https://news.kodansha.co.jp/books/20161004_b01 【【マジか!】1687年、四国八十八ヶ所を勝手に決めた「最古のガイド」】より
仏教には不壊金剛(ふえこんごう)という考え方があり、それゆえ素数11が尊ばれたのだ、と論じたのは仏教哲学と数学を土台に独自の文学を展開した芥川賞作家・森敦である。
素数とは1とその数自身でしか割り切れない数のこと。なるほど十一面観音とか三十三間堂とか六十六部とか、ありがたいものには11の倍数が選択されることが多いわけだ。四国八十八ヶ所の88という数字も、そこから考え出されたものだろう。
四国という土地はおそらく、弘法大師空海が四国の出身だから選ばれたと思われる。空海は帰朝後の拠点を本州としたが、一方でお母さんはずいぶん長生きだったようだから、四国との縁が切れることはなかったのだろう。四国は『古事記』にも記載のあるたいへん由緒ある土地であるし、京・大阪から遠くない場所にあり、周回するのに適当な大きさでもある。大陸に渡る前の空海が驚異の記憶力を授かったという洞穴もあるし、もちろん誕生の地だってある(いずれも八十八ヶ所霊場のひとつとなっている)。
したがって、「四国八十八ヶ所」が巡礼の対象となることにはまったく疑問はなかったのだが、それがいつからなのか、誰が決めたのかは判然としなかった。88とは選んだ数に違いないが、それをしたのは誰なのだろう。空海でないことは、八十八ヶ所に選ばれなかったので往時の隆盛を失った聖地があることで知れる。八十八ヶ所はたしかに、誰かが恣意的な意志をもって作ったものなのだ。
長年の疑問が氷解した。この本が出版されたとき、四国八十八ヶ所は生まれたのだ。初版は1687年。江戸文化が花開いた元禄の世はすぐそこまできていた。
江戸時代には、ガイドブックのブームがあった。たとえば吉原のガイドブックも出版されていて、かなりの売れ行きを記録している。この遊女はどこの店にいる、というような情報は全部このガイドブックに記載されていたそうだ。プロ野球の選手名鑑みたいなものだろう。
ガイドブックはむろん、吉原だけではない。四国や富士山など、霊場について記したものもベストセラーになっていた。
江戸時代の庶民は、自由な旅行を許されてはいなかった。国にしばりつけられていて、行楽とかレジャーを理由に出かけることは許されなかった。例外が、巡礼など信仰を理由とするものである。富士登山をしたいと思ったら、富士山に登りますと言ってはならない。富士の神様を遙拝しますと言わねばならなかったのだ。
四国の寺院はたとえば高山の頂上にある神社とは異なり、比較的容易にお参りすることができる。四国は、女性や老人などでも参れる聖地として人気を集めたのだ。
本書はそんな状況下で出版され、大ベストセラーとなった。どこに泊まるといいとか、こう行けばいけばいいとか、現在でも旅行ガイドに求められることはたいがい記してある。
本書の大きな特徴は、江戸時代の本なのに、今でも実用に耐えることだろう。さらに、そんなことは制作者の誰も考えなかったろうが、当時の習俗なども垣間見ることができるのも大きなポイントだ。。
じつは、巡礼すべき寺院を88とし、それを〇番札所とかナンバリングして巡回する順番まで決定したのは本書なのである。それから幾星霜、無数の巡礼者が四国を訪れ、多くの者がそれとは知らずに本書の記述にしたがって巡礼した。それは現代まで、連綿と続いていいる。
だが、ここにはなんの由緒もないのである。この本が勝手に決めたのだ。
著者は眞念という人だが、僧侶ではない。すなわち、空海や真言宗について、きちんと勉強したことのない人なのだ。おそらくはフリーライターのたぐいかと思われるが、そう言うのもはばかられる、なぜなら、本書には洪卓というリライターがいるからだ。たぶん、眞念の文章があんまりひどいので、編集者がつけたものだろう。
逆に言うと、そういう人だからこそ、巡礼すべき寺院の数を88とし、その順番まで決定するという神をも(仏をも!)おそれぬ決定ができたのだろう。
