北緯33度ライン"剣山"を通る

facebook滝沢 泰平さん投稿記事

熊本と言えば阿蘇。富士山は男性性と女性性の両方を兼ね備えたエネルギーを持っており、その片方が天界へ抜ける先が阿寒湖、もう片方は、九州の阿蘇山。

八ヶ岳(諏訪湖)とも中央構造線で繋がっている西の端。阿蘇は北緯32.5度。

これはイスラエルと同じ北緯であり、イスラエルでは、イエス・キリスト布教の聖地"ガリラヤ湖"とピンポイントに真横で繋がっている。

ガリラヤ湖の湖底には、推定1万年以上も前にも遡る謎の海底遺跡が発見されており、ガリラヤ湖周辺にはストーンヘンジにも引けをとらないストーンサークルも発見されている。

ガリラヤ湖よりも少しだけ北、そこは世界の大事件や大聖地、大災害なども発生する"北緯33度ライン"が存在しており、日本では"剣山"を通る。

剣山と言えば、聖櫃アーク伝説やら、イエス・キリスト来訪伝説もあり、実際に山の内部から古代ユダヤ人の遺骨が複数発見されている。

でも、剣山は、古代ユダヤ以前よりもはるか昔、ノアの大洪水(15,000年前の月からもたらされた大水害)が起こる前より、世界の聖地として聖者達が世界中から目指して集まってきたところ。

阿蘇、かの有名な"五色人"の伝説のある幣立神宮もまた15,000年の歴史があり、これらの聖地はまた古代から今に至るまですべて繋がっている。

節目節目に阿蘇や剣山は訪れ、またガリラヤ湖も毎年訪れている。

そして、それらの中心にまた絡んでくる諏訪湖、諏訪大社も定期的に訪れる。

2年ぶりの阿蘇。

まだまだ地球は大きく動いており、日本もまだまだこれから大きく動く。

10月イスラエルの旅は、もちろん世界の聖地ガリラヤ湖もゆっくり訪れますので、是非ご一緒に。


https://www.historyjp.com/article/448/ 【剣山の名称に潜む救いのメッセージ

古代のロマンに溢れる祖谷の伝承と空海の思い】より

神明神社 境内

神明神社 境内剣山に纏わるヘブライルーツの根拠は、ユダヤが古代から絡んでいると祖谷地方に言い伝えられてきた「ソロモンの秘宝」の伝承だけではありません。剣山の周辺には神明神社のように、古代イスラエルの様式と同様の石積みと塀のデザインを用いた神社も存在します。また、「いや」という地名や、「かずら」という橋の名前のように、日本語では意味がなくても、ヘブライ語では意味がある言葉が多数あります。

剣山周辺で古くから歌われてきた祖谷の民謡の中には、神宝が剣山まで運ばれてきたことをテーマにした歌もあります。伊勢の宝である三種の宝が祖谷まで運ばれてきたと、繰り返し歌われているのです。

「伊勢の御宝、積みや降ろした。 三つの宝は、庭にある。 祖谷の空から、御龍車が三つ降る。」

契約の箱

契約の箱伊勢という地名はヘブライ語で、神の救いを意味します。伊勢の宝とは三種の神器であり、古代史のルートを辿っていくと、それらはユダヤルーツである可能性が高いことがわかります。それらの神宝は、契約の箱と呼ばれる神輿の形をした聖なる箱と共に日本に運ばれてきたとするならば、剣山界隈に限らず、日本全国の神社で古代から神輿が担がれ、神を祀った理由も見えてきます。

石尾神社 金鶏の風穴

石尾神社 金鶏の風穴その神輿の原型になったと考えられる契約の箱の上には、羽を広げたケルビムと呼ばれる金の鳥が置かれていました。そのケルビムを彷彿とさせる金の鳥の伝承で知られる神社が、剣山の麓、穴吹にある石尾神社です。そこでは東西80メートル、南北120メートル、高さ30メートルにも及ぶ巨石が、御神体の磐座として祀られています。その巨石の割れ目の下に、金の鳥が秘められているという伝承が残されています。そして古代から剣山に登る人々は、北方に流れる吉野川の下流から、まず石尾神社を目指して歩き続け、そこで神を参拝してから、その北方にある杖立峠を越えて、剣山へ向かったそうです。

つまり、神を参拝するルートとして石尾神社と剣山の登山が繋がっていたことは、史実として大変興味深いことです。それは、剣山に運ばれてきたと歌われる伊勢の宝と、石尾神社の金の鳥とが何らかの要因で繋がっていることを象徴しているのではないでしょうか。そしてその背景には、金の鳥の基となる、イスラエルの神宝、契約の箱が存在したとも考えられるのです。

「剣山の意味をヘブライ語で紐解く

剣山 鶴石・亀石

剣山 鶴石・亀石もし、剣山の歴史にユダヤが絡んでいるとするならば、剣山に纏わる地名や言葉をヘブライ語で理解できるはずです。そこで、特に地名や古くから言い伝えられている言葉に注目してみました。

まず、剣山という名称ですが、古くは鶴亀山とも呼ばれていました。剣山の頂上周辺には鶴石と亀石があることが知られていますが、鶴亀山の名残かもしれません。ヘブライ語で「ツル」は、岩を意味する言葉であり、צור(tsur、ツル) と書きます。この「ツル」「ツー」という言葉は、「神」を指す言葉としても用いられています。古代より、イスラエル人にとって神は「岩なる神」であり、聖なる岩は、神の象徴でもあったからです。また、「カメ」の語源は「カメア」と考えられ、お守りを意味するקמע(kamea、カメア)がルート語になっていると考えられます。よって、ヘブライ語で、「鶴亀」とは、「神の守り」を意味します。

では、剣山の「つるぎ」はヘブライ語で読めるのでしょうか。קיר(tsur、ツル)は、前述したとおり岩、そして神を意味する言葉です。次にקיר(ki、キ) は 「壁」 を意味します。すると 「ツルキ」 は「壁の岩」の意となります。「岩の壁」と読んだ方がわかりやすいかもしれませんが、厳密には「壁の岩」です。すなわち、岩でできた壁というよりむしろ、壁となっている岩を言い表しています。これは「天の岩戸」だけでなく、イスラエルのエルサレム宮殿の真下にある「嘆きの壁」をも連想させる言葉ではないでしょうか。神宝が秘蔵される聖所に「壁の岩」が何故かしら絡んでいるのでしょうか。もし剣山が神宝に関わる重大な霊山であり、イスラエル神宝に絡んでいるとするならば、「壁の岩」という言葉にも重要な意味が込められているかもしれません。

