片雲何の意ありてか

https://ameblo.jp/sisiza1949-2/entry-12519945563.html 【杜甫:野老】より

○今回案内するのは、杜甫の『野老』詩である。もちろん、「野老」とは、「田舎じいさん」の意であって、杜甫が自らを「野老」と卑下して詠った詩である。

  【原文】

      杜甫  野老

    野老籬邊江岸回  柴門不正逐江開  漁人網集澄潭下  賈客船隨返照來

    長路關心悲劍閣   片雲何意傍琴台  王師未報收東郡  城闕秋生畫角哀

  【書き下し文】

      野老

    野老の籬邊は、江岸を回り、   柴門も正しからずして、江を逐ひて開く。

    漁人の網は集る、澄潭の下、  賈客の船は返照に隨って來る。

    長路關心、劍閣を悲しむ、 片雲何の意ありてか琴台に傍ふ。

    王師未だ報ぜず、東郡を收むると、  城闕秋生じて、畫角哀し。

  【我が儘勝手な口語訳】

田舎老人である私の家の垣根は、浣花溪に沿ってうねり、柴門もまともな形でなく、川の流れに沿って作っている。

浣花溪には、漁人が集まってきて川の流れに網を投じ、浣花溪には、夕陽とともに、客船がやって来る。成都までの長い道程を考えると、劍閣山での難儀苦労は忘れられないし、

一片の雲が琴台に寄り添っているように見えるがどういう意味だろうか。いまだ皇帝軍が勝利して洛陽を収めたという便りを聞かないし、成都の城闕はすっかり秋になり、角笛の音が悲しく響き渡るばかりである。

○杜甫、『野老』詩冒頭、

  野老籬邊江岸回     野老の籬邊は、江岸を回り、

  柴門不正逐江開     柴門も正しからずして、江を逐ひて開く。

が杜甫草堂と杜甫自身を案内するものであることは言うまでも無い。

○前に、『江村』詩を紹介した時に、案内しているけれども、杜甫は、杜甫草堂について、多くの表現記録を残している。そのいずれもが、面白い。

  清江一曲抱村流     清江一曲、村を抱いて流れ、

  長夏江村事事幽     長夏江村、事事の幽かなり。   「江村」

  田舍清江曲     田舍(でんしゃ)は、清江の曲にあり、

  柴門古道旁     柴門(さいもん)は、古道の旁にあり。  「田舍」

  錦里煙塵外     錦里、煙塵の外、

  江村八九家     江村、八九家あり。   「為農」

  浣花溪水水西頭     浣花渓水、水の西頭、

  主人為卜林塘幽     主人は卜を為す、林塘の幽なるに。   「卜居」

○こういうところに、詩人の実力が発揮されることは言うまでもあるまい。これらを読む私たち読者も楽しいが、詩人も、思う存分楽しんで表現しているに違いない。実際、杜甫草堂を見た者には、その創意工夫がどんなものかが、特によく判って楽しい。

○杜甫の『野老』詩を、成都で読むことで、より理解が深まったような気がする。当時杜甫は50歳ほど。現在私は66歳で、老人の気持ちは手に取るようによく判る。杜甫の『野老』詩には、杜甫の悲哀がよく表現されている。


https://chinese.hix05.com/dufu/dufu_4/dufu409.yarou.html 【野老:杜甫を読む】より

杜甫の七言律詩「野老」(壺齋散人注)

