山上の雲の厚さや田水張る 藺草慶子
水底のかくも明るく冴返る 同
水渡り来し一蝶や冬隣 同
片雲の遠く光りて夏きざす 同
光陰のなだれ落ちたるさくらかな 同
https://sectpoclit.com/futo-3/ 【鏡台や猟銃音の湖心より 藺草慶子【季語=猟(冬)】】より
鏡台や猟銃音の湖心より 藺草慶子
祖母の部屋に黒檀の古い鏡台があった。
祖母は几帳面な人で、簡素な作りの鏡台にはいつ見ても埃一つついていない。三面鏡になっていて、鏡面は微妙に青みがかっている。私は祖母に育てられたので、小さい頃はその鏡台の近くでよく遊んでいた。
今思い返しても不思議なことに、祖母が鏡台の前に座っている記憶はない。おそらく孫に自分が化粧をする姿を見せることはしなかったのだろう。記憶の中に居るのはいつも、おそるおそる三面鏡をひらき、中を覗き込んでいる幼い私である。うす青い鏡の世界はどこかこの世のものではないようで、緊張した面持ちの私の背後には普段より少し暗い畳の部屋が広がっていた。
鏡台や猟銃音の湖心より 藺草慶子
鏡台はある種のメタモルフォーゼの場所であるように思う。鏡、という言葉以上に使用者のことがイメージされるし、秘密を覗き込むような背徳性を含んだ言葉である。掲句の鏡台には何が映っているのだろう。猟銃音は果たして現実のものなのか。本来静かなはずの湖心から死を伴った音が響いてくるという描写、そして湖面と鏡面の類似性が重層的に迫り、読み手の認識を混乱させる。飛躍した読みであることは承知の上で、私はこの音はある家の鏡台の裡から響いてくるものと信じているのである。
藺草慶子は山口青邨、斎藤夏風に師事。句は句集「野の琴」より引いた。(川原風人)
https://spica819.main.jp/yomiau/337.html 【2011年5月・第2回 逢ひたきは若きちちはは花辛夷 藺草慶子(福田若之推薦)】より
高柳克弘×福田若之×神野紗希×野口る理
第二回
逢ひたきは若きちちはは花辛夷 藺草慶子
(『俳句』角川学芸出版、2011年4月号)
福田 個人的に実は事情があって、二か月くらい前に、祖父が亡くなりまして。そのときに、遺影を探さなくちゃいけなくて。アルバムをひっくりかえしていたら、若かったころのお父さんやお母さんの写真が出てきて。そのときに、すごく、自分の親を褒めるのも変なんですけど(笑)、若いころはきれいだったんだな、とか思ったりして。
神野・野口 かわいい・・・(萌)
福田 たしかに、「逢ひたきは若きちちはは」ってのが、僕の中で句として出会ったときに、すごくシンパシーを感じたというか。藺草さんが、若き父母に逢いたい、藺草さんが想像の中で逢うっていう景よりは、自分に置き換えて、自分が、若かったころのお父さんやお母さんに逢うっていう想像をして。そのときに、花辛夷の下で逢うというのは、ロマンチックというか。いい友達になれるかもしれないと(笑)そんなことを考えまして。そういう風に、深く入り込める俳句って、僕はいいなと思って、もってきました。
野口 そうですね、うーん・・・ちょっと、私はわかりにくかったというか、むしろわかりやすかった・・・さっき福田くんが言ってたような、写真見てて、っていうより・・・若いっていうのが、元気だったころっていうイメージになっちゃうんですかね。若いって、何歳くらいのイメージ?
福田 二十代前半くらい・・・
野口 じゃあほんと・・・
神野 自分と同じくらいのときの・・・
野口 藺草さんが思ってるのはどれくらいかわかんないんですけど、今はすこし衰えているのかな・・・なんで若い父母に逢いたいかっていうと、やっぱり、衰えた父母が目の前にいて、逆にちょっとつらい気持ちで言ってるような気がしちゃって。花辛夷っていう、字のせいもあるような気がするんですけど。
高柳 あー。
神野 「辛い」っていう字が入ってるね。
野口 ちょっと苦しいような句なのかな、と。あんまり、明るいばかりでもないのかな、と思ったんですけど、若之くんが言ったのを聞いて、ちょっとたのしくなりました(笑)。
神野 どちらにもとれますよね。両方あるのかな。逢うと楽しいだろうなっていうのと、今の父母に対する思いと。もしかしたら、もういない父母なのかもしれないし。私としては、こう素直に「逢いたい」といわれると、ちょっと照れちゃうというか。むしろ「逢いたくない」「見たくない」って言われたほうが、逢いたさとか、屈折した切実な感じが出るかなって・・・すごいわかる句なんだけど。そうだよねって。
野口 ちょっと「泣く」系ですよね。「泣く」系。
高柳 うんうん。花辛夷っていうのはね、明るい青空に咲く花だから、そんなに今が、たとえば老人介護しているお父さんお母さんで、みたいな、そういう背景があるようには思えなかったけどね。軽い気持ちってわけじゃないんだけど、ふと、お父さんお母さんのことが懐かしくなって、っていう感じかな。そういう、ま、軽い句だと思いましたけどね。あと、「ちちははに逢いたし」とかじゃなくって、「逢ひたきは」っていうふうにちょっと倒置した言い方にしてるところがね、やっぱりこう、高揚した気分も出ていて、単純に、ポジティブな明るい句じゃないかなと思いましたね。
神野 なるほど。
高柳 まあ、ちょっとアレかな。ドラマとか映画とかでよくあるよね。若いころのお父さんに会う、っていうの。
野口 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(笑)。
高柳 そんな感じかなあ。
神野 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」、好きでしたよね。
高柳 そうそう、昔、何度も見たよ。だから、そういう風に、淡白な味わいで何度も噛みしめられる句ではあるかな、と思うけどね。軽い句として味わえる。いまいち迫ってくるものはあんまりなかったかな。その、家族の、もうちょっと奥深い心理のあやみたいなものが描けていれば、句として面白くなるんだけどね。ベクトルが、ちょっと一方行すぎて、っていうところはあるかなあ。
福田 この句、たしかに軽くも読めるんですけれど、人生を重ねる・・・読み手が人生を重ねるごとに、また違う風に読めるかなっていう。そこの深さがあるかなと思って。たとえば僕なんかは、同年くらいのお父さんお母さんを想像しましたけど、もうちょっと年齢が上の人だと、また違った風に思うかもしれない。父母との関係性の変化もあって、読みが変わってくるかもしれないし。もう、ずっと未来に、お父さんやお母さんが亡くなったあとで見返しても、また違う風に読めるかもしれないし。その深みっていうのはあるのかな、ということを、ひとつ、思いました。
神野 読み手の人生に添って、句が成長していく。
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