下野の田村麻呂伝承

https://www7b.biglobe.ne.jp/~houisen/simotuke_tamuramaro.htm#tamrarijin_hohi 【下野の田村麻呂伝承】より

 鹿島神宮の悪路王首像は有名であるが、定村忠士『悪路王伝説』によれば同じ茨城県の桂村(現城里町)高久にある鹿島神社にも悪路王頭形(首形ともよばれる)があり、神社境内に表示された掲示板には「桂村指定有形文化財 悪路王面形彫刻 当鹿島神社の社宝として伝わるものである。延暦年間(七八二―)坂上田村麻呂が北征の折、下野達谷窟で賊将高丸(悪路王)を誅し凱旋の途中、この地を過ぎ携えてきた首級を納めた。最初はミイラであったが、これを模型したものといわれる。高さ五十糎、形相凄く優れた彫刻である。桂村教育委員会」とあるという。桂村鹿島神社の創建は天応元年(781)で、かつては安塚明神、それ以前は休塚明神と称していたといい、鹿島神社から西北二百メートルほどの森の中には今も「休塚」が残されているという。

 ここでは岩手県平泉近郊の達谷窟ではなく下野の達谷窟となっているが、この悪路王頭形を研究していた三木日出夫氏は、栃木県出身の芭蕉研究家の早乙女常太郎氏から、栃木県矢板市に田谷という小字名があって、周辺には田村麻呂伝承が数多くあると教えられたという。桂村から那珂川を遡り、その支流の一つの箒川の西岸に突き出た小高い丘陵一帯が田谷地区で、この田谷を訪れた三木氏によると、田谷の他に将軍塚、ニママ、マダテ、矢ビツ、意味不明のイラメキなどの小字名が残っており、将軍塚は名称通り坂上田村麻呂がここに宿営したという口伝に基づき、「当丘は古来より将軍塚と称す。其の由緒は延暦二十一年(八〇二年)征夷大将軍坂上田村麻呂が東征のみぎり、此所に宿営せるによる口伝相伝えたり、附近には矢櫃、烹飯、馬立等の地名古録に見ゆ、蓋し因める欣、意は当の豊田の有志が口伝の後混を憂い……」というような将軍塚之碑が建っているという。また、この地方では「那須山に立籠った賊の高麻呂」としているが、この高麻呂(高丸)が討ちとられたという平沢(太田原市)一帯を将軍塚から一望のもとに見渡せるという。

 定村忠士氏は、こうして三木氏は鹿島神社で下野達谷窟の賊将高丸(悪路王)とされる悪路王頭形を栃木県矢板市の田谷と関係づけ、同地に伝わる言い伝え、東征途上の坂上田村麻呂によって討ち取られたという「那須山に立籠った賊の高麻呂」らのことではないかと想像していき、那珂川流域にのこる田村麻呂伝説、例えば桂村内の三枝神社(田村麻呂が戦勝を祈願して軍扇を奉納した)、矢板市峰の木幡神社(田村麻呂が戦勝を感謝して赤松の厚板に自ら彫り、蝦夷の赤血を塗って仕上げたという天狗面を奉納した)などを紹介し、さらに烏山町(現那須烏山市)星宮神社に伝わる伝説「桓武帝の時代に蝦夷の族長悪路王が駿河方面まで進撃してきたため、田村麻呂は帝の命を受けてこれを追撃して、烏山町落合に軍団を集結し那須山に籠もった高麻呂(高丸)や、烏山付近で追討したと伝えられる悪路王などの蝦夷を平らげた」を紹介して、「この様にみると、桂村の高丸(悪路王)なる首級は、下野から田村麻呂軍団が持ち帰っても不思議ではありません。」と結論づけているという。

 方位線的に下野の田村麻呂伝承地と桂村の鹿島神社を見ると、鹿島神社と将軍塚が西北45度線上をつくる。なお、那珂川の「那珂」は「ナーガ」で蛇のことといわれるが、吉野裕子『日本人の死生観』によれば、箒のよみは「ハハキ」が「ホウキ」になったもので、その原点は「蛇木(ははき)」あるいは「竜樹(ははき)」で箒=蛇であるというから、箒川も「蛇川」ということであろう。

