聖徳太子の死にまつわる謎

https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/9562/ 【古代日本のエリート・聖徳太子は誰に殺されたのか? 聖徳太子は誰に殺された?①】より

■飛鳥の聖者・聖徳太子の突然の死

 父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女で、両親とも皇族である。祖母はともに蘇我稲目(いなめ)の娘であり、つまり太子は天皇家と蘇我氏の血を受けていたことになる。しかも太子は当時の歴代天皇のすべてに血のつながりのあるエリート中のエリート。皇位にもっとも近い、光り輝く存在であった。 推古30年(623)、前ぶれのない聖者の死は、日本国中に大きな動揺を与えた。 老人はかわいい子を失ったように気を落とし、幼子はまるで母を失ったかのように泣き叫び、その声はいたるところに満ちあふれたという。

 この、人々が胸をかきむしるほどにその死をいたんだ主とは、もちろん聖徳太子のことである。 『上宮聖徳法王帝説』によれば、聖徳太子は574年、飛鳥橘宮で生まれたとされている。名は厩戸皇子、聖徳太子とは逝去したのちにつけられた通称である。

 そして太子は、叔母である推古女帝のもとで摂政として政治の実権を握り、数々の斬新な政策を打ち出して、古代日本の近代化に大きく貢献したのである。

 だが、その輝かしい前半生とは裏腹に、晩年の聖徳太子には暗い影がつきまとっていた。推古13年(605)、なぜか聖徳太子は、当時宮廷があった飛鳥の都から遠く離れた斑鳩(いかるが)の里に宮を造って移り住む。この斑鳩宮(現在の法隆寺の東隣)での隠棲は、聖徳太子の政治的挫折をあたかも暗示するかのようである。

 そして、聖徳太子とその母と妻(膳夫人)の三人が、時を同じくするかのように急死したことは、聖徳太子の失意と絶望の結果ととれなくもない。

 さらに聖徳太子の死後、皇極2年(643)、聖徳太子の遺族で皇位継承者の一人だった山背大兄王(やましろのおおえのみこ)の一族が、蘇我入鹿(いるか)の攻撃を受けて原因滅亡の道を選んだことも、聖徳太子の悲劇性をよりいっそう際立たせている。

 このように聖徳太子を語る場合、聖徳太子自身のもつ悲劇性とともに、太子やその周辺に数多くの謎が存在していることも忘れることはできない。

 なぜ聖徳太子は朝廷から孤立したのか。なぜ聖徳太子の子孫は一人も残らなかったのか。どれもこれもわからぬことばかりなのだ。

聖徳太子は本当に“聖者"だったのか?

 古代史において、聖徳太子ほど多くの謎がまつわる人物はいないといわれる。 これまでも多くの学者がこの謎に挑み、あらゆる推論が飛び交ってきた。しかし残念なことに、どれも聖徳太子の実像を明確にするまでにはいたっていない。それどころか、多くの説が登場すればするほど、逆に聖徳太子の謎は深まるばかりなのである。これほど知名度があり、しかも古代最大の政治家かつ宗教家であった人物の実像が把握できないのはなぜか。これまでの説には、どこか根本的で、重大な欠点が潜んでいるのではないか。

 たとえば、聖徳太子は聖者だったという点について考えてみよう。

これは、どの文献を読んでも「聖徳太子は聖者である」という証言がみられることから、誰もが信じて当然のことだろう。

 しかし、本当にそうだったのか? たしかに聖徳太子は仏教を日本に導入し、多くの功徳をほどこした「聖人」であった。しかしその一方で、聖徳太子は政界でも活躍した"政治家"でもあった。

 どのような社会においても、高邁な思想と現実は往々にして相入れず、葛藤を生むものである。いくら聖徳太子が聖者として理想をかかげようとも、ひとたび政治的な活動をすれば、必ず一人や二人の敵が生じるのは当たり前のことである。ということは、政治家であった聖徳太子にも、少なからず敵対勢力が存在していたにちがいない。

