https://finding-geo.info/Tochigi/Nikko_Volcanoes.html 【日光火山群の地質】より
日光火山群の概要
このページでは日光火山群の地形と地質の特徴をご紹介します。
日光市今市から望む日光火山群。左にそびえるのが男体山、右側の山々で最も高いのが女峰山。2001年2月撮影。画像をクリックすると説明の有無が変更可能。
日光火山群は、標高2000 mを超える山々が連なる栃木県内でも一番の山岳地帯に位置しています。独立峰の多くが火山噴火でできたもので、文字通り「火山群」と呼ぶのにふさわしい成り立ちをしています。
日光火山群とその周辺の3D地質図。南側上空からの鳥瞰イメージ図。画像をクリックすると説明の有無が変更可能。
出典:産総研地質調査総合センター 外部リンク、「栃木県シームレス地質図」 外部リンク および地理院地図 陰影起伏図 外部リンク を利用。3D地質図 はこちら 外部リンク。
日光火山群の数ある火山のうち、よく目立つのが独立した成層火山である男体山です。男体山は、古文書などによる活動記録はありませんが、その最後の活動が1万年前よりも新しいことが判明したため、2017年6月に活火山に認定されています (詳しくは別ページ「男体山の活火山指定」を参照)。
男体山はまた、現在の風光明媚な奥日光の地勢を決定づけている火山でもあります。地質図を見ると、男体山が現在中禅寺湖をせき止めているのが分かりますし、実はその北側の戦場ヶ原も男体山の噴火活動によって埋積された過去の凹地であることが分かっています。言い換えると、男体山の火山活動は二つの大きな谷をせき止め、巨大な堰止め湖と広い湿地を作り出したと言うわけです。
男体山の地形地質と溶岩地形。青で示した部分が、かつての谷をさえぎっている箇所に相当。
出典:産総研地質調査総合センター 外部リンク、「栃木県シームレス地質図」 外部リンク および地理院地図 陰影起伏図 外部リンク を利用。3D地質図でもご覧ください 外部リンク。
男体山の火山活動と地質
男体山は日光火山群の中でもひときわ目立つ山で、平地からでもその堂々とした山容を望むことができます。また、中禅寺湖の湖面を基準として1200 m以上の標高差があるほか、水深150 mの湖底まで山体が続いていることが水底地形からわかります。
男体山の南側斜面。南から眺める男体山は、きれいな円錐形の山体を成しています。日光市歌ヶ浜にて。2000年2月撮影。
男体山の西側斜面。西側からの眺めでは、男体山は山頂部が広く見えます。日光市千手ヶ浜にて。2000年2月撮影。
男体山の火山地質図。
男体山の火山地質図。[画像クリックで拡大]
出典:気象庁の日本活火山総覧(第4版)追補版の図4より引用 外部リンク。オリジナルは高橋ほか (2009) のFig. 2 (こちらのキャプションは英語)。
男体山の火山活動は、およそ3万年前頃に始まったと考えられます (石崎ほか, 2014)。その後の男体山の火山活動には幾つかの休止期が認められ、それらを基準に3つまたは5つの活動期が区分されています。
男体山の火山活動史
高橋ほか (2009) の区分 石崎ほか (2014) の区分 主な火山活動 主な溶岩や堆積物の地層名
第5ステージ 第3期活動 山頂火口での溶岩・火山灰噴出活動 御沢溶岩、山頂火口内の噴出物と、活動休止期の湖成堆積物
第4ステージ 第2期活動 激しい噴火活動による火山砕屑物の放出・堆積時期 今市降下スコリア堆積物、鷹ノ巣降下スコリア堆積物、志津スコリア流堆積物、七本桜降下軽石堆積物、白崖・竜頭滝軽石流堆積物
第3ステージ 第1期活動 成層火山の形を作り上げた溶岩流の噴出時期 古薙溶岩、男体西溶岩
第2ステージ 小薙溶岩、男体北溶岩、大薙溶岩
第1ステージ 荒沢溶岩、華厳溶岩、男体南溶岩
男体山の初期の火山活動では、主に溶岩流と火砕物が繰り返し噴出していました。最初期の荒沢溶岩は、日光市街近くまで流れ下り、大谷川に浸食されて含満ヶ淵と呼ばれています。溶岩流を主体とする山体が谷を堰き止めて、中禅寺湖を形成したのもこの時期です。現在の華厳の滝付近にはその時代の溶岩流 (華厳溶岩) の断面が見られます。度重なる噴火活動によって、現在見られる男体山の円錐形の山体が、この時期にできあがったと考えられています。
