一陽来復丸石かさね山の神 五島高資

http://www.demadosha.co.jp/Column-Ikeda.html 【「庭に磐座をつくる」】より 池田清隆 kiyotaka Ikeda

 いつのころだったか、雑木林のなかに住んでみたいと想うようになった。きっかけのひとつとなったのは、「今朝の秋」というテレビ番組だった。

 蓼科を舞台とした物語で、笠智衆と杉村春子のいぶし銀のような淡々とした演技とともに、黄色が主体となった晩秋の風景と、死と向き合う家族の心境が心に沁みた。柄にもなく、わたしもいつか、自然の移ろいのなかに身を置いてみたい。そう思ったのだ。

 あれは、磐座を本格的に訪ね始めたころと重なるようにも思える。

第1回 雑木林に「磐座」をつくる話

 八ヶ岳南麓、標高1250メートルの雑木林に出会ったのは、50歳を過ぎたころ、まだ現役の「企業戦士」だった。

 境界の西を沢が流れ、ゆるい高低があり、変化に富んだ地形だった。樹木も多彩で、訪ねたその日、迷いなく即断した。ただ、久しく人の手が入っておらず、藪のような状態だった。それがかえってよかった。雑木林を残しながら、「磐座」が点在するような石の庭をつくろうと思ったのだ。まず、家を建てる場所の縄張りをし、敷地を歩きながら散策路を決めた。そうしたデッサンができたうえで、敷地からでてくる石を、自らの想いをぶつけるようにひとつひとつ据えていった。そのなかからふたつ「作品」を紹介したい。

 ひとつは、移り住んで初めて試みた石組。苔むした石を、八ヶ岳連峰の権現岳に向けて、それぞれが礼拝しているように据えてみた。八ヶ岳は、磐長姫イワナガヒメを神霊とするが、醜女しこめとして知られ、山の神のモデルとされる神でもある。『記・紀』では、天孫のみならず、人の寿命をも短命にした霊力の強い神として知られる。が、邇邇芸命ニニギに見初められた美貌の妹・木花之佐久夜毘売コノハナサクヤヒメとくらべ、その影は薄い。

 もうひとつは、石を組むという意識を明確にもち、磐座をイメージしながら据えたものだ。どちらも馴染みの庭師さんの手を借りながら、「あーだ、こーだ」といいながら形にした。日本最古の造園書である『作庭記』に、「石の乞こはんにしたがふ」という言葉がある。石を据えるには、まず主要な石を立て、次はその石が「望むように」立てていきなさいというのだ。いわば、石の意のままに……ということだが、この「石の意」というのがなんとも難しい。写真にある石組もそのようにしたつもりだが、どう思われるだろうか。だれに見せるわけでもないのだが、晴れた日は、庭作業のかたわら、ひねもす、石を眺め、石を据えている。

 (平成30年10月10日) 

第2回 関守石という結界

 八ヶ岳南麓に家を建てたとき、和室に面した坪庭に、飛石を打った。そのとき、庭の師匠でもある「作庭処かわぐち」の川口さんが、関守石せきもりいしをプレゼントしてくれた。球形に近い座りのよい石で、置いたときから坪庭の景色が引き締まり、辺りの空気が「ぴーん」と張りつめたように感じた。画竜点睛とは、このようなことか、そう思った。

 ここから先には行かないでほしい……と、さりげなく訴えている小さな石。茶室という聖域に至る道すがら、飛石などの岐路に、据えられる石のことで、関守石と呼ばれる。内と外、聖と俗とを区切る「結界石」でもあるという。跨ごうと思えば、跨ぐことができるのだが、誰もそれをしない。というより、できないのだ。それをしないことで、無言のまま、本来の正しい道に導いてくれる。阿吽の呼吸、言わずもがなの世界がそこにある。

 関所を守る「関守」に由来するというが、留め石、置石、関石とも。この思想は、茶庭の手水鉢ちょうずばちにも当てはまるという。手水することによって、心身の穢れをすすぐことを意味し、心のけじめ(結界)をつけ、禊に通じる。始まりは千利休とされているが、利休のころは、このような形ではなく、壺や香炉を「関」の印として茶室の入口に置き、また、単に飛石の上に小石を二個のせただけと伝わる。