 ところが、正史である『日本書紀』をはじめとする文献のどこを探しても、聖徳太子を悪く記したところはまったくといっていいほど見当たらず、聖徳太子はつねに完璧な姿として描かれている。逆にいえば、これほど不自然きわまりないことはない。 では、なぜ聖徳太子を聖者として描きつづけたのだろう。 この大きな疑問を抱き、多くの文書を読みあさってみると、意外な事実に直面した。 というのもほかならぬ『日本書紀』が、遠まわしに、聖徳太子の悪口を書いていた ことに気付いたからである。

 読者の多くは、「いったい『日本書紀』のどこに聖徳太子の悪口が書いてあるのか?」と不審に思われるにちがいない。

 しかしまさに「灯台もと暗し」とはこのことであって、『日本書紀』が太子を聖者扱いしているのは、あくまで建前上のことであり、その裏側ではうっかり本音を吐露しているような記述がみられるのだ。

 しかも、かなり陰湿な手口で聖徳太子をひきずりおろしている。


https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/9707/ 【暴君・武烈天皇後を見据えた蘇我氏の力で鎮静化した朝廷 聖徳太子の死にまつわる謎⑫】より

■容疑者は誰か① 蘇我氏の場合

武烈天皇伝『大東史略 : 訓蒙絵入. 巻之3』平井正 著(誠之堂)より 国立国会図書館蔵

 この山片蟠桃による聖徳太子暗殺説が、今から約200年前も前から存在していたことは、まさに瞠目に値するものである。

 しかし、その犯人が蘇我馬子であると即座に決めつけるのは禁物だ。なにしろ山片の主張はかなり偏見に満ちたものだからだ。なぜかというと、江戸時代の国学隆盛の風潮のなか、神道至上主義ともいえる色メガネをかけて、仏教徒・聖徳太子と蘇我馬子両者に対する批判の延長線上に飛び出した感情的な推論だからである。

 たとえば、前出の『夢ノ代』のなかで、山片は次のように述べている。

「太子、釈迦ノ為ニ忠ナリトイヘドモ、我国家ノ為ニ末代ノ害ヲ残シ、不忠・不孝・不智・ 不仁・不義・不礼・不信ノ罪道ル処ナカルベシ(中略)太子ノ心、天位ヲ望ムニアリテ、仏法興隆及ビ天下ノ為ニハアラズ」

 結局、山片は聖徳太子を権力欲にとりつかれた亡国の徒とみなし、聖徳太子が仏教を広めたのは天下のためではなく、天位を望んだせいなのだと、個人攻撃している。

 したがって、聖徳太子暗殺説そのものを支持することはできても、その真相に関しては、より客観的に調べる必要があるのはいうまでもない。

 そこでまず、聖徳太子暗殺の容疑者を洗い出してみよう。 そもそも私が、太子暗殺説に興味を持ったきっかけは、太子に殺意を抱いていた可能性のある人物があまりにも大勢いたためである。

 そのなかでも、何といっても最初に疑わしいのは蘇我氏である。山片が蘇我馬子を犯人とみなしたのも、当時の状況からみてもっとも可能性が高かったからだろう。

 そこで、通説に則した形で蘇我氏と聖徳太子の関係について考えてみよう。

「蘇我氏の活躍した6世紀から7世紀にかけてのヤマト朝廷は、まさに動乱の時代であった。暴君・武烈天皇(在位499~506年)の登場で国内は乱れ、しかも武烈に男子がなかったため、武烈の死後、朝廷は大いに動揺していた。

 この混乱した状況を鎮静させるべく担ぎあげられたのが、応神天皇五世の孫という血縁的には多少難のある、北陸地方出身の継体天皇であった。


https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/9722/ 【"蘇我王朝"成立だった推古天皇、聖徳太子のライン 聖徳太子の死にまつわる謎⑬】より

■蘇我稲目が継体天皇の外戚となり豪族トップに

継体天皇由来『日本史蹟大系. 第2巻』熊田葦城著(平凡社)より 国立国会図書館蔵

 継体天皇の誕生は、ひとつの時代の終焉をもたらすとともに、新たな勢力を勃興させることになる。渡来人技術者を配下にしたがえた蘇我氏が、旧豪族を出し抜いて、いちやく政界の中枢に躍り出たのである。