後述するとおり、吉野川はヘブライ語で読むと「ヨシュナハー」となり、「救いの川」の意味となります。また、祖谷の名所であるかずら橋の「かずら」はヘブライ語で、切る、ハサミで切る、という意味の言葉です。よって平家の落人が祖谷に逃げてこられた際、ツルで編まれた橋を切ったことから、「かずら橋」と呼ばれるようになったと想定すれば、言葉のつじつまが合います。

祖谷山村に秘められたヘブライルーツ

祖谷のかずら橋

祖谷のかずら橋その剣山の麓には、日本三大秘境のひとつである祖谷山村(いややまそん)があります。古くから平家の落人伝説が語り告げられた地域であり、東部の奥祖谷にある集落には今でも江戸時代から昭和初期にかけて建てられた古民家が存在します。その祖谷(いや)とう漢字は、おそらく当て字であり、地名のルーツはヘブライ語で神を意味するヤーウェーの子音4文字に由来するものと考えられます。また、神の救いを意味する預言者イザヤの名前の「ザ」が脱落して、「イヤ」と呼ばれるようになった可能性もあります。いずれにしても、「イヤ」という言葉には、ヘブライ語で神の意味が込められているようです。

祖谷のかずら橋 橋上の景観

祖谷のかずら橋 橋上の景観祖谷には緑の渓谷に架けられた「かずら橋」があります。平安時代末期、平家が祖谷まで落ち延び、そこから剣山へ向かう際に、追手が来たらいつでも切り落とせるようにしたのがこの「かずら橋」であると伝えられています。この「かずら」という言葉の語源は、一般的に、つる性植物の”シラクチカズラ“を編んで作られていることから、そう呼ばれていると考えられています。しかし、それだけでは「かずら」の語源を解明するには至りません。本来の意味は、「切る」、「切り取る」を意味するヘブライ語のגזר(gazrah、ガズラ)と思われます。つる性植物を編んで作った綱を用いて架けられた橋は、いつしか切られる定めとなっていたため、その植物自体をヘブライ語ルーツの「ガズラ」と呼ぶようになり、そのつるを編んでできあがった橋は「かずら橋」と呼ばれるようになったのでしょう。ここにもユダヤのルーツが秘められていることがわかります。

名水百選 剣山御神水

名水百選 剣山御神水しかし、何故に平家は祖谷まで逃げてこなければならなかったのでしょうか? 平家物語によると、壇ノ浦の戦いで安徳天皇は三種の神器とともに入水したとされています。しかし、安徳天皇は密かに四国に落ち延び、そこで病に倒れる直前、平家の再興を祈願し、剣を山中に奉納したことから「剣山」と呼ばれるようになったとも語り継がれています。安徳天皇とユダヤの秘宝の関連性は定かではありませんが、いずれにしても、古来より剣らしき秘宝が剣山に隠されていた可能性を、平家物語にも関連して伺うことができます。

三種の神器に関わる剣に関しては、十種神宝の中の八握剣や草薙剣などが史書に記載されています。また、諏訪大社のようにその前宮本殿のご神体である裏山の守屋山に絡んで、神宝の剣を保管していたというような伝承が残されているような神社もあります。神宝の剣とは、神社の歴史において大変重要な存在であり、その所有だけでなく、最終的な保管場所が大切に考えられていたことがわかります。そしてその神宝の剣に関して、四国の剣山はその山の名称からもわかるとおり、何らかの形で関与していると考えられます。

「神の救いの川」を意味する吉野川

湧水が溢れる剣山頂上周辺

湧水が溢れる剣山頂上周辺その剣山から流れ出る水は祖谷川となり、四国山地を刻み、日本有数の大河である吉野川に注ぎ込まれています。吉野川の発音をヘブライ語で解釈すると、「神の救いの川」の意味に捉えることができます。ヘブライ語で「神の救い」を意味するישעyesha、イェシャ)と、「川」を意味するנהר(nahar、ナハー)という言葉が合わさると「イェシャナハー」「ヨシャナハ」となります。それが多少訛ると、「よしのがわ」という発音になります。吉野川とは、救いの川を意味する名称だったのでしょうか。

その吉野川を天皇一行が渡る際、橋の代わりに栗の木を架けて川を渡られたことから、その場所は、栗枝渡(クリシト)と呼ばれるようになったと言い伝えられてきました。また、剣山の麓にある東祖谷村には、鳥居の無い栗枝渡(クリシト)神社があります。社伝によると、剣山を参拝する者は遠い昔から、栗枝渡神社も参拝することになっていたと明記されています。

栗枝渡「クリシト」の名称は、「キリスト」の発音に酷似していることに注目です。救いの川となる吉野川を「栗枝渡」の橋を介して渡ることは、「クリシト」、すなわち「キリスト」が救いの橋渡しになっていることの象徴のようにも思えます。そして「キリスト」を祀る栗枝渡(クリシト)神社が剣山の参拝と繋がっているということは、剣山が霊峰として、何かしら人々の救いに繋がっていることを意味しているようです。

剣山から思いがけず古代日本のロマンが蘇ってきました。四国に聳え立つ剣山の「壁の岩」の中に神の秘宝が奉納され、そこから流れ出る恵みの水が「神の救いの川」として祖谷川から吉野川へと注がれ、その川を「キリスト」と共に渡り、救いにあずかるという不変のメッセージがここに集約されていたのです。その恵みのメッセージは、さまざまな伝承の中に見え隠れするヘブライ語のカーテン裏に隠されながら、後世に伝えられるべく、今日まで守られてきたのです。

剣山を愛してやまない空海の思い

剣山頂上

剣山頂上剣山の頂上を遠くに望むことができる讃岐で育った空海は、これら伝承の多くを耳にしていたと想定されます。空海は大衆の救いに深い関心を抱いていたことから、もしかすると、前述したヘブライ語にルーツがあると想定される名称の幾つかは、空海が名付け親かもしれません。空海の母方は祭祀を司るユダヤ系の渡来者がルーツと考えらえる阿刀氏の出自であり、父方も高度な教育を受けていた渡来系の流れを継いだと想定される播磨国造の一族、佐伯田公であることから、空海が幼い頃からヘブライ語に触れていたと考えても決して不思議ではないでしょう。