 神代の昔、亡くなった伊邪那美イザナミを黄泉の国に訪ねた伊邪那岐イザナギは、穢れたイザナミから逃れるため、黄泉の国との境を、巨大な「千引ちびきの石いわで塞いだ。ここから先に来てはならない、本来居るべきところに留まってほしいと、この世とあの世の結界を巨石に託したのだ。その大きさは比べようもないが、ここに、関守石の原点をみる。そうしたことが、邪神の侵入を防ぐ塞神さえのかみや集落の境を守る道祖神に通じ、聖と俗とを結界する関守石に繋がっているのだろう。

 さて、我が家の関守石。赤子の頭ほどの丸石を、ワラビ縄で四方結びにしたもので、結び手がチョンマゲのようにひょいと立ち上がっている。簡素な作りながら、味わい深く、凛とした気品が漂う。小さいけれど、周りの風景に溶け込み、その存在感を訴えている。だれもがもち運びができる大きさでありながら、それなりの重さがあり、安定感がある。実と美を兼ね備えた優れものだ。あくまでもさりげなく、でもその「心」が理解できなければ意味をなさない。心のけじめを小さな石に託したもの、それが関守石だと理解する。(令和元年6月25日) TOPへ

第3回 我が家の「タノカンサア」

 庭の一角に、頬っぺたをふくらませ、にこにこと笑いながら、首を傾げるようにちょこんと立っている神さんがいる。握り飯のような顔をしているが、タノカンサア(田の神さあ)を模したと思われる石の像だ。後ろにまわると、男のシンボルを想わせる愛嬌者で、思わず手を合わせたくなる。九州の産だというが、それ以上のことはわからない。たまたま縁があって、はるばる八ヶ岳の山中に来てもらったが、環境の変化に驚いていることだろう。名の通り、田んぼのあぜ道などに祀られた石の像で、田んぼを守り、豊作を願う神として信仰されている。

 調べてみると、かつての薩摩藩(南九州)を中心とした事例が数多く紹介されており、さらに大護八郎の『石神信仰』に詳しい報告がまとめられている。それによると、比較的新しい神さんで、江戸中期に薩摩藩領で発生したものらしい。大護は「近世に入って諸々の石神が全国的に造立されるようになったにもかかわらず、その姿を本州に見ることはほとんどない」とし、「旧島津藩領に数多くの丸彫りを主とした田の神像があることは、石神信仰の上から極めて注目すべきこと」と記している。さまざまな形があるようで、おおむね僧侶型、神主型、農民型に分けられるという。我が家のタノカンサアは、托鉢をしている僧侶を想わせ、苔むしてはいるが、比較的新しいように思える。小ぶりで、簡素なつくりなので、個人が所有していたものだろうか。

 長袴をはき、藁でできた甑簀しきをかぶり、首に頭陀袋ずだぶくろをかけ、右手にシャモジのようなもの、左手に飯椀を持っている。後ろ姿は、なるほど逞しい男のシンボルそのものだ。簡略化されているが、それなりに特徴をとらえている。小野重朗の『田の神サア百体』をみると、その数千五百体以上といい、白く化粧したもの、赤い着物を着たもの、ベンガラで顔を着色したもの、様々な事例が紹介されている。が、石像がつくられる以前は、自然の石や一抱えほどの丸石を置いて祀っていたという。なかには、自然石に顏を描いたものもある。

 やはりそうか、と思う。私たちの祖先が、竪穴式住居に石棒(男根)を立てたように、丸石を道祖神にみたてたように、田んぼのあぜ道に自然石を立て、稲の生育を託し、豊作を願ったのだろう。それが僧侶や神主などを模した石像に変わり、やがて農民の姿に変化したと思われる。さらに興味深いことは、タノカンサアは、神ではあるが神ではない、きわめて人間くさい神といわれていることだ。我が家の「タノカンサア」を見てほしい。なんとも穏やかで微笑ましく、思わず頬ずりしたくなるではないか。土の臭いと体臭を感じる庶民の神がここにいる。(令和元年9月10日) 