  野老籬邊江岸回  野老の籬邊江岸回り

  柴門不正逐江開  柴門正しからず江を逐って開く

  漁人網集澄潭下  漁人の網は集る澄潭の下

  賈客船隨返照來  賈客の船は返照に隨って來る

  長路關心悲劍閣  長路關心劍閣を悲しむ

  片雲何意傍琴台  片雲何の意ありてか琴台に傍ふ

  王師未報收東郡  王師未だ報ぜず東郡を收むると

  城闕秋生畫角哀  城闕秋生じて畫角哀し

野老たる自分の家の垣根は川に沿っており、柴門もまともな形ではなく川の流れにそって曲がっている、漁人が集まってきて川の流れに網を投じ、客船は夕日に伴ってやってくる

長い道を隔てた故郷を思うと劍閣に隔てられはるかかなたなのを悲しむ、一片の雲が琴台に寄り添っているように見えるがどういうつもりなのだろう、いまだ皇軍が勝利して洛陽を収めたという便りを聞かない、ここの城闕はすっかり秋になって角笛の音のみが悲しく響き渡る

杜甫は成都に流れ着いて長らくそこに腰を落ち着けるが、故郷の洛陽のことは片時も忘れたことがなかった。いつか官軍が洛陽を平定したときにはまっさきに駆けつけたい、いつもそう思って過ごしていた。

この詩はそんな杜甫の望郷の念がふと漏れ出てきたものだ。


http://chugokugo-script.net/kanshi/shichigonrisshi.html 【七言律詩とは】より

七言律詩(しちごん りっし)とは漢詩の形式の一つで、1句7語、全部で8句56語になる詩形の漢詩です。

律詩の律は、法律や規律の律で、元々は「きまり」という意味です。つまり律詩は、音声上のきまりによって作られた詩ということになります。

きまりによって作られた詩は絶句、律詩ともにそうですから、最初は唐代に成立した近体詩全体、つまり絶句も律詩もともに律詩と呼ばれていました。その後全8句になる詩のみ「律詩」と言うようになりました。

押韻とは

漢詩、特に唐代以降の近体詩は1句2句4句で韻を踏みます(1句は踏まないことも)。これを押韻(おういん)と言います。「韻」とは発音した時耳に残る音の響きのことです。押韻は同じ響きを持つ語を句の終わりに置くことで、音声的な美しさを作るのです。

対句とは

対句とは、2つの句が(つまり2行あるいは2文が)文法的また意味上も対称的(シンメトリー)に対応する技法です。

絶句ではこれは要求されませんが、全8行になる律詩では最初の2句と最後の2句に挟まれたところ、つまり真ん中の4句はすべて対句にしなければなりません。

七言律詩の例

七言律詩の例-1 『遊山西村』

それでは南宋の詩人・陸游の七言律詩『遊山西村』(山西の村に遊ぶ)を読んでみましょう。

『遊山西村』の原文

莫笑農家臘酒渾   豊年留客足鶏豚   山重水複疑無路   柳暗花明又一村 

簫鼓追随春社近   衣冠簡朴古風存   従今若許閑乗月   拄杖無時夜叩門

『遊山西村』の書き下し文

笑う莫なかれ農家の臘ろう酒しゅの渾にごれるを 豊年客かくを留とどめて鶏けい豚とん足る

山重なり水複かさなりて路無きかと疑ふ 柳暗く花明らかに又一村いっそん

簫しょう鼓こ追随ついずいして春しゅん社しゃ近し 衣冠簡朴にして古風存そんす

今従より若もし閑しずかに月に乗ずることを許さば 杖を拄ついて時と無く夜門を叩かん

渾・豚・村・存・門で押韻しています。

律詩の定石どおり2聯(第3句第4句)と3聯(第5句第6句)がそれぞれ対句になっています。原文と書き下し文で意味の切れ目に斜線を入れてあります。文構造と意味の両方で対になっているのがわかります。

第3句と4句の末尾が中国語と日本語ではズレがあって対に見えませんが、これは中国語と日本語では文構造が異なりますのでしかたがありません。中国語は目的語が動詞の後ろで「疑無路」となりますが、日本語は動詞が後ろになって「路無きかと疑う」となります。

