https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%80%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE 【雀宮神社
[すずめのみや神社]
栃木県宇都宮市雀宮1-2-2】より
雀宮神社(すずめのみやじんじゃ)は、栃木県宇都宮市雀の宮一丁目にある神社。旧社格は郷社。
歴史と趣のある神社として、地元民に敬愛されている。この地域を治めていた宇都宮氏の信仰は篤く、雀宮神社を、城を守る四神の内、南の『朱雀』と位置づけ、城主がしばしば遠乗りをしてお参りに来たという。皇族である御諸別王を祭神としていることから、1713年(正徳三年)東山天皇から金文字で『雀宮』と書かれた勅額が掲げられていたため、日光社参をする将軍家をはじめとして、諸大名は下馬して参拝したと伝えられる。
祭神 素盞嗚命
由緒
この神社の創建年代などについては不詳であるが、この神社の周辺の地名の由来ともなった神社であり、日光街道・日光東往還の雀宮宿が置かれた。伝承によれば、由緒は、平安時代に遡る。かつて台新田村雀宮宿と称しており、長徳3年(997年)に創建されたと伝わる。
一条天皇(第六十六代)の御代、藤原実方が陸奥守(むつのかみ)に任ぜられ、陸奥国へと赴く途中、当地に滞在したのち、任国へと下ったという[2]。実方の妻、綾女(あやめ)が、実方を慕って任国に向かおうとした[2]。綾女姫が当地まで来たところ、重篤な病に伏せり、臨終の床で、次のように遺言したとされる[2]。
「われ、夫中将実方を陸奥国にまで尋ね参らせんとせしが、病のため、此処にて死す。われの持てるこの宝珠は、大日孁貴尊(おおひるめのむちのみこと=天照大神)と、素戔嗚命(すさのおのみこと)との盟約の折の宝珠なれが、藤原家に預け置かれり。藤原家の宝珠なれど、この地に止めさせ、産土神(うぶすながみ)と斎き祀り(いつきまつり)せば、当地は長く繁栄なるべし。」郷人等はその遺言を奉じて、その宝珠を土地の産土神として尊く祀ったという[1][2]。その後、長徳3年9月19日(ユリウス暦:997年10月23日)、藤原実方がこの地を訪れて、神社を創建し、後に自身も合祀されたとも伝わる。長徳3年に藤原実方が亡くなり、雀に霊を宿して神祠に入ったので藤原実方を合祀したという伝承もある[1][3]が、史実では実方は長徳3年時点で存命である[4]。
1902年(明治35年)に記された『下野神社沿革誌』によると、雀宮神社の祭神は素戔嗚命 相殿一座藤原實方朝臣命、綾女神社は宇賀御魂命(綾女神社)とされている。境内社として祀られていた綾女神社は、1909年(明治42年)5月、湯殿神社とともに雀宮神社に合祀された。現在境内社として祀られている綾女稲荷神社と同一とは判然されないが、綾女姫の伝承から祀られたものとみられる。
また、御諸別王(みもろわけのきみ)を祭神とする説がある。御諸別王が東国を治めた際に、雀宮周辺を本拠地とされ、『日本書紀』の「早くより善政を得たり」とした記述があるとされている。そのため、後に人々から「鎮(しずめ)の宮」と尊称されたという。雀宮神社の祭神として祀られたという御諸別王を実質的な祖とした毛野氏一族は東国第一の豪族である。そうした関連性から、源義家(八幡太郎義家)が御諸別王を祭神として祀ったという。別の説に豊城入彦命が東国支配のためにこの地に赴いたが、ここで亡くなって祀られたため、「しずめの宮」といい、後に宇都宮へ遷座したため、遷座先の神社を「うつしの宮」と呼んだ[5]。これは雀宮・宇都宮の地名の由来とされるが、塙静夫は「こじつけた説」としている[5]。
塙静夫は、雀が子育て中は昆虫をとるが、秋になると穀物を荒らすことから、雀の害を除くために「雀大明神」を祀ったのが雀宮神社の創始ではないかと述べている[5]。
民話
雀宮神社には次のような民話が伝わる[6]。