当然のこと、仏教サイドからは痛烈な批判があった。八十八ヶ所なんかシロウトがテキトーに決めたもんだ。なんの根拠もない。一番札所とか二番札所とか、順番までつけるなんて言語道断だ。冗談はたいがいにしてもらいたい。もっともな批判である。
だが、いつの世も多くの大衆の支持を得たもの(売れたもの!)が正義なのである。『三国志演義』は正史の三国志とずいぶん違う。吉川英治の『宮本武蔵』は真実の武蔵像とは異なる。その通りだ、三国志は、武蔵は、あなたが語るものの方がたぶん、真実に近い。
だが、重要とされてきたのは、それが真実であるかどうかではない。人々の支持があるかどうかなのだ。仏教サイドによる正当な批判は、消えざるを得なかった、眞念のテキトーでイイカゲンな主張が、まるで空海の主張のように、多くの人々に認められてしまったからだ。
そういう、ベストセラーの本質──いや、人間の本質というべきだろうな──を知ることができるという点でも、本書が手に取りやすい場所にあるのはたいへんよいことである。
それともうひとつ。八十八ヶ所がどうできたかなんて、ほんとはどうだっていいんだ。大事なのは、あなたの経験だ。あなたが遍路から得たもの、それはかけがえのないあなただけのものである。そのための舞台として、四国は選ばれたのだ。本書はその最初のガイド本として、重宝され続けるだろう。
(歴史に関する記述は、郷土史家・大野正義氏による『これがほんまの四国遍路』に多くを教えられた)
https://www.bus-sagasu.com/blog/17167/ 【八十八ヶ所だけじゃない!四国が誇る空海ゆかりの霊場「四国別格二十霊場」】より
四国地方には四国八十八ヶ所という素晴らしい霊場があります。その八十八霊場の他にも弘法大師空海(お大師様)とご縁の深い霊場巡りがあることをご存じでしょうか?
「四国別格二十霊場」は、お大師様がの足跡を残した番外霊場であり、四国に数多く存在する番外札所のうち二十ヶ寺が集まって創設された霊場で、四国遍路の歴史とともに人々の篤い信仰を集めてきた霊場と言えます。今回はその魅力ある霊場巡りをご紹介します。
四国別格二十霊場のいざない
なぜわざわざ四国別格20霊場めぐりなのか?
お遍路さんが108霊場巡りをする目的は「四国88」と「四国別格20」をプラスすると人間の煩悩数「108」になり、それらの霊場を巡ることで煩悩を無くすことができ、この世に生かされていることの喜びと心の安らぎが得られると信じられているからです。
また別格20霊場巡りの特色は、霊場にわざわざお参りしないと手に入らない札所名入りの数珠玉を揃えることでこの霊場オリジナルの念珠ができることであり、お遍路さんの間では人気のアイテムとなっています。
なお2016年は閏年に当たり、霊場会では閏年参拝記念品を授与(有料)しており、この機会の霊場巡りをおススメしています。
それでは1番札所大山(たいさん)寺、8番札所十夜ヶ橋(とよがはし)永徳寺、15番札所箸蔵(はしくら)寺、17番札所神野(かんの)寺のご住職に四国別格20霊場やそれぞれのお寺の魅力について語っていただきましょう。
四国別格第1番札所大山寺 塩田龍応副住職のお話し
生まれたばかりの赤ん坊は純真無垢な存在です。それがいつしか複雑な人間関係でがんじがらめとなり、苦痛が生じます。苦痛から逃れる為には全て捨て去れば解決しますが、現実としては困難な事です。
本来四国遍路は衣食住の執着から離れ、しがらみを断ち人間本来の姿を取り戻す修行であると思われます。豊かな自然、出会った人たちの心の温かさ、お大師様の教えに触れる事で、物の見方や心の有り様が変われば、状況は変わらずとも苦痛を取り除く事ができるでしょう。
苦痛の種となる人間の煩悩は108と云われており、四国八十八ケ所霊場と別格二十霊場を合わせると札所の数は108です。四国別格二十霊場は「百八煩悩消滅お大師様の道」を主旨として開創されました。両霊場を修行の場ととらえ巡拝していただき、心に溜まった垢を取り除いて豊かな人生を送る糧としていただけますと幸いです。