そして剣山を愛するあまり、時に空海は讃岐から石尾神社への山道を登り、杖立峠を越えて、剣山の山頂まで足を運んだことでしょう。空海にとって、剣山は最も大切な霊峰であることは、自らのフィナーレとなる最後の修行の場、高野山が、伊勢神宮と剣山を結ぶ一直線上に見出されたことからも理解できます。


https://www.historyjp.com/article/32188/6/ 【日本八霊山レイラインから紐解く古代霊山の真相】より

「日本百名山」のひとつに選定されている剣山は、石鎚山とほぼ同等の標高1955mを誇る西日本第二峰、四国徳島県の山です。剣山の頂上周りには、祖谷川を源流とする御神水が湧き出ており、日本の名水百選に名を連ねています。剣山の頂上から尾根伝いを眺めると、ミヤマクマザサと呼ばれる緑の葉に包まれた「馬の背」とも呼ばれる広大な緑の草原が広がっています。

剣山の頂上は注連縄で祀られており、頂上近くの宝蔵石に隣接して剣山本宮宝蔵石神社、そして宝蔵石を拝する形で剣山本宮が建てられています。また、山の中腹には大剣神社があり、背後に聳え立つ50mほどの「御塔石(おとうせき)」と呼ばれる巨石を御神体としています。そして麓の見ノ越には劔神社が建立され、剣山へ登る山道の入り口となっています。

剣山とソロモンの秘宝

剣山 宝蔵石

剣山 宝蔵石剣山は、同じ四国の石鎚山と同様に、古代から修験道の山として、多くの行者が登山に訪れてきました。その背景には、剣山に纏わる伝説が存在し、剣山周辺の集落には古代からミステリーが言い伝えられています。例えば町役場の案内書には、ソロモンの秘宝が隠されている可能性について記載されています。ソロモンの秘宝とは、聖櫃、すなわちアークとも呼ばれる契約の箱と、そこに秘蔵された中身のことです。旧約聖書によると、聖櫃の中にはモーセが携えていた十戒の石板が秘蔵され、また、聖櫃と共にアロンの杖とマナの壺も聖櫃のそばに置かれていました。それらが日本に持ち運ばれてきたのではないか、という噂が長年にわたり絶えないのです。

巨石と金の鶏

古代、剣山を目指して長く険しい山道を登った人たちは、まず、穴吹にある巨石を祀る石尾神社に参拝し、その近くにある杖立峠を越えて、剣山に向かったと伝えられています。その石尾神社は巨石をご神体としていることから、社殿らしい建物は何もありません。そして何十メートルにも連なる巨石の割目の奥深くには、昔から「金の鶏」が隠されていたという伝承が残されてきました。イスラエルの聖櫃の上には、ケルビムと呼ばれる羽を広げた形状の金の鳥が、向かい合う形で置かれていたことが知られています。剣山参りの前座となった石尾神社に纏わる金の鶏の伝承とは、果たしてイスラエルの聖櫃と何かしら関係があるのでしょうか。

剣山周辺のユダヤルーツ

いずれにしても、剣山周辺の地域は古代から、何かしらイスラエルとの関係があるようです。剣山の麓近くに建立された神明神社は、積み石風の祭祀遺跡として知られています。南向きに位置し、3つの入り口から入ると、5か所に祈り場が存在します。これら石の並べ方、配置の在り方は古代のユダヤ礼拝所に酷似していることから、神明神社そのものがユダヤルーツではないかと言われています。果たして剣山の歴史の背景には、古代イスラエルの民が存在したのでしょうか。

剣山と淡路島

南淡路から眺める剣山

南淡路から眺める剣山古代の霊山として、これまで剣山の名前が挙げられる事例は少なく、古代イスラエルとの関係も取りざたされるようなことがありませんでした。ところがこの剣山こそ、日本列島が誇る霊山として、古代より極めて重大な位置づけにあることがわかってきました。注目すべき点は、剣山が淡路島から望むことができる最高峰ということです。淡路島は大きな島であり、島の随所から周囲の山々を見渡すことができます。北方には六甲山脈を眺め、南東方向には吉野や熊野の山々を望めます。また南西方向には四国徳島の山々が並んでいます。それらの山々の中で、頭ひとつ出ている最高峰が剣山です。天気の良い日に淡路島から遠くに四国の山々を望むと、一つの山の頂上だけが少しだけ飛び出しているのが見えます。

旧約聖書のイザヤ書によると、古代イスラエルの民は、東の海の島々の中でも、ひときわ聳え立つ最高峰を探し求めていたと考えられます。それ故、国生みの時代にて最初に淡路島に到達した時点で、剣山の存在が見出されたことでしょう。よって剣山の歴史は、大変古いものと考えられます。

剣山のレイライン

その証となるのが、剣山と他の聖地を結ぶ多くのレイラインの存在です。剣山のレイラインには、日本の古代聖地がずらりと名を連ねます。よって、剣山が古代の霊山であり、最重要視されていた指標のひとつであったことの証と考えられます。

まず、石鎚山と同様に、高千穂、熊野本宮大斎原と剣山とのつながりを見てみましょう。すると、高千穂と剣山を結ぶ延長線には古代聖地の基点として比類なき位置づけを誇る三輪山があり、高千穂峡 真名井の滝

高千穂峡 真名井の滝熊野本宮大斎原と剣山を結ぶレイラインの西方には宗像大社が存在します。いずれも記紀において、国生みの時代から神代にかけて登場する聖地です。奈良盆地を囲む一角の小高い山が三輪山の聖地となった背景には、おそらく剣山と高千穂を結ぶ線上にあることが重要視されたのではないかと推測されます。国生みの時代、神代の事象は南西諸島から対馬、宗像を経由して記録されていると考えられることから、宗像にて神が祀られた後、石鎚山と剣山を指標として、それらのレイラインが通る熊野本宮大斎原の聖地が定められたと想定できます。

