Facebook近藤裕子さん投稿記事 ☘️ポジティブに生きる☘️
「諦観」 ていかん たいかん
本質をはっきり見きわめること、また、あきらめ悟って超然とすることを意味します。
「諦める」は 断念する、あきらめることの意味で使われる言葉ですが、「諦観」は仏教用語で、。真理=因果の道理を〈あきらかにみる〉ことを意味しており、悪いことが起こった時には、その原因がどこにあるかをはっきりみるべきという教えです。
仏教の教えからわかるように、「諦観」は断念というよりも〈執着しない〉、〈諦めるべき理由を受け入れる〉という意味合いであるようです。
今をしっかり捉え、前向きに生きて行きたいものです。
✤これは私の見解です。
専門的な見方では無い観点で捉えていただければ幸いです。
✤朱鳳の「今を生きることば」(幻冬舎)もご覧ください。
https://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000qkz.html 【諦める】
一郷 正道(いちごう まさみち)(教授・仏教学)
今、日本語で「諦める」といえば、自分の願いごとが叶わずそれへの思いを断ちきる、という意味で使われるのが一般だ。しかし、「諦観(たい(てい)かん)」、「諦聴(たい(てい)ちょう)」といった熟語の「つまびらかにみる、聞く」にみられるように、「つまびらかにする」「明らかにする」が、本来の意味である。そして、漢語の「諦」は、梵語のsatya(サトヤ)への訳語であって、真理、道理を意味する。
そうであれば、ものごとの道理をわきまえることによって、自分の願望が達成されない理由が明らかになり、納得して断念する、という思考のプロセスをそこに見出せる。単に「あきらめる」だけであれば、悔い、怨み、愚痴が残る。ものごとの道理が明らかになった上でのことならば、納得しての「諦らめ」となる。結婚というご縁にあずかった。諸般の事情を考慮してこのへんで「あきらめて」結婚に踏み切るか、わが身をしっかりみつめ、賜わったご縁を「諦めて」結婚するか、そこには大きな差がある。後者であれば、後で、こんなはずではなかった、と愚痴ることも少なかろう。
悟りを開かれた釈尊は、その初説法で、四つの真理(諦)を説かれたという。第一の真理は、この迷いの生存は苦である、という現状認識。第二は、その苦は飽くことなき欲望から生ずる、という原因究明。第三は、その欲望の滅した境涯が苦のない悟りであること。第四は、悟りを得るには正しい八つの方法に依るべきこと、である。ここで注意すべきは、仏教が、我々の苦悩の原因を、我々の飽くなき欲望、我々の無知に帰している点である。ややもすると、我々は、自分の苦悩は、社会が悪いから、あの人のせいだからしょうがないといって、「あきらめる」ことでよしとする。逆に、それは自分の欲望、無知に基因すると「諦める」ことができれば、現状を受け入れ、解決の方法をみつけやすい。
それでは、この四つの真理に通ずる仏教の根本道理とは何か。それは、一切は相対的な存在でしかない、と諦らめ、執着しないことである。
https://rinnou.net/story/2482/ 【諦観~あるがままに受け取る~】より
(出典:書き下ろし)
南禅寺派・桂雲寺住職 夏秋尚孝 師
仏教において老いの苦(老苦)を取り除く方法は、老いとはどうしようもないことであると「諦める」ことです。これだと取り付く島もありませんので、もう少し詳しく申します。
老苦を除くためには、まずは老苦の原因を突き止めなければいけません。膝や腰が痛くなる、体力が落ちる、老眼になる、しわができる、食が細くなり好きな物が食べられなくなる、こういったことは確かに苦しみの原因です。しかし、根本の原因ではありません。私たちは生きていく上で、様々な心身の変化、それに伴う痛みを受けます。それは誰にでもやってくる、どうしようもないことです。しかし、このどうしようもないことを「絶対に嫌だ」と過剰に思ったり、「なんとかなるんじゃないか」と間違った見方をしたり、また自分の都合の善し悪しだけで考え方をしてしまう事が、根本の原因です。
