坂上兄妹

https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/058.html#:~:text=%E4%BB%8A%E9%95%B7%E5%AE%9D%E5%AF%BA%E3%81%AE,%E6%85%95%E3%81%84%E6%95%AC%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%80%82 【坂上広野麻呂さかのうえのひろのまろ】より

(787 – 828年)

今なお語り継がれる平野郷繁栄の祖

坂上広野麻呂は、延暦6年(787)征夷大将軍・坂上田村麻呂の次男として生まれた。長じて第52代嵯峨天皇に仕え、陸奥守として4年間任地に赴いた。父田村麻呂に似て武勇の才を発揮するとともに、愛飲家でもあった。天皇から摂津国住吉郡杭全(くまた)郷を賜わり、以後当地に居住。その邸宅は「広野殿」と呼ばれ、いつしか地名を示すものとなった。さらに後世転訛して「平野殿」となり、これが現在の平野の地名となる。

 広野麻呂は長寳(ちょうほう)寺田村堂(現在は杭全神社田村社)に自ら彫った父田村麻呂の像を安置し、毎年5月23日の父の命日に冥福を祈ったとされる。

 広野麻呂の子当道(まさみち)は貞観4年(862)当地に祇園社を勧請し、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀った。これが現在の杭全神社第一本殿で、当社は坂上家の氏神とされた。

 広野麻呂の妹・慈心大姉(?~826)は元の名(俗名)を春子といい、桓武天皇の后となって葛井(ふじい)親王をもうけた。若き親王は外祖父田村麻呂が自慢するほどの弓の名手であったという。桓武天皇が亡くなってのち春子は弘法大師に帰依して出家。慈心大姉と号し大同年中(806~810)に父田村麻呂が杭全郷に創建した長寳寺の開基となって天皇の冥福を祈り、信仰一筋の日々を送った。

 長寳寺は坂上家の氏寺となり、当寺の方丈(住職)は、明治初期に血脈相続が廃されるまで坂上家出身の女性によって承継されてきた。

田村麻呂と広野麻呂・慈心大姉たち子孫が創建・開基した長寳寺・杭全神社は、坂上家直系・支族(七名家)によって継承・維持され、今もなお両寺社で行われる伝統行事を通じて旧環濠都市・平野の繁栄と結束のかなめとなっている。

広野麻呂の屋敷跡

近世に書かれた『長寳寺縁起』に坂上広野麻呂の記載がある。「田村麿の子、広野麿、父乃影を手つから彫(きざ)みて、常に崇敬し、孝心のつくしねとそ。今長宝寺の田村堂に安座して、毎年五月二十三日祭をなし、諸人渴仰する是なり(原文のまま)」―広野麻呂が父田村麻呂の肖像(木像)を自ら彫って寺のお堂に祀り、命日の5月23日に法要を行う姿を見て人々は広野麻呂を慕い敬ったという。

さらに「父祖の志をつたへて朝廷にいさをなしたる名臣にてありしか」―祖父苅田麻呂、父田村麻呂の志を継いで朝廷に貢献した名臣であった。その広野麻呂に朝廷は摂津国住吉郡杭全郷を下賜したのである。

『摂津平野郷大絵図』(江戸宝暦年代)をみると、長寳寺の境内に「田村麻呂旧宅」との表示がある。おそらくここが広野麻呂の住んだ屋敷跡地ということであろう。長寳寺裏の近隣住宅の一隅に、平野戸主会が建立した「坂上廣野麿屋敷跡」碑が建っている。

長寳寺―えんまさんの寺

広野麻呂の妹・慈心大姉開基の長寳寺は正式名を「王舎山長生院長寳寺」といい、旧平野郷町のほぼ中央部に位置する。山号の王舎山は、吉野に遷られる際当寺を仮皇居とされた後醍醐天皇から賜ったものである。当寺には田村麻呂の守護仏で秘仏とされる本尊の十一面観世音菩薩をはじめ多くの寺宝があり、中でも鎌倉時代の作といわれる銅鐘や南北朝時代に描かれた『釈迦涅槃図』は国の重要文化財(戦前は国宝)に指定されている。

また、長寳寺は「えんまさんの寺」として地元に親しまれている。当寺の第39世住職・西脇慈容氏は、復刻本『長寳寺縁起』のあとがきに「現代社会は、まさに真実、虚偽が混沌として、人間の心の奥に存在する地獄との戦い」であるとし、「当寺に伝わる『よみがえりの草紙』では、えんま様は生きながらにしての地獄『生き地獄』を救うことに触れている」と記している。

平成29年(2017)5月18日、長寳寺を訪れた。この日は年に1度秘仏十一面観世音菩薩と閻魔大王の廟の扉を開いて「秘仏本尊御開扉」の法要が行われる日である。お寺の前の通りは紅白の奉納幟が数多くならび、山門をくぐって中に入ると、境内には宝印授与・祈祷や経木・回向の受付、厄除け煮込みこんにゃく販売、休憩所そしてボランティアバザーなどさまざまなテントが林立するなか大勢の参詣客が訪れていた。