石鎚山と同じく、剣山も淤能碁呂島に比定される可能性がある小松島の日峰山と結び付き、そのレイライン上には富士山と香取神宮が並んでいます。日峰山は、剣山と富士山を結ぶ線上にあることから重要視されるようになり、後には、その一直線上に香取神宮が建立されたと考えられます。

また、スサノオと絡み、出雲大社のご神体ともいわれる八雲山と金刀比羅宮が、剣山と一直線を構成していることにも注目です。金刀比羅宮は剣山と八雲山の地の力を受け継ぐべく、綿密に計算された場所に建立され、しかもその場所は前述したとおり石鎚山と高千穂のレイラインとともに紐づけられていたのです。聖地をまたがるレイラインが交差する地点に建てられた金刀比羅宮だからこそ、多くの人に愛されてきたのです。

剣山の山頂にある注連縄

剣山の山頂にある注連縄その後、崇神天皇の時代では元伊勢の御巡幸が始まり、再び剣山はひそかに注目される存在となり、元伊勢御巡幸のすべての巡幸地とレイライン上で結び付くことになります。それは剣山がソロモンの神宝と纏わる重要な秘蔵場所であったことを後世に伝えるためのメッセージであったかもしれません。いずれにしても、剣山は国生みの時代から重要視され、特に神宝の秘蔵が重要視された前1世紀以降、新たに注目を浴びる存在となり、そこが邪馬台国の舞台へと発展していくのです。

その発展の起因となる邪馬台国の立地条件とその重要性を、元伊勢に関するレイラインからも検証することができます。元伊勢の御巡幸地は、剣山を基点とするレイライン上にすべて存在します。それは御巡幸地の場所が剣山に紐づけられて厳選されたことを意味するだけでなく、剣山が元伊勢御巡幸の最終目的地であることを示唆していたようです。剣山こそ、古代の霊山の中でも、きわめて重要な位置づけを占めていたことがわかります。


https://mysteryspot.org/report/tokushima/tokushima01.htm 【徳島・剣山ミステリー探索】より

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私たちは、明石大橋を渡り、淡路島を縦断して順調に四国に渡り、そして、神戸淡路鳴門自動車道を鳴門インターで降りて徳島市に入った。

徳島県には2つのミステリーがある。1つは、邪馬台国があったとする説、もう1つは、ユダヤ人の失われた十支族がたどり着いたとする説である。

まずは、阿波=邪馬台国説に関係する八倉比売(やくらひめ)神社から訊ねることにした。八倉比売神神社は、国府町矢野字宮谷531に在る。

192号線を通って徳島南環状道路を3km程南下し、車が1台しか通れない道を500m進むと目の前に石造りの立派な鳥居が見えてくる国府町西矢野にある八倉比売神社の鳥居である。石が敷き詰められた登りの参道が続いている。歴史を積み重ねた道が奥へと続いている、今回の徳島県のミステリー探索の幕開けに相応しい景色である。

【八倉比売神社の鳥居】

2番目の鳥居の直ぐ左手に箭執(やどり)神社、もう少し登ると松熊(まつくま)神社がある、由緒記によると前者を矢の御倉、後者を弓の御倉として日霊(ひるめ)大神が高天原より天下るまで守ったとある。

前者の祭神は、櫛岩窓(くしいわまど)命と豊岩窓(とよいわまど)命、御門の神で天石門別(あめのいわどわけ)神といもいうとあり、後者の祭神は、手力男(たぢからお)命天宇受女(あめのうづめ)命で、いずれも天照大神が邇邇芸(ににぎ)の命を天孫降臨させるとき付き従えさせた神々である。

【箭執神社】

【松熊神社】

鳥居の左の車道を少し進むと整備された史跡公園があり、そこに車を止めた。ここは、古墳や住居跡があり、古くから人々が多く住んでいた所のようである。

細い道を100mほど歩くと急な階段があり、そこを登るとやっと八倉比売神社に着く。

神社略記によれば、式内正一位天石門別八倉比賣神宮とあり、最高の神格が与えられているが、現在の社殿は、小ぶりであり、とても式内正一位とは思えない。

神社略記によると、杉尾山を御神体とする神社で、現在の社殿は、江戸時代に造営された拝殿とある。つまり、奈良の三輪山のように山を崇める最も古い神社様式であり、現在の社殿の様子は、逆に江戸時代まで、その様式が守られてきた証と思える。

【天石門別八倉比賣神宮】

我々は、参拝をして、奥の院に向かった。

神社の裏手の山道を100m程登ると小さな広場に出た。その中心に青石の石積みで作られた祭壇がある。奇妙なことに、その祭壇は高さは0.5m程で、一辺2.5m程の5角形をしている。祭壇の上部には、小さな祠があり、その中に鶴亀(つるぎ)岩と呼ばれる石が祀られてる。この鶴亀(つるぎ)岩は、男根を模した石のようである

【八倉比賣神社の裏山にある5角形上の祭壇】

【5角形上の祭壇上の祠】

八倉比賣神宮の御祭神は、大日霊女命(おおひるめのみこと)別名天照大神である。郡昇氏や堀川豊平氏が邪馬台国=阿波説によると、卑弥呼は日の巫女であり、大日霊女や天照と同義であるという。さらに、この祭壇の下が古墳であり、これこそが、卑弥呼の墓であると主張している。

この古墳は、魏志倭人伝に「女王卑弥呼が死んだ時、倭人は大きな塚を作った。それは直径百余歩ほどもあり、その際殉葬された者は奴稗百余人であった。」と書かれている塚の大きさと一致するという。また、神社略記によれば、八倉比賣神宮の古文書等に、天照大神の葬儀の様子が記載されていることや、鎮座が338年と推定されることなどが書かれており、八倉比賣神宮が卑弥呼(=天照大神)の墓であるという説に符合する。

再びこの神社の前に戻ると、誰も居なかった境内に近所の人たちが数人集まり、階段の落ち葉を掃除していた。境内はきれいに掃除されており、この神社が今も人々に崇められていることがうかがわれる。

その一人に、天乃真名井(あまのまない)の場所を尋ねると、今は大泉神社となっており、神社の右脇の道を下ると看板がある。と丁寧に教えていただいた。

神社の右脇の道を下る。先ほど見た5角形の祭壇のあった場所は、小さな小山になっており、明らかに、八倉比売神社は、この古墳を拝する形になっているのがわかる。

さらに300m歩いたところに、5角形の井戸がある

この井戸や祭壇がなぜ5角形なのであろうか? 5角形は造りにくい形であり、囲うだけなら、普通は4角形か6角形になるはずである。この5角形に特別な意味があり、それを伝えていることは間違いない。

