桓武天皇・東漢氏と壁谷

https://kabeya.amebaownd.com/posts/5622917/ 【23. 桓武天皇・東漢氏と壁谷(再構築中)】より

聖徳太子や蘇我(そが)氏を支えていたのは渡来人の一大勢力「東漢(やまとのあや)氏」だった。東漢氏の一族で、その主流と記録される坂上田村麻呂(さかのうえ-たむらまろ)は征夷大将軍となると東国遠征で大きな成果を上げた。後に東北の地を領した田村庄司氏そして戦国大名となった田村氏らは、ともにこの田村麻呂の末裔を称していた。

江戸時代に田村氏の旧領(現在の福島県田村郡)を引き継いだ三春藩の藩士名簿には複数の壁谷の名前が確認でき、また関東各地に残る複数の壁谷の旧家に、坂上田村麻呂の東征に随行したという家伝が現在も語り継がれている。壁谷の一族らは早くからこれらの地方拠点を衛る役目を担わされたか、もしくは田村氏(東漢氏の末裔とされる)や開拓の主力だった秦氏(はた-し:東漢氏に並ぶ有力な渡来人)らの地方拠点への移動に伴い、分散していったのではないだろうか。

本稿では、蘇我氏や上宮王家そしてそれを継いだ天武天皇の系統に渡ってその屋台骨を支え続けた東漢(やまとのあや)氏の一族に絞り、平安初期のころまで「下野(しもつけ)国の都賀(つが)郡」(現在の栃木県栃木市周辺)を中心に一大拠点を持っていたことを示す。次いで桓武天皇の時代、壬申の乱で勝利した天武系の皇統は絶やされ、敗れた天智天皇の皇統に切り替えを完了した。東漢氏らは中央で権力を失うと、関東地方(栃木県、埼玉県から東北)や中国地方(出雲方面)にあった地方の拠点に散逸していったことを考察する。

-----------------------------

※本稿は煩雑かつ長編となった第21稿の内容を「上宮王家と壁谷の関係」、「上宮王家が逃げ延びた栃木・埼玉の地」「東漢氏の出自と桓武天皇との相克」の3つに分け、3番目を抜きだして再構築中の内容である。古代の史実を追って聖徳太子や壁谷の一族が下野(しもつけ)に移ったとする第21稿の背景を考察し補強するものである。内容は若干難解となる一方で、壁谷そのものの去就は「聖徳太子(上宮王家)と壁谷」に関する他稿に譲る。

------------------------------

東漢(やまとのあや)氏とは

2008年、被葬者は東漢氏の首長級に違いないとされる奈良県明日香村の真弓鑵子(かんす)塚古墳(6世記中頃)が、本格的に調査され、畳18畳分もの玄室は国内最大級とされることがわかった。それまでは蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(7世紀前半)が最大とされていた。このことは、東漢氏の当時の勢力のもの凄さを今に伝えている。

「漢」の字には元来「あや」の読みはなく「東漢(やまとのあや)」と読むのは借り字であろう。『渡来人の謎』によれば「あや」は朝鮮半島南端にあった「伽耶(かや:現在の韓国慶尚南道安付近)」の有力国「阿邪(あや)」が語源であり、動乱があるたびに対馬を経由して大量に渡来人が流入してきたため、彼らをまとめて東漢氏と呼ぶようになったのではないかとする。

阿邪は安羅とも書かれ『日本書紀』欽明天皇二年七月の条で「安羅日本府」とされる。この地は一定の年齢以上の方には「任那(みまな/にまな)日本府」と言った方がわかるだろう。筆者が学んだ時代の教科書には、そう記載されていた。この「任那」は『日本書紀』雄略天皇八年二月の条に実際に登場するが、各種の事情から現在は扱われなくなっている。

※一方で近年の発掘成果からは「任那」の実在が徐々に明らかになってきている。

『渡来人の謎』では、渡来人の流入時期に大きな三度のピークがあり、いずれも日本で大きな政変や混乱があった時期と重なるとしている。一回目は「四世紀末から五世紀初頭」、倭国が急速に国力を蓄え、朝鮮半島に触手を伸ばして高句麗と激突することになった頃だ。その顛末は「好太王の碑」に刻まれ、百済と協力した倭国が高句麗(こうくり)と戦って敗退した。この時期に友好関係にあった百済を経由し、大量に渡来人が日本に来ていたことが容易に推測できよう。

二回目のピークは、「五世紀後半から六世紀初頭」、倭王武(ぶ)つまり「雄略天皇」の時代だ。朝鮮半島では高句麗の侵攻を受けた、百済は都の漢城(現在のソウル)が陥落、国王も殺害され国土の大半を失った。それは『三国史記』の百済本記や『日本書紀』が「百済記(現存せず)」を引いたとする記述に西暦475年の出来事として記載されている。この戦乱を逃れた大量の百済人が日本に流入してきた。『日本書紀』雄略天皇紀には「今来漢(いまきのあや)」が多数来日し、当時の今来郷(いまきのこうり:現在の奈良県高市郡)と名付けられた地に移住させられたと記録し、『新撰姓氏録』も雄略天皇の時代に大量の渡来人が来たことを記録している。

埼玉(さきたま)稲荷山古墳で発掘された鉄剣の象嵌(ぞうがん)に記された倭王武の「辛亥年」は西暦471年とされるが、この倭王「武」も第21代の雄略天皇とするのが現在の定説だ。百済の都だった漢城が陥落した475年とも近い。この時代から約100年にわたって、大王の宮殿(皇居)は南大和の磐余(いわれ:現在の奈良県橿原市から桜井市にかけた天香久山の東北麓の周辺)に集中し、一方で埼玉を中心とした関東にも強大な拠点があったことがわかる。古代のヤマト政権にとってもエポックとなる時期であった。

※渡来人の来日のピークが再び来ていたことを「今来漢」は示している。この時期は日本では皇統の争いが続き多くの皇子が抹殺され、大臣(おおおみ)とされた平郡(へぐり)氏も滅んでいた。その後応神天皇から続くとされる雄略天皇の皇統も次の清寧天皇(白髪皇子)で途絶える。本稿ではこれ以上触れないが、日本の皇統の切り替わりは、朝鮮半島の動乱に介入による責任問題の帰趨や、大量に来日した渡来人の勢力による急激な生産力の向上により、古来豪族と新興勢力の間で争いが激化したことが大きく関わっていたと思われる。

※倭王武に関して雄略天皇とする根拠を見直す動きもある。

最後となる三回目のピークは「七世紀後半」である。唐・新羅の連合軍に破れ百済が完全に滅亡した西暦660年前後だ。この時期、渡来人の数は過去最大だったと思われる。645年に「乙巳の変」で蘇我蝦夷・入鹿親子が滅ろび、660年には朝鮮半島の百済も滅んだ。西暦663年には孝徳天皇・中大兄皇子らを中心として朝鮮半島に攻め上がるが「白村江の戦い」で惨敗し、百済再興は叶わなかった。

『日本書紀』では、この時期の出来事についてはあまり触れておらず不明な点が多々ある。国内外の政変や混乱で資料が逸失した可能性もあるが、一方で政権の都合で意図的に記されなかった可能性もあるのだろう。

※『旧唐書』で百済国の王子とされる余豊璋(扶余豊璋)が記録され、『日本書紀』には日本に一時滞在したと記される。『日本書紀の暗号』(講談社)では、この余豊璋はのちの天智天皇(中大兄皇子)だという説を展開する。壬申の乱でその皇統は一敗地にまみれ、孫の白壁王が天皇となり、百済の王族の末裔(日本名、高野新笠)を夫人(ぶじん)に昇格させる。その子が「桓武天皇」だ。一方余豊璋は藤原鎌足だとする説もある。これらの説は確かに荒唐無稽、確かな証拠となる裏付けはない。しかしそれらの可能性を全否定することもできまい。百済からの渡来人と百済再興が、日本の古代史の趨勢に大きな影響を与えていたことは疑いのない事実だ。

唐・新羅の連合軍は、百済を滅ぼした勢いで668年には高句麗も滅ぼした。これによって新羅が朝鮮半島を統一したことになる。滅亡直前の666年に高麗(高句麗)から来日した若光(じゃっこう)が『日本書紀』に記されており、『続日本紀』では高麗の「王」と称された若光の記録が残るが、この「二人の若光」も同一人物である可能性が高い。716年には武蔵国(現在の埼玉県・東京都)に関東一円の高麗人を集団移住させて高麗(こま)郡を作ったとされ、『新編武蔵国風土記』ではその地を「若光」が治めたとする。高麗群は明治まであったが現在は埼玉県日高市に吸収されている。高麗山聖天院(埼玉県日高市)にはその若光の墓とされる「高麗王廟」があり、近くには高麗(こま)川が流れ、西武鉄道に高麗駅もある。

高句麗の遺臣がその後朝鮮半島に建国したのは渤海国である。当時の渤海の都にあった「壁谷県」についてはすでに別稿で触れている。日本は当初、渤海国との交流が深く35回ほどの渤海使が記録されている。811年には、坂上田村麻呂もこの「渤海使」を饗応する役目を担っている。渤海と日本との関係は深かったが、桓武天皇以降は次第に唐との関係が中心となり、渤海は冷遇されるようになり、ついには追い返されるまでになって途絶えた。桓武天皇の実母が百済系の渡来人だった高野新笠(和新笠:やまとのにいがさ)だったことも忘れてはならない。

※現在の東京都狛江(こまえ)市の名も、高句麗・渤海の人たちが居住した当時の高麗(こま)郡の名が由来ともされる。また埼玉県和光市にある白子(しらこ)の地名は新羅がなまったものとも伝えられる。筆者が推測するに、高句麗の王族で関東の移住地を治めたとされる若光(じゃっこう)の名が、後世に若光(わこう)と読まれ、現在の埼玉県和光(わこう)市に繋がったのではないだろうか。、

渡来人たちを関東地方に大量移住させたのは、関東開拓に技術力(それに伴う資金力)が必要になったからだろう。私見であるが、主に近畿圏に百済系の渡来人を移住させ、関東圏には高麗系の渡来人を配置するなど居住地を分けることで、天智天皇系が支援した百済系と、天武天皇系と推測できる新羅・高麗系の争いを避けた可能性もあろう。こうして西に移住した一団が西漢(かわちのあや)氏で、東国に移住させられた一団が東漢(やまとのあや)氏と後世になって呼ばれた可能性も推測できる。合わせ考えると、桓武天皇以降に百済系と唐との関りを深め、新羅・高句麗・渤海系は京から排除されて関東・東北に移住させられ、結果として「壁谷」が関東に多く移住したという推測も成り立ちうるかもしれない。

『新撰姓氏録』にみる東漢氏と坂上氏

『新撰姓氏録』は、平安時代初期の弘仁6年(815年)に嵯峨天皇が編纂させた、京および機内の古代氏族1182氏を、その出自により分類して祖先を明らかにしようとしたものだ。その「諸蕃」には「東漢氏」の一族として坂上田村麻呂が属した「坂上氏」が掲載される。

※『説文解字』では「蕃」を「屏なり」とし、古代中国で皇帝に従う属国らが周囲に「屏(城壁)」を巡らして自衛していたことを「蕃」と呼んだことに由来する。日本では平安時代に渡来人を諸蕃と呼ぶようになり、明治時代になって使われるようになる「藩」の語源にもなった。

現存するのは妙本(抜粋)であり不明な点も多いが、九世紀後半から江戸初期のころまで書き継がれたとされる『坂上系図』には『新撰姓氏録』の「右京諸蕃(うきょうしょばん)上、坂上大宿禰(さかがみのおおすくね)の条」の原本に書かれていたとされる内容が記録されており、これは逸文(いつぶん)と呼ばれる。

そこから東漢氏や坂上氏の出自がわかる。まず第15代応神天皇のとき(雄略天皇の祖父、したがって二度目の渡来人のピークの始まりのころ)に来日した「阿智王」が「七姓の漢人」を連れて日本に帰化し「阿智使主(あちのおみ)」の日本名と、大和国の南部に「檜前郡郷(ひのくまのいおり)」を賜った。その後、高麗(当時の高句麗)、百済、新羅など各地に居住していた人々が続々と来日し、同じく大和国の南部に定住させられ、その地は「今来(いまき)郷」と呼ばれ後に「高市郷(たけちのこおり)」(現在の奈良県高市郡)と呼ばれることになった。つまり、東漢氏は実は固有の氏族ではなく、単に渡来人の集団だった。阿智王が朝鮮半島から連れて来て高市郷に住し、後世に七つの姓(しょう:家系)と呼ばれた一団をまとめて通称「東漢(やまとのあや)」氏と呼んだことになる。

次いで、その阿智使主の子とされる「都賀使主(つかのおみ)」の条では、第21代雄略天皇のとき(二度目の渡来人のピークのとき)にヤマト政権下で一定の地位を得るに至り、「直(あたい)」の姓(かばね:朝廷内の地位)を賜った。『日本書紀』雄略7年の条の記事にも同じ記事が見える。「天皇(中略)詔して東漢直掬(やまとのあやのあたいの-つか)に命せて、新漢(いまきのあや)(中略)らを、上桃原、下桃原、真神原の三所に遷し居らむ」とあり、さらに新たな土地に移し居住地域がさらに広がったことがわかる。

※新しい土地が与えれたとされるが、これは土地を新たに開拓して領地としたことを意味する。渡来人の開拓能力は極めて高かった。

ここで登場する「掬(つか)」は「都賀(つか)」をさしている。また、「桃原の地」とは、『日本書紀』が馬子の墓を「桃原の墓」とも記していることから、のちに蘇我馬子の石舞台古墳ができる奈良県高市郡明日香村島庄(しまのしょう)付近であると比定できる。ここから東漢氏と蘇我氏の関係が大変深く、そのことが蘇我氏が力をつけた理由にも思われる。『日本書紀』雄略紀23年(479年か)8月7日の条では、この東漢掬が、当時の実力者だった大伴室屋とともに星川皇子を攻め滅ぼし(「星川皇子の乱」)、第22代清寧天皇が即位することとなった。