含満ヶ淵に見られる荒沢溶岩。2000年4月撮影。
山体ができた後、男体山は激しい噴火活動 (プリニー式噴火) を起こします。立ち昇った噴煙は、西風に流されて火山の東側一帯の広い範囲に火山灰を降り積もらせています。日光市付近で普通に見られる今市降下スコリア堆積物と七本桜降下軽石堆積物はこのときの噴出物です。戦場ヶ原の中心部 (糠塚付近) では、このときの噴出物 (竜頭滝軽石流堆積物) が、約116 mもの厚さで埋積しているのがボーリングデータから分かっています (平山・中村, 1994)。また、男体山の山頂付近は北側に開いた馬蹄形の火口になっていますが、火口壁の北側が崩れたのはこの時期の激しい噴火のためと考えられています (高橋ほか, 2009)。
男体山の末期の火山活動は、山頂火口からの噴火活動です。その最大のものは山頂から北へ流れ下った御沢溶岩で、末端は明瞭な崖をなしています。その後、山頂には火口湖ができていたようですが、断続的に噴火が発生し、火口内にスコリア丘やタフリングを形成しています。また、北東側の斜面に、火山泥流も発生させています。ただ、御沢溶岩の流出以降、活動の規模はそれまでに比べると小さくなり、噴火の影響範囲も縮小しています。そして、最後の噴火がおよそ7000年前にあったことが報告されています (石崎ほか, 2014)。
山王峠から望む男体山の北斜面。逆光でわかりにくいですが、山頂に火口が開いており、そこから御沢溶岩が流れ出しています。2000年3月撮影。
男体山の火山活動史は、このように山体形成、プリニー式大噴火、山頂周辺への溶岩・火砕物噴出と変遷してきました。まだ分からないこともありますが、更に研究が進むとより詳しい履歴が明らかになったり、年代が見直されたりすることになるでしょう。
華厳滝
華厳滝には華厳溶岩の断面が見られます。溶岩は塊状部と角礫部のセットから構成され、ほぼ水平方向に連続しています。溶岩流は2枚あり、滝の下部3分の1程度が下位の溶岩、上部3分の2程度が上位の溶岩です。溶岩の塊状部は角礫部よりも風化に強いため、断面でも少し飛び出しています。
華厳滝に見られる華厳溶岩の断面。溶岩の塊状部は風化に強い一方、角礫部はもろいため、下位の溶岩の塊状部がやや飛び出して、崖の下部が棚のようになっているのが分かります。1991年2月撮影。
華厳溶岩の塊状部には、垂直方向に伸びる柱状節理が見られます。塊状部は風化に強いとは言え、長い年月の間には次第に岩盤の強度は弱くなります。このため、ここ華厳滝では、崖の崩壊を防ぐための特殊な工事が行われています。実は崖の背後に縦穴のトンネル (一部横穴) が掘ってあり、そこから「アンカー」と呼ばれる工法で崖を補強し、崩壊を防いでいるのです。
華厳滝に見られる華厳溶岩の断面。垂直方向の柱状節理が発達しています。1991年2月撮影。
竜頭滝
竜頭滝は戦場ヶ原を流れてきた湯川が、中禅寺湖に流れ下る場所にできた滝です。急な斜面を水が激しく流れるタイプの滝で、その長さは200 m以上、比高は60 mほどあります。
観瀑台から見た竜頭滝。二股に分かれていた流れが合流する滝の末端部に相当するため、大きな岩塊が目立ちます。2013年1月撮影。
竜頭滝は戦場ヶ原と中禅寺湖の間に連なる山並みが一部途切れた場所に位置しており、戦場ヶ原の水はすべてこの山の切れ目を通って下流の中禅寺湖へ向かっています。地形からは河川の浸食によって切れ目ができたようにも見えますが、地質を見ると実はこの場所は川が削る前から低い場所だったことが分かります。
竜頭滝の上部には大きな岩塊は見られず、滑らかな川床は竜頭滝軽石流堆積物からできています。1992年5月撮影。
竜頭滝とその周辺に見られるのは、竜頭滝軽石流堆積物と呼ばれる男体山の噴出物です。竜頭滝軽石流堆積物は、上述のように戦場ヶ原の地下に厚く堆積しているのが分かっているほか、地表では戦場ヶ原の周縁部に広く分布しています。その一部が戦場ヶ原からあふれるような形で、現在の竜頭滝の谷にも分布しているのです。したがって、竜頭滝軽石流堆積物が堆積する前は、竜頭滝の位置にはもっと深い谷があったと考えられます。言い換えれば、その谷を竜頭滝軽石流堆積物がふさいでしまい、水の流れをせき止めてしまったことになります。