第4回 石塔雑感

 敷地内に、宝篋印塔ほうきょういんとうや五輪塔と呼ばれる石塔がいくつか点在する。どれもかなり古いもので、年月相応の寂びた風情が気に入っている。庭づくりの過程で据えたものだが、もうすっかり周りの景色にとけ込んでいる。おそらく、家が無くなり、かつての雑木林に戻ったなら、ここに古い寺があったと思うのではないか、そう想えるほどの存在感だ。こうした石塔は仏教的な石造物で、死者の供養のために造られたものがほとんどだという。もちろん、石神でも石仏でもない。が、祖先供養のため、お盆や命日などにお参りするところをみると、なにか霊的な存在とされていたことは間違いないようだ。

  538年(欽明7)、百済から仏教が伝来した。日本人はこれを「異国の神」と理解し、蕃神ばんしんと呼んだ。これが日本と異国の神との出会いであり、戦いの始まりともなった。物部氏と蘇我氏の覇権争いでもあったが、蘇我氏が勝利を収め、巨大な塔を中心とした飛鳥寺が建立された。『日本書紀』に「刹柱せつのはしらを建つ」と記されているもので、塔ではなく柱と表現しているところが意味深い。柱は神を数えるときの言葉であり、依代とされるものだが、蕃神もまた、神々のうちに加えていたことが窺える。柳田国男が「先祖の話」のなかで、ホトケは木の柱に文字を書いた卒塔婆そとばのことだという屋久島や佐渡の例を挙げ、ホトケを迎える精霊の依座よりましでもあると記しているが、刹柱に通じるようで興味深い。

 石塔は石の卒塔婆といわれる。仏を異国の神・蕃神と称したように、塔のことを刹柱と表現するなど、仏教伝来時、すでに神仏習合が始まっているように思える。とすると石塔の基層を流れているものは、日本古来の神と異国の神が融合した造形といえるかもしれない。石仏と道祖神が路傍に同居し、祀られていることと同じ感覚のように思える。仏と神がとくに区別されるわけでもなく、ごく普通に混在し、ともに信仰されてきた歴史をここにみる。日本古来の神は、仏に負けたのではなく、むしろその懐に包み込んだのだと思いたい。

 宝篋印塔を眺めていると、写真や映像でよく見るアンコールワットの石塔を想い描く。そびえ立つ巨大な石塔は、男性のシンボル(リンガ)を意味するともいわれるが、相輪と呼ばれる先端部分も、そう見えなくもない。もともと密教系の石塔ながら、子孫繁栄への願いだろうか。自然のリンガとは山頂にそびえ立つ石のことだという。まるで縄文時代の石棒と仏塔が合体したような佇まい。遥か遠いところで、お互いが響き合っているように思えてくる。

 (令和2年8月25日) 

第5回 石が寂びるという魅力

 雨あがりの匂いがする石が好きだ。苔むし、寂びてきた石がたまらなく好きだ。水気をたっぷりとふくみ、命がきらきらと輝いているような深い緑、深呼吸したくなるような爽やかさ、そうしたもろもろの風情が好きだ。

 久しい間、「磐座」という岩石崇拝を追いかけてきたが、今さらながら石そのものが好きなのだと自覚する。で、石のなにがこうも惹きつけるのか。よく石の永遠性という表現に出あうことがあるが、不変ながらも、時とともに風化していく過程に魅かれるのだと思う。掘り出した石もやがて肌合いが変わり、ところどころ苔むしてくる。数年も経つと全体が苔に覆われる。人の命の有限さを思うにつけ、そうした「時のつみ重なり」がしみじみと心をうつ。時と自然が、ゆっくりと、育むように石の美しさをつくりだしていく。

 庭師の話によると、寂びた石のことを「ジャグレ石」というそうだ。水石みずいしの鑑賞などにつかわれる用語のようだが、風化などによって生じたざらざらとした凹凸おうとつのある石の表面、肌合いなどを表現する言葉として使われている。「仙境の風情」などという表現もみられる。俗にいう「さび」に通じるものだと思うが、枯れるという味わいではなく、深々しんしんと心に沁みてくる石の風趣、いぶし銀といった感覚だろうか。時間ときと自然が奏でる魅力とでもいうのか、そうした石はただそこにあるだけで愛おしい。