※雄略天皇と清寧天皇の親子の和風諡号には「長谷(古事記名)」「白髪」が含まれ「長谷王」「白髪王」ともされる。白髪は後に「白壁」と書かれ、平安時代に「真壁」と改称された。この二人の天皇と壁谷の氏の名との関りについては、渡来人を研究している卓見ある先達から具体的なご指摘をいただいており、別稿で触れていきたい。

子の「志努直(しぬのあたい)」が坂上の地に居住したのだろう、初めて坂上氏と名のったとされる。志努直の子に「駒子直(こまこのあたい)」がいるが、彼こそ『日本書紀』で蘇我馬子の命を受け、崇峻天皇を暗殺したと記録される「東漢駒(やまとのあやのこま)」であり(『渡来氏族の謎』による。)さらに、その5代の子孫が恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で活躍した「坂上苅田麻呂(かりたまろ)」、そしてその子が有名な「坂上田村麻呂(たむらまろ)」となる。これらのことから、田村麻呂の祖先が蘇我氏と大変関係が深く、皇位継承や有力豪族の排斥に深く関わるほどの武力を行使し、地位を高めていったことがわかる。

「檜前(ひのくま)」と「都賀(つが)」

東漢氏の始まりが「第15代応神天皇」の時代であり、坂上氏の始まりが「第21代雄略天皇」の時代とされているのは大変興味深い。つまり東漢氏は、二度目の渡来人のピークの時に渡来した一団と言えそうだ。「倭の五王」の時代であり、そのころのヤマト政権が本拠地としていたのは、世界最大級の古墳が並ぶ現在の河内地区(現在の東大阪)であった。

『和名類聚抄』によれば、東漢氏の祖である阿智使主が最初に与えられたとさるのは、纏向遺跡や三輪山、耳成山、天香具山がある「桜井(さくらい)」(現在の奈良県桜井市付近)の地からさらに奥に入った檜前(ひのくま)郡であり、当時はまったくの原野だったとされる。その原野は、東漢氏の開拓した後に、ヤマト朝廷の拠点が、この地に移ってきた。

そのことは欽明天皇稜とされる檜隈坂稜や、蘇我馬子の古墳とされる石舞台古墳、さらには高松塚古墳、野口王墓(天武・持統天皇稜)などがこの地に並ぶのが、現在の「奈良県武市郡明日香(あすか)村」近辺であることからもわかる。こうして東漢氏の開拓地は、天皇家と古代豪族「蘇我氏」の一大拠点となっていた。「檜隈部(ひのくまべ)」は欽明天皇の子、宣化天皇の時代に「檜隈廬入野(ひのくまのいほりの)にあったとされ、そこにはそこには現在も字檜前(あざ-ひのくま)の地名が残り付近には東漢氏の氏寺とされる檜隈(ひのくま)寺の跡がある。このころ蘇我氏を守ったと『日本書紀』で記述されるのも東漢氏であり、東漢氏が朝廷のために切り開き、朝廷を守るために建設した土地が、飛鳥だったといえよう。

さらには檜前の地から10kmほど北西に上がった地点(纏向の西に位置する)が聖徳太子や上宮王家の拠点となった生駒山のふもと、斑鳩(いかるが)がある。斑鳩には、大和飛鳥(高市・檜前・桜井地区)と河内国を隔てる小高い山脈(生駒山・二上山・信貴山など)の切れ目を貫通する大道が創られていたことがわかっており、現在もその痕跡が残っている。この道は後に「太子道(たいしみち)」と呼ばれる幹線道路の一つとなった。このあたり一帯も、やはり東漢氏が開拓した土地であった。

※「斑鳩(いかるが)」は、和読みすれば「まだらばと」となり、鳩を指している。古代の渡来人の最大勢力秦(はた)氏との関係は別稿で触れる。「飛鳥(とぶとり)」と関係も興味深い。

天皇家の権威を背景にした東漢氏

前稿で記した『日本書紀』の欽明天皇七年七月の条には「檜隈邑(ひのくまむら)」の「川原民直宮(かわはらのたみのあたいのみや)」が、紀伊の漁夫から良い駒(馬)を買い取りのちに見事な駿馬に成長し、龍のように飛び、鴻(おおとり)のように舞い「大内丘の谷を超えて渡った」と言う記事がある。『日本書紀』は後世にかかれており、空を飛ぶ馬という内容から、何かを象徴する伝説的な話として脚色が加えられていることが推測される。

『渡来人の謎』ではこの「川原民直宮」は「東漢氏」の「民(みたみ)氏」だと断言している。『続日本紀』によれば称徳天皇は「天翔け」によって天上からの視点で臣下の悪だくみを見極めて罰するとしてもいる。これらのことから、藤原氏のもと、天武・持統朝なきあとも天皇の命を受けて天を駆ける駿馬が臣下を監視し続けていることを意味していたのかもしれない。その駿馬にのった東漢氏が天皇家の権力を背景にして厳然とした強い武力を持ち続けていたということにもなろう

しかし駿馬が飛び越えたとされる大内丘は『日本書紀』の完成当時にその威容を誇っていたと思われる野口王墓「天武・持統天皇稜」がある現在の現在の奈良県明日香村野口である。天武・持統陵のある大内丘は当時の皇統にとって、極めて神聖な地に間違いはなかっただろう。そんな神聖な地を駿馬が飛び越えてしまったと、わざわざ『日本書紀』に記すのは深遠なる意味があったとも言えそうだ。『日本書紀』の編纂を詔したのは天武天皇であり、完成したのはその孫にあたる元明天皇のときだ。しかしその編纂を事実上主導していたのは、おそらくは天智系だった藤原不比等だった。ここにも、天武系の皇統と不比等に続く藤原氏の間に続く相剋が見え隠れする気がする。

『和名類聚抄』によれば、渡来人が開拓したとされる大和国の高市郡には、東漢氏の拠点だった檜前(ひのくま)のほかに、波多(はた)、そして巨勢(こせ)もあった。波多はもちろん、渡来人の秦(はた)氏による名であろう。東漢氏の本拠地である檜前(ひのくま)とつながる大道は、檜前から南西に抜け吉野、紀伊につながる「巨勢道(こせのみち)」と、北上して西の河内に抜ける「太子道(たいしみち)」の2本があった。明日香の盆地からこの2本の道以外では険しい山越えをしない限り、当時の一方の中心地であった河内や紀の国に抜けることはできなかった。この付近の地形図を見れば、そのことは素人目にも明らかだろう。東漢氏は、太子道、巨勢道といった、幹線道路の警備も担当、強大な生産力・財力そして開拓力を持っていた秦氏との強い協力関係を以て当時の朝廷を維持していた。

『聖徳太子伝暦』や『聖徳太子補闕記』には、聖徳太子の愛馬だった甲斐の黒駒がやはり空を駆けた話が載る。

『伝暦』推古六年の条から引用

夏四月、太子、左右に命じて、良き馬を求めしむ。諸国に府(おほせ)て貢らしむ。甲斐の国、一の驪駒の四脚の白き者を貢る。数百匹の中、太子、此の馬を指して曰く、是れ神馬なりと。秋九月、試みに此の馬に馭して、雲に浮かべて東に去る。(中略)吾、此の馬に騎り、雲を躡み霧を凌ぎて、直ちに富士獄の上に到る。転じて信濃に到る。飛ぶこと雷電の如し。

※「驪」は『説文解字』に「馬の深く黒き色なり」とある。

東漢氏(やまとのあや)の坂上氏

その後も大きな政変は勃発するが、正統な天武系の皇統を堅持するために、東漢氏の存在感がますます高まっていったと思われる。天平宝字八年(764年)の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱でも東漢氏の本流とされる坂上苅田麻呂が、桓武天皇の蝦夷遠征事業ではその子、坂上田村麻呂が大活躍している。国家的な大事件や戦乱、征討には、必ず東漢氏が主力として動員され、そして決着がつくという歴史が繰り返されていった。

『日本書紀』などには、それぞれの渡来氏族が地方に大量に移住させられた記録が残る一方で、地方の『新撰姓氏録』に相当する書物は残されていない。一部残されれている『新撰姓氏録』の書名には「新撰」が付くことから、おそらくそれ以前にあった「姓氏録」の改訂があったと考えるのが自然だろう。

姓氏を騙って官位を上げようとする氏族が増えた。そのため偽の系図が出回って規制されたことなどが『続日本紀』などには記述されている。後の奥州藤原氏についても藤原氏の末裔と認めている。朝廷は、全国各地に国府を置き、国造を派遣して全国統治を行っていたはずで、このような氏族の管理は全国で一定程度は行われたはずだ。「近畿篇」としか思えない現存する『新撰姓氏録』のほかに「東国篇」や「西国篇」といった別の「姓氏録」があった可能性は高い。もしそうであれば、下野の「都賀郡」を拠点とした東漢氏の支族は、おそらくこの「東国篇」に載っていただろう。

※法隆寺「金堂薬師如来像」の光背銘を含めたいくつかの資料から、薬師寺はじめとする数々の勅願時建立は、もともと聖徳太子(上宮王家)が関わっていたともされる。下野薬師寺の建立にも関わったことが予想される。下野市の公式ページでは下野薬師寺は聖徳太子の舎人だった物部兄麻呂が建立したとしている。『日本書記』では最初の「薬猟(くすりがり)」が推古紀19年5月5日、次いで20年の條に見える。このあと薬師寺が造られることになるが、これらの点は次稿以降で触れたい。

東漢氏の地盤だった 下野「都賀郡」

以前の朝廷の勢力は「河内」にあったが、東漢氏らが飛鳥を開拓したのちは都は現在の奈良県明日香村(古代の飛鳥)である「檜前(ひのくま)」や「武市(たけち)」に移っていた。東漢氏の祖先は渡来人の「都賀使主(つかのおみ)」であった。

そこから考えれば、奈良時代に下野(現在の栃木県)の中心地だった「都賀郡」また「河内郡」という地名は、実は重要なキーワードになる得るだろう。下野にある「河内郡」には朝廷勢力(河内朝廷)の強い影響下にあったことは前稿で説明した。そして隣接する下野の「都賀郡」という地名は、「都賀使主」の子孫つまり「東漢(やまとのあや)氏」の強い影響かあった可能性を強く示唆している。

下野の「河内郡」「寒川郡」「芳賀郡」には聖徳太子の親族の皇子名の名代部が多数並んでいることは前項で示した。隣接する「都賀郡」は、おそらくは歴代の皇族の直轄地を守るための東漢氏の領地だったとも思われる。

『和名類聚抄』(巻七)「下野国都賀郡」の郷

布多(ふた)、高家(たかや/たきべ/かきべ)、山後(やましり)、山人(やまと)、田後(たしり)、「生馬(いこま)」、「委文(しとり)」、高栗(たかくり)、小山(をやま)、三嶋(みしま)、駅家(うまや※)

「都賀使(つがのおみ)」の名はこの「都賀郡」の名と一致し、また「委文(しとり)郷」は「倭文」とも書かれるが、そのまま「東漢(やまとのあや)」と読める。「高家」郷の名は、高楼があったことを匂わせるが、当時の高楼は渡来人の建築技術がないと作るのは容易ではない珍しい建物だったともされる。『日本書紀』にも東漢氏が大和(ヤマト)国に高楼(「高家」)を築いたとしている。

※倭文(しとり)は『新撰姓氏録』諸蕃で高麗系とされる後部王(しりとべおう)、後部高(しりとべのたか)氏へつながり転化して尻高(しりたか)氏となったとされる。尻高氏は坂上田村麻呂に従軍して蝦夷に攻め入り有名な大嶽根山(大滝根山)の戦いで戦功をあげたと記録される。その後尻高氏は当時は山代(やましろ)庄ともよばれていた現在の群馬県吾妻郡に尻高城(要害城)を築き、そこで「壁谷の壘(とりで)」を作っている。この壘は出城の一種であり、その周辺には壁谷の泉、壁谷川、壁谷の寄合(寄合とは、後に武士が城下町に引き上げたあとに残された集落)など現在も多数の壁谷の地名や旧跡が残る。尻高氏はその後戦国時代に真田昌幸のもと武田氏の家臣となっている。このことは別稿で触れる。

※倭文は『万葉集』にも登場する。古代の織物を意味したようで、「しずり」、「しどり」とも発音される。この引用では、ここれでは唐風の布を意図しているようだ。倭文はその後、布織物としての職業姓にもなって、現在に残っているようだ。

『万葉集』4011から引用

ちはやぶる神の社(やしろ)に照る鏡 倭文(しとり)に取り添へ

当時の「都賀郡」は現在の栃木県宇都宮市、栃木市、小山(おやま)市、下野市、結城市、足利市、阿蘇郡などの一帯から、群馬県館林市、太田市など群馬県の北部までも含む広大な地域を含んでいた。『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』の「下野」の記述には、国府は都賀(つか)郡に在り(原文:国府在都賀郡行程上三十四日下十七日)」とされている。

発掘調査の結果、当時の「都賀郡」に属する現在の栃木県栃木市「田村町」では、八世紀初めの「国庁跡」が確認されている。『図説栃木県の歴史』によれば、「国庁」跡の規模は約90m四方、「国府」の施設全体の規模は東西約540m、南北約756mにも広がり、中央には幅九メートルの大路も確認されている。「国衙(こくが)」と呼ばれる中央官庁の建物が整然と配置された様からは、あたかも平安京のような条坊制が敷かれた広大な都市だった可能性が指摘されている。