戦場ヶ原とその周辺の地質
男体山の火山活動がせき止めたもうひとつの谷が、やがて埋め立てられた結果、形成されたのが戦場ヶ原です。
戦場ヶ原
戦場ヶ原は、現在では水域は見られませんが、ボーリングによって地下の地質を調べた結果、過去にはここに湖があったことがわかっています。そして、湖ができる前は、かなり深い渓谷地形だったと考えられています (平山・中村, 1994および1995)。
ボーリング調査から推定される戦場ヶ原の地下地質 (南北断面)。左側が北、右側が南になります。平山・中村 (1994, 1995) を基に描いていますが、ボーリング地点の標高データが不明なため、各地点の対比には垂直方向の誤差があり得ることにご注意ください。
ボーリングデータによれば、湖成堆積物は糠塚の東で最大38.9 mの厚さがあります。その下には上述したように竜頭滝軽石流堆積物が約116 mも堆積しています。竜頭滝軽石流堆積物の直下にあるのは、戦場ヶ原の周囲の山に見られる古い火山岩 (鬼怒川流紋岩類) や男体山の溶岩です (平山・中村, 1994)。このことから、現在の戦場ヶ原のできるまで、以下のような発達史が考えられます。
男体山の火山活動が始まった頃、現在の戦場ヶ原付近には今より150 mも深い谷があった。
やがて激しい噴火 (プリニー式噴火) が起こり、大量の火砕物 (竜頭滝軽石流堆積物) が谷を100 m以上も埋めるとともに、谷の出口をふさぐことになった。
谷がふさがれたことで、竜頭滝軽石流堆積物の上には大きな湖ができた。
周辺から流れ込む砂や泥が少しずつ湖を埋め立てていった。
1万年以上埋め立てが進んだ結果、水域はほぼなくなり、全体が湿地となった。
戦場ヶ原は、現在でも少しずつですが埋め立てが進んでいます。地質図を見ると、男体山北側の御沢から土砂が運ばれ、湿地堆積物の分布範囲に広がっていっている様子がわかります。
西側から望む戦場ヶ原。雪原の範囲が湿地堆積物の分布域にほぼ一致し、画面中央に灌木が並んでいるところを湯川が左から右に流れています。左奥の林になっている緩斜面は御沢の運んできた土砂が分布する地域で、湿地を少しずつ埋め立てています。遠くに並ぶピークは、左から小真名子山、大真名子山、男体山。1995年2月撮影。
西側から望む戦場ヶ原。雪原の範囲が湿地堆積物の分布域にほぼ一致し、画面中央に灌木が並んでいるところを湯川が左から右に流れています。左奥の林になっている緩斜面は御沢の運んできた土砂が分布する地域で、湿地を少しずつ埋め立てています。遠くに並ぶピークは、左から小真名子山、大真名子山、男体山。1995年2月撮影。[画像クリックで拡大]
三岳の溶岩と湯ノ湖
三岳 (みつだけ) という名前は、日光の山の中ではあまりなじみがないかも知れません。目立ったピークはなく、山頂に至る登山道などもないですが、湯ノ湖の東側に位置する山が三岳です。ハイキングコースや国道をたどって、周囲を一周することはできるようになっています。
光徳牧場から見上げる三岳。名前の通り、ふもとから見る三岳は3つのピークが並んでいます。このピークに連なる山体は、いずれも同じ時期に噴出したデイサイト溶岩からできており、三岳溶岩と呼ばれています。1994年1月撮影。
光徳牧場から見上げる三岳。名前の通り、ふもとから見る三岳は3つのピークが並んでいます。このピークに連なる山体は、いずれも同じ時期に噴出したデイサイト溶岩からできており、三岳溶岩と呼ばれています。1994年1月撮影。[画像クリックで拡大]
三岳は、日光火山群の中では日光白根山に次いで新しい山です。地形図や陰影起伏図を見ると、溶岩表面に見られる「しわ」状の地形などがよく保存されているのが分かります。
三岳溶岩の分布と溶岩地形。三岳溶岩は少し古い山王帽子火山の溶岩を覆っていますが、溶岩が流動したり冷えて収縮したりするときにできるひび割れやしわのような微地形がよく保存されています。青で示した部分が、かつての谷をさえぎっている箇所に相当。
出典:産総研地質調査総合センター 外部リンク、「栃木県シームレス地質図」 外部リンク および地理院地図 陰影起伏図 外部リンク を利用。