 八ヶ岳の山中に庭をつくりはじめて20年以上たつ。磐座を訪ねる旅のおり、各地の庭をみてきたが、作庭の拠りどころはやはり自身の「好み」でしかなかった。心がけたことは、起伏に富んだ地形と現存する雑木林を生かした庭……という一点だった。材料はほぼ敷地からでてきたものでまかなうことができた。藪のように荒れていた土地は、大小の石がごろごろところがっていた。どこを掘っても石がでてきた。石好きの身にとっては、願ってもない環境ともいえたが、庭にするには想像以上の労力と時間が必要だった。でてきた石はできるだけその場所に据えることを心がけた。あるがままに、という想いからだが、その過程がまた心地よかった。

 自身で動かせる石の重さは100キロほど。それ以上になると庭の師匠でもある「作庭処・川口」の川口さんの力を借りた。が、ひとりで石の向きを決め、動かし、据えているときの快い緊張感は言葉にならない。半ば埋まっている石は可能な限り顔をだしてやる。顔をだした石は、風雨にさらされながら、森の香気を浴び、樹木が育つように肌合いを変え、苔むし寂びてくる。それがまたなんともいえず味わい深い。想えば、そうした日々を過ごしてきた。75歳をむかえる冬、あと何年できるだろうか。そう考えながら、今日も「ヨタヨタ」と石と向きあう。 (令和3年12月10日) 

第6回 自然神の精気

 磐座と思しきものに出会ったのは小学校の林間学校、ふるさとの「金山出石寺」だった。山門前の広場、弘法大師空海が修行をしたという「護摩岩」が子供心にもつよく印象にのこった。われながら奇妙な子供だと思うが、なぜか気になるのだ。無数の割れ目がはしり、びっしりと樹木が生い茂る巨岩だったが、その割れ目の奥に「なにか」潜んでいるような、得体のしれないその「なにか」がじっとこちらを見ているような気がしてならなかった。怖いもの見たさ……とでもいうのか。あえてその巨岩の近くを通ると、背筋がゾクゾクした。子供ならではの「異界体験」だったのだろう。

 八ヶ岳の南麓、標高1250メートルの森に移り住んで22年、クマザサが生い茂る雑木林のなかに「磐座」や「石神」が点在する庭をつくりつづけてきた。いわば「私のイワクラ」ともいえるものだが、もとより、自身がそう想っているにすぎない。全国各地の磐座を訪ねるなかで、印象にのこったものを思い浮かべながら、自らの感覚で石を組み、再現しようと試みたものだ。が、いつしかまわりの景色にとけこみ、苔むし、もうすっかり「自然の石」と化している。たで食う虫も好き好きとはいえ、「阿呆の鳥好き貧乏の木好き」のようで、なにやら面はゆい。とはいえ、当人はいたって真面目そのもの。家族からイシアタマと揶揄やゆされ、冷ややかな視線を感じながらも、それを本気で懸命にやってきた。自身のことながら、そこがやはりおかしい。

 さて、コロナ禍において、いかに人類が自然の前で「無力」なのかということを目の当たりにしてきた。自然災害のひとつと捉えられているほどだが、このウイルスは自然界の安定した生態系のなか、野生動物と共存しながらひっそりと生きてきたという。著名な霊長類学者は、「われわれは自然の一部であり、依存しているにもかかわらず、自然を無視し、ともに共有すべき動物を軽視したことに原因がある」といっている。人間が自然を破壊してきた結果だというのだ。

 よく「パワースポット」という言葉を見聞きする。俗にいう「ご利益」と混同されていると思えるほどだが、視点をかえると、自然がもつ根源的な生命力といった景色がみえてくる。元来、年自然神は現世のご利益とは無縁だったし、あるとすれば、自然の精気によって癒されるという施しのようなものだった。昨今、あまりにも人間だけのご利益に振子が振れすぎているように思える。自然に帰れとまではいわないが、これを機に、自然との向き合いかたを見直し、「密」とは対極にあるような自然神の精気にふれてみたらどうだろう。ホッとひと息つけるはずだ。