下野の国府は、朝廷勢力が強かったはずの「河内郡」ではなく、東漢氏の勢力が強かったはずの「都賀郡」にあった。当時の東国の実権は、朝廷勢力ではなく、この東漢氏が保持していたとも推測できよう。

飛鳥・奈良時代 東国の中心だった「下野」

現在の大阪平野にある「河内」は応神天皇から雄略天皇のころ(倭の五王の時代)の政権の中心地であり、後に河内国(かわちのくに)となった。現在も一部に大阪府東大阪市河内町の名が残る。これも、下野都賀郡の南に隣接した「河内郡」があった。そして「都賀郡」「河内郡」は東国の中心地でもあり、その地に住む子孫が朝廷に重用されていた。

7世紀の後半ごろ「天武天皇」「持統天皇」が相次いで病気平癒を願い、藤原京に「薬師寺」を建てたとされる。その後、薬師寺は平城京に移築され、天平2年(730年)に建てられた東塔は現存しており国宝にもなっている。実は同時期に遠く離れた「下野(しもつけ:現在の栃木県)」の「河内郡」にも中央から専門の職人が派遣され、「下野薬師寺」が建立されていた。『図説栃木県の歴史』によれば発掘調査で見つかったその遺構はなんと東西250m、南北230mにも達する大寺院であった。同じ「河内郡」内では近く(現在の栃木県下野市)に下野国分寺、国分ニ寺の遺跡も見つかっている。

この下野薬師寺は、後の天平宝字5年(761年)になると、聖武天皇により奈良の「東大寺」、筑前の「観世音寺」と合わせて「天下三戒壇」と定められることになった。つまり東国10カ国の全ての僧は、必ずこの「下野薬師寺」で受戒する必要があったことになる。同時にこのことは下野が東国(関東・東北)一帯を支配する政治・文化の一大中心地となっていたことも意味する。聖武天皇の時代、仏教が政治・文化の両面において強い影響力を持っていたからだ。

※聖武天皇そして光明皇后は聖徳太子に深く帰依していた。聖徳太子の名誉が復活し、伝説がある種の誇張を含めて大きく広まり出したのは、この聖武天皇・光明皇后の時代であろう。

「下毛野朝臣古麻呂」の中央政界での活躍

東国でも東の山岳地帯に近い北側の地は全国有数の規模を誇る谷川が作った肥沃な地が広がり開拓が容易だった。これが「武蔵(むさしの)国」(現在の埼玉県・東京都)の中心地が「埼玉(さきたま)」という現在の埼玉県の最北部にあった理由でもあろう。「下野」の実力者だった下野氏の活躍は東国だけではなかった。奈良時代の八世紀の初め、「下毛野朝臣古麻呂(しもつけぬあそんこまろ)」が中央政府で「大宝律令」の立案にあたった記録が残っている。

『続日本紀』文武天皇4年(西暦700年)6月17日の条から引用(かっこは筆者が付けた)

(文武天皇は、)六月十七日、浄大参(正五位上相当)の刑部親王(おさかべしんのう)、直広壱(正四位下相当)の藤原朝臣不比等(あそんふひと)、直大弐(従四位上相当)の粟田朝臣真人(あわたのあそんまひと)、直広参(正五位下相当)の下毛野朝臣古麻呂(しもつけぬあそんこまろ)、直広肆(従五位下相当)の伊岐連博德(いきのむらじはかとこ)(中略)らに勅して、律令を選定させられた。その人々に対して身分に応じて物を賜わった。

ここに登場する刑部(おさかべ)親王は形式的なトップにずぎず「藤原不比等(ふひと)」が事実上の責任者である。粟田真人(あわたのまひと)や「伊岐博德(いきのはかとこ)は遣唐使帰りの留学僧や渡来氏族であり、大宝律令を編纂するだけの十分な知識があり、当時の国政に参与しても当然の立場だったろうが、おそらく権力はなかったはずだ。

※刑部親王の子は、天皇になったが藤原仲麻呂の乱で廃され淡路廃帝(あわじ-はいたい)と呼ばれた。明治時代になって第47代「淳仁天皇」の諡号で呼ばれるようになった。

一方で事実上のナンバー3として登場する「下毛野朝臣古麻呂」は「式部卿」「兵部卿」と二つの省の卿(現在の大臣)を務め、参議(正四位)「大将軍」に出世した。式部卿は、朝廷において官人の叙位及び任官を担当する式部省の長官を意味し、役人の養成機関であった大学寮も統括した。また兵部卿は、国家の軍事一般を統括し、大将軍は全武官のトップでもある。『図説栃木県の歴史』では、「これは極めて異例であり当時の実力者だった持統天皇、藤原不比等との何からの関係があったのではないか」とほのめかしている。

このように下野出身の古麻呂が、中央政府で文武両面を全面的に掌握していたことは、この時代、栃木の都賀郡が、東国統治の中心だったという事情も物語るだろう。下野市のホームページでは、先に紹介した「下野薬師寺」も、この古麻呂によって建てられたと紹介されている。

下毛野朝臣古麻呂と藤原不比等

当時の「文武(もんむ)天皇」は若干18歳であり、実質の権力者は太上天皇(だじょうてんのう:後の上皇)だった祖母の元「持統(じとう)天皇」にあった。そしてこの持統を背後で強力に支えていたのは影の実力者「藤原不比等」だった。律令の制定や正史『日本書紀』の編纂、そして後世の藤原氏の繁栄は、この不比等なしには、決して語ることはできない。

藤原鎌足、不比等父子は世に「虎の巻」で有名な『六韜(りくとう)』を愛読していたという。(藤原仲麻呂『藤家家伝』「鎌足伝(大織冠伝)」による)『六韜』は兵法書の一種だが、『孫子』と違い為政者も想定している。「韜」は弓を入れる袋の意で、転じて奥に潜めた秘策を指し「身を隠し謀を以て政敵を倒す」秘略が込められている。実は中央政界で大活躍した鎌足や不比等は、公式の史書や記録にその業績をほとんど残していない。特に不比等に関しては史書編纂の事実上の責任者にありながらである。『藤家家伝』にあった「不比等伝」も失われている。『六韜』を実践した不比等について、子孫もそれを尊重したのかもしれない。

藤原鎌足の一族は、壬申の乱大友皇子(天智天皇側)についたため敗北した。しかしまだ幼かった不比等は責任を問われず生き残ることができた。『尊卑文脈』によれば「藤原不比等」は渡来人河内史(かわちのふひと)の一族「田辺史大隈(たなべのふひと-おおくま)」のもとて教育されており、これが「不比等」の名の由来ともされる。

※『興福寺縁起』によれば、天智天皇の妃(ひ)だった「鏡女王(かがみのじょうおう)」が後に藤原鎌足の正妻となり、その子が不比等である。『大鏡』などによれば、当時は不比等の落胤説が囁かれたようだ。事実なら持統天皇の異母兄となり、不比等が権力を得たことは想像に難くない。天武天皇の時代、蘇我娼子を妻に迎え、名目上も蘇我氏の地位と権力を引き継ぐことができた。その子は、のちの藤原氏の繁栄の礎を築いた、南家、式家,北家の祖である。不比等の母は、東国六腹朝臣(あづまのくにむつはらの-あそみ)の車持氏と言われる。『公卿補任』では「内大臣大職冠鎌足の二男一名史(ふひと)、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」とあり『新撰姓氏録』では車持氏は毛野朝臣を祖とする。不比等は東国との関係も深かったはずだ。

『新撰姓氏録』の毛野氏の記述によれば、下野毛氏は、第10代崇神天皇の第一皇子で東国の統治を任されたとされる豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の末裔と伝わる。しかし渡来氏族に詳しい加藤謙吉は古資料を通読した上で、下野氏は実は史(ふみひと、ふひと)とされる渡来人の家系である「田辺氏」(河内史の一族)の系列であると指摘している。それが正しければ、律令の編纂メンバーに加わっていることや、現在の栃木市周辺に「河内郡」があったのは、不比等が旧恩に報いたと考えれば説明がつく話でもある。同時に、河内郡は当時下野氏の拠点だったことにもなる。

不比等の次の世代から、藤原氏の一族が本格的に台頭してきて中央政界の構図も大きく変動している。これに合わせて下野の様相は大きく変わり急激に衰退していくことになり、さらには下野と武蔵の間にあった古代からの密接な連携も分断されてしまう。

稀代の策士「藤原百川」

天武系の最後の天皇となった「称徳天皇」の突然の崩御ののち、後継の天皇選びが始まった。「吉備真備(きびのまきび)」ら旧来の実力者たちは、嫡流に近い天武天皇の孫「智努王(ちぬおう)」(長屋王の子)を擁立しようとしたが、正論が適うことはなかった。天智天皇の孫「白壁王」(のちの光仁天皇)を次期天皇にするという、亡き称徳天皇の宣命(せんみょう)が残されていたとされたからだ。白壁王自身、当時は地位も低く60歳を過ぎた高齢でもあり、まさか天皇になれるとは思ってもいなかっただろう。『水鏡』には、に「藤原百川(ももかわ)」らが太政官(左大臣)だった藤原永手らと謀って称徳天皇の宣命を偽造したとする記事がある。ことの真偽は不明だが、宣命偽造説は後の水戸藩による『大日本史』などでも触れられており、若いときから桓武天皇との関係が深かった百川による陰謀とする説は、現在でも根強い。

※この種の話は『日本紀略』や『扶桑略記』に引用された『百川伝』逸文にも載る。

『水鏡』から引用

(藤原)百川・永手・良継、この人々、心をひとつにて目をくはせて、密かに「白壁王」を太子と定め申す由の宣命をつくりて、宣命使を語らひて、「大市(王)」の宣命をば巻き隠してこの宣命(せんみょう)を読むべき由を言ひしかば、宣命使庭に立ちて読むを聞くに、『事、俄かにあるによりて、諸臣たちはからく、白壁王は諸王の中に年たけ給へり。又、先帝の功あるゆゑに太子と定め奉る』といふ由を読むを聞きて、この大市(王)を立てんと言ひつる人々あさましく思ひて、とかくいふべき方もなくてありし程に、百川やがて兵を催して白壁王を迎へ奉りて、御門と定め奉りてき。この御門の位(天皇位)に即き給ふ事は、ひとへに百川のはからひ(計略)給へりしなり。

※かっこや鍵カッコは筆者がつけた。

宣命(せんみょう)とは、天皇が口頭で宣布された命令をそのまま臣下が書き記し、天皇の命令として専門の官人によって読み上げられる文書で、その文体は宣命体とよばれる。天武系の皇統を守ろうとし天智系に皇統を奪われるくらいなら「道鏡」に皇位を託そうとまでで考えていた称徳天皇が、天智系と親密だった百川らに「宣命」という形で遺書を託していたことは、まず考えられまい。というより、称徳天皇は宣命を発すること自体できる状態ではなかった。それには次のような事情による。

実は政務が不可能だった「称徳天皇」

さかのぼること100日ほど前、宇佐八幡事件が一応決着したかに見えた宝亀元年(770年)2月から4月にかけて、称徳天皇は道鏡のふるさと由義(ゆげ)に行幸し、歌会などを催していたことが『続日本紀』に記されている。その時の記事からは二百人ほどの官人や、奈良の有力寺院の関係者らを引き連れていった。

『続日本紀』宝亀元年(770年)の二月から四月の条(宇治谷孟 現代語訳 以下同じ)

二月二十七日 天皇は由義宮へ行幸した。

三月三日天皇は博多川(大和川の支流)に行幸し、宴を催し遊覧した。(中略)

三月二十八日(中略)男女二百三十人が歌垣に奉仕した。

四月三日 天皇につき従った文武の官人と十二大寺(大安寺、薬師寺、東大寺、興福寺、新薬師寺、元興寺、法隆寺、弘福寺、四天王寺、崇福寺、法華寺、酉隆寺)に地位に応じて物を賜わった。

四月五日 天皇は詔して、由義寺の塔を造営した諸司の人々と各種の工人ら九十五に、功労の軽重にしたがって位階を加え進めさせた。(中略)

四月六日 天皇が由義宮より平城宮に還った。

そこで天皇は俄かに不調となり「全く政務をとれなくなった。」その後天皇は誰にも会うことはなく、後約百日間に渡って藤原永手、吉備真備(きびのまきび)らが天皇の職務を代行して行ったと記録される。このような状態の中で称徳天皇が自らの意思で「白壁王に皇統を継がせる」という宣命(せんみょう)を下すことができたか、極めて疑わしい。770年8月1日には日食で暗闇となり、その3日後に称徳天皇は54歳で崩御した。(現在で言えば満52歳)皇太子となる白壁王の方が、10歳ほど高齢だった。

『続日本紀』宝亀元年(770年)の八月の条から引用

八月十七日 高野天皇を大和国添下郡讃岐の高野山稜に葬った。(中略)天皇はさきに由義(ゆげ)の宮に行幸してからすぐに体の不調を覚え、そこで直ちに平城京に戻った。そのときから百日余りを経るまで、自ら務をとることはなかった。群臣らもその間謁見できたものはいなかった。

8月21日には、道鏡は下野の薬師寺に左遷された。由義宮に行ったことで天皇が崩御したとされた以上、道鏡の責任が問われただろうことは間違いない。『続日本紀』には道鏡について「悪賢い陰謀が発覚したが、先聖(称徳天皇)の厚い恩を顧みると、法で罰するには忍びない、そのため下野薬師寺の別当とする」としている。道鏡の陰謀はとは何だったのか、具体的な説明や実例は示されない。ほかにも「道鏡の悪だくみ」とされる記述は『続日本紀』でいたるところで登場するが、どれもが何を指しているのか全く触れずに、明らかに客観性を欠いている。