『遊山西村』の現代語訳

師走に仕込んだ田舎のどぶろくだとお笑いなさるな   豊作の年で客をもてなす鶏や豚の肉もたんとある  山重なり川めぐり道はここまでと思いきや  柳の茂みの先に花が明るく咲いてまた村がひとつ  笛や太鼓の音が響いてきて春祭りが近いらしい  村人の服装は純朴で古風  月をたよりにまた来てもよいと言うなら 杖をついて時を定めず夜門を叩きますぞ

七言律詩の例-2 『香炉峰下新卜山居』

中唐の詩人・白居易(白楽天)の詩『香炉峰下新卜山居』(香炉こうろ峰下ほうか新あらたに山居を卜ぼくす)も七言律詩です。この詩は清少納言が『枕草子』で触れていることで日本では大変有名です。一番有名な部分が対句になっている3句と4句です。

『香炉峰下新卜山居』の原文

日高睡足猶慵起   小閣重衾不怕寒   遺愛寺鐘欹枕聴   香炉峰雪撥簾看

匡廬便是逃名地   司馬仍為送老官   心泰身寧是帰処   故郷何独在長安

『香炉峰下新卜山居』の書き下し文

日高く睡り足れるも猶起くるに慵ものうし  小閣しょうこう衾ふすまを重ねて寒きを怕おそれず  遺愛寺の鐘は枕に欹そばだちて聴き  香炉峰の雪は簾を撥かかげて看る

匡廬きょうろは便すなわち是れ名を逃るるの地  司馬は仍なお老いを送るの官と為なす

心泰ゆたかに身み寧やすきは是れ帰処きしょ  故郷独り長安に在あるのみなる可べけんや

「寒・看・官・安」で押韻しています。

2聯(3句4句)と3聯(5句6句)でそれぞれ対句になっています。

原文・書き下し文の意味の切れ目に斜線を入れました。

3聯(5句6句)の後半部分が中国語と日本語ではズレがあって対に見えませんが、これも日中の文構造が異なるところから来ています。中国語では動詞は前に、日本語は動詞は後ろに来ます。

是逃名地→「是」が動詞で英語のBe動詞に似た役目をします。動詞+目的語構造で、日本語に訳すと「名を逃げる地である」という意味になります。 

為送老官→「為」が動詞で、これも動詞+目的語構造、日本語に訳すと「老いを送る官となる」

このように直訳にすると日中同構造になって対句であることがよくわかるのですが、「是」は日本では昔から「これ~(なり)」と読み習わしてきました。そこで一見対句に見えなくなっています。

では下にこの詩の現代語訳を挙げておきましょう。

『香炉峰下新卜山居』の現代語訳

陽は高く昇り寝足りていながらなお起きるのはものうい

小さな二階建ての草堂で布団を重ねて寝ているので少しも寒くはない

近くの遺愛寺の鐘の音は枕に頭をつけたまま耳を傾け

香炉峰の雪はすだれをあげてながめる

廬山はこれ隠遁の地

司馬という役職もまた老人用の閑職だ

心身ともにやすらかに過ごせるところこそ己が帰るべき場所

長安の都だけがふるさとではない

七言律詩の難易度

漢詩を作る練習としてはまず七言絶句からスタート、次に五言律詩、七言律詩と進むのがよく、こうしているうちに五言絶句は作れるようになると言われます。前三つの詩を「三体」と呼び、宋代にこの三体の模範を集めた『三体詩』(さんていし)という本が詩を作ろうという人々のために出版されました。

なぜこの順序かというと、五言絶句は使える言葉がわずか20なので難しく、最初はもう少しゆとりのある七言絶句から始め、次に対句を作る練習として五言律詩、最後が七言律詩だそうで、つまり七言律詩はきわめて難しいとされています。


https://spc.jst.go.jp/experiences/change/change_1304.html 【【13-04】日本の詩歌と中国の詩歌の関係】より