 八ヶ岳と春の雪。八ヶ岳の南麓に居を移し、22年の春秋を重ねてきた。今年もまた冬が過ぎ、春が巡ってきた。

  (令和4年3月10日)  

7回 井 筒

  筒井筒つついつつ井筒いづつにかけしまろが丈たけ

     過ぎにけらしな妹いも見ざるまに

 女、返し、

  くらべこし振分髪も肩すぎぬ 君ならずして誰かあぐべき

 『伊勢物語』第二十三段にある子どものころの背比べにかけた求愛の歌である。

 井筒。馴染みのない言葉だが井戸のことだ。『広辞苑』には、「井戸の地上部分を木・石などで囲んだもの。本来は円形、また広く方形のものを含めていう」とある。『伊勢物語』に歌われた井筒は、子どもが背比べをするほど高いものだったようだが、我が家の井筒は50センチほどの高さだろうか、石でできたものだ。

 6月、井筒の蓋ふたを新しくした。井筒蓋いづつぶたとも井戸蓋とも呼ばれる。青竹をシュロ縄で一本一本とっくり結びという技法で締めながら編んだ蓋のことだが、ただそれだけでなんとも清々しい気分になった。

 八ヶ岳南麓・当時の大泉村に家を建てるとき、井戸を掘ることに躊躇はなかった。地名の通り、八ヶ岳に降った雪や雨が地中に沁みこみ、濾過され何十年もかけて地表に湧き出てくるところだ。近くには「三分一湧水」や「大滝湧水」など、八ヶ岳湧水群として名水百選に指定された湧水がいくつか存在する。公営水道も「大湧水」と呼ばれるところから引いている。

 古来より地表に湧き出てくる湧水は、もっとも神聖なものとして尊ばれ、崇められた。霊泉とか霊水などと呼ばれ、水神さまが宿るところとして大切に祀られてきた。庭の専門書によると、こうした湧水を「山の井」と呼んだ。井戸以前の表現とされ、井とは「集」の意、水の集まってくるところを指すが、これが後世、堀井戸の井に転用されたものだという。

 家を建ててくれた「小澤建築工房」の社長に聞いたところ、

「60メートルほどでいい水が出ますよ」

 とのこと、結果はほぼ予想通り、約70メートルで地下水につきあたった。鉄分やカルシウムを多く含んだ、まさに甘露ともいえる美味しい水が湧き出てきた。どれほど前に降った雪や雨が地下水となって流れているのかわからないが、気が遠くなるような時間をかけ、濾過されながら水脈にたどりつき、流れているのだろう。

 井筒は正四角形をしており、内法うちのりが90センチ、外法そとのりが123センチ、枠の厚さが16センチあり、どっしりとしている。専門書によると「組み井戸」の一種で四個の石を組み合わせたものと書かれている。 凸字形の石を上下に組み合わせたもので、下向き凸字形を「雄側おんがわ石」、上向きを「雌側めんがわ石」と呼ぶという。こうした雄と雌の表現はまさに夫婦めおとの「和合」を表しているようで、なんともおもしろい。

 組み立ててくれたのは「作庭処・かわぐち」の川口さん。最初に石を据えるとき、

 「雄はどちらに向けますか」

 と聞かれ、一瞬なんのことかわからなかった。雄と雌の組み合わせでできているため、正面に雄(雄側石)を据え、組み合わせていくのだという。雄の向きが決まれば他の石を組み合わせていく。つまり、正面からみて、雄が前後に、雌が左右にくることになる。接合剤はつかわない。水平器で上の面を確認しながら、雄と雌の切り込み部分をかっちりと組み合わせる。厚みが16センチもあるため、基礎の部分を固めておけば狂いがこないという。

 石の表面は荒ダタキと呼ばれるごつごつとした作りで、粗い感じが野趣に富む。窪みから小さな羊歯が顔をだしていた。石の風化と生命のたくましさが相まった造形だ。井筒はまわりの緑と一体となり、もうすっかり雑木林の風景にとけこんでいる。

 (令和5年11月20日)  

