまに さ渡る鵠(くび) ひほぼそ たわや腕(がひな)を まかむとは あれはすれど さ寝むとは あれは思へど ながけせる おすひの裾に 月たちにけり
天の香具山の方向へ飛んで行く白鳥の白くか細い首のようなあなたの腕をとり、私はあなと一緒に寝たいと思うが、あなたの着物の裾には月※が見えています。 ※月と女性の月経(メンス)をひっかけた洒落。
そこで、ミヤズヒメは、これに応(こた)えて次のように歌われました。
高光る 日の御子(みこ) やすみしし わが大君(おおきみ) あらたまの 年がきふれば あらたまの 月はきへゆく うべな うべな 君待ちがたに わがけせる おすひの裾に 月たたなむよ
高く光り輝く 太陽の皇子様。わたしの大君様。新しい年が来て、新しい月がまた去って行く。そうです、そうですとも、こんなにも、あなたを待ちこがれていたから、わたしの着物の裾に月が出ているのも仕方ございません。
http://www15.plala.or.jp/kojiki/yamatotakeru/yamatotakeru_08.html 【第8章 伊吹山(いぶきやま)の白イノシシ】より
ヤマトタケルは、ミヤズヒメの家に草薙の剣を置いたまま、伊吹山(滋賀県と岐阜県の境にある山)の神を退治に出発されました。そこで、ヤマトタケルは、「こんな山の神ぐらい、素手(すで)で殺してやろう。」とおっしゃって、山に登ったときに、山の辺(へ)で牛のように大きな白いイノシシと出会いました。ヤマトタケルは、「この白いイノシシに化けたやつは、この山の神の使いだろう。まあ、今殺さなくても、帰る時に殺してやろう。」とおっしゃって、さらに山を登って行かれました。すると、突然、大雨が降って来て、ヤマトタケルの行く手をはばみました。実は、このイノシシは、神の使いではなくて、神そのものの正体であったのですが、ヤマトタケルがイノシシに向かって大きな声で威嚇(いかく)したために、邪魔をしようとしたのです。そこで、仕方なく山を降りられ、玉倉部(たまくらべ)の清水(滋賀県坂田郡米原町の醒が井)で休まれたところ、やや正気を取り戻されました。そこで、その清水のことを「居寤(いさめ)の清水」というのです。
そして、ヤマトタケルは、そこを出発して、当芸野(たぎの=岐阜県養老郡)まで来られて、こうおっしゃいました。「わたしの心は、いつも空を飛んで行くような思いであったのに、今は私の足も歩けなくなって、たぎたぎ(たどたど)しくなった。」
それで、この血を当芸(たぎ)というのです。
その地から少しいったところで、ヤマトタケルはとても疲れたとおっしゃって、杖をついてやっと歩けるような状態でありました。そこで、その坂のことを「杖衝坂(つえつきざか=三重県四日市市采女の西石薬師に至る坂)」というのです。
http://www15.plala.or.jp/kojiki/yamatotakeru/yamatotakeru_09.html 【第9章 望郷(ぼうきょう)の歌 ー 英雄の最期】より
それから、尾津岬(おつのさき=三重県桑名郡多度町)の一本松のところへ行かれ、食事をされていたところ、先ほど忘れてしまったと思っていた刀がまだあったことに気づいて、次のように歌われました。
尾張(おわり)に ただに向へる 尾津の崎なる 一つ松 あせを 一つ松 人にありせば 太刀(たち)はけましを きぬ着せましを 一つ松 あせを
ミヤズヒメのいる尾張の国に向いてる尾津岬の一本松よ。なあ、一本松よ。お前が人間だったら、この刀をつけてやれるのに。この着物を着せてやれるのに、なあ、一本松よ。
さらに、その地から三重村(みえのむら=三重県四日市市采女?)に着いたときに、こうおっしゃいました。「私の足は、三重にがくがくと曲がってしまった。たいへん疲れた。」
そこで、この地を三重というのです。 そこを出発して、能煩野(のぼの=三重県鈴鹿郡)に来られたときに、故郷(ふるさと)を懐かしんで、こう歌われました。