朱新林

朱新林(ZHU Xinlin):文化伝播学院講師

中國山東省聊城市生まれ。

2003.09--2006.06 山東大学文史哲研究院 修士

2007.09--2010.09 浙江大学古籍研究所 博士

2009.09--2010.09 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員

2010.11-2013.03 浙江大学哲学系 助理研究員

2011.11-2013.03 浙江大学博士後聯誼会副理事長

2013.03-現在 山東大学(威海)文化伝播学院講師

 日本の詩歌と中国の詩歌は密接な関係にあるが、時代の変遷および文学の発展方向の違いにより、両国の詩歌はそれぞれ異なる特徴と発展方向を持つようになった。清代の文人・周亮工は『書影』巻二の中で「徐巨源曰く:...... 蘇李、十九首、黄初建安と為り、選体と為り、斉・梁代に俳句と為り、唐代に近体詩と為る。古詩は尽く亡ぶ」と記しているが、日本の俳句の形成が中国近体詩における絶句の影響を受けていると考える学者は多い。日本の中世に出現した和歌の形式は5句31音である。その後、多人数による連作詩である長連歌・短連歌が出現した。俳句は連歌の発句(第一の句、5・7・5の3句17音)から派生している。連歌の脇句は7・7の2句14音であり、両者を加えるとちょうど31音となる。一方、中国古代にも絶句を律詩の半分とする味方がある。すなわち、「絶」は「截(断つ)」(律詩の中から四句を切断したもの)、というわけだ。古代日本の詩人の多くは漢詩を理解していたため、俳句の形成過程において、絶句と律詩の関係からひらめきを得た可能性もある。正岡子規はかつて、「俳句と漢詩は形こそ違え趣は同じである。特に芭蕉が杜甫の詩趣を俳句に移して、それまで遊芸に流れていた俳句を建てなおして以来両者の関係は一層緊密になった」と語っている。

 大まかに言うと、俳句は俳諧とも呼ばれる、日本の伝統的な短詩であり、上句5音、中句7音、下句5音の3句17音からなる。俳句は短歌の最初の句である発句(5・7・5)の部分が切り離されて定着した詩の形式であり、5・7・5のモーラから成る一行詩である。江戸時代の商人社会で生まれた俳句は、限られた音の中でできるだけ多くの内容を表現するため、選び抜かれたことばを使わなければならない。俳句のテーマは精神的・内在的なものが多く、余韻をかもしだすために季語を入れなければならない。季語は中国詩でいう典故に相当する。それぞれの季語には様々な意味が込められており、連想の鍵となる。古代の俳句作品は余韻を重視しているが、現代の作品は厳粛になりすぎて余韻を持たない作品も増えている。

 俳句は形式の上で漢詩の影響を受けている他、俳句の情趣も漢詩との共通点が多い。俳句の優れたところは、大自然の美しい景色を切り取り、これを詩人の幻想と対応させることで、独特の味わい・禅味を持たせ、刹那の時間を永遠に凍結させる点だ。このような禅の味わいは、王維の詩句「一悟寂為楽、此生間有余(『反復釜山僧』)」など、中国の詩歌の中でも頻繁に体現されている。日本の俳人の多くは漢詩も創作することができ、中国の漢詩を土台に俳句を創作した例もある。例えば芭蕉の一句「夏草や兵どもが夢の跡」は杜甫の「国破山河在、城春草木深(国破れて山河あり、城春にして草木深し)」を土台としている。