当然のことながら、ここに新旧勢力の軋轢が生じた。そして蘇我氏は一族の女を天皇に嫁がせ、天皇家の外戚という立場を利用して次第に他の勢力を圧倒していく。

 こうして、馬子・蝦夷・入鹿という三代が、蘇我氏の全盛期を築きあげることになる。彼らは、天皇といえども自分たちのいうことを聞かなければ即座に排斥し、傀儡としての天皇を擁立、権勢をほしいままにしていた。

 このような情勢のなかで、蘇我氏はこれ以上の布陣はないといえるほどの強固な体制を敷いた。つまり、蘇我系の皇族・推古(父が欽明天皇、母は蘇我稲目(いなめ)の女・堅塩媛(きたしひめ))を天皇に、そして蘇我系の聖徳太子(父は推古天皇の兄・用明天皇、母は蘇我稲目の孫・穴(あな)穂部間人(ほべのはしひとの)皇女(ひめみこ)、妻は蘇我馬子の女・刀自古郎女(とじこのいらつめ))を皇太子に据え、さらに馬子自身が大臣として実務を動かすといった、まさに“蘇我王朝が誕生したのである。 馬子はこうして実質的に朝廷を支配したが、そんな馬子にとって聖徳太子という存在は、あくまで大王家を私物化するための道具にすぎなかった。だからこそ太子を庇護し、摂政という形で実質的な政治運営を任せたのである。

 ところが、思わぬところに落とし穴があった。

 蘇我氏の影響を強くうけた聖徳太子ではあったが、ひとたび摂政として大王家を代表する立場になってみると、馬子の要求と大王家の利益を守る役目の板ばさみとなり、次第に両者は不協和音をかもしだすようになっていった。

それはやがて明確な敵対関係となって、朝廷内に亀裂を生じさせることになる。

 たとえば推古16年(608)、隋との国交樹立という一大国家プロジェクトに、 馬子を筆頭とする蘇我一族がまったく姿を現さなかったことは、両者の確執が表面化したことを象徴しているといわれている。また、これとは対照的に、推古18年 (610)の新羅使来日に際し、蘇我馬子・蝦夷親子のみがこれに関与し、大王家はまるで無視するかのように姿を現さないことも同様である。


https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/9746/ 【物部氏の存在意義を喪失させる仏教の導入が動機か?!聖徳太子の死にまつわる謎⑮】より

■ 容疑者は誰か②物部氏の場合

物部氏の廃仏行為『少年日本歴史読本. 第七編』萩野由之編 博文館刊 国立国会図書館蔵

 さて、聖徳太子暗殺の容疑者として、蘇我氏の次に疑う必要があるのは物部氏である。

 物部氏は、日本各地に広大な土地を所有していた、ヤマト朝廷のなかでももっとも 古い、最大の豪族で、主に朝廷の軍事部門を担当していたといわれている。またその 一方で、神道の祭祀者としての一面も強かった。

物部守屋と蘇我馬子・聖徳太子とのあいだに起きた仏教導入をめぐる確執は、物部氏が神道の中心的存在だったことと無縁ではない。仏教の導入は、物部氏の存在意義を喪失させる危険性をはらんでいたのである。

両者は激しく対立し、物部守屋は同じく神道祭祀と深くかかわっていた中臣氏とともに、蘇我氏を中心とする崇仏派を攻撃した。そして、最終的には全面戦争にいたり、物部氏はついに滅んでしまったのである。

 要するに物部氏にとって、聖徳太子という存在は大王家の人物でありながら、邪教を日本に広めようとした、いわば"サタン"であった。したがって、太子に対する憎しみは、むしろ蘇我氏に対するものよりも強烈であったかもしれない。

 物部氏にすれば、神道を守り抜くことは、すなわち朝廷の伝統を守ることであり、 自分たちこそが天皇家のために働いているという意識が人一倍強かったはずである。

 それなのに、聖徳太子が蘇我氏にそそのかされ、仏教導入派に参画し、しかも聖徳 太子の神通力によって物部守屋は滅びたのである。物部一族の怨恨は、当然太子に集中したであろう。物部氏滅亡の最大の責任は聖徳太子にある物部氏の残党はそう思ったにちがいない。