利用された「称徳天皇」の宣命

『続日本紀』が完成したのは天智系となる桓武天皇の時代である。したがって直前までの天武系の皇統を否定的に書くのは当然とみなすべきであり、これらの記述には相当のバイアスがかかっているとみるべきだ。しかし、さすがに称徳天皇が発した「宣命」そのものを加工・修正して公式に記録することは、畏れ多きことと憚られたはずだ。そのため『続日本紀』の記事も称徳天皇の「宣命」の本体とされる大部分や、その文体からくる印象はそのまま残されている可能性が高い。それは実際に読んでみても、はっきりと感じられる。崩御の日、遺言とされた宣命を記述している部分はあきらかに奇妙で、如実にそれを示しているといえよう。

『続日本紀』神亀元年(770年)8月4日の条。

左大臣従一位の藤原朝臣永手、右大臣従二位の吉備朝臣真備(中略)らが、禁中で策を練り諱(白壁王のちの光仁天皇)を立てて皇太子とした。左大臣従一位の藤原朝臣永手が天皇の遺言の宣命を受けて言った。(宣命体)

今仰せになるは、事は突然であったので、諸臣らが合議して白壁王は諸王の中で年齢も高く、また先帝(天智天皇)の功績もあるので、太子と定めて奏上すると、「奏上の通りに定める」と仰せになると申しのべる。

※鍵カッコ「」の部分は、筆者が付けた。

称徳天皇の勅諭(直言)と解釈でき部分は「奏上の通りに定める」の一言だけしかない。つまり、称徳天皇が白壁王を太子と決めた遺書ともなる宣命は、実はなかった。諸臣が策を練って「白壁王を太子と奏上した」と書かれている。道鏡を皇位継承者として準備を進めていた称徳天皇は、諸臣が白壁王を皇太子としたことを知っていたのだろうか。いや、もし宣命で指定することができたなら、むしろ道鏡を皇位継承者と定めると、称徳ははっきりと言っただろう。

『続日本紀』では、宇佐八幡神託事件に関して、約4000字にも上る多くの記述がある。それは称徳天皇が崩御の前年、神護景雲三年(769年)の九月二十五日、十月一日の2回に渡って出した、かなり長文となる「宣命」を中心に構成されている。しかし、事件の真相や経緯に関する説明の部分だけは、宣命体ではない。つまり事件の真相とされる記述は『続日本紀』の編纂者の解説であり、称徳天皇の宣命の中に巧妙に混ぜ込まれ、たいへん見分けにくい。称徳天皇の「宣命」とはっきりわかる部分と、編者の「解説」の部分をそれぞれ抜き出し、分けて読み比べると、それぞれの内容に大きな矛盾があると気が付く。

宇佐八幡事件に関する、称徳天皇の「宣命」では、清麻呂らの行為は、君臣の忠義に反する行為で、前帝の元明、聖武天皇の命に背くと非難し、天皇に嘘をついて偽の神託を持ち帰った「和気清麻呂」や、姉の「法均(ぼうきん)」を強烈に非難して貶める一方で、事を共に謀った臣下がいたことも判明している(藤原百川、永手らのことか)が、今回は許すとしている。その怒りを必死に抑えようとして苦悩している様が如実に伝わってくる。

一方で、称徳天皇の「宣命」に巧妙に挟まれた、編者の「解説」の部分では、称徳天皇の「宣命」と完全に矛盾する論理が展開されている。そこでは、大宰府の主神が道鏡に取り入ろうとして神託が出たと嘘を言ったとし、道教はそれを知って和気清麿に良い知らせをもたらせば出世を約束するとした。しかし、神託を確認して戻って来た和気清麻呂は、そのような神託はなく、道教を早く除けと神託があったと天皇に正直に話したとしている。これに怒った道鏡は、清麻呂を左遷、その後に詔がでて大隅国に配流となったとしている。

天皇の「宣命」の中で逆臣だと非難された和気清麻呂は、編者の「解説」の部分では逆に忠臣となっている。歴史上、この部分が語られ続けてきたので、あたかも編者の解説が歴史上の真実のように現在に伝わっているが、称徳天皇の宣命はまるで逆の内容だった。

『続日本紀』神護景雲三年(769年)九月二十五日の天皇の「宣命」 

神護景雲三年(769年)九月二十五日、天皇は次のように詔した。(宣命体)。

天皇がお言葉として仰せられるには(中略)従五位下・因幡国員外介の輔治能真人清麻呂(ここでは和気清麻呂のこと)は、その姉法均と悪くよこしまな偽りの話を作り、法均は朕に向かってその偽りを奏上した。その様子を見ると、顔色・表情といい、口に出す言葉といい、明らかに自分が作ったことを大神(宇佐八幡)のお言葉と偽ってっていたと知った。問い詰めたところ、やはり朕が思ったとおり大神のお言葉ではないと断定できたのである。それで国法にしたがって両人を退けるものである(中略)また、このこと(清麻呂・法均のこと)を知っていて、清麻呂らと共に謀った人がいることは知っているが、君主は慈しみをもって天下の政治を行なうものであるから、この度は慈しみ哀れんで免罪とする。

しかし、このような行為が重なった人は、国法にしたがって処分するものである。このような事情を悟って、先に清麻呂らと心を合わせて、一つ二つのことを共謀した人たちは、心を改めて、明らかに貞しい心をもって仕えるようにせよ、と仰せられるお言葉をみな承れと申し告げる。

ここで称徳天皇は「和気清麻呂」らは謀(はかりごと)をした逆臣だと断定している。そして共謀者までわかっていると糾弾している。しかし、このあとに続くのは次のような編者の「解説」の部分である。紛れ込んで紛らわしいが、この解説の部分は宣命体ではないことから、明らかに称徳天皇の言葉ではないことがわかる。

『続日本紀』神護景雲三年(769年)九月二十五日の記述(続き「編者」の「解説」の部分)

初め、大宰府の主神(中略)は、道鏡に気に入られようと媚び仕えた。そこで、宇佐八幡宮の神のお告げであると偽って「道鏡を皇位に即ければ天下は太平になるであろう」といった。(中略)天皇は清麻呂を玉座近く招き「昨夜の夢に、八幡神の使いがきて『大神は天皇に奏上することがあるので、尼の法均(ほうきん)を遣わされることを願っています』とつげた。そなた清麻呂は法均に代わって八幡大神のところへ行き、その神託を聞いてくるように」と勅した。清麻呂が出発するに臨んで道鏡は(中略)吉報をもたらせば、官職位階を重く上げてやる、と持ち掛けた。清麻呂は出かけていって神宮に着いた。大神は「わが国家は開闢(かいびゃく)より君臣の秩序は定まっている。臣下を君主とすることは未だかつてなかったことだ。天っ日嗣(皇位)には必ず皇統の人を立てよ。無道の人は早く払い除けよ」と託宣した。清麻呂は帰京して、神のお告げのまよまに天皇に奏上した。道鏡は大いに怒り、清麻吕の官職を解いて因幡員外介に左遷した。清麻呂がまだ任地に就かないうちに続いて詔があり、官位を剥奪し籍を削って、大隅国(鹿児島の一部)に配流した(『日本後紀』には、道鏡が人を遣わして清麻呂を殺そうとしたとある)。姉の法均は還俗させられ、備後国(広島の一部)に配流された。

※因幡員外介とは、律令に規定されていない定員外の職。

この直後の記述も、同じく宇佐八幡事件に関して触れた称徳天皇の宣命が続く。前半では、皇位を得ようと悪だくみをする王子たちがいることを非難している一方で、後半では道鏡を皇位につけようしたことに称徳天皇自身も苦悩し、天神地祇や仏法に従って正しく謀(はかり)浄(きよ)く生きれば必ず(道鏡が皇位につくことは)実現するだろうと苦悩しているように読み取れる。

『続日本紀』神護景雲三年(769年)十月一日(上記編者の「解説」の続きで再び「宣命」)

冬十月一日 天皇は次のように詔した(宣命体)。天皇のお言葉として仰せられるには、口に出すのも畏れ多い新城の大宮(平城宮)に天下を治められた中つ天皇(元正天皇)が、臣たちを召し、ご遺言として、(以下元明天皇の遺言)「(皇位を継ぐことできない)王たちが自分の得ることのできない帝の尊い位な望み求め、人を誘って悪く汚い心で道理に背いた陰謀を企て、臣下たちはそれぞれの贔屓によって、この人についたり、彼の人に頼ったり、頑迷で無礼な心を抱いててよこしまな謀ごとを構えたりする。このような人たちを、朕は必ず天翔(あまかけ)り見て、退け捨て除くであろう。(中略)と仰せられる元正天皇のお目葉を、みな承れと申し告げる。また仰せられるには、口にするのも畏れ多い朕の天の帝の帝皇(聖武天皇)がお言葉として(中略)「この天皇の位というものは、天が授けようと思われない人に授けては保つこともできず、またかえって身を滅ぼすものである。朕が立てた人であっても、汝の心で良くない人と知り、自分の目にかなう人を新しく立てることは,心のままにせよ」と仰せられた。(中略)口にするのも畏れ多いお二人の天皇(元正と聖武)のお言葉を、朕は頭上に承り昼も夜も心に念持しているけれど、理由もなく人に言い聞かせることもできずにこれ護末できた。いま機会を得て、諸々の人に聞かせたいと召し集めたのである それ故朕が汝らに教え申すお言葉をみな承れと申し告げる。そもそも君主の位というものは願い求めても得ることは極めて難しい、ということをみな知っているが、先にこの位を得ようとした人は、謀が拙かったのである。我こそは十分うまく謀ったので必ず成功するだろうと, いろいろに願い祈ったりするけれども、やはりそこは諸聖や天神地祇や歴代天皇の御霊がお許しにならず、お授けにならないので自然に人の口から漏れたり、自分の口からも出てしまって、かえって身を滅ぼし災を被り、ついには己も他人も罪に陥ってしまったのである。このため天地を恨み、君主や諸臣をも恨む。しかし、それでもなお心を改めて、直く浄くするならば、天地の神々も憎みたまわず、君も見捨てられず、幸せを蒙り、身も安らかとなるであろう。(中略)というお言葉を承れと申し告げる。

称徳が崩御すると、道鏡の皇位継承を遮った清麻呂は許され、中央に戻ると異例の昇進を遂げた。なお宇佐八幡は全国にある八幡神社の惣社であり、古来から秦氏の強い影響下にあったといわれる。この事件は天武系皇統のだけでなく、古来から有力な豪族だった秦氏の立場にも大きな影響を与えたことが推測される。

実は強権の女帝だった称徳

称徳が遺した数々の宣命には、個性的なものが多い。女帝とは思えない強烈な個性と独裁性が垣間見える。称徳天皇は、聖武天皇と光明皇后(光明子)の間に初めて生まれた娘であり、聖武天皇と光明皇太后の威光を背景に、極めて強い権力を保持していたのだ。

実は称徳天皇は第46代孝謙天皇として即位していたが淳仁天皇に皇位を譲り、謙上皇となっていたっていた。しかし藤原仲麻呂の乱に加担したとして天皇を廃位、重祚(ちょうそ:天皇位に返り咲く)したのが称徳天皇である。(淳仁天皇は「淡路廃帝」もしくは単に「廃帝」と呼ばれており、明治になって正式な名が追贈された。)

藤原仲麻呂は不比等の孫で、光明皇太后の力を背景に勢力を伸ばした。その手元で育ったのが後の淳仁天皇だった。仲麻呂が権力を保ち、淳仁天皇が皇位についたのは、光明皇太后のおかげといえよう。聖武天皇の皇后だった光明皇太后は不比等の子であり、同時に称徳天皇の実母でもあった。このため孝謙上皇(のちの称徳天皇)は強権発動をしばらくためらっていたと思われる。

光明皇太后が崩御すると仲麻呂は、権力の座から引きずり下ろされ、同時に歴史上稀に見る廃帝が実現することになった。このときも称徳天皇の側について、仲麻呂の乱の鎮圧に活躍したのは、東漢氏の坂上苅田麻呂だった。田村麻呂の父である。このときの称徳天皇の発した宣命が記録されている。そこには称徳天皇の性格の強さが垣間見られる。

『続日本紀』第25巻 天平宝字八年(765年)十月七日条(淡路廃帝)

山村王が詔を告げて次のようにいった。(宣命体)

口に出すのも恐れ多い先帝天の帝[聖武天皇]のお墓で、朕[孝謙のちの称徳天皇]に仰せられたことは、「 天下は朕(聖武天皇)の子の汝[孝謙のちの称徳天皇]に授ける。そのことは目ってみるならば、王を奴としょうとも、奴を王としようとも、汝のしたいようにし、たとえ汝の後に帝として位についている人でも、位についての後、汝に対して礼がなく、従わないで無作法であるような人を、帝の位においてはいけない。また君臣の道理に従って、正しく浄い心をもって、汝を助けお仕え申し上げる人こそ、帝としりてあることができるのである」と仰せられた。(中略)それゆえ帝の位から退かせ、親王の位を与えて淡路国の公として退かせる」、と仰せられる天皇の御言葉を承れと申し付ける。

※カッコ内は宇治谷の解説。鍵カッコ、及び[]は筆者が付けた。

聖武天皇の言葉としながらも「王を奴としょうとも、奴を王としようとも、汝(称徳天皇)のしたいようにし」という言葉を、歴史に永遠に残るはずの「宣命」にはっきり書き残したことは、強い意志と、強烈な個性が見て取れる。称徳天皇はもともと、聖武天皇のもと史上初の女性皇太子となっており、このような例は後にも先にもない。また政界の実力者を排除して「廃帝」を発動したのも史上初で、これほどまで独裁権力を行使した例が女帝であったのも驚きだ。後継の天皇を決めるにあたって前例を踏襲せず、称徳天皇が残したとされる詔が有力な群臣の協議を押え、皇位継承者が決まった。これすらも称徳天皇の凄さを物語っているかもしれない。

