対話

https://note.com/hikaruhimika/n/nc2356ecf6526 【自然との対話は自分との対話】より

早咲きの桜が伝えてくれること

寒さがまだしみる1月ですが、伊豆高原ではすでに早咲きの小室桜が花開きはじめています。

どんなに寒くても必ず春はやってきてくれる。「開花する時は必ず来るのだ」と勇気づけられます。アニマルコミュニケーションをやっていると、自然との対話もできるようになっていきます。陽射しの中で微笑んでいる花たちとつながると、花も人と同じで、開花することを心からよろこんでいることが伝わってきます。彼らも開花の時を待ちこがれてきた。

人知れず栄養を蓄えて、準備をして...そして、温かい陽射しと季節の呼びかけで、かたいつぼみがほころんでいく。花も、人も、すべて自分の命を表したい、開いていきたいという望みは同じ。

そして自分を開いた時の美しさは、まわりの命に深い感動と喜びを与えてくれます。

特に早咲きの花たちは、まだ冬の気配が強い中でも、必ず春が来ることを先駆けて教えてくれる希望に満ちた存在です。自然と話すことは深いレベルで自分自身と話すこと

ディーバや自然と話す方法を学ぶということは今までとは違った深いレベルで自分自身とそしてお互いと話し合う方法を学ぶための一つの手段である。

~ドロシー・マクレーン~

(以下略)

https://ameblo.jp/kmomoji1010/entry-12112056285.html 【生きる技としての俳句】より

フランス語であれ、英語であれ、日本語以外の言語で作られた短詩を、それがいくら俳句の音数律や句切れや季語などを尊重したものであっても、俳句として認めるかどうかは、意見の別れるところだろう。おそらく大半の日本人は、外国人が日本語以外の言語で俳句を真似て作った短詩が「俳句」と呼ばれることに抵抗を覚えるのではないだろうか。

外国語による俳句的短詩の実践を「俳句」と呼ぶことは、外国語による解説書を読んだだけで自己流で座禅を組むことを「禅」と呼ぶことと同じほど、その本質から遠ざかっている、という批判もあるだろう。

しかし、ここではそういう文学的経験の正当性に関する議論には立ち入らない。ただ、俳句あるいは俳諧の何がそれほどまでに外国人を惹きつけるのかだけを、昨日紹介した本に拠って、フランスの場合に限って、瞥見しておきたい。

まず、同書が出版物としてどのジャンルに属しているかが一つの手がかりになる。同書は、Le Livre de Poche の中の « spiritualités » というカテゴリーの中に括られている。つまり、文芸書としてよりも、広い意味での宗教的・精神的体験に関する書籍の一つとして出版されているのである。フランス語での俳句に関する出版物は、優に数十冊はあり、その大半は文芸書として出版されているが、その場合でも、俳句の精神を説明するのに禅をはじめとして宗教的要素に重きを置くのが一般的傾向である。

つまり、俳句の中に、自分の生活を新しい眼差しで見直すことを可能にしてくれるものが、さらには、生き方を変えてくれるものが見出だせるというところが強調されることが多い。あるいは、俳句の実作によって自分の生活が変わったことが実際の経験として語られ、その中でも文学的経験のいわば精神的効用が特に重視されている。

俳句の短さがその実作を誰の手にも届くところにあるものにしていることも俳句の魅力の大きな部分を占めていることは、日本語の場合と変わらない。もちろん、それは、俳句が簡単に作れるということを意味しないことは、少しでも自分で実践してみればわかることだ。それでも、俳句のサークルなどに属して、自作を合評してもらうことで、様々なことに気づかされ、句作に上達し、それが自分の普段の暮らし方まで変えていくことがある。そのような例が同書の序文にもいくつか紹介されている。

フランス語による haïku の実作者たちの多くは、最終的に日本語で俳句を作ることを目指しているわけではない。芭蕉や蕪村や子規などに学びつつ、あくまでフランス語の中で、俳句的精神あるいは俳諧的精神を実践しようとしている。その実践の内実がどのような言葉で分節化されているかを示している一例として、同書の序文の小見出しを順に列挙してみよう。

(略)

最後の節 « partager » で、筆者は、「分かち合う」ということは、単にある同好会の合評の席で互いの作品を批評し合うという次元にとどまるものではないと考えている。

互いの俳句に耳を傾けることで、言葉を聴くことそのことが訓練され、言葉を包む沈黙の豊かさにより注意深く敏感になる。言葉がそこから生まれて来る黙せる自然を共に前にして、より謙虚になる。自分の中の無駄なものを削ぎ落とそうとする。ものへの執着から離れようとする。そして、その分だけ、より生き生きと各瞬間を生きられるようになる。

そのような俳句的精神に基づいた社会を筆者は夢見ている。私もその夢を共有したいと思う。

12月15日にも一度予告しましたように、こちらの拙ブログへの投稿は本日をもって最終回といたします。これまでご贔屓をいただいた読者の皆様には、ここに厚く御礼申し上げます。記事の投稿は、もう一つの拙ブログで継続いたします。

皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。


https://www.sakigake.jp/special/2020/haiku/article_35.jsp 【「対話」して作品を磨く】より

 俳句は連句の発句(ほっく)が独立して成立した文芸です。連句とはどんなものか。その一節を引きます。

市中は物のにほひや夏の月 凡兆(ぼんちょう)

 あつしあつしと門々の声 芭蕉

 三百年ほど前の連句の一部です。芭蕉の弟子の凡兆の句は俳句として鑑賞されていますが、じつは連句の最初の一句(発句)でした。その発句に応じる形で二句目(脇)を芭蕉が詠んでいます。連句は、五七五の長句と七七の短句を連鎖状に並べていく形式で、江戸時代に流行しました。

 今回連句に触れたのは、対話風の発想が俳句のヒントになるからです。さきほどの連句を対話風に翻案しましょう。

 凡兆「夜も暑い。町中は物の匂いでむせ返るようです。涼しげなのは月だけですね」。芭蕉「そうそう、あちこちで暑い暑いと言っている」。凡兆の句と芭蕉の句とはこのような対話の関係にあります。

 さて今回は、対話の発想を用いながら投稿句の添削を試みます。

思い切って省略する

トラクター絵筆のごとく田起こしす

 伊藤てい琴さん(秋田市、71歳)の作。「田起こし」は春に田を耕すこと。「絵筆のごとく」がどんな様子か、句を読んだだけではわかりかねました。

 作者によれば「トラクターが動くにつれ黒い線が引かれ、さながら筆で絵を描いているように見えた」とのこと。なるほど、そういうことだったのです。作者の説明は三十八字。俳句は十七字。三十八字を十七字に縮めるのは難しい。「トラクター耕せる田の黒き筋絵筆にて絵を描きたるごとし」と短歌にすれば言いたいことが言えそうです。

 では俳句の場合どうすればよいか。ここで作者の説明を「対話」に書き換えてみましょう。A「田を耕すトラクターが進むにつれ黒い線が引かれてゆくんです」。B「なるほど絵を描いているようなものですね」。

 AさんBさんの対話を全て俳句に詠み込むのは無理です。そこでどうするか。Bさんの言葉は読者の想像に委ね、Aさんの言葉だけで一句にするのが一案です。

黒き筋引きトラクター田を起こす

 こうすると情景はわかりやすくなりますが、作者が言いたかった「筆で絵を描いているように」は消えてしまいます。そこで「筆で絵を描いているように」に結びつく表現を試みます。

トラクター絵を描くごとく田を起こす

 何だ、元の句から「筆」を消しただけじゃないか、と。その通りです。

 では何のために、回り道のようにAさんBさんの対話を考えたのでしょうか。それはAさんの言いたいことを整理するためです。Aさんにとって何が面白いのでしょうか。それは「トラクターが田に黒い筋をつけるのが、絵を描いているようだ」ということ。その要素は、トラクター、田を起こす、黒い線(筋)、絵を描くようだ、です。逆に「筆」という言葉は要りません。俳句は十七音しかありませんから、「筆」という二文字を削ればやりくりが楽になります。

 言いたいことが多くて句がまとまらないときは、人と対話をするつもりで自分が言いたいことを整理してはどうでしょうか。自分の言葉だけで全てを言い尽くそうとすると苦しくなります。言いたいことの一部は相手に言わせるつもりで、思い切って省略することも句作の大切なポイントです。

さあ、あなたも投稿してみよう!


chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.jstage.jst.go.jp/article/pacjpa/83/0/83_SS-022/_pdf/-char/ja 【俳句の「詠み」を通した自己との対話がもたらす心理的効果について】より

企画代表者,話題提供者,司会者: 皆川 直凡(鳴門教育大学)話題提供者,司会者: 佐藤 手織(八戸工業大学)話題提供者: 島井 哲志(関西福祉科学大学) 

俳句はその「詠み」において写生を基本とする。高浜虚子に師事した中村草田男は,俳句における写生とは,感じたことをできるだけ表に出さず,見たことや聞いたことの中へ,とりわけ対象の中心である季語の裏へ封じ込め,結晶させようとすることであると述べた。その過程で,作者のものの見方,感じ方,考え方が具体化されると考えられる。その意味で,俳句における写生は,自己と向き合い自己との対話を深める技法であるといえる本シンポジウムでは,俳句における写生の特徴を吟味したうえで俳句に込められた作者の心情を読み解く試み,被災や闘病といった苦境での句作が作者に及ぼす心理的効果を探る研究,およびポジティブ心理学の流れから俳句をみるマインドフル句会の実践とそこでの知見,について話題提供を行う。話題提供者相互の討論に加えてフロアの方々とも議論を深め,俳句の「詠み」を通した自己との対話がもたらす心理的効果について考究したい

file:///C:/Users/minam/Downloads/KK35013.pdf 【俳句に込められた作者の心情と「詠み」がもたらす心理的効果―― ポジティブ心理学の観点を加えて ――】


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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