 そこで注目されるのが、先述の山片蟠桃の証言である。

 蟠桃によると、河内郡下太子(大阪府八尾市)の大聖勝軍寺には、かつて聖徳太子に関する絵巻があって、そこには蘇我馬子に毒をもられ、吐血しながら死んでいく聖徳太子が描かれていたという。

 ちなみに、この大聖勝軍寺は、一説には物部守屋の墓があったとも、また物部守屋の魂を鎮めるために建立された寺だったとも伝えられている。このことから、聖徳太 子が滅ぼした物部守屋たちの怨念がこの寺に宿っていたと、人々は信じていたという。

 この物部氏の恨みの残された寺の絵巻に登場する聖徳太子は、なんとも無惨な形で殺されている。そしてこの事実は、ひとつの可能性を我々に示唆してくれる。

 聖徳太子を殺したのは馬子だったと大聖勝軍寺の絵巻は証言するが、もしかすると、聖徳太子の死は聖徳太子に怨念を抱きつづけた物部一族の残党による復讐であり、この事実を隠蔽するために、聖徳太子殺しの罪を馬子になすりつけたのではないか、ということだ。


https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/9776/ 【仏教導入によってアマテラスの神格がおとしめられた?!聖徳太子の死にまつわる謎⑯】より

■無視できぬ朝廷のあやしげな態度

物部氏の廃仏行為『少年日本歴史読本. 第七編』萩野由之編 博文館刊 国立国会図書館蔵

 聖徳太子暗殺の動機という点から考えると、蘇我氏と物部氏が真っ先に疑われる。しかしそうなると新たな矛盾が生じてくる。

 つまり、もしこの両者のどちらかが単独で犯行におよんだとすれば、朝廷は『日本書紀』のなかで当然これを糾弾してしかるべきである。ところが、『日本書紀』は聖徳太子の死を単なる病死としてとらえている節があり、聖徳太子暗殺説を言外に否定して しまっている。

このような朝廷の不自然な態度の裏には、次のような思惑が潜んでいたことを物 語っている。

 すなわち、朝廷にとっても聖徳太子の存在を消し去りたいとする思いは、他にひけをとらぬほど強かったのではないかということである。

その理由の第一は、第1章で述べたような外交政策をめぐるすれ違いである。六~八世紀にかけての動乱の日本史を動かしていたものは、まさに朝鮮半島をめぐるかけひきだった。多くの事件が外交問題によってひきおこされていた現実からみても、親百済外交を捨ててしまった聖徳太子を抹殺しなければならない動機が、朝廷には十分備わっていたはずである。

 それだけではない。これも前述したように、聖徳太子は日本の近代化をめざし、日本に律令制度を導入しようと画策した中心人物である。旧態依然とした当時の社会制度のなかで、甘い汁を吸ってのうのうと生きていた旧豪族や守旧派の皇族にとって、太子の存在はさぞやうとましかったにちがいない。

さらに聖徳太子は蘇我色の濃い皇族である。これも朝廷にとっておもしろいはずがあるまい。

『日本書紀』舒明即位前紀によれば、聖徳太子の子・山背大兄王の異母弟・泊瀬仲王の言葉として、次のような記述がある。

「われわれ親子(聖徳太子や山背大兄王を含めた上宮王家)は、みな蘇我から出ている。 これは誰もがよく知るところだ。したがってわれわれは、蘇我氏を高い山のように頼りにしている」

 この泊瀬仲王の供述が事実とすれば、聖徳太子や上宮王家は、みずからが蘇我氏出身の皇族であることをかなり意識していたことは明白である。したがって、この一族が朝廷を牛耳ることは、他の反蘇我系皇族にとって脅威であっただろう。

 しかも、聖徳太子は積極的に仏教導入を推し進めた人物である。アマテラスという神道の最高神を皇祖にもつ大王家にすれば、仏教導入によってアマテラスの神格がおとしめられるような事態は、なんとしてでも阻止しなければならなかったはずである。


https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/9787/ 【竹田皇子の夭折で起きた甥の厩戸皇子の太子擁立 聖徳太子の死にまつわる謎⑰】より

