http://yuukou999.blog.fc2.com/blog-entry-42.html 【一粒の麦も万倍日】より
「一粒の麦もし死なずば」小説家アンドレ・ジッドの小説のタイトルです。
これは聖書のヨハネ伝の一節「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」に由来する言葉です。
ジッドは贖罪のためにこの小説を書きました。
日本にも同じような表現の言葉はありますが、意味は全く異なります。
日本の言葉は「一粒万倍」。これは開運の日となります。
「一粒万倍」とは、一粒の籾(もみ)が稲穂として万倍にもなるという意味です。
ですから、仕事を始めるとか開店するとか新しいことにチャレンジするとか貯金を始めるとか、種まきをするのに適しています。
結果が万倍になって返ってくるという縁起のいい日なのです。
逆に、物を借りたり義理を背負い込んだり借金をしたりすると、悪い種子がさらに増えてしまうので注意が必要です。
一方、天赦日という開運日もあります。
これは天の赦(ゆるす)ところの日ということで、天がすべての禍事・凶事・災難を赦す日です。仏滅やそのほかのさまざまな悪日を打ち消してくれるという吉日で、年に5~6回程度あります。そして、6月26日(水)。この日こそが、一粒万倍&天赦日で、今年の最高・最強開運日なのです。もちろん迷信と言ってしまえばそれまでです。
実際、朝廷や政府から何度も禁止令が出されてきました。しかし、どうせ何かをするなら気分よくしたほうがいいに決まっています。人生笑ったもの勝ち。
6月26日になったら幸せの種をまいてみましょうか。
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【死と再生】
中学生の頃 和多志は 「生きる意味ばかり」を求めるニヒリストでした。
授業は 興味が持てなくなると 読みたい本を読み 教室から追い出され クラス担任が担当教師に平謝りすることが何度かありました。
休憩中は職員室に入り浸りで 教師相手に「生きる意味」を問い続けました。
ある理科の教師が 「命なんて リトマス反応のようなものだよ」と言ってのけました。
その時は大ショックでしたが 命はニュートラルなエネルギーであり 人生の意味は個別で 魂が選んで決めること、そして魂の選択によってエネルギー現象が変化することを 実感するようになりました。生きる意味は自分が選んで作り出すという意味になります。
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ある国語教師は「死ねる自由がある者と 無い者とでは どちらが幸せか」と和多志に尋ねました。和多志が「行き着く先が墓場だから 好きなことをして、切羽詰れば死ねばよい」と断言し 自分を満たしてくれるものを求め始めたからです。
「幸せの青い鳥探し」を始めたのかもしれません。
生きる意味も、自分を満たしてくれるものも 外に求め続ける限りは決して 掴み得ないものでした。
喉の乾きを潤すために塩水を飲み ますます乾きに苦しみ 喘ぎ続けた思春期でした。
しかし死の自由とはなにでしょう?和多志たちは日々新しい存在で新陳代謝そのものがそれを示唆します。
和多志たちは体に宿った時から死と再生を 繰り返し 成長します。
胎児に死に乳児に生まれ 幼児に死に小学生となり 子どもに死に大人に生まれ………
死と再生はセットといえます。
和多志たちは 動物の命を食することで 罪責感を煽られますが それは人間の死への恐怖の投影現象と言えるのではないでしょうか?
命は命の循環によって支えられます。
肉体の死を白装束で祝う文化も 喪服で嘆く文化も存在します。
聖書には一粒の麦が死ぬことにより 千倍、万倍の麦の命を結ぶ譬え話があります。
同じく聖書の創造物語では 人間が 動物、植物を(感謝を持って)食することは 祝福されています。また命は循環することで 進化の過程をたどります。
動物が死を恐るとは 人間の勝手な感情移入かもしれません。
そのうえ「奇跡の脳」の著者ジル・ボルト・ティラーさん(左脳出血から立ち直った 神経細胞学者)は 人間の脳は左脳が鎮まるとき「人生の思い出から切り離され、神の恵みのような感覚に浸り、心が和んでいきました。」「意識は悟りの感覚、あるいは意識と融合して『ひとつになる』ところまで高まっていきました。」「心地よいのです。」と語ります。
人間は左脳に後悔や、思い残すことがなければ 安らかな死を迎えうるとも言えます。
思い残すことがないとは「人生でやりたいと願ったことが完了し」「自分を必要としているものが居なく」、「別れを嘆くものがいない」ことかもしれません。