なお毎年1月開催で400年以上の歴史を持つ「力餅」行事は、重さ140kg以上あるお餅を抱えて距離を競うもので、各地から力自慢が集まる迫力ある当寺の伝統行事です。ぜひお参りください。
四国別格第8番札所十夜ヶ橋永徳寺 三好圓曉住職のお話し
『十夜ヶ橋』は番外札所の一つで、現在別格霊場第八番の札所になっています。
お大師様は御修行の途中、小川にかかる土橋の下を一夜の宿とされました。橋の下で、これまでの修行や巡錫中に出会った人々に思いをめぐらせ「人々の悩みや苦しみはとても深く、御仏の教えも知らない。人々を救うために私に何ができるのだろうか。」と衆生済度の物思いに耽られ、「ゆきなやむ 浮世の人を 渡さずば 一夜も十夜の 橋と思ほゆ」と詠まれた詩が伝わっています。この詩から、この橋は「十夜ヶ橋(とよがはし)」と呼ばれるようになりました。
四国の霊場を巡るお遍路さんには『橋の上では杖を突かない』という決まり事があります。それは今もお大師様は人々を救うために十夜ヶ橋の下でご修行中であり、「橋の下で休まれているお大師様に失礼のない様に、起こさないように」との思いからできたことです。
生きることに悩み苦しんでいる現代も、お大師様のお心にふれ、おすがりして御利益をいただくことのできる霊場『十夜ヶ橋』に是非ご参拝下さい。
四国別格第15番札所箸蔵寺 佐藤盛仁住職のお話し
「高野(こうや)の昼寝」という言葉をご存じでしょうか?
高野山という聖域で昼寝をしていると、清らかな空気や遠くから聞こえる僧侶の読経、かすかに臭うお香の香りなどを感じ、昼寝をしているだけでも知らず知らずのうちに信心に目覚めるという意味です。
霊場巡拝も「高野の昼寝」と同様に初めはどのような目的でお参りされても良いとわたしは思っています。お寺に足を踏み入れることで本尊様とのご縁に出会うばかりでなく、建造物や彫刻群、お寺の方々や他のお参りの信者さんと出会うことで何かを感じて帰っていただければ、そこからが始まりなのだと思います。
また、お寺以外でも美しい四国の自然やお接待の心などに触れれば、知らず知らずのうちに心や身体に染みこんでいくものは必ずあるはずです。
なお当寺の境内には江戸時代から続く八十八ヶ所のお砂踏み所があり、衛門三郎がお大師様に出会われた辺りに「衛門三郎」、「逆囬逢所」と彫られた珍しいお大師像と出会えることができます。皆さまのお参りを心よりお待ちしております。
四国別格第17番札所神野寺 片山義裕住職のお話し
讃岐という地は古来より雨が少なく度重なる大旱魃の憂き目に遭っていた。その影響から讃岐のため池の数は約14,600を数える。中でも満濃池は広大で周囲約20キロ、水深約22メートルを誇る日本最大級のため池である。
満濃池は701年~704年頃に築造されたと伝わるが、再三の堤防決壊、工事の難航に苦しめられていた。その後、当時48歳の弘法大師が弘仁12年(821年)、嵯峨天皇の勅命により修築別当に任命。当時、3年経っても完成しなかった難工事が弘法大師の尽力により僅か3ヶ月程で完成したと伝わる。弘法大師は朝廷より工事の功を讃えられ、満濃池の安泰を願うという重要な使命の下、池の西方に神野(かんの)寺を建立するに至った。
しかし後の天正の兵乱で神野寺も焼き討ちの憂き目に遭い、以後長年復興されることなく時代は昭和まで下り、同7年に再興、同30年代の満濃池第三次嵩上げ工事で現在地に移築された。
境内には像髙3.3メートルを誇る48歳の大師像が日々満濃池を見守り続けている。
まとめ
いかがでしたか?
四国八十八ヶ所霊場めぐりとはまた違う雰囲気がある四国別格二十霊場は、参拝者数が八十八ヶ所霊場ほど多くはありません。しかしそれぞれのお寺は弘法大師空海が遺した確かな息吹を感じる事ができる名刹ばかりです。
この機会にぜひ四国別格二十霊場めぐりを体感してみてください。
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