■容疑者は誰か? 推古天皇の場合の動機

 そこで、最後の容疑者として推古天皇が登場する。この日本で最初の女帝は、数多くの容疑者のなかで、唯一、個人的に聖徳太子と敵対していた可能性のある人物でその理由は少々複雑だ。

 蘇我馬子が朝廷を独占していく過程で、推古天皇は蘇我氏に大いに利用されていたといわれている。『日本書紀』の記述にしたがえば、穴穂部皇子、宅部皇子といった蘇我氏と対立する皇子抹殺も、まだ天皇に即位する前の推古が、皇后という立場で命令して行われた。また、用明二年(五八七)の崇峻天皇擁立も、推古の後押しを得て成功したといわれている。  

 ところが、崇峻五年(五九)の馬子による崇峻天皇暗殺後、馬子と推古の関係は微妙なものになっていく。つまり厩戸皇子(聖徳太子)の即位をもくろむ馬子と、息子・竹田皇子擁立を願う推古の思惑が交差した可能性がある。

 ちなみに、竹田皇子と厩戸皇子のどちらに皇位継承の優先権があったかというと、厩戸皇子の父・用明天皇の異母兄(敏達天皇)の子である竹田皇子のほうが有力だったと一般的には考えられている。そしてその証拠に、序列を正確に記す「日本書紀』 には、用明二年(五八七)四月の、物部守屋討伐に参加した諸皇子のなかで、竹田皇子の名は厩戸皇子よりも先に登場している。

 そこで、厩戸皇子擁立を無理とみた馬子は、苦肉の策として推古女帝擁立に動き、竹田皇子・厩戸皇子双方の立太子問題を、一時棚上げしたのではないかとする指摘がある。

 それでは、なぜ厩戸皇子がのちに推古天皇のもとで皇太子になれたかというと、竹田皇子が天逝したためだとされる。というのも、竹田皇子の死亡日時について『日本書紀』は沈黙を守っているが、それまでのいきさつを考えた場合、白皇子の死が厩戸皇子立太子の直前と考えざるを得ないからである。

推古天皇は、竹田皇子と同じ墓に葬られたいと遺語を残している。死後も同じ墓に入りたいと願った推古の母親としての心情である。愛しいわが子を皇太子に据えることができなかった無念の情が、いつまでも頭のなかから離れなかったのだろう。

 しかし、もし万が一、竹田皇子存命中に厩戸皇子が立太子したとすれば(可能性がまったくないわけではない)、推古天皇が聖徳太子を暗殺したくなる動機が十分にあったといえるのではないか。

 さらに、もし推古が太子を暗殺したのだとすれば、のちの朝廷はこの事態を大王家の汚点として、闇に葬り去ってしまったと推測できるのだ。


https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/9820/ 【聖徳太子を殺していちばん得をしたのは誰か 聖徳太子の死にまつわる謎⑱】より

■容疑者は誰か? 推古天皇の場合の動機

写真を拡大 『聖徳太子伝記』覚什[他] 写本  国立国会図書館蔵

 こうしてみてくると、聖徳太子という人間が、実際はいかに危険な立場に追いこまれていたかがおわかりいただけるだろう。6世紀末から7世紀前半にかけての朝廷内の権力闘争は、太子を中心に動いていたといっても過言ではない。

 それでは、これまであげた容疑者のなかに、もし犯人がいるとすれば、いったい誰が太子を殺したのだろうか?

 この問題を解決するために、まず殺人事件捜査の定石ともいえる「誰がいちばん得をしたのか」という側面から探っていくことにする。

『日本書紀』の記述にしたがえば、太子の死後、推古30年(6)朝廷を支配したのは蘇我氏であった。もちろん、蘇我氏は推古女帝の登場した崇峻5年(592) の時点でも、すでに朝廷における発言力は群を抜いていた。だが太子の死後、蘇我氏の横暴はますますエスカレートし、あまつさえ朝廷をないがしろにするまでにいたっていたという。 たとえば、天皇の位につくためには蘇我氏の後ろ楯が必要不可欠であった。