三岳も、かつて存在していた谷をせき止めてしまいました。その結果できた、最も大きな湖が湯ノ湖です。湯ノ湖の水は元の谷とは別の方向へ溢れ、湯滝となって急な斜面を流れ落ちています。その水は湯川となって戦場ヶ原の西の端を流れ下り、竜頭滝を経て中禅寺湖に注ぎます。つまり、湯ノ湖の水は、戦場ヶ原、中禅寺湖と、全部で三つの大きな堰止め湖を経由して、最終的には華厳滝から谷そして平地へと流れてゆくわけですね。湯ノ湖の他にも、三岳の北側には流出河川をもたない切込湖、刈込湖、涸沼などの堰止め湖が形成されています。
日光白根山の地形と地質
日光火山群の中で、最も新しい火山は、日光白根山です。日光白根山は栃木県では一番高い山ですが、火山としての山体の大部分は群馬県側にあります。もとの分水嶺のやや西側に新たな山体が成長したような地形を呈しており、栃木県内で最高峰の山でありながら、栃木県内の河川にはこの山を源流とするものはありません。山頂東側の五色沼は、斜面の一部が隔離されてできた凹地にせき止められた水が溜まったようになっています。
日光白根山周辺の地形陰影図。もとの分水嶺の西側に、多数の溶岩流からなる火山体が形成された様子がうかがえます。地理院地図 陰影起伏図および傾斜量図を利用。
出典:地形図には地理院地図 標準地図 外部リンクを、地形陰影図には陰影起伏図 外部リンク および傾斜量図 外部リンクを利用。
日光白根山の火山活動の主体は溶岩噴火で、地形からもいくつもの溶岩流が判別できます。活動時期が新しいため、溶岩特有の微地形や、火口が残っていることがあります。山頂は溶岩ドームを成しています。山体の北側にある菅沼、丸沼は、日光白根火山の溶岩流で谷がせき止められてできたものです。
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龍村仁監督のドキュメンタリー映画『地球交響曲』ガイアシンフォニー 何度観ても 新たな発見と氣づきがある 不思議な映画音が柱となっているのが第六番
https://www.youtube.com/watch?v=NkNbxFnWpT8
有難いご縁をいただき僕は~虚空の音~の章に出演をさせていただきました。
写真は映画の中のシーンからの懐かしい写真まだ髭もはやし、ずいぶん 髪の毛も~龍村監督がくださった
メッセージ
~映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」の撮影では、大自然の予期せぬ働きに助けられることがしばしばある。
地球の女神ガイアはこの映画のことをよく知っていて、撮影の度に、一つ、二つと想像もしていなかった自然現象を眼前に展開してくれるのでは、と思えるほどだ。
第六番の「虚空の音」の章の撮影で伊豆大島に行った時もそうであった。
大島では、三原山の噴火口でKNOB(ノブ)のディジュリドウ(楽器名)の演奏を撮影した。ディジュリドウは、楽器というよりオーストラリアの先住民アボリジニの人々が、大地の精霊や大宇宙の神々と交感するために使う媒体(メディア)である。
実際の形は、長さ1m前後、直径10cm前後の細長い木の筒のようなものだ。アボリジニの人々は、中味を蟻に喰われて空洞になったユーカリの木を使ったそうだ。
その音がすごいのだ。まるで地の底から湧き上がってくるマグマの音、地震の際、最初に地中を渡ってくる超低周波のような音だ。
私が初めてこのディジュリドウの音を"生"で聴いたのは、東京で催された自主上映会のオープニングで主催者から招かれたKNOB(ノブ)が演奏した時だった。暗闇から聴こえ始めたその音は、モダンな会場の雰囲気を一気に地球創生期に遡行させてしまうような力があった。
この世で初めて耳にする音、私が連想したのは、水深400mの深海に響くザトウ鯨の歌、チベット仏教の僧達が唱える超低音のマントラだった。
第六番のテーマを"音"と定めた時、この世の全ての存在の背後にあって、全ての存在を形づくり動かしている「虚空の音」=耳には聴こえない音と、耳に聴こえる音を繋ぐシーンがどうしても必要だと考え、4人の無名(これは敬称である)の音楽家達に協力を依頼した。
その一人がKNOBだったのだ。