「諦める」とは一般的には途中でやめる、放棄、断念、ギブアップなど、マイナスイメージで使われることが多いと思いますが、仏教では「諦める」とは物事をはっきり明確に観察する、把握することであり、「諦観ていかん」と言います。
己の都合の善し悪しや他との比較、また感情に振り回されたり、自分勝手な思い込み、そういったことを行わず、世界を、他人を、自分自身をありのままに見て、受け取る事が「諦める」ことであり、苦しみを除く方法なのです。
そして、ありのままに受け取るとそれらが、かけがえのない素晴らしいことであると気付きます。一瞬一瞬変化していく自然の風景、四季折々の変化、何気ない日常、自分や他人の喜び事、また逆に事故や災害などの不幸な事、それらをありのままに受け取る事で、較べない美しさ、日常の有り難さ、嫉妬の無い喜び、悲しみに寄り添う心、といった安心の世界に住むことができます。
膝や腰が痛くなる、体力が落ちる、老眼になる、しわができる、食が細くなり好きな物が食べられなくなる、こういった心身の変化、痛みでさえ他の誰もなしえない、一日一日、一年一年、過ごし生きてきた自分、皆さんだからこそ感じることができる、かけがえのない事なのです。それは老いの終着点、どうしようもない別れに於いても言えることです。どうしようもない別れに際し、「諦観」することで、命の輝きが見え、後悔のない悲しみと感謝という心の安らかさに繋がります。
私が住職を務めているお寺の檀家さんで非常に信心の深いご夫妻が居られ、犬を飼っておられました。名前をチャッキー、犬種はミニチュアプードルで室内犬かと思いきや、ご主人の鶴の一声、「犬は番犬、だから外!」との言葉で、野性味あふれるミニチュアプードルに育ちました。私がお参りに伺うと家に入るまでは吠え、迎え入れられるとピタッと鳴き止む良い番犬でした。
チャッキーは朝晩の散歩のお供として、また孫の遊び相手として共に成長し、巣立っていく孫を見送り、時折帰省する孫を尻尾フリフリで迎えていました。しかしそんなチャッキーも15歳になり、体調を崩すようになりましたが、これまた良いお嫁さんが居られ、その介護を受けて回復し、以前よりスローペースになったご主人の散歩のお供を務めていました。しかし、いよいよ別れの時です。ご主人は水も飲めなくなったチャッキーに付きっきりで「きつかろう、苦しかろう、でもどがんもしきらん、どがんしゅんなか(なにもできない、どうしようもない)」と寂しそうに哀しそうに言いながら、身体を擦り温めておられました。奥さんはその姿を見て、同じように「どがんしゅんなか(どうしようもない)」と思いながら看病し、亡くなる前に「ありがとう」と言われ、自宅で見送った義理の父母を思い出したそうです。
チャッキーは水を浸した脱脂綿で口を湿らせると、最後に「ワン」と一声上げて、旅立って逝きました。その日の夕方、ご主人は「涙の出て、どがんしゅんなか(涙が出て、どうしようもない)」と呟き、奥さんも涙が零れ、そして「どうか安らかに」とチャッキーに手を合わせました。私もお参りに伺った際、チャッキーに手を合わせ、思い出話を聞かせてもらいました。楽しい話、失敗した話、叱った話、色々な話をしましたが、ご夫妻共におっしゃる事は、「飼って良かった」「一緒に年をとってくれた」「ありがとう」という事ばかりでした。別れたことの悲しさ、寂しさは感じましたが、決して後悔や苦しんでおられる様子はありませんでした。
命との別れはどうしても悲しみがあります。しかし「諦観」することでその悲しみは、感謝と祈り、そして心の安らかさに繋がります。どうぞ、物事をあるがままに受け取り、かけがえのない素晴らしい世界で過ごして参りましょう。
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