  将軍塚227m標高点―桂村高久の鹿島神社(W1.692km、1.96度)の西北45度線

 下野の田村麻呂伝承地の三ヶ所のうち、矢板市峰の木幡神社であるが、諸サイトを綜合すると、田村麻呂は蝦夷追討の遠征途中峯村に宿陣し、遠江国の高島信保・信房兄弟を従えて追討に成功しての凱旋の帰途、延暦十四年(795)にも再びこの峯村に宿陣したが、その時山城国宇治郡の許波多神社を勧請し、峯村を木幡村と改めたということになる。大同二年(807)現在地に遷座、天慶三年(940)平将門追討の際祈願に功あって藤原秀郷が社領一千石寄進したという。宇治には許波多神社が二ヵ所あり、大海人皇子や坂上田村麻呂が戦勝を祈願したと伝えられ、どちらも天忍穂耳命を祭神とするが、式内社で天忍穂耳命を祭神とする神社は許波多神社だけであるとされる。

 木幡神社の田村麻呂はあくまでも奥州で戦った田村麻呂ということになり、下野で戦ったという伝承を持つ他の二ヵ所と区別されるが、この三ヶ所は方位線的に密接に結びついている。将軍塚と矢板市の木幡神社が東北30度線をつくり、烏山町の星宮神社は伝承からいって落合にある星宮神社と考えられるが、そうすると矢板市の木幡神社と烏山町の星宮神社も西北45度線をつくり、将軍塚が地区名であり広がりを持つことを考えると、烏山町の星宮神社と将軍塚も東北60度線をつくるのである。高麻呂(高丸)が那須山に籠もった那須山であるが、現在の那須山とすると、将軍塚の北方に位置し、那須山にもある程度広がりを認めると、方位線まではいかないが方向線はつくるといえる。木幡神社の田村麻呂伝承がまずあり、それが発展して下野で田村麻呂が戦ったという伝承が出来てきたということなのであろうか。もしそうなら、将軍塚の田村麻呂伝承ができた頃には木幡神社は現在地に遷座していたと考えられる。

  将軍塚227m標高点―矢板市木幡の木幡神社(E0.178km、1.90度)の東北30度線

  板市木幡の木幡神社―烏山町落合の星宮神社(W0.267km、0.60度)の西北45度線

  将軍塚227m標高点―烏山町落合の星宮神社(E0.983km、2.27度)の西北60度線

  将軍塚227m標高点―那須茶臼岳(W1.837km、3.05度)の南北線

 田村麻呂が戦った高麻呂(高丸)という名は、中世の田村麻呂関係の物語を連想させるが、定村忠士『悪路王伝説』によれば、悪路王頭形について、水戸光圀が元禄六年(1693)に年久しくして朽ち損じていたのでそれを新たに彩飾したという記録が『水戸義公全集』上巻の中の「常山文集補遺」に見られるという。地元では、かつては悪路王のミニラそのものだったが、水戸の殿様が詳しく調べるからといって持ち帰り、その代わりにこの頭形を下されたという言い伝えもあるという。定村忠士氏はそのミイラの代わりに下された頭形を水戸光圀が修理したという可能性もあるのではないかとするが、そうするとミイラがあったのは江戸時代以前ということも十分あることになるり、どちらにしてもその悪路王の頭部が下野の田村麻呂伝承をもとにしたものであるとするならば、下野の田村麻呂伝承はさらに古くからあったことになる。

 下野にはもう一つ、鎮守府将軍藤原利仁にまつわる伝承がある。『鞍馬蓋寺縁起』によれば、下野国高座山のほとりに蟻のように集まった群盗が千人党を結び、朝用雑物を奪うので、藤原利仁に討伐の宣旨が下されたが、利仁は勝ちがたきを恐れて天王の加護を仰いで鞍馬寺に参詣し、立願祈精すると示現があったので、下野に進発し高座山の蔵宗・蔵安などの賊を討つことができたというものである(http://omodakashirou.web.fc2.com/lekishi/heian1.htm)。説話化された利仁の群党討伐譚は、早ければ十世紀中葉には民衆に流布していたという(http://omodakashirou.web.fc2.com/lekishi/taharatouta2.htm)。『吾妻鏡』には頼朝が達谷窟を訪れた時の文として、田村麿・利仁等の将軍云々とあるといい、当時すでに利仁は田村麻呂と並び称される武将だったことが分かる。利仁の官歴について、『尊卑分脈』には、武蔵守、従四位下、左(近衛)将濫、延喜十一年(911)任上野介、同十六年上総介、同十五年に鎮守府将軍となったとあるが、いずれも確実な史料からは確認できないらしい(http://omodakashirou.web.fc2.com/lekishi/taharatouta2.htm)。定村忠士『悪路王伝説』の年表では、延喜三年(903)菅原道真没、同十五年(915)鎮守府将軍藤原利仁、東国の賊を討つ、天慶三年(940)平将門下総幸島で討たれるとあって、実際利仁が東国で賊を討った可能性があり、その東国とは下野であったかもしれない。