恒例の閻魔大王の宝印授与では、受付をすませた老若男女がお堂にあがり、住職はじめ応援の僧侶に悩みを告げて宝印をいただく。そのあと御本尊に手を合わせて本堂階段下に戻ってくる。こうした光景が午前と午後の2回、それぞれ1時間以上も続く。

 御開扉の法要は年に1回しかないが、当寺では季刊誌『えんまさんだより』を発行したり、平野区役所が『よみがえりの草紙』をもとに制作した『地獄を見てきた尼さん』の紙芝居を本堂で口演したり、平野図書館での貸出しを行ったりして長寳寺に伝わる〝えんまさん〟の伝承に取り組んでいる。

杭全神社と長寳寺との関係―田村祭と平野郷夏祭り

広野麻呂の子・坂上当道が勧請した祇園社を縁起とする坂上氏の氏神「杭全神社」と慈心大姉が開基した坂上氏の氏寺「長寳寺」とは、田村麻呂を介して今もなお深いつながりを持つ。

神仏習合を廃し神仏分離を進めるという明治新政府の神仏分離令により、杭全神社の神宮寺(修楽寺)本尊の十一面観音菩薩は長寳寺に、そして長寳寺田村堂(現在の大師堂)にあった田村麻呂像は杭全神社大師堂(現在の田村社)にそれぞれ移され現在に至っている。

長寳寺で千年余にわたり毎年5月23日に行われてきた田村麻呂年忌法要は、田村麻呂像が移って以降引き続き杭全神社で「田村祭」として祭祀が行われており、その場には長寳寺住職をはじめ七名家も参列し田村麻呂の慰霊を行う。

一方、毎年7月に町を挙げて行われるのが「平野郷夏祭り」。杭全神社は平安時代の初め悪疫や天災を鎮めるための祇園会を催すために創建されたともいわれ、この祇園会こそが今に続く夏祭りである。7月11日から始まり14日までの4日間、宮入りまで太鼓台、神輿そして地車(だんじり)が町を練り歩き平野は祭り一色となる。最終日の14日、本宮から神輿の渡御で祭りは終了する。

杭全神社第一本殿に鎮座する素盞嗚尊が年に1度お宮を出て平野の町をお渡りになるという「神輿渡御神事」。杭全神社を出発し赤留比賣命(あかるひめのみこと)神社(三十歩神社)の御旅所での神事を終えた神輿が、お休みになる最後の場所が長寳寺である。夕刻神輿が到着、山門の前に安置される。朝から結界を結びこの日を迎えた寺の境内で長寳寺住職が神輿(素盞嗚尊)にお神酒と米をお供えする。続いて杭全神社宮司が緋毛氈に座しての祝詞奏上、巫女による神楽鈴の舞の奉納など一連の神事が厳かに執り行われる。

田村祭といい夏祭りといい、今なお続く坂上氏の氏寺・氏神という歴史的な関係を垣間見ることができる。

長寳寺での神事・休憩が終わると、これ以降神輿の渡御列は田村麻呂の定紋であり長寳寺の寺紋でもある「向馬(むこううま)」紋の高提灯が先導し、杭全神社に向かってふたたび歩み始める。

坂上田村麻呂について―平野郷の守護神でもあった…

長寳寺ご住職の西脇慈容氏にお話をうかがった。印象に残ったのは、住職が度々「田村麻呂」の名を口にされることであった。お尋ねすれば田村麻呂を意識し始めたのは平成14年(2002)、岩手県盛岡市で開催された「坂上田村麻呂展」に出展者として初めて東北の地に足を運んだときからだという。同展は阿弖流為(アテルイ:平安時代初期の蝦夷の族長)没後1200年記念事業として地元新聞社が主催したもの。そこで長寳寺所蔵の『坂上田村麻呂肖像』(江戸期)が、田村麻呂が弓矢で武装した征夷大将軍のイメージにふさわしい姿で描かれていることから、是非とも出品をと当時の岩手県立博物館首席専門学芸員であった大矢邦宣氏(後に平泉文化遺産センター館長)自ら寺を訪れ、懇請されたそうだ。

「寺の創建者田村麻呂については、一般の人と同じように東北の蝦夷を退治した征夷大将軍としかみていなかった」という西脇住職の認識は、開催地盛岡を訪れて一変した。田村麻呂は被征服地の東北人から敵視されて当然であるのに、それどころか尊敬され毘沙門天の生まれ変わりとさえ思われている状況を見て、これまでの通念は吹き飛んだ。しかもその衝撃を上回る大きな感動を得たという。

 「過去にアテルイは、蝦夷の族長として『賊』の扱いを受けてまいりました。しかし、歴史観の変化によってここ十数年でその評価は大きく変わり、今では地域自立のシンボルとさえなっています」と、同展図録のあいさつ文のなかで主催者が述べているように、今日蝦夷に対する歴史的評価が劇的に変わりつつあるようだ。