 日本の著名な俳人の中でも松尾芭蕉(1644--1694)は「俳聖」と呼ばれ、俳句の発展に重要な役割を果たした。松尾芭蕉は江戸時代の俳人で、本名は松尾宗房、別号は桃青・泊船堂・釣月庵・風羅坊など。江戸の俳諧集『談林十百韵』は、談林派俳風を興す契機となった。芭蕉はこの談林派と、伝統的な貞門派の両派を基礎に、俳諧を高い芸術性と個性を持つ庶民詩へと発展させた。芭蕉は遊びの部分があったこれまでの俳句を、厳粛で、詩趣を追求するものへと変えていった。芭蕉の詩風は「閑寂風雅」の4字で表すことができる。芭蕉の名句《古池や蛙飛びこむ水の音》は、閑寂の独特な表現を風雅な芸術に昇華したものだ。このほか、山崎宗鑑・荒木田守武・松永貞徳の三俳人は「俳諧三神」と呼ばれる。宗鑑は豪快な性格で、自由奔放な境地に憧れ、貧困においても平然と振舞い、俳諧の研鑽に没頭し、後に「俳諧の祖」と呼ばれるようになった。宗鑑が編んだ『犬筑波集』は、俳書の起源と見なされている。口語・俗語を使った風刺・揶揄を提唱した宗鑑は、一切の形式を排除するよう主張したが、季題だけは尊重した。この点が後代の俳人にも認められ、季語が俳句の鉄則となった。宗鑑のユーモラスな句には「月に柄をさしたらばよき団扇かな」「手をついて歌申上る蛙哉」「まん丸に出れど永き春日哉」などがある。荒木田守武は晩年に『誹諧之連歌独吟千句(守武千句)』の中で、連歌の法則を応用し俳諧の形式を定めようと試み、俳諧史に大きな貢献を果たした。松永貞徳は長きにわたり俳諧創作に取り組み、俳諧の詳細な形式を制定したほか、自ら「俳諧中興の祖」と称し、多くの子弟を育成した。慶長3年(1598)には朝廷から称号「花の本(もと)」(鎌倉、室町時代以降に最も優れた連歌師に送られた称号。1つの時代に1人のみ)を許され、「俳諧宗匠」と呼ばれた。山崎宗鑑・荒木田守武・松永貞徳の三俳人は後に「俳諧三神」と呼ばれるようになった。

  現在の俳句愛好家はホワイトカラーが主であり、優越感・特権意識が濃厚だ。俳句愛好家は一般的に俳句団体に属し、ピラミッド式の組織構造をなしている。

 日本の詩歌には、俳句のほかに短歌がある。短歌は日本最古の詩歌形式である。一般的には和歌と呼ばれ、5・7・5・7・7の形式が主となる。日本の詩歌は音数でリズムを表現し、七五調と五七調がある。5・7・5・7・5・7・5......7・7と、最終的に7・7で締める古くからの詩歌形式が後に短く変化し、現在の5・7・5・7・7の5句31音が形成された。古代貴族社会に起源を発する短歌は、中国詩の影響を強く受けており、中国の詩歌に最も近い日本の詩歌形式である。短歌は、日本の伝統的な定型詩の一種であり、6~7世紀に誕生した。日本最古の詩集《万葉集》の記載によれば、第1首の和歌は757年に作られた。和歌は中国の五言絶句、七言律詩の影響を受けているため、5・7・5・7・7の形式となった。長歌も最後は5・7・5・7・7の形で終わる。短歌よりも短い俳句は5・7・5の17音からなる。現在、天皇をはじめとする日本の国家関係者はみな短歌を基本教養として学んでいる。歌人は高尚さを尊重し、低俗さを嫌い、利益を追求し私利をむさぼる者は無い。

 短歌、俳句のほかに、日本には非定型の自由詩も存在し、現代詩と呼ばれる。定型詩は人の複雑な心理を十分に表現することが難しいという欠点を持つ。このため、一部の詩人は古い詩型を破り、現代詩の創作を行っている。定型詩は上述のような欠点を持つため、世界各国で消滅する傾向を見せているが、日本は世界と比べると、古い習慣を守り続けている国と言える。例えば、現在日本で俳句創作に従事している人は1千万人あまりに達する。俳句は字数が少ないため、創作スピードも速いという特徴がある。