そのうえ、蘇我氏みずから新たな大王家を作ろうとした気配すらうかがえる。

 たとえば、先述した太子の娘・上宮大娘姫王の訴えにみられるように、蘇我氏は上宮王家の土地をねらっていた様子があり、また『日本書紀』舒明天皇8年(636)秋 7月の条には、敏達天皇の子・大派おおまたの王おおきみの豊浦大臣(蘇我蝦夷)に対する苦言として、次のような発言が載る。

「役人や大臣のなかには、最近朝参を怠る者がいるが、これからはしっかりと時間を決めて出仕するように」

これに対して蝦夷は、大派王の忠告を明らかに無視していることから、蘇我氏はここに及んで朝廷の意向にそぐわぬ行動を平気でとるようになっていたと推測される。

さらに皇極元年(642)、舒明天皇の皇后だった皇極天皇が即位し、蝦夷の子・ 入鹿が実権を握るころになると、蘇我氏の暴走を止める者はもう誰もいなかったという。

『日本書紀』皇極元年(642)是歳の条には、蘇我氏が葛城の地に一族の祖廟を建設し、「八やつらの舞」を披露したことが記されている。「八やつらの舞」とは中国の習俗で、これを行えるのは天子のみとされていた。したがって、ここにも蘇我氏の傲慢な姿勢が暗示されている。


https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/9904 【蘇我氏と蘇我系の皇族を陥れた中大兄皇子と中臣鎌足 聖徳太子の死にまつわる謎㉑】より

■藤原氏と密接な関係にある法隆寺への食封

「中門」の謎というのは何か。

 法隆寺の中門には真ん中に柱がある。 門というものは人が出入りする以上、わざわざ柱を真ん中にする必要性がどこにあったのか、大きな謎だというのだ。

 梅原氏は、独自の法隆寺七不思議を提示したうえで、これらの法隆寺にまつわる多くの謎を解明するために「法隆寺資材帳』に注目している。この文献に記されている、朝廷から法隆寺に与えられた食封(古代の俸禄制度)の時期を調べてみると、 藤原(中臣)氏のお家事情と奇妙な符合をみせているというのだ。

 どういうことか説明しよう。

 皇極2年(643)の山背大兄王殺害の直後に始まった法隆寺への食封は、天武8年(679)にいったん中止されるが、養老6年(722)、元正天皇のときに再開されている。この年は、藤原氏や藤原氏の力によって政権を維持していた天皇家にとって、試練の年だった。なぜなら、養老4年(720)8月に藤原氏の首領・不比等が死に、その翌年には藤原氏の息がかかった元明女帝が亡くなっているからだ。

 そして、この食封は朝廷の混乱がおさまった神亀4年(727)にふたたび中止され、 天平10年(738)4月に、聖武天皇によって再開されている。この年は、藤原一族の屋台骨を支えていた不比等の四人の子が伝染病であいついで急死した事件の次の年にあたる。  

 このことはすなわち、法隆寺と藤原氏が密接な関係にあったことを雄弁に物語っている。そしてそれこそが、上宮王家滅亡を画策した名参謀・中臣鎌足と太子との関係を暴露するものだ、と梅原氏は指摘している。

「鎌足の蘇我氏滅亡のやり方は、いつも蘇我氏の一族を分裂させ、反主流派、不平分子を抱きこんで事件を成功させるというやり方である。入鹿を倒し、倉山田石川麻呂を倒したやり方が、それである。

 こう考えると、山背の殺害も、そういう蘇我氏の内部分裂政策の一端ではないかという推論が、われわれに可能となる。じっさい、『日本書紀』ではこの二つの事件は悪人による善人の殺害、そして善人による悪人への復讐という形で結びついているが、 結果論から見ると、この事件は蘇我氏の内部分裂による崩壊の歴史という形で見られる。いったいこれは、はたして単なる結果論にすぎないのか、それともこういうことをすべて見通していた、すぐれた作戦の名人がそこに介在したのであろうか。(中略)

 この事件における入鹿の消極的態度を見るとき、私にはこの事件の主役は入鹿ではなく、一人の別の陰謀者であったように思われる。

 皇極3年の中臣鎌足の神祇伯抜擢は、こういう陰謀者にたいする論功行賞ではなかろうか」(『隠された十字架』より)