 阿弖流為は腹心の同志母禮(もれ)とともに東北の独立を目指したが、長期におよぶ朝廷との戦いによる東北の疲弊を憂慮し、自ら終止符を打つべく田村麻呂の軍門に降った。田村麻呂は阿弖流為らの助命を嘆願したものの、朝廷はそれを受け入れず河内国(現在の枚方市)での処刑を命じた。田村麻呂はその人物・力量を認め、朝廷の権威のもと阿弖流為らに東北の経営を任せようとしたが叶えられなかった。

歴史評価の変化に伴うものであろうか、平成に入って近畿地方で阿弖流為の顕彰碑が相次いで建立された。京都清水寺境内の「北天の雄 阿弖流為・母禮之碑」や枚方市牧野公園内の首塚裏の「伝阿弖流為・母禮之塚」がそれで、いずれも関西の岩手県人会や阿弖流為の顕彰を進める団体の尽力によるところ大である。清水寺は田村麻呂の創建による寺、その「北天の雄」碑裏面末尾に「平安遷都1200年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為、母禮の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂公開基の同寺境内に建立す。両雄もって冥さるべし」とある。田村麻呂と阿弖流為の関係を実によく表している。

 後年田村麻呂の死にあたり、嵯峨天皇は屍に兜・鎧を着せ立たせたまま京・山科の地に埋葬することを命じた。(これまで山科区勧修寺東栗栖町の坂上田村麻呂公園内の墳墓が田村麻呂の墓とされてきたが最近の研究で山科区西野山岩ヶ根町にある「西野山古墓」が田村麻呂の墓と特定されたという。同古墓は田村麻呂公園から北西1.5kmの位置にある)。希代の征夷大将軍坂上田村麻呂は、死してなお一旦火急の変があれば即座に駆けつけるべく王城の地を見守り続けているのである。

「盛岡での体験以来、私は思うのです。この平野郷が環濠集落として誰にも支配されずやって来られたのは、実は田村麻呂公のおかげだったのではないだろうか」。住職はさらに言葉を継ぐ。「そうでなければこの集落のなかで一介の尼寺が今日まで続くわけはないでしょう」と。また、このような話も披露された。「昔からうちのお寺には座布団が置いてなかったんですよ。七名家といえども寺には上がらせなかったと聞いています。(夏祭りの神輿渡御で見られるように)向馬紋の高提灯が動いてはじめて神輿が動くのですよ。これ一つを見ても、田村麻呂公の権威は平野にとって格別だったと誰しも思いますよね」。

田村麻呂の存在と死後も保ち続ける征夷大将軍の権威というオーラが平野の町に今もなお漂っている。環濠集落平野は、その霊気に守られてきた結果、他の権威の介入を許さない自治都市として発展を遂げることができた。

桓武天皇の后であった慈心大姉を開基とする長寳寺は、万人が認める格式の高いお寺である。にもかかわらず西脇住職はしばしば「一介の尼寺」とおっしゃる。それは慈心大姉の父である田村麻呂の偉大さを伝えるためにあえてそのような表現をされているのではないだろうか、と筆者には思われるのである。

広野麻呂兄妹の墓に詣でる

広野麻呂の墳墓は杭全神社の東、平野川を渡った坂上公園内にある。直径4m弱の円形の盛土に築地状態で傍に「坂上廣野麿墳墓」の石碑と区役所の説明板が建つ。

そこからほど遠くない杭全神社近く「長寳寺・末吉家・全興寺墓所」のなかに坂上一族の墓があり、さらにそのなかに坂上春子の墓がある。四方を厚い石壁に囲まれた廟に慈心大姉は眠る。西脇住職が「春子さんの葬儀の導師は弘法大師が務められ、寺に残る二つの位牌のうち一つは大師直筆のものです」と教えて下さったのを思い起こす。廟の隣には長寳寺歴代方丈(住職)の墓が並んでいた。

坂上兄妹はお互い至近距離の墓から1200年後の今日も平野郷の歩みを見守っている。

**注記**

「坂上広野麻呂」、「坂上田村麻呂」の人名表記はいずれも「麻呂」としましたが、資料・史蹟碑で「麻呂」が「麿」と表記されているものについてはそのまま表記しました。

2018年12月(2019年4月改訂)長谷川俊彦

≪参考文献≫

 ・大阪市史編纂所『大阪市史』

 ・大阪府史編集専門委員会『大阪府史』

 ・三浦周行監修『平野郷町誌』(清文堂出版)

 ・高橋崇『人物叢書 坂上田村麻呂』(吉川弘文館)

 ・胆江日日新聞社『坂上田村麻呂展』図録

 ・長寳寺『長寳寺縁起 よみがえりの草紙―逆修講縁起』

 ・杭全神社『平野郷小史』

 ・平野郷夏まつり実行員会『杭全神社平野郷夏まつり』

 ・大阪春秋44号『特集 平野、八尾、中河内』(新風書房)

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