第8回 20トンの「巨石」がやってきた

 もう15年ほど前になるが、庭づくりの「師匠」ともいえる作庭師の川口さんから、思いもかけない「話」が舞いこんできた。同業者である造園業のご主人が亡くなり、後継者もいないため、収集していた庭石を引き取ってもらえないか、というのだ。しかも、敷地の大部分を占めている「大きな石」をお願いしたい……という意向だった。

 で、川口さんと見にいった。たしかに大きい。いわゆる「巨石」と呼んでいるものだ。しかも同じような大きさの石が、家屋を圧するように二つ並んでいる。聞けば「蓼科石たてしないし」という価値がある石だという。変化に富み、なにより景色がいいと感じた。

 川口さんの話によると、こうした「味」のある石を造園業界では、「曲きょくがある」とか「芸げいがある」というそうだ。なるほどと思った。石が醸し出す霊性のようなものが伝わってくるようではないか。言い得て妙とはまさにこうした表現をいうのだろう。結果、巨石二つとそれに準じる石を二つ、四つの石を譲ってもらうことにした。

 と、なにげなく巨石という言葉をつかっているが、基準というものはない。『広辞苑』をみても、「大きな石」と書かれているだけでそっけない。愛用している国語辞典には載ってもいない。大きな石、巨大な石だから「巨石」。ただそれだけのことで、わざわざ解説する必要がないからなのだろう。比べて「巨樹」という基準ははっきりしている。地上から130センチの高さで、幹回りが3メートル以上のものを巨樹と呼んでいる。ちなみに、日本一の巨樹は鹿児島県姶良あいら市にある「蒲生のクス」で、幹回り24・2メートルだという。

 ただ、日本の『記・紀』神話には、巨石の始原と想われるものが登場する。日本最古、磐座の原形と想われるような物語が神話の世界で語られる。チビキノイワ(千引石)と表現されているものだ。文字通り、千人の力でようやく引けるような巨大な石……という意をもつ。

 神話では、亡くなった妻・イザナミ(伊邪那美)に会うため、黄泉国よみのくにを訪ねたイザナギ(伊邪那岐)が醜く変わり果てた妻をみて、恐ろしさのあまり逃げ帰る。追いかけるイザナミ。黄泉平坂よもつひらさかまできたとき、千引石で塞ぎ、絶縁を言い渡す……というくだりだ。この石がのちにこの世とあの世との境界を意味することになる。

 千人の力でようやく引ける石というものがどれだけのものかわからない。が、神代の世界ながら情景としてはなんとなくわかるような気がする。ようするに「この世とあの世の境界とされる」大きさと想えばいいのだろう。

 数日して、巨大なクレーン車2台で巨石が運ばれてきた。クレーン車の荷台からはみ出すような大きさだ。重さを測ると20トンほどあるという。まず、最も大きな石を慎重にクレーン車で吊り上げ、決めておいた場所に据えた。あとはその石の「声」を聴きながら他の石を大きさの順に据えていく。

 以前にも書いたが、平安時代に記された日本最古の造園書である『作庭記』に、

 石の乞こはんにしたがふ

 という表現がある。石を据えるときは、まず主要な石を据え、あとはその石の意のままに……ということだが、この「石の意」というのがなんともむつかしい。

 一日がかりで四つの石を据え終えた。据えるときは「根入れを深くする」ことが肝要だといわれる。地下に埋もれている部分がどれほど大きいか想像がつかない。その一部が地表に顔を出している……そう想わせるような「沈めかた」とでもいうのだろうか。そうして根入れした石は、どっしりと安定感があり、風格が漂う。ただ、せっかく求めた石は、なるべく大きくみせたいという「スケベ心」がどうしてもあり、その兼ね合いがむつかしい。

 15年経ったいま、遠くからやってきた4つの石は、「乞はんに従う」ように、響き合いながら、敷地の一画に鎮まっている。まるで古代から存在する「神域」のように……。

 (令和5年12月3日)  TOPへ

第9回 師走 冬至正月

 日が短くなり、影が長くなった。午後3時をまわるとなにかと気ぜわしい。あっという間に陽が落ちる。秋の季語ながら「つるべ落とし」とはよくいったものだ。息苦しくなるような世相のなか、待ち焦がれていた「冬至とうじ」がめぐってきた。理屈ではない。「冬来りなば春遠からじ」とわかっていても、なぜかそわそわと心がおちつかない。待ちわびた嬉しさなのか、じわりと喜びに似た温もりが身体の芯から湧きあがってくる。