 日本の詩歌の表現手法の特徴は以下のとおり。第一に、短い形式のため、景色・事物などの描写が制限を受け、場面の展開ができず、起承転結を構成するのが難しい。この欠点を補うため、1千年あまりの発展の中で若干の効果的な表現方法が確立された。第二に、少ない音の中に多くの意味を込めるため季語を使用する。季語は季節を表すことば又は季節から派生したことばで、漢詩の典故と似ており、中国の24節気と関係があるものも多い。第三に、賦・比・興という3つの手法。「興(恋愛や風刺の内容を引き出す導入部として自然物などを詠うもの)」が最も多く、以下「比(詠おうとする対象の類似のものを取り上げて喩えるもの)」「賦(心情を素直に表現するもの)」の順となる。これらの創作手法からは、中国『詩経』の影響、および六朝詩歌と唐代詩歌のような詩的情趣への追求を見て取ることができ、日本の詩歌と中国の詩歌は切り離せない関係を持つことがわかる。日本の詩歌は、完璧な文章や内容を追求せず、読み手に想像の余地を残す。ただし、高尚さとユーモアが求められる。良い句は余韻と滑稽さに溢れており、読み手を微笑ませる。どのようなテーマであっても俗っぽさは避けなければならない。日本の詩人は大まかに歌人と俳人の2種類に分けられる。今は個人所得が平均化し、貧富の格差は小さいが、100年ほど前にさかのぼると、歌人は富裕層が多く、俳人は貧困層が多く、川柳・都々逸の作者は中産階級が多かった。詩歌は子供の無垢な心と同じで、誕生したばかりのころは穢れていない純粋な精神を持っていた。しかし、生きるために人は働かなければならず、その中で必然的に低俗な物事の影響を受けてしまう。かつて、著名な俳人が浪費の末に財産を使い果たし、他人の家に身を寄せる、又は流浪の旅に出ざるを得なくなるという例があったが、これらの俳人は往々にして、何もかもを失った後に却って雑念が消え、欲が無くなり、多くの名句を残している。日本の詩人と比べると、中国の詩人はかなり裕福な生活を送っている。例えば杜甫は貧しい生活だったとされるが、それでも従者を従えて逃亡している。一般人には従者を雇うことなどできない日本社会の現状と比べ、杜甫の経済状態がかなり豊かであったことは言うまでもない。

 中国では近年、漢俳と漢歌という新しい詩の形式が誕生した。漢俳の誕生は、1980年にさかのぼる。同年、中華詩詞学会が日本の俳壇代表者を中国に招き交流を行った際、詩人の趙朴初氏が中国語で「5・7・5」の短詩「緑陰今雨来、山花枝接海花開、和風起漢俳」を披露した。この詩が、初めての「漢俳」であるとされている。漢俳は5・7・5形式の3行17字詩で、漢歌は5・7・5・7・7形式の5行31字詩。この新たな詩は詩歌愛好家からますます注目を集めており、中日詩歌交流の手段として、今後も絶えず発展し、普及が進むと見られる。漢俳・漢歌はすでに中国詩壇においてある程度の地位を築いているが、日本の詩人や詩歌愛好家の認知度は低く、ごく一部の人が知るのみとなっている。日本詩人の漢俳・漢歌に対する評価もまちまちだ。一般的に、日本人は興味本位で漢俳・漢歌を鑑賞することが多く、ユーモアにあふれた作品や余韻を残す作品など、表現方法が日本の詩歌と似ているものは、日本人読者も受け入れやすく理解しやすい。日本の詩歌団体の組織形態および、日本の詩歌形式で規定された伝統的概念の影響から、俳句の愛好家は漢俳に、短歌の愛好家は漢歌に自然と親しみを感じる傾向があるようだ。その他の中国詩歌と同じく、漢俳・漢歌は日中の詩歌交流においてますます重要な役割を発揮しており、多くの日本詩歌愛好家から共感を得ている。

 近頃、俳句に注目し、俳句の研究・創作を行う中国人学者は増えており、漢俳と漢歌の創作も活況を呈している。中日の文化交流において両者の関わりは今後ますます増え、中日の詩歌文化交流の発展を推し進めることだろう。



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