 すなわち、中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我氏と蘇我系の皇族を陥れるために、彼らに内部分裂を起こさせ、殺し合わせたということである。

 以上のような梅原氏の指摘から推察すると、次のような答えが出てくる。


https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/9949/ 【蘇我氏と蘇我系の皇族を陥れた中大兄皇子と中臣鎌足 聖徳太子の死にまつわる謎㉒】より

■藤原四兄弟の死が長屋王の怨念だと解釈した藤原家

 聖徳太子を殺して得をしたのは、一見すると蘇我氏であるかのようにみえる。しかし、最終的に勝者となったのは藤原氏ら反蘇我派であり、太子暗殺は、反蘇我派が最初から仕組んだワナだったという可能性が強いことになる。

 蘇我氏に権力を奪われた王家にとって、天皇親政の復活は悲願であった。しかし、これを実現するにはふたつの邪魔な存在がある。ひとつはもちろん蘇我氏、そしてもうひとつは、非蘇我系の皇族からみれば蘇我氏の傀儡にすぎない聖徳太子であった。この両者を同時に抹殺しないかぎり、天皇家の復活はのぞめそうにもない。

 そこで藤原氏を中心とする反蘇我派は蘇我氏をそそのかし、ときの天皇・推古のお墨つきを与え、聖徳太子を暗殺させるよう巧みに仕向けた。

蘇我氏にしても、次第に言うことを聞かなくなった理想主義者に手を焼いていたから、ふたつ返事でこの仕事を引き受けた。

 このような筋書きを反蘇我派が描いたとしても、何の不思議はない。そして後年、入鹿を裏切って暗殺し、朝廷の陰謀を抹殺するために聖徳太子殺し事件の真相を闇に葬ったということになる。

 一見して完璧な推理である。だが、すでに触れたように、この「中臣鎌足黒幕説」には、 重大な欠点が潜んでいる。なぜなら、中臣鎌足が殺したのは聖徳太子ではなく、山背大兄王であり、それにもかかわらず、八世紀の藤原氏は、山背大兄王ではなく、聖徳太子にばかり気を取られているからである。

聖徳太子の死から藤原氏による聖徳太子祭祀に至るまで、百年近い年月が流れていたことも、納得できない。それだけではない。

 天平九年(七三七)に藤原四兄弟が全滅したとき、藤原氏が恐れていたのは、聖徳太子ではなく、別の祟りだった疑いが強い。それが、藤原四兄弟最大の政敵・長屋王である。

 長屋王は神亀六年(七二九)、露言を受けて、罪なくして一族滅亡に追い込まれている。仕掛けたのは藤原氏である。そしてこののち、長屋王は黙って出ていたようなのだ。政敵を葬り去り、我が世の春を謳歌していた藤原四兄弟を天然痘の病魔があっという間に呑みこんでいった。誰しもが、長屋王の怨念におびえたことだろう。 不可解なのは、この時朝廷や藤原氏が、長屋王を祀った気配がないことだ。その代 わり、なぜか法隆寺の聖徳太子を丁重に祀っていたのである。

 じつをいうと、聖徳太子暗殺事件の本当のヒントは、この説明しようのない聖徳太子祭祀に隠れていたのだ。

けれども、聖徳太子暗殺犯捜しは、再び振り出しに戻ってしまったのである。 いったい誰が、聖徳太子を殺したというのだろう。


https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/9974/ 【聖徳太子と入鹿を巻き込んだ朝廷の陰謀 聖徳太子の死にまつわる謎㉓】より

■王家の直轄領である"屯倉"は王家の力を高めることに

 謎めく聖徳太子の死。 どうしても解けないのであれば、われわれは何か大きな勘違いをしていたからではないだろうか、推理の前提が、根本からまちがっている可能性を疑ってみたのである。   

 そこで『日本書紀』の示した七世紀半ばの政治状況を、簡潔に再現してみよう。

 豪族同士の勢力争いを収拾し、中央集権国家を上げようと目論んだのが、聖徳太子であった。ところが、既得権益にしがみつく蘇我氏らの圧迫によって、聖徳太子は斑鳩の地に隠棲してしまった。その後、蘇我氏は専横をくり広げ、また聖徳太子の子の山背大兄王の一族を滅亡に追い込んだのだった。そこで中大兄皇子や中臣鎌足は、蘇我入鹿を暗殺し(乙巳の変)、主導権を握ると、聖徳太子がめざした律令制度を導入すべく、大化改新を断行したのである