※「廃帝」はほかに一例しかない。それも後の鎌倉時代に後鳥羽上皇が主導した「承久の乱」で当時皇位にいた仲恭天皇が責任を取らされ廃位となりのちに「九条廃帝」と呼ばれている。しかし仲恭天皇はまだ自分が天皇になった意識もないはずの数え年4歳(現在の3歳)であり、しかも朝廷側の権力行使による廃帝ではなかった。

2016年から行われた発掘調査で驚くべき遺構が発掘され、「西京(にしのきょう)」ともされた「由義宮(ゆげのみや)」の一端が解かりだしている。発掘では東大寺の大塔に匹敵する高さ70m規模の大塔があったとされる、20m四方の大基壇見つかり、周辺に散乱した大量の瓦を回収するとコンテナ1000箱分あったという。(発掘時の読売新聞記事による)この基壇が由義寺の塔の遺構であることは間違いないとされる。歴史にほとん記録されないが、父の聖武天皇が建立した東大寺に匹敵する寺院が建てられていた。これほど巨大な塔は国家権力がない限り立てることはできないだろう。

このことから由義の地、すなわち「西京」への遷都が計画されていた可能性を指摘する専門家も一部にあるようだ。770年2月から十二大寺の関係者や多くの官人を連れ由義(ゆげ)に行幸したとされるのは、もしかしたら遷都と、皇統を道鏡に継がせる計画が実施されつつあったのかもしれない。まさにその直後、称徳天皇は政務に全く付けない状態に陥り、間もなく崩御することになる。そして誰もが予想外だった光仁天皇が即位したことになる。

※「徳」のつく天皇は不遇の死を遂げのちに祟りをもたらともされた例が多い。天智天皇に置き去りにされて不遇の死を遂げたのは「孝徳天皇」であり、保元の乱で破れ讃岐に流され怨霊になったともされる「崇徳上皇」や、源平の戦で壇ノ浦に沈んだ「安徳天皇」、そして鎌倉時代の承久の変で流罪となった「順徳天皇」や「顕徳院(後鳥羽上皇のこと)」などだ。同じく徳の名がつく「称徳天皇」や「聖徳太子」もそうなのだろう。

称徳天皇が世をさった年の12月、九州地方で大噴火があった。「西の国で声が聞こえた。雷の音に似ているようで雷ではない。(中略)煙のような雲が空を覆って暗くなり、電光が度々走った。(中略)炎が現れ見える様子はあたかも金属を溶かして何かを造っている状態であった。」この記事を最後に、『続日本紀』の第二十五巻は終わる。宇佐八幡の神がこのような事態は真意ではないと怒りを示していると、当時の編集者も考え記録したとも筆者は考える。

光仁天皇の即位

天智系と天武系の間の争いは、672年の壬申の乱以降、ほぼ100年に渡って続いて来た。百川らの秘策が効を奏し、宝亀元年(770年)第49代「光仁天皇」が即位すると、敗れた吉備真備(きびのまきび)ら旧臣たちは自ら去り、天武系の皇族も次々と消えていった。

「白壁王」は壬申の乱で破れた天智系の孫であった。度重なる政争に巻き込まれるのを避けてひたすら酒に浸って行方をくらますなど、暗愚を装ってここまで生き伸びてきたことが『続日本紀』に記されている。そのため年齢が上がっても官位も決して高くならなかった。その白壁王に継いだのは、「井上(いかみ/いのえ)内親王」だった。何ら取り柄のない凡庸な夫なら、皇位争いに巻き込まれるのを避けられる。嫁いだのはそんな事情があったからかもしれない。井上内親王は、聖武天皇の第一皇女で称徳天皇の異母姉でもあったが、伊勢神宮で約20年に渡って斎王の役目を務め終えて京に戻ると、白壁王に嫁いでいた。

『水鏡』によれば井上内親王45歳の時に子が生まれた。これが事実であれば井上内親王は、当時としては信じがたいほどの相当の高齢出産でもあっただろう。聖武天皇の地を引く井上内親王に皇太子候補が生れたことで、白壁王は百川らに後継として担がれ「光仁天皇」となった。即位した時62歳であり、記録に残る限り最高齢での天皇即位となる。そして井上内親王の子が、宝亀二年「他戸親王」として11歳で立太子した。

『続日本紀』光仁天皇紀の冒頭では、子供たちによって次のような童歌が歌われていたことを記し、白壁王が次期天皇になることを、予言していると受け取られたと記している。「七歳までは神のうち」という言葉に遺されるように、子供たちは当時は神の子とされ、その不思議な予知能力が信じられてもいた。

『続日本紀』から引用

葛城寺の前なるや 豊浦寺の西なるや おしとど としとど

桜井に白璧しずくや よき璧しずくや おしとど としとど

然すれば国ぞ昌(さか)ゆるや 我が家昌ゆるや おしとど としとど

このとき白壁王の妃は井上内親王であった。識者は、「井」とは井上内親王の名であり、「白璧(白壁と同意)」は、(光仁)天皇の諱をいっている。おそらくこれは、白壁王が即位するだろうということを諷したものであろうと思った。宝亀元年八月四日に高野天皇(称徳天皇のこと)が崩じ、群臣は高野天皇の遺言を受けて、その日に白壁王を立てて皇太子とした。

※カッコ内は筆者が付け加えた。

「しとど」にはずぶ濡れの意味がある。その意味だとすれば「大雨が降っては(おしとと)止んだ(としどど)」の意味にとれ、葛城、豊浦、桜井といった古代天皇と関りの深い土地を、清める「白璧」の雨が降れば、古くく悪しきものを流し去って、繁栄するだろう、と詠っているのかもしれない。ここでは「誰が「識者」だったかも不明だが、百川らの策略のひとつに、このような歌を歌わせていたと考えることもできるのかもしれない。なお、「白壁」を「白璧」と書く例は『続日本紀』以外に、室町時代の『文明本節用集』など、いくつかの用例が見当たる。

※従来の嫡流以外から擁立された天皇の漢風諡号(しごう)は、その名に代々「光」がつく。皇統が途切れて、いわゆる宮家から皇統をついで即位したのは光孝天皇、光格天皇などであり、南北朝統一がなった後に、始めて北朝から即位したのも称光天皇だった。私見だが、中国の漢王朝を再興した後漢の「光武帝」にちなみ、自らが本来の皇統であると正統性を主張するものと推測する。

百川の本当の狙い

『水鏡』によれば、百川らが後継ぎに推そうと画策していたのは、光仁天皇ではなく、最初からその子、山部王(のちの桓武天皇)であったとされる。しかし山部王の生母は、光仁天皇の後宮に仕える宮人のひとりに過ぎない。また父も百済系渡来人氏族「和乙継(やまとのおとつぐ)」母は「土師真妹(はじのまいも)」ともされた。そのために、山部王の地位は予想外に低く、侍従(じじゅう)に着くのが精一杯であっただろうとされる。これが山部王が警戒されずに生き残れた理由でもあり、当人もまさか自分が天皇になるとは、夢にも思っていなかっただろう。

光仁天皇が即位すると、山部王の生母の地位は「宮人」から光仁天皇の「夫人(ぶにん)」に格上げされ、正式に天皇の妻としての地位に列することになった。しかし光仁皇后には井上内親王がいて「夫人(ぶにん)」では勝負にさえならない。しかも「他戸親王」が立太子していた。山部王が天皇になるには数々の難題が山積されており、それらをクリアするのはこのままでは不可能だった。

宝亀二年(771年)には左大臣として権力を振るった藤原永手が逝去した。称徳天皇の最後の百日間、政務を代行していたのは藤原北家の実力者であった永手であり『水鏡』によれば、まだ官位の低かった百川の深慮を受け、数々の方策を前面に立って遂行した人物であったともされる。しかし藤原北家だった永手がいなくなったことで、太政官(律令政府)において百川ら式家の影響力が一気に増し、良継が左大臣に、百川が参議に昇格した。数々の経緯から光仁天皇の百川への信頼はたいへん厚かったともされ、もう式家を抑えるものはいなくなったとされる。こののち劇的な事件が勃発する。

前代未聞の皇后廃妃

『続日本紀』宝亀三年(772年)三月二日の条に、井上内親王が夫の光仁天皇を呪詛したという信じられない罪で廃された。極めて異例な出来事だ。過去に妃や嬪が廃された記録はあるが、天皇の正妻の地位にあった皇后が廃された前例は見つけることができない。光仁天皇が詔で後に事情を明かしたところによれば、下級官人の密告から、この呪詛が判明したとしている。その後「井上内親王」と「他戸親王」はろくに取り調べされることもなく幽閉され、そして2人が同じ日に薨去した。何があったかは詳しく記されないが、想像ができるだろう。天武系の天皇の血脈はこうして事実上の終焉を迎えたことになる。

※皇后という地位が設けられたのはおそらく大宝律令ができてからだったが、もともと第一皇妃の地位はあったようだ。光明子が皇后になろうとしたとき「かつて臣下がこの地位(第一皇妃)に付いたことはない」と長屋王がクレームをつけた例がある。もともと第一皇妃の下に、後に妃(ひ)、嬪(ひん)、夫人(ぶじん)と呼ばれるような階層があったようだ。歴史上皇后(第一皇妃)が謀反に加担したと公式に記録された例は、第11代垂仁天皇の后で、開化天皇の皇子を父に持つ狭穂姫(さおひめ)ぐらいしか見当たらない。実兄の謀反に殉じたと記録される。天皇はそれでも狭穂姫を助けようとした。

井上内親王は天武天皇の血を引き、光仁が天皇となることができた最大の功労者であった。光仁天皇は恩を仇で返したことになる。光仁天皇も65歳になっており、当時としては相当高齢であり、また最愛のはずの息子もまだ11歳。まもなく皇位継承が実現するだろう。井上内親王が、わざわざ「光仁天皇」を呪詛をする必要など果たしてあったろうか。

後世の『霊安寺御霊大明神略縁起』などによれば、その呪詛とは井上内親王が光仁天皇になぞった人形(ましわざ)を巫女に御井(みい:井戸のこと)に投げ込ませたこととされている。この呪詛を密告した者は井上内親王に近侍していたため、連座の罪が問われた。しかし、その罪を許されたに留まらず、三階級特進し従七位上から殿上人になっている。

『続日本紀』ではその年から、天変地異の記事が連続する。藤原百川と藤ともに工作を図ったとされる藤原蔵下麻呂が急死した。天皇の居住する内裏に雷が堕ち、藤原百川の兄だった良継も病死した。皇太子となった山部王(のちの桓武天皇)も病に罹ると、これらはすべて井上内親王の怨霊と考えられた。翌年、井上内親王は改葬されて600人の僧が読経している。山部王が即位して桓武天皇となると、剥奪された皇后の地位も復された。井上内親王の怨霊を鎮めるために御霊神社も建立された。この後も天武の皇統を引いだ末裔の粛清は続き、都は不穏な雰囲気に包まれていっただろう。これらは桓武天皇の藤原京・平安京遷都につながった一因とも推測できる。

高位に昇った「坂上大宿祢(さかがみのおおすくね)」

『続日本紀』寶亀三年(772年)の条で、坂上苅田麻呂(田村麻呂の父)は、東漢(やまとのあや)氏は全部で63の支族で構成され、その族長は自らの「坂上大宿禰(おおすくね)苅田麻呂」であるとしたうえで、坂上一族で檜前(ひのくま)に居住する「坂上直(あたい)」を大和国高市郡の郡司(ぐんじ)にして欲しいと光仁天皇に上表している。

※「直(あたい)」は首の上位であり国造(くにのみやっこ)、県主(あがたぬし)といった各国の首長級に与えられていた。苅田麻呂が示した畿内の坂上氏の一族は、坂上大宿祢のほかに、参河国(のちの三河国、現在の愛知県)の「坂上忌寸(いみき)」、大和国高市郡の「坂上直(あたい)」の三家がある。一族を本拠地であったはずの高市郡の郡司に推薦したことからも、坂上大宿祢家の領地は、この地以外にあったものと思われる。

その当時、山部王を天皇とするためには渡来人らの地位を上げる必要があった。おそらくそれに併せて、渡来人たちの経歴を一変させ、中国皇帝の血筋として一斉に高位につかせてい句必要があった。『続日本紀』の宝亀9年(778年)1月29日条によれば、光仁天皇は「山部王」の生母に「従四位下高野朝臣従三位を授く」とし、「高野朝臣(たかののあそん)新笠」の名を下賜した。生母の地位がさらに高まると、「山部王」は一気に皇太子に上り詰め、同時に藤藁良嗣の娘、乙牟漏(おとむろ)を妃に迎えた。

先代の称徳天皇は生前に「孝謙称徳」の名を持っていたが崩御後は「高野天皇」との諡 (おくりな)が付けられ、天皇稜は高野稜(たかののみささぎ)と呼ばれた。『続日本紀』でも称徳天皇という記述はなく、「高野天皇」と記述されている。

蘇我氏そして天武天王の血脈を引く「称徳(しょうとく)」つまり「聖徳太子」の影を「高野」という名で消したとも取れる。そして光仁天皇が桓武天王の生母に下賜した「高野朝臣」の名は、称徳天皇の正統を継ぐという意図があったのかもしれない。

山部王ついに桓武天皇となる

その3年後、天応元年(781年)光仁天皇が譲位して山部王は第50代「桓武天皇」となった。皇后となったのは「藤原乙牟漏(おとむろ)」であり、妃は「藤原旅子」である。この二人は、それぞれ藤原良継・百川兄弟の娘であった。