5角形の5という数字は、神社略記で天照大神の葬儀を行った5神(伊魔離神、大地主神、木股神、松熊神、広浜神)、あるいは、天孫降臨の時に5つの供の緒を分かち合った5神(天の児屋の命、布刀玉の命、天の宇受売の命、伊斯許理度売の命、玉祖の命)をあらわし、天照大神が亡くなった当時は、5つの部族によって国が成立していたということではないだろうか。それとも5角形という形に呪術的な意味があったのだろうか。

次に、徳島市八万町中筋の宅宮(えのみや)神社に向かった。その神社は、八倉比売神社から8km程南東に行ったところに、ちょうど鮎食川の対岸にある。

ここは、壱与(いよ)の神社と言われているところである。

旧称は、意冨門麻比売(おほとまひめ)神社、祭神は、大苫邊(おほとまべ)尊、大年(おほとし)大神、稚武彦(わかたけひこ)命である。

大苫邊尊は、神世七代のオホトノベのことであろう。神世七代の神を祭っているのは珍しい。この伊邪那岐(いざなぎ)神・伊邪那美(いざなみ)神よりも古い神を祭っているのは、全国でここだけということである。ちなみにオホトノジ・オホトノベは、神世七代の5代目にあたる。ここでも5という数字が出てくる。

【宅宮神社の鳥居】

なんの変哲もない神社ではあるが、ここに1700年以上の歴史を持つ神踊りが伝わっており、その時に歌われる神歌の一節に「伊豆毛の国の伯母御の宗女/御年十三ならせます/こくちは壱字とおたしなむ」とあるそうである。

魏志倭人伝に、卑弥呼の死んだ後「男王を立てたが、国中が服従せず、その上お互いに殺し合った。この時千余人が殺されたという。そこで再び卑弥呼の宗女の壱与という十三歳の女の子を立てて王としたところ、国中はやっと治まった。」に符合する歌と言われている。

さらに、この神社には、神代文字で書かれた祓詞の版木があるという、神代文字とは漢字以前に日本にあった独自文字のことであるが、もちろん歴史学者は認めていない。それが堂々と伝わっている。

【宅宮神社】

私たちは、徳島市内に戻り、徳島市西大工町にある有名な「いのたに」で徳島ラーメンを食べた。醤油とんこつに少し縮れた細麺で、チャーシューの代わりに甘辛く味付けした豚バラ肉がのっていた。このバラ肉が非常に塩辛く、強烈であった。さらに私たちは頼まなかったが、生卵をトッピングするのが普通のようである。

おなかが満たされたところで、次の目的地である立岩神社に向かう。438号を通って20km程西へ車を走らせると神山町に入る。そこを左折して、車一台がやっと通れる道に入る。1kmほど進むと道が複雑に分岐し、迷ってしまった。ナビはもちろん、6万分の1の地図も役に立たない。

近くの民家で道を聞くと、おじいさんが親切に教えてくれた。道は合っているようだが、話しぶりからまだまだ先のようである。しばらく行くと、急に登り道になって山を登りだした。先を行く車があったので、その後をついていく、地元の人であろうか、相当な速度で登っていく、しばらく行くと、その車は道を外れて集落の中に入っていった。このような高い山の中に集落があるのには驚きである。完全な林道をしばらく走ると、やっと立岩神社の看板を見つけた。

名西郡神山町鬼籠野字元山746にある天の岩戸立岩(あまのいわとたていわ)神社である。

【立岩神社の鳥居】

看板の右手に木で組まれた素朴な鳥居があり、山道が奥に続いている。

200mほど歩くと、小さな拝殿がある。上を見ると、巨大な岩が真直ぐに空に向かってそびえている。圧倒される光景である。岩は縦方向に裂けていて、これが天の岩戸にぴったりである。拝殿も巨石前に申し訳なさそうに作られた本殿も貧弱なものであり、ご神体である巨石の引き立て役でしかない。

【立岩神社】

「阿波古事記研究会」の案内板によると「阿波の風土記」に、「空よりふり下りたる山の大きなるは阿波国にふり下りたるを天の元山といい その山のくだけて、大和国にふりつきたるを天香具山というなんともうす」とあるそうである。

この神山の元山と奈良の天香久山(あまのかぐやま)が、空から降ってきた山であるという伝承であるが、阿波古事記研究会は、この元山を天香久山であるとしている。

古事記において、天香久山は、「天の宇受売の命、天の香久山の天の日影を手次に繋けて、天の真折をかづらにして、天の香久山の小竹葉を手草に結いて、天の岩屋戸にうけ伏せて・・・」とあるように天の岩戸に欠かせない場所である。さらに天の岩戸を開けた手力男(たぢからお)は、古事記に佐那那県に坐す。とあり、阿波古事記研究会によると、これは、この元山から東に山一つ越えた佐那河内の天岩戸別神社であるとしている。

天の岩戸に縁の深い場所が周りにあり、ここが天の岩戸神話の発祥の地であるというのが、阿波古事記研究会の主張である。

【立岩神社の御神体】

次に、本日のメインである悲願寺に向かう。

438号に戻って6km程西へ車を走らせる。この辺は神山町といういわくありげな町名がついている。いまから登る山が神の山なのであろうか、さらにこの辺一体の地名は神領という。神山町役場を過ぎるとすぐに「雨乞いの滝」という看板の方へ左折する。車一台が通るのがやっとの道幅の道を進むと石を積んだ石塁の上に作られた段々畑が見えてきた。2km程進むと、車が10台ほど止めることができる広場に着いた。広場には車が10台ほど止まっており、他の人も訪れているようだ。この広場より先は巨大な岩左右に配した関所のような場所が数多く現れる。石門といわれている巨岩である。

【巨石】

ここからは徒歩になる。車を降りて、急なのぼり道を20分ぐらい歩くと再び巨石が現れる。さらに登ると左側の川に幾つかの小さな滝があり、20分程度で「雨乞いの滝」に着く。