 このように、中央集権国家の建築を目論んだ聖徳太子。それを邪魔した蘇我氏、さらに蘇我氏を潰し、太子の遺業を継承した中大兄皇子や中臣鎌足、という図式を『日本書紀』が描いていたことが分かる。そして通説も、かつてはこの流れは、ほぼ事実としとして受け入れてきた。乙巳の変と大化改新は、中大兄皇子と中臣鎌足の高邁な理想を実現するために行され、制度の基礎が整ったというのである。もちろんこれは、『日本書紀』の主張をほぼなぞっている。

 ところが近年、このような見方に少しずつ変化が現れてきた。蘇我氏が改革事業の弊害になってきたという常識が疑われ始めているからである。

 たとえば、律令制度の前段階の屯倉は、蘇我氏が旗振り役になっていた。屯倉とは王家の直轄領で、王家の力を相対的に高めることによって、中央集権国家の基礎固めを目指した。つまり、蘇我氏は「強い王家」を支持していたのである。  

 また癖我氏は、王家の外になることによって権力基盤を強化したのだから。蘇我氏が国家を乗っ取ろうとしていたことも疑わしい、という指摘も提出されるようになってきた。   

 それだけではない。乙巳の変ののち即位したの孝徳天皇たが、この人物が「蘇我寄り」だった可能性がある。 孝徳天皇の姉の皇極天皇は、蘇我氏全盛期に確立された女帯であり、蘇我寄りであったとえられる。事実、乙巳の変の蘇我入鹿暗殺現場では狼狽し、そのあり様から入鹿と女帝は男女の仲にあったのではないかと疑われているほどだった。


https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/10322/ 【斉明朝の土木事業に反感を抱いた民衆 聖徳太子の死にまつわる謎㉗】より

■百済遠征のため駿河国で船舶を作らせた中大兄皇子

 たとえば『日本書紀』斉明二年(六五六) 是歳の条には、斉明朝 (皇極天皇が孝徳の死後、重祚して斉明天皇になった) が行った数々の土木工事に対し、人々は「正気の沙汰ではない 」と非難している。このとき作った石垣は、「出来上がったそばから崩れてしまうだろう」と噂されたというのだから、人々がこの朝廷の事業に対し、サボタージュで反抗したことが 推察されよう。

『日本書紀』はこの事業をあたかも斉明天皇の命令によって 行われたかのように記しているが、孝徳天皇を捨ててヤマトに都を遷したのが中大兄皇子であることを思えば、斉明朝の数々 の事業が中大兄皇子の強い指導力のもとで行われたことは、まずまちがいない。

 人々が中大兄皇子に対して反感を抱いていた事実は、これだけではない。

『日本書紀』斉明六年(六六0) 是歳の条には、百済遠征のた めに必要な船舶を駿河国に造らせているが、この船は造り終えて伊勢国に曳航し、岸につないでおいたとき、夜中に理由もなく血と鱸の向きが逆になっていたという。この一件によって、 人々は この遠征が失敗に終わることをすでに悟っていたという。

また百済遠征失敗後、帰国した中大兄皇子は、天智六年(六 六七)、都をヤマトから近江に遷したが、このことに対しても 人々は口々に不平をもらしている。

『日本書紀』の記述によれば、このとき中大兄皇子が決定し た遷都に対し、大多数の民衆がこれを願わず、口々に非難し、 しかもあちこちで昼夜を問わず人の手があがったという。すなわちこれは、中大兄皇子に対する一種の武力抵抗であり、あるいは暴動に近い騒ぎが起こったことは想像にかたくない。

 中大兄皇子の行動に対する民衆の徹底的な反抗。通説はこの 理由を、皇子の推し進めた急激な制度改革に対する民衆の不満 の表れとしている。しかし、これはまったくの誤解だ。なぜな ら孝徳天皇から権力を奪いとってからの中大兄皇子は、律令整備をめざしていないからである。




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