あるいは人生に飽き飽きしていることかもしれません。
いずれにしても 生と死はセットであり 死が前提の(他の死によって支えられる)命の歩みを感謝を持って歩みたいと願います。
facebook詩人 木村浩欣さん投稿記事
あのね、私たちは明日の幸福に顔を向けている、しかしだ、私たちが当たり前だと思っている、この今日の街の豊かさの中に、「どうやって死のうか」なんて考えている人がいる訳だよ。
誰かを幸せにしようとして猛烈に頑張ってる人もいるし馬鹿みたいに誰かを不幸にしようと、ぐりぐり頑張っちゃってるお馬鹿さんもいる。
幸福だけが街の真実じゃない。今日、街ですれ違った誰かは、「いつ死のうか、どうやって死のうか」と、深刻な悲しみ苦しみに藻掻いた心を抱えているかもしれないのだよ。
あらゆる色が混ざり合った街に暮らすということは、そういう真っ黒な心ともすれ違うということ。
だからね、祈ろうよ。何も出きなくていいのだよ。下手なアプローチをすると、間違いも生まれる。だけどね、知ってるか知らないかは、全然違う。
私たちの想いは必ず通じる。神でも仏陀でもキリストでもいい、一人でも一日でも早く多く、
苦しみが消えますように悲しみが喜びに変わりますようにと、祈ろう。
祈りを胸に収めて街を歩こう。なにも出来なくていいの、不可思議なる救いの力をイメージして、その「気」を胸に輝かせて、普通に自分を生きるのです。それだけでいいの。
私たちの胸に輝く祈りの気が、必ず誰かに伝わる。愛の気が愛の気を呼んで結びが生まれて、
大きな塊になって、やがて、必ず誰かを救うことになる。失敗してもいい、転んでもいい、
でも、諦めない。光明真言でもいいし南無観世音菩薩でもいい、南無キリスト大如来でもいいし、惟神たまちはえませ。でもいい。
「私たちみんなの救いと咲き栄え」を、何時でも何処でも祈念できる自分を用意しておくのだよ。全ては「気」から生まれる。「気」は瞬時に伝わる。
その気になって初めて行動が生まれ、結果が生まれる。難しい事じゃないんだ。
苦しみが救われ喜びが生まれますように、憎しみが許しと慈悲に変わりますように、
皆の望む喜びがそれぞれの方々に訪れますように、と、その心をシッカリと持ち続ける事なんだ。出会わなくていい、会話もしなくていい、介入しなくていい、他人のままでいい、
胸に愛の祈りの気をシッカリと持ち続けていれば、それが、必ず空気感染して、どこかで何かの救いと喜びを生み出す。
祈ろう。自分だけでなく、「私たちみんなの幸福」のために。合掌・感謝・浩欣。
facebookディヤン ムディトさん投稿記事
66、年を取ることについて<OSHOの講話より>
質問:西洋の社会では、少なくとも若さが全てである、と考えられています。しかし、必然的な結果として、人は若さから遠ざかるにつれて、もはや誕生日というものがお祝いの要因ではなく、生の、厄介な、避けられない事実になってしまいます。
人に年齢を尋ねるのは失礼なことになり、白髪を染めたり、歯に被せたり、総入歯にしたり、たるんだ胸と顔を持ち上げたり、お腹のたるみを取ったり、静脈の腫れを押さえたりしなければなりません・・・でも、それは全て内密のうちにです。
確かにもし誰かが、年齢通りに見えると言ったとしても、それを誉め言葉と取ることはありません。年を取ることについて、話して頂けますか?
西洋のマインドは、人生はひとつしかなく、それは70年で、若さは決して戻って来ない、という観念で条件付けられている。西洋では、春は一度しか来ない。
当然、自分はまだ若いということに、出来る限り長く執着し、あらゆる可能な方法で、自分はまだ若いという振りをする、深い欲望がある。
だが東洋では、生とは、若さが一度しかやって来ないような、70年というひとつの小さな欠片(かけら)ではない、という考えだった。
その考えは、ちょうど存在の中で、全てのことが永遠に動くように、夏が来て、雨が降り、冬が来て、そして再び夏が・・・全てのことが、車輪のように動いている、ということだ。生も、例外ではない。
死は、ひとつの車輪の終わりであり、もうひとつの車輪の始まりでもある。再びあなたは子供になり、再び娘になり、そして再び年を取る。それは最初からそうであって、まさに最後までそうだろう・・・。
悪循環から飛び出して、全く違った法の中に入ることが出来るほど、あなたが光明を得たら、あなたは個人であることから、宇宙の中に飛び込むことが出来る。
だから、ひとつには、生は一度しかないという考えのせいで、西洋は若くあることに関わり過ぎている。そこで、出来る限り若く保つために、そのプロセスを引き延ばすために、全てのことがなされている。
それが偽善を生み出し、真正な成長を壊し、あなたが老いを憎むゆえに、その老いの中で、あなたが本当に賢くなるのを妨げている・・・。