「 昔々、食っては寝てを繰り返すばかりで、仕事もせず怠けている男がいた。ある日、村人は男を少し懲らしめてやろうと、針の入った饅頭を男に与えた。男が饅頭を食べると、針でお腹が痛くなった。しばらく苦しんでいると、雀がニラをついばんでいるのを見つけた。珍しがって見ていると、雀の糞から縫い針が出てきた。男は雀を真似てニラをたくさん食べると、お腹から針を出すことに成功した。これ以来、男は改心して働き始め、雀に感謝してお宮を建てた。これが雀宮の由来なのだと。 」
上記とは少し異なる、次のような民話もある[5]。
「 昔々、ある男が浮気した妻と間男の策略で、針の入った餅を食わされた。しばらく苦しんでいると、同じように苦しんでいる雀を見つけた。するともう1羽雀がやってきて、ニラを食べさせると、雀の尻から針が出てきた。男は雀を真似てニラを食べると、お腹から針を出すことに成功した。そして、男は雀に感謝して雀大明神を祀った。これが雀宮の由来なのだと。
https://kyonsight.com/jt/miyawest/suzume.html 【雀宮神社[すずめのみや神社] 栃木県宇都宮市雀宮1-2-2】より
境内のステンレス製由緒には「御諸別王」を主神とし素盞嗚尊と大山祇命を祀り,長徳三年997八幡太郎義家によって創建されたと刻まれている。正徳三年1713に東山天皇より下賜された勅額が本殿に保存されている。金文字で「雀宮」と書かれている。
『栃木県神社誌』昭和39年発行記載の祭神・境内社は次の通り:
祭 神:素盞嗚命 配神:藤原実方・倉稲魂命・大山祇命
境内社:琴平神社・稲荷神社・厳島神社・雷電神社・天満宮・湯殿神社
綾女神社は明治四十二年1909湯殿神社と共に合祀とある。拝殿左手の「綾女稲荷神社」がそれ。
長徳三年997創建の古社。JR雀宮駅北。
最初に綾女ayame姫の遺言による神社が素盞嗚命を祭神として創立され,ついで雀宮神社と改称する。
藤原行成とのけんかが原因で左遷されるはめになった陸奥守藤原実方が先に任地に赴く。後を追って妻の綾女姫が平安京から旅をしてくるも病を得てこの地で亡くなる。臨終の床で土地の者に遺言を残す。「天照大神と素盞嗚命の誓約で交換された八坂瓊曲玉[やさかにのまがたま]を持ってきたので,これを祀れば繁栄を保証する」というので,このとんでもない宝珠を祀ったのが綾女神社の始まり。
この曲玉からは田心姫命・市杵嶋姫命・湍津姫命の三女神が化成している。本物なら伊勢に返上すべき超絶お宝で,そもそも存在しない。権力者が家格を高く見せるために仕立てたもの。それはよくあることで悪いことではない。
藤原実方も長徳三年998九月に任地陸奥で他界するが,雀に姿を変えて綾女姫ゆかりの社に飛来する。霊異にあやかり実方朝臣を相殿に祀り,雀宮大明神と改称する。
下記の『下野神社沿革誌』では雀宮神社と綾女神社の二社が掲載されており,混乱するが合祀前の記録である。明治30年代の氏子の数は同数で126戸であった。
同時期に倉稲魂命を祭神とする「稲荷神社」が雀宮神社とは別に少し北東にあった綾女塚古墳(明治十七年1884東北本線施設で削られ始め,大正二年1913までの複線工事で消滅)に創建され,明治十八年1885に雀宮神社の隣りに30坪の広さで遷宮し,祭神との関係で「綾女稲荷神社」と呼ばれるようになり,明治四十二年1909に雀宮神社に合祀され,土地の方のおっしゃる「お稲荷さん」になった。
藤原実方=さねかたの中将の百人一首収録の歌は「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」
清少納言とも浮き名を流した。光源氏のモデルともいわれる。入内雀・実方雀の怪異を内裏にもたらした張本人で,さすれば京への途上に雀宮に寄ったのか。ロマンティクな怨霊といえばあたりそうな激情のかたまりのような男であった。