そして桓武天皇の二人の妻からは、三名の皇子が生れ、それぞれが「平城(へいぜい)天皇」「嵯峨(さが)天皇」「 淳和(じゅんな)天皇」と三代にわたって皇統を継いだ。百川の藤原「式家」が朝廷内で圧倒的な存在感を占めた。嵯峨天皇の時代以降は、藤原「北家」の「藤原冬嗣」が権力を奪い返し、良房、道長らを排出して藤原家の全盛時代を迎える。

桓武天皇即位の翌年となる延暦元年 (782年)、天武天皇の曾孫である「氷上川継(ひがみのかわつぐ)」が謀反を計画が発覚したとされ、流罪となった。歴史上「氷上川継の乱」とされるが、実際は乱は起きていない。氷上川継の父は次期天皇候補だったが殺害された「塩焼王」であった。さらに川継の母も聖武天皇の娘「不破内親王」であったがすでに排除されていた。川継は皇位継承権がありながらも、臣籍降下(皇族から離れ家臣となる)して難を逃れていた。それにも拘わらず狙い撃ちされ、息の根を止めらようとされたことになる。

桓武天皇につかわれる「桓」の文字は、日本では使用例が極めて少ない。桓には、印しとして立てた木、周囲に巡らした木などの意味があるほか、勇ましい、ぐるぐると巡るなどの意味もあるようだ。一般には現在の天皇名とされる漢風諡号は、一般には『懐風藻』の著者ともされ、淡海三船(おうみのみふね)が決めたとするのが定説だ。しかし桓武天皇のころはすでに淡海三船は世を去っており、桓武の名を付けた意図は、それ以前の「武」が付く天皇とは違ってくる。別な人物がつけた名であるからだ。

そしてこの氷上川継の乱に連座して解任された中には「坂上苅田麻呂」もいた。藤原氏陣営からは、坂上氏が天武天皇系列についていたと見なされていたことが推測できる。蘇我氏・天武系とつながりの強かった坂上家は、排斥されていく秒読みが始まっていた。数年後許されてはいるが、古代からの伝統を長い伝統を誇った有名諸氏と共に、次々と中央政界の表舞台からは消え去っていくことになる。

「武」の名の付く天皇は、神武、武烈、天武、文武、聖武、桓武の6人がいる。この天皇諡号を決めたとされるのは『懐風藻』の著者ともいわれる淡海三船(おうみのみふね)とするのは現在の定説だ。神武天皇はもちろん初代の天皇であり、天武天皇は淡海三船の時代には、当時の正統な皇統の創始者ともされていた。武には正当な(男の)天皇の意味が込められていただろう。天武天皇が目指した律令の制定は、孫の文武天皇の時代に大宝律令として完成し、さらに天武天皇が創建した薬師寺も、子の草壁皇子の后で孫の文武天皇の実母となる元明天皇の時代に平城京に移設された。文武天皇の子(天武天皇の曾孫)となる聖武天皇の時代には東大寺が完成し唐から鑑真も迎えて、蘇我氏以来目指していた国家としての仏教への取り組みが完成したともいえる。ここまでは天武天皇の皇統を継いできたとも言える。天武系の最後の天皇が称徳天皇だった。

しかし、皇后に天武系を据えた光仁天皇と違い、桓武天皇は天武系完血を全く引かない完全な天智系の天皇だった。桓武天皇の時代は、淡海三船はすでに世にいなかったので、「桓武」の名は、別な人物によって、それまでの天皇とは別な意図で付けられた名前であろう。『天皇諡号が語る古代史の真相』で、関裕二は桓武の「桓」は、「お棺を墓穴に下ろすための四本の柱」の意味があるとし、桓武天皇とは「武の王家(天武系)の完全な幕引きをした人物」ではないかとしている。

甲子(かっし)革命に時期を合わせた長岡遷都

桓武天皇が即位した2年後、延暦3年(784年)は中国では60年に一度「政治的な革命」がおきるとされる「甲子革令(かっしかくめい)」の年だった。この年桓武は「平城京」から「長岡京」に遷都をしていた。桓武は宇合(うまかい)の孫である「藤原種継(たねつぐ)」を重用し、反対する旧勢力を遠ざける改革を次々と行った。

長岡京は発掘調査の結果では都はかな整備されており、甲子革令の年にあわせ、かなり以前から計画的に整備されていたと推測されている。『続日本紀』によれば、桓武天皇の命をうけて坂上苅田麻呂らも長岡の地を視察している。この間、桓武と藤原家は次々と政敵を葬り去った。これが原因で、後に怨霊に悩まされることになっていき、後年に長岡京を捨て去ることになる。

東漢氏は、こまでは「応神天皇の時代に帰化した阿智王が祖先」としていた。『続日本紀』延暦四年(785年)の条によれば、「坂上苅田麻呂」は今度は、桓武天皇にたいして上表している。それによれば、祖先の阿智王のさらに4代上の祖として「中国後漢の霊帝を祖先」に据え直してさらに権威を高め、東漢氏の有力16氏の忌寸(いみき)から宿祢(すくね)への昇格を桓武天皇に上表した。これ以降の各種の資料では、坂上氏は阿智王の後裔から、一転して中国漢の皇帝の末裔という系譜とされている。

『大日本地名事典』より引用

檜原(ヒバラ)巻向山の麓を曰ふ。姓氏録、檜原宿爾、坂上大宿禰同祖、出自後漢霊帝男延王也。

坂上の田村麻呂の子孫は、中国漢の皇帝「高祖」の子孫とも、都賀使主(つかのおみ)の後裔とも称される。『渡来氏族の謎』によれば、高祖の子孫としたのは、桓武天皇の時期以降で、これは高野新笠などの地位を向上させるため、渡来人の地位をあげようとした桓武天皇の政策の一環とされる。したがって、渡来人たちの地位が十分高くなったあとは、逆に坂上氏らは邪魔な存在にもなりうるのだ。

一方、天智系の天皇に代わったことで、天武・持統系との関係が深かった下野毛氏も、中央における存在感が希薄になった。このころは天武・持統系の多くの皇族や、貴族が政権抗争に敗れて中央政界を去って行った。関東の実力者だった下野毛(しもつけぬ)氏の所には、権力闘争に敗れ流されたり、争いをさけた中央の氏族が相当の数移ってきたとも思われる。

朝廷側ではそうした東国の力を脅威に感じていたはずだ。平安時代の前期は朝廷で政変があるときは必ず三関(さんかん)が閉じられた。三関とは、「不破関(現在の岐阜県不破郡関ケ原)」、「鈴鹿関(現在の三重県亀山)」、「愛発関(あわちのせき:現在の福井県敦賀)」であり、東国へ逃亡したり東国からの援軍の侵入に備えたものである。「壬申の乱」では実際にこの関をこえて侵入してきた東国の援軍に、天智側は破れたからだ。

※皇族争いに巻き込まれると吉野に逃げ東国の支援をうけようとする例はその後も続いた。後の南北朝の時代に、後醍醐天皇が吉野に逃れたのも、この天武天皇の前例による。

桓武はこのために、渡来人であった東漢氏の一族で、奈良時代に武家として大きく勢力を伸ばし、誉れ高き名族となっていた坂上氏も利用したと思われる。国史である『続日本紀』では、このあたりの背景に触れず、淡々と出来事だけが記述されていおり、若干の不自然さが残る。一方で『水鏡』によれば、ここまで無理難題を次々と実現できたのは、「宇佐八幡神託事件」のころから背後で暗躍していたとされる稀代の策略家「藤原百川」の功績とされる。実際に「桓武天皇」は百川の子息を若くして次々と高位に上らせ、朝廷で重用している。不比等が作った藤原氏の権力基盤は、この百川が完成させたと言って過言ではないだろう。『扶桑略記』にも同様の記述が見当たる。

『水鏡』『扶桑略記』などでは隆盛を誇った藤原氏を批判的に書いた可能性もあり実際のことはわからない。ただし、天武系と天智系で長く争いが続いてお互いを潰し合い、これを藤原氏がうまく利用して権力を強めていったのは事実だろうし、巻き添えを食わされた豪族たちは多数いただろう。

桓武天皇の生母が、渡来人であったことで、渡来人の地位を一斉に高めた政策の結果とされる。おそらくこのことは、藤原氏にとっては面白くなかっただろう。坂上田村麻呂は、蝦夷とは実は和解していた。そのうえで、蝦夷から阿弖流為(あてるい)らを連れてきていた。坂上田村麻呂の助命嘆願は公卿たちに聞き入れられることなく、阿弖流為らは処刑されてしまう。阿弖流為はまさか殺されるとは思っていなかっただろう。

『日本紀略』吉川弘文館 『国史大系』第10巻より

造陸奥国胆沢城使田村麻呂来たる。(中略) 夷墓公阿弓利為(あてるい)具公母禮(もれ)等を斬す。此の二虜は、 並びに奥地の賊首なり。二虜を斬する時、将軍等申して云う、「此の度は願に任せて返し入れ、其の賊類を招かむ」と。而るに公卿執論して云ふ、「野性獣心にして、反覆定め石し。(中略) 放還すれば、所謂虎を養ひて患を遺すならむ」と。即ち両虜を捉へて、河内国植山一に斬す。

※全文漢文のため、読み下しは筆者による。

阿弖流為には「墓公」母禮には「具公」の尊称が付けられている。この名称は朝廷内でもその高い地位が公式に認められていたことを意味するだろう。しかしその願いは適わず賊首とされ斬首された。蘇我氏と蝦夷の関係が深かったと同じように、東漢氏の田村麻呂が蝦夷の勢力と結びついて力を付けることを当時の公家たちが恐れたとも思える。

清水寺は延暦24年(805年)に太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院「北観音寺」となっていた。田村麻呂は弘仁二年5月23日嵯峨天皇の勅命で、甲冑や剣を身に着けたまま葬られた。54歳の時だった。田村麻呂は死してもなお、安らかに眠る事は許されず、働き続けることを強要されたのだ。それ以来危機が訪れると墓の中から大きな音が聞こえてくるといわれる。(山科区「西野山古墓」)

清水寺には、現在も阿弖流為(あてるい)と母禮(もれ)の慰霊碑があり、そこには『日本紀略』に記された内容を引いたと思われる説明がされている。

清水寺に現存する碑文から

八世紀末頃まで東北・北上川流域を日高見国と云い、大和政府の勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していた。政府は服従しない東北の民を蝦夷と呼び蔑視し、その経略のため数次にわたり巨万の征東軍を動員した。胆沢(岩手県水沢市地方)の首領・大墓公阿弖流為は近隣の部族と連合し、この侵略を頑強に阻止した。なかでも七八九年の巣伏の戦いでは勇猛果敢に奮闘し政府軍に多大の損害を与えた。八〇一年、坂上田村麻呂は四万の将兵を率いて戦地に赴き帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築いた。

阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、同胞五百余名を従えて田村麻呂の軍門に降った。田村麻呂将軍は阿弖流為と副将・磐具公母礼を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。しかし公家達の反対により阿弖流為、母礼は八〇二年八月十三日に河内国で処刑された。平安建都千二百年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為、母礼の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺境内に建立す。両雄をもつて冥さるべし。

なお上水道や灌漑が整備されていない当時は。多くの地域でため池を作って水を確保していた。現在も日本各地に20万を超えるため池があるといわれる。(京都大学農学部ホーム―ぺージから)そのため多くの場合は水は濁っていただろう。従って「清水」という地名は、新鮮な湧水が次々と大量に湧き出でる土地にのみ付けられた名前と思われるのだが、それに反して古代の政権争いと関わる生臭い伝承の形跡も残る。清水寺は出雲の地(島根県)にもあり用明天皇以来の古刹とされる。用明天皇は池辺(いけのべ)皇子であり、その子は聖徳太子であり、やはり下野の地と関係が深い。これらは別稿で触れたい。

桓武天皇の変心と坂上氏の凋落

このように、皇族や上宮王家そして東漢氏(坂上氏)は下野の地に多くの直轄領、拠点を持っていた。その地は中央から左遷された時の地であったかもしれない。いざという時に逃げ込む地でもあったかもしれない。継体天皇・欽明天皇の時代にも燻っていた皇統争いは、物部氏本家の滅亡、蘇我氏本家の滅亡、壬申の乱など幾多の争いを経る。その状況は大変複雑で簡単はまとめられそうもないが、本質的にはそれぞれが古来の系統をもつ「天武系」・「天智系」の皇統争奪の戦いが底流にあったともいえる。

桓武天皇の時代は、平安京遷都もあり、朝廷に画期的な変化が起きていた。桓武天皇の即位に関して藤原氏が大活躍し、これによって天武系皇族よびその旧臣は中央からほぼ消え失せた。従来から蘇我氏・聖徳太子、天武系の系列についていた東漢氏の坂上氏らが中央から外れていく構図が見えだすのは、このころからだ。天智系の桓武天皇を立て、最終的に勝利したのは藤原氏であった。坂上氏らはすでに中央を離脱していた旧皇族勢力とともに中央から消えていいくことになる。その生き残りは下野に地盤を持ったのではないか。それが下野の地が平安初期まで関東の中心地である続けられた理由かもしれない

※平安時代以降は「常陸」、「上総」、「上野」の三国は後に「親王任国」とされ、国守に親王(皇子)がつくことになった。そのため、江戸時代もこの三国には武家で「守(かみ)」はおらす次官の「介(すけ)」が最高位になる。織田信長も上総介であり、吉良上野介や小栗上野介がいる。

光仁天皇の践祚のときには、法皇だった道鏡や、宇佐八幡神託事件に連座した神官らは下野に配流されていた。その後20年に渡って伊勢神宮の斎宮を務めた井上内親王は謀反の罪を着せられて排斥された。