というのは、老いは、死以外の何も思い起させず、完全なる停止が遠くはないことを、意味しているからだ。あなたは、終着駅に着いた。まさに、あと1回汽笛が鳴ると、汽車は止まる。
人々は、若さを保とうとしている。だが、若さを失ってしまうという、まさにその恐れが、充分に青春を生き抜くことを許さない、ということが、彼らには分からない。
ふたつ目に、若さを失うという恐れは、年を取るということを、優雅に受け容れさせない。あなたは若さ・・・その楽しさ、その強烈さ・・・を失う。そして、老いがもたらす優雅さ、賢さ、安らぎをもまた失う。
しかし、ものごと全体は、生の誤った概念の上に、築かれている。西洋が、人生はひとつしかない、という考えを変えない限り、この偽善、執着、恐怖は、変わり得ない。
そして事実、生は一度ではない。あなたは何世も生きて来たし、これからさらに、何世も生きるだろう。
だからこそ、それぞれの瞬間を出来る限り、全体的に生きなさい。次の瞬間に、急いで飛びつくことはない。時は、金ではない。時は、尽きることがない。
そして金持ちでも、貧乏人でも、変わりなく利用できる。時間に関する限り、金持ちの方がさらに金持ちだ、ということもなく、貧乏人の方がさらに貧乏だ、ということもない。
生は、永遠に滅びることのない顕現だ。 表面に現れるものが、西洋の宗教には、とても深く根を下ろしている。それらはあなたに、70年の人生しか与えないほど、まさにケチだ。
そして、たとえあなたが、それを何とかしようとしても、人生のほとんど3分の1が、睡眠で失われ、残りの3分の1が、衣食住に無益に使われる。
残されているものが、どんなに少なかろうとも、それは教育に、フットボールの試合に、映画に、愚かな口喧嘩に、争いに割(さ)かれねばならない。
70年間に、自分自身のために7分間節約できたら、私はあなたを、賢明な人の1人と見なす。しかし、あなたの人生において、7分間でさえ節約するのは難しい。
どうしてあなたは、自分を見つけることが出来るだろう?どうしてあなたは、自分の存在の、自分の生の神秘を、知ることが出来るだろう?どうして死が、終局ではないということを、理解できるだろう?
あなたは人生そのものを、経験しそこなっているから、死の偉大な経験をも、取り逃がそうとしている。さもなければ、死んで行くのを恐れることは何もない。
それは美しい眠り、夢のない眠りだ。あなたが、別の身体に移って行くのに必要な眠りだ・・・静かに、平穏に。それは、手術に似た現象であり、ほとんど麻酔のようなものだ。
死は敵ではなく、友達だ。ひとたびあなたが、死を友達として理解し、生は、わずか70年の短い時間でしかない、という恐れを持たずに、生を生き始めたら・・・。
もしあなたの視野が、生の永遠性に対して開いたら、そうなったら、全てのことがゆっくりとなる。そうなったら、急ぐ必要はない。あらゆることで、人々はただ、急いでいるに過ぎない。
私は人々が、仕事用のバッグを取って、それに物を押し込み、妻にキスをして・・・彼女が妻なのか、他の誰なのか見ようともせず・・・子供達に「さようなら」を言っているのを、見て来た・・・これは、生きる道ではない。
それに、この速度で、どこに行き着くというのかね? 速度が、目的地よりも重要になってしまった。しかも生は短く、多くのことをしなければならないから、速度はますます重要になっている。もし、急いでそれをしないと、あなたは、上手く成し遂げることが出来ない。
あなたは、ほんの2,3分でさえ、静かに坐ることが出来ない・・・それは無駄に思えるからだ。この2,3分の間に、あなたは、少しでも金を稼げたかもしれない。ただ時間を無駄に使い、目を閉じている・・・が、そこには、あなたの内側には、何があるかね?
西洋には、神秘主義の伝統がない。それは外向的だ。外に向かっている・・・とてもたくさん見るものがある・・・だが、内側には骸骨しかないのではなく、その骸骨の内側には、もっと何かがある、ということに気づいていない。
それは、あなたの意識だ。目を閉じることによって、あなたは骸骨に出会うのではない。あなたは、自分の生の源泉そのものに出会う。
西洋には、自らの生の源泉に、深くなじむことが必要だ。そうなったら、急ぐことはなくなる。
生が、若さをもたらす時にも、人は楽しみ、生が、老年をもたらす時にも、人は楽しみ、生が、死をもたらす時にも、人は楽しむ。
人は、ただひとつのことを知る・・・出会う全てのことを、いかに楽しむか、それをいかに祝祭に変容させるかを。
私は、それを真正な宗教・・・全てのことを祝祭に、歌に、踊りに変容させる、アートと呼ぶ。
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