【巨石】

大きな滝で、途中で角度を変えて流れ落ちる様は非常に美しい。広場に車を止めていた人々は、この「雨乞いの滝」を見て引き返しているが、我々の目的はさらに先にある悲願寺である。

「雨乞いの滝」の手前に右にそれるわき道がある。この道は高い岩壁を右から回り込むように登るようになっており、これまでの道よりさらに急である。道の入り口には悲願寺という道しるべがあり、林道からでも行けると書いてあったが、悲願寺に至る道沿いの遺跡を見たかったので、我々はこの険しい道を選んだ。

【雨乞いの滝】

息を切らして岩壁を登りきると見晴らしの良いところに出た。対岸に人面に似た人面石が見えると言われているが、見つけることはできなかった。道はさらに奥に続いており、しばらく登ると右手に石塁が見える。見張り台ではないかと言われているものであろうか。残念ながらその上に登る場所はわからなかったので、登れなかったが、明らかに人の手で作られたものである。

【見張り台】

しばらく行くと広い杉林の中を進んで行くことになる。この杉林の下部は下草と土砂に覆われていてわかりにくいのだが、数多くの石垣があり、階段状となっている。この石垣も人が積んだ石塁であり、なぜこのような山奥に作る必要があったのだろうか、日当たりも悪く、段々畑であったとは考えにくい。

【石塁】

杉林を登りきると目の前に林道が横切っていた。確かにこの林道を使う方がはるかに楽に悲願寺に行けるようである。

この林道に沿って右に折れてしばらく登ると、道は左にカーブし、悲願寺に着いた。どうもこの林道は、後からつけた道で、この道がつく前は、杉林の道の続きで真っ直ぐ悲願寺に続く道を通っていたようである。しかし、疲労困憊の体ではとても登れそうにもない道である。

さて、悲願寺は、本堂と楼閣がある。まず、この楼閣が珍しい。古代神山研究会の看板によると、これは常夜塔で高根山中にあった古代燈台跡から明治にここに移されたと伝えられている。

堀川豊平氏の「邪馬壱国は阿波だった」によると、これは、卑弥呼が邪馬台国に張巡らせた通信基地の跡で、もとは焼山寺山の山頂にあり、当時一種の光通信が行われていたという説がある。魏から贈られた銅鏡はこれに用いられたというのだ、古代ロマンを感じる説である。

【悲願寺】

【燈台といわれる楼閣】

【悲願寺といいながら神社様式の本堂】

さらに、本堂の右手に祠がある。神社形式の祠に多いかぶせるように屋根を取り付けている。中の祠は見たことも無い様式で、非常に古い。ぞっとするような「凄み」のようなものを感じた。

古代神山研究会の看板によると、「高根悲願寺開其以前は、山神社で、巫女が神を祀っていたと古い伝承があり、今も境内に十二社神社(伊邪那岐、伊邪那美並に神代十二神)賢見皇神社(思金神)、山神社(大山津見神)、山殿合社(産土神と聖天神)、別祠に天照大神祠が祀られている。」とあり、神代十二神が祭神である。ここでいう十二神は、1.国之常立神(くにのとこたちのかみ) 、2.豊雲野神(とよぐもぬのかみ)、3.宇比邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ)、4.角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ) 、5.意富斗能地神(おおとのじのかみ)・ 大斗乃弁神(おおとのべのかみ) 、6.淤母陀琉神(おもだるのかみ) ・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ) 、7.伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ) 、という神代七代の12柱神を指すものと考えるが、この地で祈っていた巫女が天照大神であるとしたら、その祈りの対象がこれらの神々になるのは必然である。

魏志倭人伝には、「その国は、もと男子が王であった。ところが男王の治下、七、八十年以前のこと、倭国は大変に乱れて、国々は互いに攻撃し合って年が過ぎた。そこで、国々が協同して一人の女子を立てて王としたのである。彼女は名をヒミコ(卑弥呼)といい、鬼道に仕え、その霊力でうまく人心を眩惑している。歳はすでにかなりの年齢であるが夫を持たず、男弟がいて彼女の政治を助けている。彼女が王となってから後は、彼女を見た者は少なく、婢千人を侍らせている。ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、神託をうけるために彼女のもとに出入りする。彼女の居処の宮室は楼観(みはりやぐら)や城柵を厳しく設け、また常に兵器を持った人々がいて守衛している。」とある。

この悲願寺に至る道で、巨石でできた関所、見張り台、石垣などを見てくると、まさに難攻不落の城郭を形成しており、ここが卑弥呼の居城であると比定する説に納得してしまう。

さらに、悲願時の奥には、祭祀遺跡と言われる天遇岩や台石があるが、そこに続く道が良くわからない。また、これから今来た道を引き返さなければならないことを考えて、これ以上進むことを断念し、引き返した。

車に戻り、438号線を西に5km進み、北に折れて193号線を20km走り、徳島線の鉄道沿いに192号線を西に50km走り三加茂駅に着いた。

この駅前の三加茂町歴史民俗資料館に車を止めた。この隣の中庄八幡神社の列石を見るためである。道路沿いに神社に近づくと、1m程の高さの石板が奇麗に東西に並べられている光景に出会った。この列石は、387本あり、神社を取り囲んでいるという。その列石は、現在の歴史民俗資料館をも囲んでおり、昔は、この神社の境内が歴史民俗資料館を含んでいたと考えられる。一説には、この神社は建石神社とも呼ばれ、近くの金丸山から、この地に遷座したと伝えられている。ここでも山から平地への移動が伝えられている。

石板の列を神域と俗域を区別する境、つまり磐境であると見るのが最も自然の解釈と考えるが、このような磐境は、他に例を見ない。一方、この中庄八幡神社は、八幡神社なので、応神天皇・神功皇后・武内宿禰を祭神としているが、大巳貴(オオナムチ)命の石の御神体が存在するとの説もあり、謎の多い不思議な神社である。

【神社裏の東西の列石】

【神社と資料館の間の南北の列石】

【資料館横の南北の列石】

【中庄八幡神社】

日も落ちてきたので、今夜の宿である香川県美合温泉にあるビレッジ美合館に向かった。ビレッジ美合館は、438号線を北へ10km程のところにある。

温泉と食べきれないほどの料理を頂いて、明日に備えてゆっくりと眠った。

次の日、今日は、剣山へ向かうことになる。

剣山は、438号線をひたすら南に30kmほどいけば着くのだが、その道が車一台しか通れない道幅で、ところどころすれ違える場所があるだけという状態、しかも道が曲がりくねっていて先が見えないので、向こうから対向車が来ているのがわからないときている。