『古事記』の序には、天武天皇上古の記憶を正しく残さなくてはいけないと「帝記」をまとめ「旧辞」を調べてるように命じ『古事記』として完成したことが記されている。その『古事記』は、桓武天皇によって「嘘がかいてある」とされ宮廷奥深くに仕舞い込まれた。以後『日本書紀』が重視される。江戸時代に本居宣長が見直すまで、『古事記』が表立って語られることはなくなっていった。『日本後期』には大同3年(808年)桓武天皇の跡を継いで践祚した平城天皇のときに行われ大嘗祭では唐物(からもの)が排除されたと記録されている。少なくとも桓武天皇の生前中に、大きな改変がなされていたことがわかる。

坂上田村麻呂と阿弖流為(あてるい)

蝦夷征伐の中止は、「藤原緒嗣(おつぐ)」の提案により決定した。この緒嗣は藤原百川の子である。本稿で何度か引用している『新撰姓氏録』『日本後紀』の編纂も彼の発案によるとされる。蝦夷征伐の意義が問われ中止された。これは、中央での坂上氏の地位を大幅に低下させることに繋がった。

朝廷は、その後の蝦夷や渤海との交流を避けるようになっり、渤海使いは追い返されるようになっていく。蝦夷や渤海との交流があったのも坂上田村麻呂だった。

桓武天皇の次に天皇になった平城天皇は、怨霊に悩まされ間もなく弟の嵯峨天皇に譲位。大同元年(810年)に起きた「平城太政天皇の変」で、やはり東国に向かった平城上皇と薬子が弟の嵯峨天皇側の軍に阻まれたのは、田村の荘(大和国添上郡田村)だった。翌日薬子が自死し平成上皇も出家、皇太子は廃されて事無きを得た。しかし薬子の兄、藤原仲成が処刑され百川の流れを汲む式家も没落してしまった。これを最後に平安京では大きな争いは数百年なくなり、平安末期まで以比較的平和な時代が続く。

※平城太政天皇の変は、以前は「薬子(くすこ)の変」と呼ばれていた。この名前の方がしっくりくる人が多いだろう。

田村麻呂の没後の弘仁3年(812年)嵯峨天皇は詔を出し、現在の滋賀県と三重県にまたがる鈴鹿峠の悪鬼を平定したとする田村麻呂の遺徳を称え、合わせて伊勢方面から東海道への抑えとするためだろう、田村神社を祀ることとなった。現在三重県との県境にある滋賀県甲賀市土山町にある田村神社では、田村麻呂が放った矢が落ちたとする場所から生えた「矢竹」が本殿前に生えている。忍術書として有名な『萬川集海』には、天武天皇が「多胡彌」という忍びを使ったの起源とする。

此御宇に当て清光の親王逆心企て山城国愛宕郡に城郭を構へ篭城しける所に、時に天武天皇の御方より多胡彌と云ふ者を忍ひ入れしかは、多胡弥忍ひ入て城内に放火しけれは、天武天皇外より攻玉ひしに、依て其城忽に落しと也。是吾邦忍術を用るの始めなり。此事日本紀に見へたり。

これは天武天皇が遁甲といわれる道教の秘術(のちに「忍術」とみなされる)を駆使したと『日本書紀』記されることからの生まれた伝承と思われる。山岳地の鈴鹿峠の鬼(おそらく山賊)を退治した坂上田村麻呂の伝承と関わり、おそらく『太平記』の時代以降の「密教」の祈祷と甲賀忍者と関わってくると思われる。

こうして坂上氏(東漢氏)の活躍する場は、なくなってしまった。以後は式家に変わり、藤原道長に代表される藤原北家による、「望月の欠けたることもなきと思える」栄華が始まる。このようにして公家が武力を放棄したことは、のちの東漢氏にかわる武家勢力の誕生を生むことにも繋がっていく。

天智系による下野・武蔵の分断

この時期、かつてはあった下野(しもつけ)の力は、相当弱められていた。そのきっかけは、光仁天皇が即位し道鏡を下野薬師寺の別当に左遷した直後の、宝亀二年に始まるだろう。この年は藤原永手が没し、式家の藤原良継が左大臣に昇格、太政官のナンバー2になったときだった。そのとき太政官が光仁天皇に奏上したのは、下野と武蔵の分断であtった。光仁天皇はそのとおりに認めている。

『続日本紀』宇治谷孟現代語訳 講談社檗術文庫から引用

(宝亀二年)十月二十七日

太政官が次のように奏上した。

武蔵国は元来東山道に属していますが、兼ねて、東海道にも通じています。それ故 公使の往来が頻繁で、十分な世話をすることができません。その東山道の駅路は新田(にいだ)駅より下野国の足利駅まで達していまして、この道路は便利な道であります。現在では、道を枉(ま)げて上野国邑楽郡(おばらぎぐん:現館林市一帯)より五つの駅を経て、武蔵国の国府に到り、用事が終わって退去する日には、また同じ道を通って、上野国を経てそれから下野国へ向かっています。今の東海道は、相模国の夷参駅(いさま:現相模原市座間)より下総(しもふさ)国の国府に達していまして、その間には四駅があり、往来するのに近くて便利でもあります。しかし、この便利な道をやめてあの道を採りますと(上野国府から国府を往復して、下総国府に向かう経由)、損害が極めて多くなります。私どもがますに、武蔵国を改めて東山道から東海道に属させれば、公私ともに都合がよく人馬も休息することができるでしょう。

天皇は総奏上どうりこれを許可した。

※新田駅は上野国新田で現在の、群馬県太田市新田町。足利駅は栃木県足利市。

いろいろと都合が良いので、武蔵国を東山道から外して、東海道にするとう話である。しかし宝亀二年という時期は、太政官の奏上に藤原百川らが一気に関わりだした時期と一致する。この前後1,2年で光仁天皇の即位と、井上内親王の排除、山部王の立太子を実現している。そのまま受け取れないかもしれない。

古来、武蔵国は東山道(やまつみち)に属しており、東国の中心だった下野を通って武蔵に繋がっていた。これは武蔵国の国府が、埼玉(さきたま:現在の埼玉県行田市)という現在の栃木、群馬に近い地にあった理由でもあり、前稿でも示した下野と武蔵の関係の深さを物語るものでもある。6-7世紀ごろの古墳群といわれ200基を超える横穴がある有名な国指定史跡「吉見百穴」(埼玉県比企郡吉見町)も、この東山道から武蔵の南へ向かう街道沿いにあり、やはり南西を向いている。下野・武蔵の間にある深い繋がりは、すくなくとも雄略天皇の時代から古来続き、この時代も上宮王家や、東漢氏、物部氏(蘇我氏)らの勢力がこの地で勢力を誇って来た。武蔵の国の国司は聖徳太子の臣下の物部氏であり、大きな力をもっていたこともすでに示した。このような下野と、武蔵の関係を分断することで、古代勢力の力を弱めることに繋がると考えたと推測する。

もし、東海道(うみつみち)から武蔵に入るようにすれば、武蔵の中心地だった埼玉(さきたま)の地は山奥の果てとなる。このことは、武蔵と結びつきが強かった下野の力を弱めることにも繋がる。実際そうしてすたれていった。平安中期行以降、下野の地が棄てれていき、平安末期には壊滅的打撃を受けたことはすでに示した。

※埼玉(さきたま)の地は、室町時代以降に関東の戦略的拠点として再び脚光を浴びた。忍(おし)城は北条方に属し、秀吉の北条攻めに屈することはなかった。また江戸時代も忍(おし)藩がおかれ、幕府の需要拠点や天領となった。

武蔵(むさし)国の南部の新勢力

冒頭で記したように、天智天皇5年(666年)には、高句麗から若光(じゃっこう)が来日し、二年後には高句麗は滅びる。その後、天智天皇の孫にあたる光仁天皇は、霊亀二年(716年)武蔵国南部に高麗郡をつくり高麗人を大量に移住させていた。これは現在の埼玉県南部にあたる高麗の地域が、その後大きく発展することに繋がる。武蔵の国は現在の埼玉・東京・神奈川の一部を含んだ広大な地域であった。光仁天皇の時代には、高麗王ともされた若光(じゃっこう)が高麗郡を統治することが認められていた。高句麗から天智天皇のもと「若光」と同じ名で、高句麗の和名「高麗(こま)」である。50年程の開きがあるが、当人もしくは子、孫などの縁者である可能性があるだろう。

現在の埼玉県中央部である、大宮には『縁起式』で武蔵国一の宮(筆頭)とされた「氷川神社」がある。氷川の名の由来はいろいろな説がありはっきりしないようだ。社伝によれば、第5代天皇考昭天皇の時代の創建と伝わる。氷川の名も、出雲の簸川(ひかわ)郡に由来するという説があるようだ。

関東に幅広く分布する氷川神社の祭り神は、素戔嗚(すさのお)とその妻、稲田姫(いなだひめ)そしてその子孫とされる大国主(おおくにぬし)命、であり、それぞれが『古事記』の主人公であって神話の時代、国を現在の天皇家に譲ったとれる(国譲り神話)古代神でもある。大国主の子が、諏訪大社の建御名方(たけみなかた)神であり、出雲大社が島根にあるのと同じく、近畿から追い出された印象を禁じ得ない。

皇祖大兄とされた「押坂彦人大兄皇子」

「押坂彦人大兄皇子」の知名度は高くないが、実は皇統のキーになる皇子である。『日本書紀』孝徳天皇紀3月20日の条では「皇祖大兄(皇子)」とされている。父は敏達(びだつ)天皇であり押坂彦人大兄皇子は第一皇子に違いないのだが、天皇にはなっていない。ではなぜ「皇祖」なのか。

子は後の舒明天皇であり、その皇后となったのは、孫の宝皇女(後の斉明・皇極天皇)だった。こ2人から生れたとされる、中大兄皇子(のちの「天智天皇」)と大海皇子(のちの「天武天皇」)の兄弟がのちの皇統を継ぐことになる。大まかにいえば奈良時代は「天武系」が皇統を維持したと言える。(持統天皇は天智天皇の妹なので実はそれほど単純ではない)しかし、平安時代になると「天智系」が天武系を駆逐し、その影響力をほぼ完全に消し去っれたのは桓武天皇の時代となる。桓武天皇や平城天皇が怨霊に悩まされたという記録が多数が残るのは、こういった抗争の中で数々の謀略や呪詛に巻き込まれ、精神的に追い詰められていったからだろう。

「押坂彦人大兄皇子」が天皇ではないのはおかしい、実は彼は「蘇我馬子」のことであり、馬子は実は天皇(大王)だった、そう公言する専門家も複数いる。すると、初の女帝とされる推古天皇は実は天皇ではなく巫女だったということにもなる。これを支持する状況証拠は内外に複数あり、この説がもし正しければ、歴史上の謎とされている点がいくつも解けることも事実だ。

※天皇と名のったのは、おそらく天武天皇が最初だろうとされている。この時代は大王と呼ばれた。大山誠一の『天孫降臨の夢』によれば複数の大王家の家系があって、相互に交代で大王を出していたとしており、蘇我馬子は実は大王(天皇)だったとしている。この説においては、推古天皇は実際は天皇ではなく斎王(巫女)であったということになる。この種の説はたいへん説得力があり、おそらく今後も一定の支持者を得られ続けるだろう。

欽明天皇の後を継いだのは蘇我馬子が擁立した崇峻天皇だった。その崇峻天皇を殺害したのは、蘇我馬子の命を受けた坂上氏の祖、東漢駒(やまとのあやのこま)であった。天皇殺害という前代未聞の大逆を犯したはずだが、馬子も坂上氏一族も誰も咎めを受けた記事がない。当時は天皇が亡くなった際には一定の期間喪に服するため「殯宮(もがりのみや)」を立てて遺体を安置して執り行われる殯(もがり)があるが、崇峻天皇についてはその記録がない。その日のうちに倉梯岡陵に葬られており極めて異例だ。しかもその後天皇になったとされるのは、主犯と示唆される馬子馬子と協力していたことが姪の豊御食炊屋姫であり、後の推古天皇であった。

※『日本書紀』第25代武烈天皇には残虐性を描いた極めて不可解な記述があり、大変な混乱があった可能性がある。そのころ古代豪族の大伴金村が大臣(おおおみ)だった平群(へぐり)氏を滅ぼすと、越の国から新たな皇統として継体天皇迎えている。その後大伴氏は欽明天皇の時代まで絶大な勢力を誇った。しかし、大伴氏は安閑・宣化天皇を支持して欽明天皇を擁立した蘇我氏に敗れ、次いで崇峻天皇を擁立して再び蘇我氏に敗れたという説もある。この説に基づけば、崇峻天皇を支持したのは古代皇族の大伴氏であり、崇峻天皇の暗殺とは、実は大伴氏と蘇我氏の勢力争いの一端だったことになる。実際に欽明天皇と安閑・宣化天皇の二朝が対立していたという説は『上宮聖徳法皇帝説』や『百済記』にそのようにも類推できる記録があり、『日本書紀』でも崇峻天皇以降に大伴氏の影響力はほぼ記録から消え去る一方で、蘇我氏の絶大な権力だけが際立つようになる。なお、天皇の暗殺が確かに記録された例としては他に安康天皇だけしかない。しかしこれは皇族(眉輪王:仁徳天皇の孫)による暗殺であり、家臣によるものではない。

推古天王の死後、蘇我氏に近いはずの上宮王家、山背大兄皇子でなく押坂彦人の子である田村皇子が天皇(舒明天皇)になった。このときは、馬子の弟(従弟の説もある)であった蘇我境部臣摩理勢(さかいべのまりせ)を滅されている。山背大兄皇子が天皇になれず、馬子の子である蘇我蝦夷らに滅ぼされたという事情も推察できる。舒明天皇の皇后だった宝皇女が斉明天皇(つまり押坂彦人の孫娘であり、のちに「皇祖母命」とされる。)となり乙巳の変(大化の改新)のク―デターに繋がる。

