俳句の「音楽性」

https://ameblo.jp/amenooshiwo/entry-12841987444.html 【取り戻すべき俳句の「音楽性」】より

 梅雨明けと共に南風が炎帝を連れてきた。南風と言えば、攝津幸彦の〈南国に死して御恩のみなみかぜ〉と彼の忌日・南風忌を思い出す。今年は彼の十三回忌。一昨年の大南風忌・没後十年の集い、『攝津幸彦選集』、『豈』攝津幸彦特集号刊行に続き、細君の攝津資子による評伝『幸彦幻景』(スタジオエッヂ)が先ごろ上梓された。俳壇では難解派と敬遠されもしたが、死してなお人を惹きつける魅力とは何なのだろう。

 例えば、〈露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな〉という攝津の代表作がある。そこには、客観写生の下、言葉の既成的意味やイメージに終始する近代俳句の在り方への痛烈な批判が覗われる。実はそうした記号化し形骸化した言葉を一旦その出自に帰して再生させる処に攝津の詩境がある。そこは俳句の淵源である古代歌謡において、言と事と琴(音楽性)が一体として未分化な原初的世界に通じるものがある。掲句において、意味的に固定観念を離れた言葉が放埒にならないのは、五七調定型はもちろん、O音とG音による音韻効果によるところが大きい。しかし、近代俳句は、こうした俳句の文学性に不可欠な歌謡性あるいは音楽性を見失って久しい。「現代俳句は文学でありたい」と攝津が嘆いた所以である。

  糸電話古人の秋につながりぬ    攝津幸彦

 まさに時空を超える波動を介して攝津は真の伝統と結ばれていたのだと思う。

  梅ひとつふたあついもうと失ひき     橋本榮治

 『放神』(角川書店)からの一句。梅の花からの追憶と現実との相克が童歌のような調べによって詩的昇華されている。あとがきには「多くの俳人たちが、旅によって非日常の景に触れることで自らの創作行為を自覚し、作風をつくりあげてきたあとをここしばらくは追いたい」とあるが、〈さくらさくら来世に会はむ人ひとり〉〈観音に来ててふてふもげぢげぢも〉〈かなかなやよしなしごとに身を入れて〉などにおける優れた音楽性に私は作者の真骨頂を見る。

                                           初出 : 朝日新聞「俳句時評」


https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/2969123?categoryIds=5803370 【自然のリズム】

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/32094836?categoryIds=5803370 【宇宙の原初音】

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6399718?categoryIds=5811044  【韻律】


https://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm/onngakumeisou.html  【音楽瞑想】


http://satoko-u.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-ceb7.html 【余白の音楽】より

 半年間にわたる連載も、今回で最終回となった。最後に、私と俳句との出合いについて書いてみたいと思う。

      *     *

 私と俳句との出合いは、一般的な出合い方とは異なるかもしれない。というのも、私は俳句を作る前に俳句雑誌の編集者であり、ミイラとりがミイラになったようなものなのだ。

 けれども、そのような環境下にあったおかげで、俳句に関する情報は豊富だったし、高名な作家の先生方ともじかにお目にかかる機会を得ることができた。思えば、俳句に関するスタートは、幸運であったといえると思う。

 俳句を作ってみようと思った直接のきっかけは、「俳句を作る大変さ」を自分も味わわなければと思ったことである。作る辛さも知らず安穏としていることに、ある種の後ろめたさを覚えたのかもしれない。

 そんな私が作る俳句は、音楽にまつわるものが多かった。幼いころからピアノを弾き、学生時代からは、趣味として、オーケストラで弦楽器を弾いている私の身のまわりには、いつも音楽があったのだ。

  トランペットの一音#(シャープ)して芽吹く

  雛の夜管楽器みな闇を持ち

  クロイツェル・ソナタ折り鶴凍る夜

 アメリカの作曲家・ジョン・ケージは、『沈黙』という本の中で、音の鳴っていない部分にこそ、真の宇宙の音楽があると語っている。この「余白の音楽」こそ、まさしく俳句と音楽の通底するところであろう。

 また、俳句と同様、音楽もたいへん裾野が広い芸術である。俳句の大衆性については、論議されることも多いが、純粋に楽しむ愛好家たちがあってこそ、支えられている部分もあるのではないかと思う。

 さて、これから俳句はどのように変わっていくのだろう。そんなことを話し合うために、この週末は、京都で行われるシンポジウムにパネリストとして参加する予定である。

  無伴奏組曲夜の枇杷太る

    (信濃毎日新聞2002年6月20日朝刊掲載)


http://8w1hflkm.jp/thinking/yohakubunka.html 【4-1 日本文化の特徴は何か?2】より

3)日本音楽の特徴は余白(間=ま)にあり

 雅楽や声明、尺八・三味線など日本の伝統音楽を一度でも聴いてみれば分かるのですが、日本音楽は西洋音楽と比較すると音の無い時間が多いのです。びっしりと音符が引き詰められているのが西洋音楽ですが、 音と音との間に余白=間(ま)があるのが日本音楽の特徴です。

4)日本画の特徴は余白にあり

 西洋画との比較において観察すると、日本画の特徴は空白が多いことに気が付きます。何も描かれていない余白が多々見られるのです。例えば、絵巻物には場面と場面の境目が漂う雲によって描かれていますが、この雲こそ余白そのものになります。また例えば、俵屋宗達の「風神雷神図」は二つの神が描かれていて、そのほかは余白ばかりです。山水画にしても背景などは省略されたものが多いのです。

 日本画は和紙や板に描く習慣から、たとえ絵具や墨で描かれない余白があっても素材が活かされ、良い味が出せるという理由も考えられるでしょう。しかし、私は日本文化の特徴である余白の文化が日本画にも表れていると考えるのが理にかなっていると思います。

5)俳句に見る余白

 「五、七、五」の音声数で作られる俳句は日本の生んだ最高傑作の文化でしょう。漢詩は漢字の数に決まりがあるのに対して、俳句はかな文字の数に決まりがあるのです。この短い文にもかかわらず、季節感とイメージが浮かび上がって来るのが特徴です。あまりに簡潔で省略だらけで余白いっぱいの文化といえましょう。

 例:松尾芭蕉「五月雨を 集めてはやし 最上川」

 例:正岡子規「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」


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