後に多数の和歌に詠まれる歌枕「室の八島」を早い時期に使って「いかでかは思ひありとは知らすべき室の八嶋の煙ならでは」を作っていて,栃木には縁が深い。 1999年建立の石鳥居が4号線沿いに立つ。読めるもので古い文字は石燈籠の天保十一子年1840。
残念ながら2013年10月15/16の台風26号で倒された御神木の大ケヤキの下敷きになり綾女神社は破壊され,屋根と土台が残っているのみ。本殿にも枝が覆いかぶさり,10度以上傾いてしまった。台風被害の詳細はこちら雀宮地区まちづくり推進協議会。
社殿はかつては石の玉垣で囲われていた。玉垣の石材は横に積んで残されている。(写真は2013/11/13現在)
*『下野神社沿革誌』5巻39丁 明治三十五年1902
■河内郡雀宮村大字雀宮字十里木鎭座 郷社雀宮神社 祭神素盞嗚命 相殿一座藤原實方朝臣命 祭日九月十九日 建物本社間口一間一尺奥行一間一尺 拜殿間口三間半奥行二間 華表一基 石燈籠二基 氏子百二十六戸 社掌中川義信
本村は徃時臺横田村と稱せしか寛政八年四月より雀宮宿と改號す 社傳に曰く 一絛天皇の御字長徳元年藤原中將實方朝臣陸奥守に任せられ赴任の途本村に淹留せられ而して奥地へ下向す 尋て中將の妃綾女卿を慕へ此里に尋ね参らせ暫し安息し給ひるに折しも圖さりき病に羅り漸次重らせ給へ終に身まかり給はんとする時郷人等に宣りけるに妾は中將殿のをわし座す陸奥國まても尋ね参へらんと欲りせしも病ひ革まり此世の名残りこれまてなりと云ひ亦妾か秘して斎らせる此寶玉は古昔天照皇大神と素畿鳴命と盟約の中に効績ありつる賓玉なるか藤原家遠祖に預け置れたるものにして則ち素盞嗚命の奇魂なれは此地に止め置き產土神と斎ひ肥りて崇敬せは此の地は永く繁榮すへしそかうちに中將殿も必す間はせ給はんと云ひ遂にはかなくならせ給ふ 郷人等此遺言を奉して祠を立賓玉を納めて素盞嗚命を祀りて產土碑と崇敬せり 然るに藤原實方朝臣も長徳三年九月十九日陸奥國笠島の里にて薨し給へるとかや其靈魂雀と化して飛來り本社に出入して屡奇異を示す これによりて實方朝臣を合殿に祀りて改めて雀宮大明神と稱す 后慶長二年五月此里も驛轉塲となり彌繁華の地たり 后寛永八年四月地名雀宮黽と改む 本社は徃時徳川將軍代々崇敬の社にして社領を付せられ殊に同將軍日光社参の途本社小休をなし厚く崇敬せらる例あり 叉別當には本山修験常學院にて代々奉仕せり 明治維新に際し復飾して奉務せしも故ありて中川氏代りて奉仕怠たらす 社域八百九十二坪上部東側に在り 境内には古樹亭々として高く聳ひ幽靜にして雅致あり
5巻40丁
■河内郡雀宮村大字雀宮字十里木鎭座 村社綾女神社 祭神宇賀御魂命 建物本社間口三尺奥行三尺五寸 拜殿間口二間奥行一間 鳥居一基 盥漱盤一個 氏子百二十六戸 社掌中川義信郷社雀宮神社社掌
社傳に曰く長徳元年995藤原中将實方朝臣の妃綾女卿を慕ひ此里に尋ね來り暫し休息せる時俄に病に罹り終に逝去せるを里民妃を葬り祠を立綾女稲荷大明神と崇敬す 其靈験あるを以て本地の鬼門除に祀り給ふと云云 后明治十八年1885四月今の地に奉遷す 社域三十坪平坦の地に在り
郷社雀宮神社
由来書
綾女稲荷神社屋根 綾女稲荷神社土台
旧鳥居など ベンチのところに御神木があった
仮本陣
雀宮宿仮本陣の神社
[すずめのみやしゅくかりほんじん神社]
栃木県宇都宮市雀の宮3丁目1-29
雀宮宿仮本陣芦谷家
JR雀宮駅から真西に徒歩5分,4号線沿い。
雀宮は日光道中二十一宿の一,16番目の宿場町。日本橋から25里99キロ。慶安元年1648ころには参勤交代の大名や偉い人が宿泊する本陣・脇本陣が各1軒,旅籠が36軒(天保十五年1844には38軒)あったが現存するのはここのみ。明治維新20年前の嘉永元年1848大火災の後に再建された。