クラクションを鳴らしながら、毎回、曲がり角を賭けのような気持ちで、車を突っ込ませる。運転者は非常に疲れる道である。

実は、剣山へ登る前に、一箇所寄りたい所がある。天磐戸(あまのいわと)神社である。一宇という場所にあるということだが、地図には一切載っていない。この辺りであろうと見当をつけたところを過ぎても分からない。

道を引き返えす途中で、家の前で作業をされている人を見つけて、聞いてみることにした。もう少し下ると作業小屋があり、その裏に人が通れる小さな橋がある。ということである。そこから左の道と右の道があるという。その男性は、ちょっと考えて、左の道は近道だが、かなりきつい、右の道は遠回りになるということを教えてもらった。その口ぶりから、かなり大変そうである。

我々は、道を下り、天の岩戸と書かれた看板を見つけた。車を止めるところが無いので、もう少し下の下宮神社に止めて、ここに戻ってきた。

作業小屋の横に、剣山貞光一宇峡観光協会の案内看板によると「これより約2時間、法正地区の峰近く巨岩が割れて出来た洞穴が在る。入口は岩戸の趣があり、幅1m、奥行き約9m、その前に神楽石と呼ばれる約45平方の長方形の平磐が在る。これら奇岩の神秘さは古事記、日本書記に登場する天の岩戸神話ぴったりの舞台で、江戸時代の上期より、年に一度神楽歌と舞が奉納されていたという。神楽石の下方には、天鈿女神と猿田彦神の石像、そのまた下方には天照大御神と手力男神を祀る天の岩戸太神宮が鎮座している。」とあり、天の岩戸物語の舞台がここであるとしている。

作業小屋の下に川を渡れる橋があり、渡った先に、左に急な石段右に山道が続いている。

先ほどの看板にある2時間が本当ならば、とても本日のスケジュールに入れることができる寄り道ではないので、あきらめることにした。

【天の岩戸の案内看板】

橋の下には「古事記の中ノ瀬  「上ノ瀬ハ瀬速シ下ノ瀬ハ瀬弱し」とのりたまひてスズキたまふ時に成り坐せる神の名は、八十禍津日ノ神、大禍津日ノ神 天照大神(日御子)が禊した所」とあり、この橋の下が古事記で言う「中ノ瀬」であるということのようであるが、ここにも天照大神=日御子=卑弥呼という図式が描かれている。

帰り道、先ほどの看板の下に、古びた看板があった。汚れてよく見えないが「古事記の天の岩戸 天の岩戸は天手力男が造ったといわれ天井が四枚の板岩で上に千年の大木があり、近くに、大願成就坑磐 叢 千座の置戸 鬼の岩屋 天津磐境 不明の石グロ 五角井戸 天岩戸神社 等があり、六国史の天岩戸に関する全ての条件が揃っていて、日本一古くて立派な由緒あるお山です。汚さぬように致しましょう。  貞光忌部村 」と読める。

車を止めた下宮神社も忌部氏の神社であった。この辺りは、古くから祭祀を行ってきた阿波忌部氏の縁の地であるようであり、この天の岩戸も重要な地であることは間違いないようである。また、この看板にも「五角井戸」という文字があった。

【中の瀬】

我々は、また、山道を車でひたすら登った。途中のラ・フォーレつるぎ山という店で昼食をとって、見ノ越パーキングにやっと着いた。剣山は、登山リフトで1730mの西島駅まで登ることが出来る。そこから最短コースの尾根道コースをとって頂上まで登った。ゴールデンウィークということもあって登山する人は非常に多い。

登山道の終りに剱山本宮宝蔵石神社がある。小さな神社だが、ちゃんと神主さんも居る。登山者でごったがえしており、神社としてその賑わいもたいしたものである。

【剱山本宮宝蔵石神社】

参拝をして、その裏手にある3mほどの大きな磐座を見に行った。風化しているが丸い形をしている。宝剣が納められている宝蔵石と呼ばれている。

この剣山は、もともと石立山とよばれていたが、安徳天皇が源氏滅亡を祈願し宝剣を納めた後、剣山と呼ぶようになったと伝えられているが、そうであろうか、この山頂には鶴石(つるいし)、亀石(かめいし)という大岩があり、合わせれば「鶴亀(つるぎ)」となる。また、八倉比売神社にもつるぎ岩が祀られていた。「つるぎ」という言葉に神秘的な意味合いがあり、800年の前の安徳天皇にちなんでつけられたとはとても思えない。

不思議な歌詞で有名な「かごめうた」の「鶴と亀がすべった」の鶴と亀がこの剣山の鶴石と亀石のことであるとして謎を解こうとしている人たちもいる。この場合、「かごめ」は籠の目で六芒星(ヘキサグラム)を表しているとし、それは、イスラエルの国旗にあるダビデの星ということである。

イスラエルと言えば、昭和の始め、聖書研究家の高根正教は、この剣山にソロモンの財宝とモーゼの聖櫃(アーク)が埋蔵されているとして発掘調査をすると、大理石のアーチやレンガの回廊や100体のミイラを発見したと報告した。もちろんその真偽は明らかになっていない。

【宝蔵石】

我々は、1955mの山頂へ行って360度の絶景を存分に楽しんだ。

それにしても、この剣山の山頂の広大な平原はなんであろうか、そこに都市があっても不思議ではない。また、山頂から隣の山頂に道が尾根づたいに続いており、それが四方八方、見えなくなるまでつながっている。山頂の都市に古代人が住み、その都市と都市の間が連絡道でつながっているという光景がすんなりと浮かんでくる。

下山する途中の、宝蔵石神社の横に貼ってある祭りの様子を写した写真を見ていると、後ろから中年の女性に声をかけられた。手にはタオルの入った洗面器を持っている。おそらく、この神社かヒュッテに住んでいる人で、リフトで下山して風呂に入ってきたのであろう。彼女が言うには、明日(5月の3日)は、麓のフジノミヤ神社(富士の池の剣山本宮のことか)から御霊(みたま)が登ってきて、7月17日には、御輿が登ってきて、11月に御霊が下山するという。