 高座山については(毎日新聞宇都宮支局編『下野の武将たち』によると思われるが)、栃木県黒磯市高林の小丸山、塩谷郡の高原山、河内郡上河内村(現宇都宮市)の高倉山にあてる説があり、上河内村には利仁を祭神とする関白神社もあって、毎年八月七日の祭礼で奉納される一人立三匹の関自流獅子舞は高座山に寵もった千人の鬼を退治する姿といわれているという (http://omodakashirou.web.fc2.com/lekishi/taharatouta2.htm)。

 高倉山であるが、旧上河内村を地図で調べても関白神社の川を挟んだ西側に並んで高舘山・矢倉山という合わせて高倉山となる山はあるが、高倉山という名の山を見つけ出すことはできなかった。ただ、利仁の賊退治物語を記したホームページで高座山に「たかだてさん」とルビを振っているものがあった(http://61.194.63.139/ext/uyoupress/25.pdf)。高舘山の別名が高倉山で、地元では高座山とされているのかもしれない。また、「高座山神社」の鳥居が関白神社の周辺にあるらしい(http://blogs.yahoo.co.jp/qsa5238/23735185.html)。あるいは、関白神社周辺には他に神社が地図上では確認できないので、関白神社が高座山神社のことなのかもしれない。塩谷郡の高原山であるが、これは釈迦ヶ岳・鶏頂山・剣ヶ峰などよりなる高原山のことであろう。それに対し、栃木県黒磯市高林の小丸山については、そもそも高林に山といえるような場所がない。

 『ウィキペディア』の高原山の項によると、高原山は古くは行基が開基したと伝わる法楽寺が剣ヶ峰に存在した山岳宗教のメッカであり、峰や山道には祠や石仏、鳥居などが点在し、釈迦ヶ岳には釈迦如来像や祠が祭られ、鶏頂山の山頂には鶏頂山神社の社殿が建つという。高原山のうち、剣ヶ峰の西北30度線上に将軍塚があり、その西北45度線上に矢板市の木幡神社と旧烏山市の星宮神社があるなど、剣ヶ峰の方位線上に下野の田村麻呂伝承地が位置している。旧桂村の三枝神社は地図や神社検索サイトではみつからなかった。これは、同じ桂村にある三枝祇神社の間違いなのではないだろうか。そうすると、剣ヶ峰と三枝祇神社が西北45度線をつくる。剣ヶ峰の西北45度線上には木幡神社・烏山町落合の星宮神社があったが、三枝祇神社と木幡神社は方向線をつくるとはいえるが、落合の星宮神社とは方位・方向線をつくるとはいえない。いえることは、剣ヶ峰の西北45度線上に木幡神社・落合の星宮神社・三枝祇神社が並んでいるのであり、そのことに一つの意味が隠されていることはありえるかもしれない。

  剣ヶ峰―将軍塚227m標高点(W0.312km、0.89度)の西北30度線

  剣ヶ峰―矢板市木幡の木幡神社(W0.307km、0.96度)―烏山町落合の星宮神社(W0.574km、0.75度)の西北45度線

  桂村三枝祇神社―烏山町星宮神社(W2.363km、5.81度) ―矢板市木幡の木幡神社(W2.096km、2.47度)―剣が峰(W1.789km、1.53度)の西北45度線

 では、高原山の中でもどうして剣ヶ峰なのであろうか。『ウィキペディア』によれば剣ヶ峰の山頂近くで、石器の特長より古いもので今から約3万5千年前の後期旧石器時代と考えられる、日本最古と推定される黒曜石採掘坑遺跡が発掘されている。剣ヶ峰が原産の黒曜石を使用した石器が矢板市より200km以上離れた静岡県三島市や長野県信濃町の遺跡で発見され、氷河期の寒冷な時期に人が近付き難い標高1,500m近い高地で採掘されたことや、従来の石器時代の概念を覆すような交易範囲の広さ、遺跡発掘により効率的な作業を行っていたこと等が分かっているという。山頂近くで黒曜石が採掘された剣ヶ峰は、高原山の中でも古くから意識された山であり、聖なる山ともされていたのではないだろうか。また、方位線的にいえば剣ヶ峰は日光男体山奥宮と東北30度線をつくり、那須山茶臼岳とは東北60度線をつくるという位置関係にある。男体山奥宮と茶臼岳も東北45度線をつくっている。(以下略)


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