本陣職は名主の小倉家が務めた。寛政五年1793小倉半右衛門から助郷御証文,名寄帳,宿絵図などの諸帳面を受け取った「覚」が芦谷家文書の中に残っている。以来芦谷家当主は治左衛門を襲名し問屋と名主を務める。 芦谷家は農業のほかに旅籠も経営していた名主。江戸期の絵画掛軸文物を保管しており,そのうち芦谷家文書379点が栃木県立文書館に寄贈・保存されている。
「仮」がつくのは上使をもてなす「茶屋」の役割を果たしていたので本陣・脇本陣と区別するため。控本陣とも。明治十四年1881明治天皇東北巡幸の際にはここ仮本陣で庭の梨を召し上がられた。
小倉家と芦谷家の関係はなかなかよくわからない。寛政五年1793以降も元治二年1865の家康250回忌大祭に際して下された手当金の記録に「金拾両 本陣 半右衛門/ 金六両 脇 本陣 小倉平治右衛門/金四両二 分 仮本陣 治左衛門」とあることから,本陣・脇本陣はずっと小倉家が,脇本陣は芦谷家が担当していたことが分かる。雀宮では名主半右衛門と名主平治右衛門の二名で宿手配を分担していた。
平成26年2004の発掘調査では仮本陣の地下室遺構から多数の遺物が出土している。
仮本陣の北側に鳥居と二つの社が立っている。いずれも,かつては東側の芦谷家庭園に建立されていたものを,こちらに移築した。つまり芦谷家の氏神さまである。仮本陣ののまわりに置かれた石燈籠も芦谷家庭園から移築したもの。仮本陣東にあるまだ新しい芦谷家は空き家になったため2023現在売りに出されている。仮本陣は町で管理している。
右手の覆屋内には木製祠が2基祀られている。右は狐の陶器狛犬が置かれているので稲荷か。左は不明。それぞれ祠の柱に文字が書かれていた板が打ち付けてあるが読めない。手前左下に日蓮上人の大曼荼羅額が立て掛けられており南無妙法蓮・毘沙門天・大持国天・南無上行天…などの文字が読める。
左手の覆屋も同様芦谷家庭園より移築,詳細は不明。
*氏神さまを掲載するときりがないので基本的に当webでは取り上げていませんが,歴史的建造物である仮本陣内の社なので,何も分からないが掲載します。
四号線斜め向かいの「大和田内科」と「やまや」(西松屋の跡地)の間に本陣跡碑。
碑の裏面:「江戸時代(一八〇九年)より現存した門は埼玉県に創立された学校法人国際学院日本文化研修館「敦照殿」の門に寄贈 平成十年1998八月吉日 小倉家十四代当主・小倉敦」
https://note.com/yukigesyou2/n/nfa615c12e3f8 【日本文化からみる『すずめの戸締まり』】より
先日、新海誠監督作品『すずめの戸締まり』を見てきた。
新海監督の作品を『言の葉の庭』から知った私は、映画の中に散りばめられる日本古来の文化や文学の要素が好きだ。
今回、ストーリーの大筋に関する考察は各所でなされているので、私は日本文化の面から『すずめの戸締まり』を見直してみたいと思う。
始めからネタバレを踏むので、未視聴の方は劇場でご覧になってから読まれるのをおすすめする。
地震を引き起こす「ミミズ」
物語の重要な鍵を握る「ミミズ」について、なぜミミズ?と思った方は多いのではないだろうか。私もそのうちの1人だ。というのも、地震と言われて私が連想するのは「ナマズ」だったからだ。
なぜ私がナマズを連想したかはさておいて(これを追い出すと記事が終わらないのだ)、日本の神話をたどってみたところ、やはり地震とナマズには神話的関係があるようだ。
茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮では、地震ナマズを押さえるという要石が残っている。
(鯰に御札を貼る要石) - 国立国会図書館デジタルコレクション
国立国会図書館デジタルコレクションは、国立国会図書館で収集・保存しているデジタル資料を検索・閲覧できるサービスです。
言い伝えでは、鹿島神宮と香取神宮が祀るタケミガツチとフツヌシという神が要石を置き、地震を鎮めたとされている。そしてこの神社に残っている要石、さぞ大きなものかと思えば、地上にほんの少し出ただけの小さなもので、「あの小ささがかえって奥に大きな存在がいることを想像させる」のだ。(1)