『隋書』には600年に初めて遣隋使が派遣されたことが書かれ、そこでは日本からの使者は、倭王は男である(彦)と皇帝に伝えたことが記録されている。しかし、600年は推古天皇の時代であり、女性天皇だったことになり矛盾する。

『隋書』「東夷傳俀國傳」600年の遣隋使(?)の記述

開皇二十年(600年)俀王、姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(たらしひこ)、阿輩雞弥(おおきみ)と号(な)す。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。

(原文:開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕)

これによれば、倭王の名は、「阿毎多利思北孤(あまのたらしひこ)」(推定すれば「天垂日子」で天孫の意味か)で大王(おおきみ)ということになる。一方では、『日本書紀』でこの600年の遣隋使の記録はない。初の遣隋使は推古天皇15年(607年)の小野妹子を最初としている。この記録は『隋書』にもある。有名な一文である。

『隋書』「東夷傳俀國傳」607年の遣隋使の記述

大業三年(607年)其の王多利思比弧、使を遣わして朝貢す。(中略)其の国書に曰く、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、慈無きや、云々」

大王はこのときも同じ「阿毎-多利思北孤」である。これが聖徳太子だという説は早くから存在しており、おそらくこれが定説だろう。『隋書』で倭王が男だと記されていることに矛盾はないが、聖徳太子が大王(おおきみ)つまり天皇だったことになる。これは推古天皇が女帝であることと矛盾する。(なお、「阿毎多利思北孤」は遣隋使を仲介していた九州にあった別の倭国の王だという説もある。)

奈良時代にも皇統を継げる皇子が居ながら、女帝が続く時代があった。斉明(皇極)、持統、元明、元正と女性の天皇が続いた形になっている。この背景も説明できるかもしれない。たとえば、斉明天皇の時は若く英明とされた蘇我入鹿の全盛期だった、持統天皇・元明・元正天皇の時は、天智天皇の落胤と言われた藤原不比等が君臨していた。とすれば推古天皇のときは、実は蘇我馬子が(実質的な権力者である)天皇、大王だったのではないかということだ。

『日本書紀』推古天皇28年に聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされるのは『天皇紀(すめらのみことのふみ)』『国紀(くにつふみ)』だ。中国の強い影響を受け、おそらく日本の天皇の権威を高めるために編纂されたはずの歴史書で『天皇紀』『国紀』が、なぜ臣下である蘇我蝦夷邸だけに保存されていたのか。蘇我本宗家が大王であったならこの点も理解できる。

※国書と記録され現存しないものに『日本書紀』欽明天皇2年3月条にある『帝王本紀』持統天皇2年11月条にある『日嗣(ひつぎ)』、ほかに『帝紀』『旧辞』などがある。これに類するものと思われる。

蘇我馬子は『日本書紀』に嶋大臣と記録されている。奈良県の『推古天皇・聖徳太子』によれば、中国古代道教・風水の影響を影響をうけて、蓬莱山を模したものとされる。最近の発掘で、この池の跡地からは大量の桃の種が見つかり、中国道教・風水の強い影響が実証された形になっている。この影響は、後の天武天皇にも受け継がれている傾向である。

このことは、蘇我氏と天武天皇系の臣下として栄えた坂上氏(東漢氏)の深い関係を匂わせるものであり、天智系の天皇王となった桓武天皇以降に、聖徳太子や天武系の皇族、蘇我氏、東漢氏(坂上氏)らの一族は次々と滅ぼされ、あるいは中央から追い出されて、その東国の拠点、栃木の地に生き延びたのではないだろうかと想像を掻き立てられるものがある。

天智天皇と天武天皇

この時代の『日本書紀』の記述は矛盾に満ちている部分が多く、同時期もしくは後世の書などによって、その不可解さの謎を解くカギが得られることもある。それら書が『万葉集』であり、日本初の漢詩集『懐風藻』でありまた『元興寺縁起』や『上宮聖徳法皇帝説』であある。また通説では後世に作成された偽書とされてはいるが、物部氏の歴史観が反映されている『先代旧事本記(せんだいくじほんき)』や関東・東北地方からみた歴史観で貫かれている『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐうし)』などがその当時のことにも言及していたり、示唆を含む事実が語られていることがある。

これらを詳密に分析検討した古代史研究者や評論家では、独自の説を展開している例が多い。歴史評論家として数々の著書を発表している関裕二は、蘇我氏が大王であったとしたうえで、また大山誠一も『聖徳太子の真実』で蘇我馬子が大王だったとしている。

また渡辺康則は『万葉集』に記載された中大兄皇子の歌について、以前からささやかれてきた矛盾を解くカギを示している。『万葉集』では中大兄皇子時代に作成したとされる歌に、「中大兄」とかれ皇子とは書かれていない。また万葉集では天皇の歌には「御製歌」皇子の歌には「御歌」と書かれるにもかかわらす「中大兄」については「歌」としか書かれていない。このことは中大兄は、皇子と扱われていなかった可能性を示唆している。

執筆中

今後の課題

1)弘法大師 空海は高野山(こうやさん)を開いた。平成29年は、開基1200年とされる。空海は奈良時代の末の生まれで平安遷都の直前まで、都の大学寮で修業をしながら、戒律を守らない堕落した僧侶の姿をみて、延暦12年(793年)都を飛び出して、吉野などの山中にこもったそれから入唐する。この間に啓いたのが高野(たかの)の地とされており、現在の高野山(こうやさん)である。

桓武天皇の時代、高野(たかの)天皇とされていたのは称徳天皇だった。空海と高野の組み合わせは、天智系の桓武天皇と、称徳天皇までの天武系の係りを示唆するものだろうか。

2)大阪府南河内郡太子町が存在する。古代の河内郡の名残と思われ、古代天皇家の史跡が並び、聖徳太子の墓があるとされる地でもある。実はこの地にも相当以前から壁谷が居住していることが判明している。詳細は調査中だ。栃木の河内郡や、田辺氏などの関りについても興味深い。

3)不比等の妻「鏡女王」は、『万葉集』の鏡姫王、額田王(ぬかだのおおきみ)などと同一人物の可能性も指摘されている。それが正しければ、天智天皇、天武天皇との関係で、さらに別な関わりもでてくるが、話が複雑になるので、此処では触れない。強い関りが浮上した際には言及したい。

4)「天智天皇」については、多くの説があり、不可解な点や異説を記録した古書も多い。「天智天皇」稜はなぜか多くの天皇稜からポツンと離れて山科(やましな)にある。『扶桑略記』では当時は野山だった山科に狩りに出かけて行方不明となり、沓(くつ)だけが発見され、その姿は発見されなかったと伝える。当時、沓は黄泉(よみ)の国に旅立つ時に履くものとされており、すでに黄泉の国に旅立ったということを示唆している。

古代天皇家や古代豪族の謎のに言及するとそれだだけで膨大な量になり収拾がつかないが、関りが深いと思われるため、今後も注視していく。

5)檜隈寺は鎌倉時代の『清水寺縁起』に「道興寺(どうこうじ)」とよばれていたとされる。『海女と天皇』に記されている、やはり紀の国と関わる「道光寺(どうこうじ)」伝説に絡んだ、紀氏と藤原不比等、縣犬養美千代などがからむ権力争いと、文武天皇と藤原宮子などの関係が竹取物語との関係で興味深くい。次回以降の課題にとする。

6)私見ではあるが、文武天皇の時代に同様の事態があった可能性が高い。『続日本紀』では第42代の文武天皇には「皇后」の記録が公式に残っていない。また妃(嬪)とされた「紀竈門娘(きのかまどいらつめ)」「石川刀子娘(いしかわの とすのいらつめ)」らも、事情の説明もなく同時に廃されたとのみ記録が残り、その皇子たちも皇統を継ぐ権利を剥奪され臣籍降下させられた。その結果歴史上は、最後に残った夫人(ぶじん)の不比等の長女「藤原宮子」が産んだ子が「聖武天皇」として皇統を継ぐ。(宮子は、実は不比等の養女である可能性が高いことを梅原猛が『海女と天皇』で指摘しており、実際に宮子は子を産んだ後、長期間幽閉され子の輕皇子-後の聖武天皇-に会うこともできず、玄昉に助け出されたらしい記録が残る。)

さらにはその聖武天皇の皇后にも、不比等と後妻の「縣犬養美千代(あがたいぬかいのみちよ)」の間の子である「光明子(こうみょうし)」とし臣下として初めての皇后とすることに、天武天皇の孫である長屋王が猛反発した。これは「長屋王の変」のきっかけにもなる。これらの一連の出来事は、後宮を牛耳っていた不比等が「縣犬養三千代」を使って、百川同様あるいはそれ以上の暗躍をした可能性が高いと思われる。このことは、長屋王邸から発掘された木簡から長屋王との関係がわかり、かつ歴史上その存在が消されている竹野女王とも関わり、たいへん深く面白いテーマである。この件は壁谷との関わりが見えないが、別途詳しく述べる機会があれば触れたい。

7)活躍した坂上田村麻呂は、全国に効田(恩賞)を下賜されている。陸奥の田村の庄(現在の福島県田村郡、田村市、郡山市の一部から二本松、須賀川あたりまでを含む)があり、その地は鎌倉時代に紀伊の熊野神宮に荘園として寄進された。紀伊熊野にも田村郷がある。東北の田村の荘での田村麻呂伝説は寝強く、その後の幾多の戦いでも田村麻呂の一族・郎党らに領有権が引き継がれていったとされている。それ以前には、阿岐(あき)国(後の安芸国、現在の広島県)に効田が多い、この地との関係も見え隠れしている。壁谷が出雲や広島にもいることと関係があるのかもしれない。

8)もともと東や漢には「やまと」「あや」の和音はない。古代に「大倭(やまと)」に渡来した渡来人で、主に東国に拠点をもった氏族たちは「東(やまと)」だったのではないか。また「あや」とは「才伎(てひと:技能人)」らの多彩な能力や技能の裏付けとなった、中国文献や知識を指した言葉かもしれない。東漢氏に対する渡来人の一団には「西漢(かはちのあや)氏」がいたがそれほど地位は高くなく名族も出ていない。

ひとつは、倭の五王時代の政権は、河内地区(現在の東大阪)にあったことから、東側の生駒山を越えた現在の奈良盆地の付近を東(やまと)と呼んだかもしれず、のちに大和(やまと)となったかもしれない。その地は、河内が王権の里になるさらに古代の王権の地、纏向(まきむく)でもあった。「東(やまと)」と読むことは遥か古代に東(あずま)が「やまと」だったことを意味するかもしれない。『東日流外三郡誌』の記述を含め、機会があれば触れたい。

9)清原氏は「壬申の乱」で「天智天皇」系の政敵となった「天武天皇」の血筋であり『日本書紀』の編纂者とされた「舎人親王」そしてその子「淳仁天皇(じゅんにんてんおう)」の後裔であるともされる。「淳仁天皇」の諡号は明治になって付けられており、それ以前は名すらなく通称「廃帝」と呼ばれていた。その一族は「桓武天皇」と「藤原百川(ももかわ)」らに中央から一掃されており、その流れが東国に地盤を移した可能性がある。『枕の草子』で有名な「清少納言」の実父も清原元輔であり、奥州の清原氏と同じ系列である可能性が指摘されている。

10)『日本書紀』崇峻天皇紀では、冒頭から蘇我馬子が群臣に指令して、皇統を狙ったとして穴穂部(あなほべ)皇子や、宅部(やかべ)皇子らを殺害するよう指令を出している。さらには、泊瀬部皇子(のちの崇峻天皇)、竹田皇子、厩戸皇子その他の多く皇族を動員し、物部守屋を滅ぼしている。(丁未の変)さらには崇峻天皇が即位した後「東漢駒」による暗殺も、蘇我馬子の命だった。しかし、このような命令を出したとされる馬子やそれに従った皇族・家臣たちも、誰一人咎められた記録がなく、慣例とされる天皇の殯すら営まれず喪に服することもなくすぐさま埋葬されていることはあまりに不思議である。

そんな馬子を一貫して支持していた豊御食炊屋(とよみけかしきや)姫は推古天皇として即位し、馬子を個人的に騙していたことが後日発覚したとされる東漢駒は馬子によって処刑されている。また馬子によって支持された皇族の中には、皇祖大兄といわれた押坂大兄皇子の名がなぜか見えない。『日本書紀』のこのあたりの記述は、馬子が実は押坂大兄皇子であり、実は天皇(正確には当時は「大王」)だったとする学説に妙に説得力を持たせている。

11)桓武天皇の延暦元年 (782年)、天武天皇の血筋を継いでいながら臣籍降下していた「氷上川継(ひがみのかわつぐ)」が謀反を起こしたとされ伊豆に流された。その後許されている。天武系の血筋を継いでいた最後の大物だった氷上川継。その名から「氷川」が生れた可能性ももしかしたらあるのかもしれない。私見ではあるが蘇我氏や聖徳太子、天武系の皇族は、古代出雲系の血筋を継いでいたと認識していた可能性がある。機会が有ればさらに触れたい。

12)女帝だった持統天皇も「高天原廣野姫天皇」と記されており、高野の文字が含まれる。持統天皇は、称徳天皇の曾祖母であり、光仁天皇の叔母でもある。

13)新嘗祭や、天皇即即位時に一度限り行われる大嘗祭では、一般に2つの地域から新穀を。東国と、西国からそれぞれ1か所。これは天武の時代から変わらない。東国が朝廷にとって重要な位置づけがあったことがわかる。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000