 冬至。一陽来復いちようらいふくの日ともいわれる。易の言葉だが「陰のなかに初めて陽が戻ってきた形」が語源とされる。一年中でもっとも太陽が南にかたより、影の長さが一番長くなる。昼間がもっとも短いために、もっとも弱い太陽とされ、いったん死んで、生まれ変わる日と考えられていた。まさに陰が極まる日が「冬に至る」と観念されたのだ。こうして冬至は太陽の「誕生日」として、時を計る基点となった。

 太陽の誕生日にともない、冬至を年の初めとする「冬至正月」の暦が、中国・周の時代につくられた。日本でいえば、縄文後期のころだ。大寒とか春分といった二十四節気も冬至から始まる。しかし、漢の武帝のときに立春を年の初めとする「立春正月」に改められた。なんとも寒かったからだ。昼間は長くなるが、寒さは厳しくなる。暖かさがもどるときがいいと考えたのだろう。立春正月は、持統天皇のころ日本にも伝えられた。

 とはいえ、なぜこの日に太陽が死んで生まれ変わるのか、古代人は理解できなかったと思われる。しかし、永い間の経験と言い伝えで、毎年この日はかならずやってくるということを知っていた。あの山の頂に太陽が沈むということを……。

 近くにある縄文後~晩期に営まれた「金生きんせい遺跡」は、祭りの場であることがわかっているが、冬至の日、正面にあたる甲斐駒ヶ岳(2967メートル)の頂に陽が沈む。とともに、長く影をひいていた立石も陽があたらなくなる。おそらくこのとき、長老たちが立ち会うなか、慎重に影の先端を確認し、うやうやしく印をつけたはずだ。この印に影が届き、日没が重なったときに春が来る。余光がのこる薄明りのなか、縄文人たちは、石を敷き並べた「配石祭壇」の周りに集い、新年への祈りを奉げたにちがいない。

 陽が落ちると焚き火が盛んに燃やされ、アイヌのイオマンテ(熊の霊送り)のごとく、生贄になった猪の霊を神の国に送り届け、恵みを分かち合い、蓄えていたヤマブドウ酒を飲み交わしたことだろう。祭りの場はそうしたところを選んで営まれ、季節を測っていたというのだ。あの山のてっぺんに陽が沈むと春が来る。影の長さを測りながら、太陽が近づいていくことを指折り数えていた情景が目に浮かぶ。

 何度かふれてきたが、わが家は八ヶ岳南麓の山中にある。移り住んで23年、いつのまにか、冬の厳しさに備える心がまえのようなものができてきた。薪ストーブの出番がつづいているが、そこはもうたっぷりと薪が積まれている。冬枯れの景色のなか、枝の先には新しい命が顔をだしている。冬本番を迎えるにもかかわらず、確実に春を迎える気配がただよっている。自然の営みの確かさを実感するころでもある。

 今年の冬至は12月22日。この地の予測をみると、日の出は6時52分、日の入りは16時36分と出ていた。家の西側に標高差にして100メートルほどの峰が横たわっているが、陽が沈んだのは16時10分だった。つまり、朝7時ごろから陽が差しはじめ、午後4時には落ちることになる。昼間、約9時間という短さだ。気ぜわしいわけだ。

 『歳時記』をみると「小豆粥あずきがゆやカボチャ、コンニャクを食べ、冷酒を飲み、ゆず湯に入る風習がある」とある。カボチャを食べ、ゆず湯に入ることはわが家でもやっていたことだが、冷酒を飲むことが風習のひとつだとは知らなかった。元旦に飲む屠蘇とそのようなものらしい。寝る前に冷酒を飲むことを常としているので「通年冬至」のようなものかとおかしかった。

 冬至の夜、静かに春を迎える「禊みそぎ」として、久しぶりにゆず湯に入り、衰運から盛運へと向かうことを願った。食卓にはカボチャの煮物がならび、寝る前、いつものように冷酒を飲み、床についた。季節はめぐり、冬をまたひとつ数えることができた。

 (令和5年12月23日) 

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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