本編に出てくる要石、「ダイジン」も鈴芽が引き抜くまで見えていたのは頭部と思われるほんの一部だった。この杭のような形状は、鹿島神宮に残る要石がモチーフになっているのではないだろうか。
地震を鎮めるダイジンたち
さきほど紹介した神話では二柱の神が要石でナマズを鎮めたとされていた。
作中でも、鈴芽と旅を共にする「ダイジン」こと右大臣と、物語後半で抜けてしまい現世に現れる左大臣とがいる。
そもそも左大臣と右大臣とはなんなのか?ひな祭りで飾る人形から紐解いていきたいと思う。
七段飾りから見ることができる四段目の人形が「左大臣」と「右大臣」だが、彼らの正式な役職名は随臣(随身とも書く)である。随身とは、上皇や関白といった高貴な身分の人が外出する際に身辺警固にあたった武官のことをいう。(2)
左大臣は知を司る老大臣で、黒の衣を纏うことが多い。一方右大臣は力を司る若者で、白粉を塗った顔が印象的だ。(3)
この随身たちが「ダイジン」たちのモチーフではないかと考える。また、神話において二柱の神が要石を置いたことから、左右の大臣をおき、その頭と尾を鎮める必要があることからナマズではなくミミズが地震のモチーフに選ばれたのではないかと考える。
神聖視されてきた「スズメ」
さきほど随身が仕えるのは貴人であると述べたが、ではダイジンたちが仕えた鈴芽は一体何がモチーフなのか、ということを考えてみた。
私は「鈴芽=雀」とまぁ大体の人が考えるであろうモチーフから調べてみた。
すると、雀宮神社という神社が栃木県宇都宮市と山梨県東山梨郡勝沼町に存在することがわかった。今回は栃木県の雀宮について挙げると、昔話「とろかし草」の話を踏襲しており、ある男が雀に救われたことから雀大明神として祀ったという。(4)
鈴芽は神のモチーフだったのか...。だとすればダイジンたちの護衛も納得(勝手に)。
(追記: 鈴芽が雀なのは、「すずめの涙」の楽曲からも分かるのだけれど、そうすると「ほんの些細なこと、とても小さいもの」である雀の涙が、しかしとてもとても大事なのだと、そういうメッセージなのかな。
また、仕える、という意味ではミミズに仕えてその役目を全うするとも捉えられるため、ミミズ自体を神聖なものとする見方もある。というかこちらの方が有力そうだ。)
後戸が開くとき
では、ミミズがでてくるとされる後戸とは一体何なのだろうか?世界大百科事典によると、
仏堂の背後の入口のこと。この入口は本尊の背後にあることから宗教的な意味をもち,後戸を入った正面に本尊の護法神やより根源的な神仏を安置する。例えば東大寺法華堂の執金剛神,二月堂の小観音(こかんのん),常行堂の摩多羅神(まだらしん)などがその典型。法会儀礼のなかで後戸の神をまつる呪法は芸能化し〈後戸の猿楽〉という呼称が示すように中世芸能誕生の舞台となった。能楽の翁を後戸の神(宿神・守宮神)といい修正会(しゆしようえ)などの延年に登場するが,古来,修正会に後戸から鬼が出現するのもまた普遍的であり,ともに後戸の宗教性を象徴している。
木下密運. 世界大百科事典. 平凡社. 2007, 782p
要するに仏様の後ろにある扉のことで、創作物ではしばしば後戸からは鬼(禍の象徴)が出てくるという。仏様の後ろにある扉ならばあの世に続いているのも納得だ。
おわりに
これまで思いつくままに、『すずめの戸締まり』に出てくるキーワードについてあれこれ関連のありそうなことを調べてきたが、締めくくりは私自身の想像を添えたいと思う。
ダイジンたちは、左大臣が大人で、右大臣が子どもを表しているのではないだろうか。かつてただいまを言えなかったすべての大人の、すべての子どもの、記憶が、思い出が、地震を止めることはできなくとも、二次災害は防げると、監督は願っているのではないかと思う。
余談だが、ストーリーに関する考察はこちらがおすすめなのでリンクを添付しておく。
0コメント