https://www.historyjp.com/article/179/ 【古代シュメール文化とイスラエル】より
イスラエル史とメソポタミア文明
イスラエル民族と日本の皇室との間には古代史上、何らかの接点があった可能性が高いということがわかれば、イスラエルを含む西アジアの歴史に疎い日本人でも、興味が湧いてくるのではないでしょうか?そこでまず、歴史を遡り、イスラエル民族のルーツと言われている先祖、アブラハムが生まれ育った故郷の地、シュメール文化圏のウル、そして古代メソポタミア文明について考察します。
ユーフラテス川の風景
ユーフラテス川の風景メソポタミアと言えば、おそらく誰もが学校で一度は耳にしたことのある人類最古の文明の一つです。メソポタミアという言葉には「川の間」という意味があり、地理的には中東にあるティグリス川とユーフラテス川と呼ばれる著名な大河に挟まれた地域を指します。紀元前4000~5000年の原始時代においては、既に集落スタイルの集団生活が始まっていたと推測され、各地に小神殿が建築されていました。そして紀元前3500年には村落が発展し始め、都市国家が徐々に形成されることになります。今日、この地域に位置する国はイラクです。
出自が不明のシュメール人
ウルのジッグラト(ウル第三王朝)
ウルのジッグラト(ウル第三王朝)メソポタミア地域に優れた古代文明を築きあげ、ウルやキシュなど、多くの古代都市を造営したのがシュメール人です。彼らは元来メソポタミア地域の原住民ではなく、どこからともなくメソポタミアの南部に移住してきたと言われており、そのルーツを探る手がかりはないようです。
このシュメール人の手により紀元前2100年にはウル第3王朝が栄え、シュメール文化の繁栄は頂点を迎えます。
優れたシュメール文化の特色
シュメール文化の特色は、まず高度な天文学にあります。今日カレンダーで使われている週7日という暦はシュメール文化から生まれたものと言われています。シュメール人は大麦をはじめとした各種穀物を大規模に栽培し、牛や豚などの家畜も飼育していました。また、優れた土木や灌漑の技術を携え、メソポタミアの各地に水路を張り巡らして農地に水を引き、牛を使って地面を耕したことでも知られています。
青銅器や彩文土器などを製造する技術も有し、楔型文字を用いていたことでも有名です。この楔型文字は、メソポタミア地域において言語を表記する手段として長年用いられ、ウル第3王朝時には最古の法典まで書き上げられたのです。
消えたシュメール人の行方
ところがこの偉大な古代文化を築き上げたシュメール人は、紀元前2000年頃、歴史からふと、姿を消してしまいました。アモラ人などの他民族の侵入がシュメール人の失踪の直接の原因であったという説もあります。いずれにしても、メソポタミアから突如として消え去ったシュメール人は、どこに移住したのでしょうか?新しい移動先の新天地において、どのような働きをもって、さらなる文明開化に貢献したのでしょうか。
おそらくシュメール人の多くはアジア大陸を太陽が昇る東の方面へと向かい、現在の中国周辺まで達して東夷の文化圏を構成したのではないかと推測されます。そして中国の歴史においても、その後、多大なる影響を与えたと考えられます。また、一部の民は地中海へと向けて北西へと進み、最終的にはその沿岸まで到達したのではないでしょうか。その結果、西アジアの末端でもシュメール文化の恩恵を受諾することとなり、後世においてはイスラエル国家を創立する布石を置くことになったと考えられます。
それから長い年月を経て歴史に登場した時代の先駆者が、旧約聖書の創世記に登場する、イスラエルの祖先アブラハムです。アブラハムはシュメール文化圏の中心地でもあったウルの出身です。その文明が栄えていたウルの地から、神の命によって旅立ち、遠い北西方向に位置するハランへと向かったのです。そこから地中海沿いに南方へと旅を続け、一度はエジプトまで到達するものの、最終的には今日のイスラエルがある地域へと導かれていきます。信仰の父として今日でも世界中の人々から崇められているアブラハムの登場により、歴史が大きく動いていきます。
https://www.y-history.net/appendix/wh0101-027_1.html 【ジッグラト】
メソポタミアのシュメール人の都市に見られる神殿建築。聖塔といわれる。シュメール後の新バビロニアの時代まで造られ続けた。
ジグラト、またはジックラトゥなどとも表記する。シュメール人時代からメソポタミアで建設された神殿を祭るための塔。「聖塔」という。メソポタミア文明の都市国家の形成期に、都市神を祭る神殿とともに造営されるようになった。ウルのジッグラトが有名でほぼ完全な形で残されており、シュメール文化を代表する遺跡である。他にウルクの遺跡など、20ヵ所ほどが知られているが、破壊されたものも多い。
シュメール人の文化は前3000年ごろから前1800年ごろバビロニアに征服されて消滅するが、ジッグラトの建設はバビロニア時代にも継承され、その都のバビロンで作られたのが「バベルの塔」と考えられている。またメソポタミアの北方のエラム人の地方でもジッグラトの遺跡が見られる。
ジッグラトの形態
シュメールの都市の景観を特徴づけるのはジッグラトである。旧約聖書に記され、西欧の人びとを西アジアに惹きつけた「バベルの塔」はバビロン市に雄姿を誇る「天と地の基台」と命名された聖塔のことである。この塔は底辺の一辺約90メートルの正方形でその上に七層を積み、頂に聖堂が置かれていた。高さが90メートルはあったと推定されている。エジプトのピラミッドでは、その四辺は正確に東西南北に平行するが、メソポタミアとエラムの聖塔は、その角を東西南北の軸にあわせ、底辺はその軸に45度の角度にある。建築技法上、下の壇ほど高くして、上にいくほど一壇の高さを低くしている。それは、下から眺めたとき、遠近透視の原理にしたがって、実際以上に高く感じるような設計であるといわれている。<前田徹『都市国家の誕生』1996 世界史リブレット1 山川出版社 p.26-27>
バベルの塔
メソポタミアの都市の守護神をまつるものであったと思われるが、天の神に近づくための階段とも考えられ、『旧約聖書』に現れる「バベルの塔」はこのジッグラトの事であろうと言われている。メソポタミアは沖積平野であるため石材はなく、泥を固めた日干し煉瓦を積み上げ、アスファルトを接着剤としていた。
アッカドやバビロニアにおいても盛んにつくられ、特にバビロンでは国家神マルドゥクに関する儀礼がジッグラトの前で行われた。新バビロニア王国のネブカドネザル2世も都バビロンにジッグラトを建設した。
現在、最大のジッグラトとして知られているのは、メソポタミアの北に当たるイランで20世紀になってから発見された、エラム人が建設したと考えられるチョガ・ザンビールのもので、世界遺産に登録されている。
Episode バベルの塔
『旧約聖書』の創世記第11章第7~9節のバベルの塔の話は次のようなものである。人間が天まで届く塔を建て始めたことに立腹した神は、人々の言葉が一つであるからこのようなことを始めたと考え、「直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」と彼らをそこから全地に散らされたので、彼らは建設を止めた。主が言葉を混乱(バラル)させたので、この町をバベルと言われるようになった、という。バベルはバビロンのことであろうと言われている。
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