大和(ヤマト)は 国のまほろば たたなづく 青垣(あおがき) 山隠(やまごも)れる ヤマトしうるはし
大和は、日本の中でもっともすばらしいところだ。長く続く垣根のような青い山々に囲まれた大和は、本当に美しい。
命の またけむ人は たたみこも 平群(へぐり)の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿せ その子
命の無事な者は、幾重(いくえ)にも連なる平群山(=奈良県生駒郡平群村)の大きな樫の木の葉を かんざし(=当時は魔除けとして使われた。)として挿すがよい。
以上の歌は、「思国歌(くにしのびうた=望郷の歌)」と呼ばれています。また、次のようにも歌われました。
はしけやし 我家(わぎへ)の方よ 雲居立ちくも
ああ、懐かしい。私の家の方から雲が立ち上り、こちらへやってきているではないか。
これは、片歌です。この時、ヤマトタケルの病気が急に重くなりました。死の直前に、次のように歌われました。
嬢子(おとめ)の 床のべに わが置きし 剣(つるぎ)の太刀(たち) その太刀はや
私がミヤズヒメの寝床(ねどこ)に置いてきた、草薙の剣。ああ、あの太刀はどうしただろうか。
そう歌われると、すぐにお亡くなりになったのです。人々は、ヤマトタケルの死を天皇にお知らせするために、早馬(はやうま)の使いを遣わしました。
http://www15.plala.or.jp/kojiki/yamatotakeru/yamatotakeru_10.html 【第10章 エピローグ ー 白鳥の陵(みささぎ)】より
ヤマトタケルの死の報せを聞いて、大和にいらしたヤマトタケルのお妃(きさき)や子どもたちは、能煩野(のぼの=三重県鈴鹿郡)にやって来て、お墓をつくりました。お妃や子どもたちは、そのお墓のそばの田んぼを這い回って、嘆き悲しみながら、こう歌われました。
なづき田の 稲(いな)がらに 稲がらに 蔓ひもとろふ ところつづら
お墓のそばの 稲の上で ところつづら(蔓草)のように這い回って、悲しんでいます。
すると、どうでしょう。ヤマトタケルのお墓から一羽の大きな白鳥が、天高く翔上がって、浜の方へ飛んで行くではありませんか。お妃や子どもたちは、その白鳥を追って行かれました。小さな竹を刈った後の切り株の上を通ったので、足が傷つき痛くなりましたが、その痛さも忘れて、泣きながら、ひたすら白鳥を追って行かれました。その時に、次のように歌われました。 浅小竹原(あさじのはら) 腰(こし)なづむ 空は行かず 足よ行くな
小さい竹の生えた中を進むのは、竹が腰にまとわりついて進みにくい。私たちは、空は飛べず、足でゆくしかないのです。 また、白鳥を追って、海に入った時に、こう歌われた。
海が行けば 腰なづむ 大河原の 植え草 海がは いさよふ
海の中を進むのは、歩きにくい。まるで、大きな河に生えている水草のように、海では足を取られて、ゆらゆらします。 また、白鳥が磯伝いに飛び立たれた時に、こう歌われた。
浜つ千鳥(ちどり) 浜よは行かず 磯づたふ
浜千鳥のように、あなたは陸の上を飛ばないで 磯づたいに飛んで行かれるのですね。
以上の4つの歌は、ヤマトタケルのお葬式で歌われた歌です。だから今でも天皇のお葬式で歌われているのです。
さて、その白鳥ですが、能煩野を飛び立ってから、河内(かわち)の国の志幾(しき=大阪府柏原市付近)にとどまりました。そこで、その地にもお墓を造って、ヤマトタケルの霊(れい)を鎮(しず)められました。このお墓を「白鳥(しらとり)の御陵(ごりょう)」といいます。 しかし、ヤマトタケルの命(みこと)の化身(けしん)であります、この大白鳥は、その地からさらに天に翔上がり、どこかの地へと飛んで行かれてしまったのでした。
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