その御霊とは何ですか、形のあるものですかと訊ねると、形は無いという答えであった。

御輿が登ってくる7月17日は、この剣山が非常に賑わうという。御輿をこの山頂まで上げるのは大変な労力であることが想像できる。この祭りの様子は、ソロモンの秘宝である聖櫃(アーク)をこの剣山山頂に埋めたことを伝えているのではないかと言われている。聖櫃とは契約の箱でモーゼが神から授かった十戒が書かれた2枚の石板、アロンの杖、マナの壺が収められた箱で、箱の上には純金でできた1対のケルビムが飾られ、箱は2本の棒で担がれて移動したと旧約聖書に描かれているが、これが日本の御輿にぴったりと合致する。また、この祭りが行われる7月17日は、ノアの箱舟がアララト山の山頂にたどり着いた記念の日なのだ。京都の祇園祭の日でもある。祇園(ギオン)祭りはイスラエルのシオン祭りに非常に似た響きである。

【剣山 山頂】

下山は、大剱コースをとった。300m程下ったところで、目の前に巨大な岩が見えてきた。御塔石(おとうせき)と呼ばれる大劒神社のご神体である。目の前に急に岩が現れたとき、不思議な感覚を覚えた。それはその巨大さからくるものでは無く、怖いという感情に似たようなものである。私は、この磐座こそが、この剣山を司る磐座であることを直感した。

大劒神社の御祭神は、安徳天皇、素盞鳴命(すさのおのみこと)、大山祗命(おおやまずみのみこと)です。大山祗は山の神として当然として、スサノオを祭神としているのは、この磐座の荒々しい迫力からだと感じた。

【亀石、鶴石】

【大劒神社と御塔石】

我々は登山リフトで降りて、車に乗った。剣山を降りる道は、登ってきた道を引き返さずに、438号をさらに進んで下山する。また、先の見えないカーブをブレーキを踏みながら、クリヤーしていく、なかなか平地にならない。途中で左折し、439号に入り、美馬市へ向かう。剣山の見ノ越から45km走ったところで、目的の地の美馬市穴吹町口山に着いた。本旅の最後の探索地は、「磐境神明(いわさかしんめい)神社」である。

神明神社をさがしてこの辺だと検討をつけたところに神社があったので車を止めたが、その神社は「白人神社」と書いてある。鳥居のところに中学生がいたので訊ねると、「こっちがしらひと神社、神明神社はあっち」と小高い丘を指差した。確かにそちらに鳥居が見える。この白人神社も奇妙な名前である。美馬市のホームページでは1600年頃に稲田修理亮によって再興されたとあるが、もともとの縁起がわからない。崇徳上皇を訪ねて来た源為朝の弓がこの神社に落ちたとの逸話があるので、源氏の白とも考えられるが、白を「しら」と読むところは、新羅(朝鮮)に縁のある神社とも考えられる。しかし、ここは、隣の神明神社のことを考えると、ストレートに白い人=ユダヤ人と考えてみたい。

【白人神社】

【白人神社の裏の石組】

中学生は階段がきついよと親切に注意してくれた。

非常にきつい階段を100メートルほど登ると広場に出た。これが丘の頂上のようであるが、社殿は見えない。右手に石積みがある。これがどうも神明神社のようである。

石積みは、整形されていない平たい20センチメートル程の石を無造作に積み上げたもので、東西方向に20メートル、南北に7メートルの長方形で、高さは1.2メートル程である。

南側に3箇所の入口が開いている。その奥に祠が5箇所設置されている。

イスラエルの元駐日大使であるエリ・エリアフ・コーヘン氏がこの神明神社を訪れ、「自然の石を積み上げた祭壇は、ユダヤ教の神殿とこの神社以外では見られない」といって石積みとユダヤ教の神殿との関連性を指摘した。コーヘン氏は剣山にも何度も登っているという。

この祭壇からぺトログラフが見つかっているというが、既に日没が迫っており、探すことはできなかった。

この広場に穴吹地町の看板があった。「古代この地に忌部が住みつき梶山に楮植え、その皮で白妙を織った。その白妙を献するために梶山から尾根伝いに神明宮へと運んだ。この道をしらたえの道という」と書かれてある。

忌部氏を中心とした山の民の暮らしと信仰の様子が目に浮かぶ。

【神明神社に向かう急階段】

これで今回は訪れることが出来なかったが、剣山の高知よりの麓には、イエス・キリストを想像させる栗枝渡(くりしと)八幡神社もある。

この神社にも数々の不思議があり、いつかは、訪れてみたいと思っている。

これで、我々の今回の徳島探索の旅は終りとなる。

それにしても、徳島=四国は不思議な土地であった。

剣山に隠されたアーク、ノアの箱舟がたどり着いた日に剣山に担ぎ上げられる御輿、イスラエル様式の磐境神明神社など、ユダヤとの関係を示唆する数々の事象。日ユ同祖論でいう失われた十支族が放浪の末、たどり着いた所がこの剣山なのではないかと考えてしまう。

また、日ユ同祖論で考えれば、その十支族が天皇家につながることになる。今でも、天皇即位の大嘗祭(だいじょうさい)に使われる神聖な神衣の「麁服(あらたえ)」は、剣山系の木屋平村の三木家で作られる。なぜ、こんな山奥から大事な神衣を調達しているのか、天皇家がこの地の出身だと考えると納得がいく、したがって天皇家の祖先の歴史である古事記にまつわる場所が徳島に多くあるのも当然となる。古事記に現る神々を祀った神社が数多くあり、卑弥呼=天照大神が常夜灯を用いて四国を治めた居城や卑弥呼の墓など、その傍証は数多く存在する。

しかし、私が一番、驚いたのは、この徳島の山上の村々とそれを結ぶ山道の存在である。昔は、山上に人々が住んでおり、そこから平地に降りてきたと言われているのだ。これはまさに、高天原の天照大神が邇邇芸命を天孫降臨させ、葦原中国を治めさせたという古事記の記述にピッタリである。

古事記を歴史と捉えるならば、高天原が海外であるとか島であるとかと考えるよりも山の上した方が現実的である。

我々は、帰路に着いた。

【剣山山頂】

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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