さて、このディジュリドウの音をどこで撮影すれば良いのか、最初に思いついたのは活火山の噴火口だ。火山活動こそ、誕生以来45億年間絶えることなく続いている地球(ガイア)の生きている証である。ディジュリドウは、その母なる大地の歌声と響き合うためにアボリジニの人々がつくった"楽器"である。だから、火山の噴火口こそディジュリドウに相応しい。
しかし、今現在爆発している火口の淵にKNOBを立たせる訳にも行かないし、そんなことが許されるはずもない。そこで選んだのが三原山の噴火口だった。私は、爆発を終え新しい生命を生む準備を始めた、壮大だが静逸な風景を想像していた。
撮影予定日の前日、午後遅く下見のため火口に登った。するとどうだ、俄に風が起こり雲が湧き、その風が火口の底に雪崩れ落ちたかと思うと、火口から噴き出る小さな噴煙と交じり合い渦巻きながら激しく吹き上げてくる壮絶な風景になった。私は急遽、KNOBに崖淵に座って存分に吹いてくれるよう頼み、暴れ踊る白い龍雲の中に現れては消えてゆくKNOBの姿を撮影したのだった~
地球交響曲を愛してくださり、上映会を続けてくださっているしのさんの会に日 お邪魔させていただきます。記事をシェアさせていただきます。ピンとこられた方ご一緒ください。
KNOB拝
http://www.aso-geopark.jp/mainsites/mainsite04.html 【噴火活動と信仰】より
阿蘇火山の中岳火口は、古くから「神霊池・霊池・阿蘇大明神の神池」など時代とともに様々な、いわゆる神格化した呼称で呼ばれてきた。 このように中岳火口を古くから池と呼んでいることは、火口内に水あるいは湯が溜まっている状態が長く続いていたことを物語る。その池には神が宿っていると思われていたので、神にちなんだ名が与えられ、火口へ登山することを御池参りと云って、信仰の対象となっていた。
火山活動で火山灰が多量に噴出される活動では、黒煙を蛇か龍にたとえ、それが池(火口)より天に昇り立つととらえていた。これは、自然に対する畏敬の念をいだいていたので、火口を信仰の対象とし、その結果、火山による災害を防ぐ役割をも担っていた。すなわち、古い昔の時代では、阿蘇火山は神の宿る山なので火山活動が活発するなどの異変が生じると、天下の凶兆とみなされ、飢饉疫病が生じると信じられていた。したがって、時の為政者は何らかの対策を打たねばならなかった。このため、阿蘇火山の火山活動は阿蘇神社から太宰府に古くから言上されてきた。言上された結果、阿蘇火山の神、すなわち健磐龍命に加増や栄進が与えられ、阿蘇神社の修理や新たな神社の建立などが行われた。
このような火山信仰の中心に位置するジオサイトが「阿蘇神社」(図1)である。阿蘇神社の創立は,約2,300年前にさかのぼり、現在でも阿蘇家91代の歴史が続いている。上に述べたように、火口には池があり、世の中に良くないことがあれば、突然大きく波立ち暴れる。このような異変が生じるので、宮司は阿蘇神社の御幣を奉って祈願してきた(図2)。
阿蘇神社(国指定重要文化財)
阿蘇神社(図1)(国指定重要文化財)
火口鎮めの儀(火山活動の平穏を祈願して御幣を投げ入れる神職)
火口鎮めの儀(図2)
火山活動の平穏を祈願して御幣を投げ入れる神職
中岳火口の西で草千里ヶ浜との間には広大な牧野が広がっており、ここを古坊中(図3)と呼んでいる。また、山上広場と中岳火口を結ぶロープウェーの下の駅舎付近を本堂と呼んでいる。さらに、駅舎の横にはジオサイトとして、西巌殿寺奥の院と阿蘇山上神社の建物(図4)がある。西巌殿寺は、現在は麓の阿蘇市黒川坊中にあるが、古坊中には8世紀または12世紀に観音像を安置する本堂が火口の西に造られていた。寺の創建に伴って付近一帯に坊舎・庵などが建てられ、室町時代の最盛期には36坊52庵に上ったとされる。しかし、激しい火山活動や戦乱などに影響され、16世紀終わりに撤退を余儀なくされた。
噴火史に現れる被害をみると、14世紀中頃や15世紀後半に「堂舎悉く破壊」、「堂舎多数破壊」、「堂舎被害」、「本堂破壊」、「堂舎流漂」などの記事が多く、当時はかなり火山活動が活発であったことが分かる。
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