「こころ」を詠む

https://shop.gyosei.jp/library/archives/magazine/0000010126 【「こころ」を詠む 聖家族】より

聖家族  万引き家族  運動会   克弘

人の無き空の碧さや鳥帰る

 四月の自粛期間、いつもは賑わう銀座和光の時計台前から、人がほとんど消えてしまった情景を詠んだ句。「鳥帰る」は、冬を日本で過ごした鳥たちが北方へ帰っていくことを表す、春の季語です。雁や鴨と一緒に、人も去ってしまったような寂しさを伝えています。

 この俳句、実は人間が作ったものではありません。作者は、スーパーコンピューター「AI一茶くん」。インプットされた過去の膨大な俳句作品をもとに、こういう達者な句を作ってしまうのです(正確にはこれまでに作った膨大な句の中から題材に適合する句をピックアップするとのこと)。AIの最先端を紹介するテレビの企画に、俳句の専門家として呼ばれ、「AI一茶くん」の生みの親である北海道大学の川村秀憲先生と相談しながら、より良い作品を選んでいった中で見つけたのが、この「鳥帰る」の句でした。そう、いま「選ぶ」といいましたが、一秒間に四百句の俳句が作れるというこの「AI一茶くん」は、どれがすぐれた句かの選別については、いまひとつなのです。そこで、私の出番。はじめ彼が示したのは、「見えてゐる都会の空の寒さかな」という句。「都会」と「寒さ」との連想関係が近いので、常識的で面白くありません。そこで「もっと対比の効いたものを」と指示したところ、冒頭にあげた「人の無き」や「宙吊りの東京の空春の暮」といった、言葉遣いに意外性のある句が出てきたのです。「宙吊り」と「東京」とは、ふつう結びつかないですよね。収録で、「宙吊りの」の句について私が「春の暮は人類の黄昏も感じさせる」と評したところ、所ジョージさんが「読み取る人間の力が大事だね」という発言をしていたのは、俳句の本質を突いていました。つまるところ、作品にこめた思いは、句を読む人が決めていくのです。作品を作ることはできても、そこにこめた思いを受け止め、味わうことは、やはり人にしかできないでしょう。

小林一茶と曼殊沙華

 ところで、この企画が進んでいる期間、実は胸中穏やかならぬものを抱えていました。七月の上旬、東京都の新型コロナウイルス感染者が増えていた時、妻がもはや東京にいるのは危険と言い出し、子供を連れて、感染者のほとんど出ていない地方の実家に帰ってしまったのです。妻子のいない一人の日々が続き、しかもいつ戻ってこられるかわからないということで、心細さと孤独感に呑まれていきます。子供はまだ幼く、離れている間にお父さんのことを忘れてしまわないか……などとつい悪い方へ考えが走り出してしまいます。YouTubeで、どこかの家族がアップロードした、仕事帰りのお父さんをはしゃいで出迎える子供の動画を繰り返し見ては、布団の中で涙に暮れる日々。あまり感情の起伏のない方だと思っていたのですが、それは思い込んでいただけで、ずいぶん情動的な人間であることを思い知らされました。感情を持たない「AI一茶くん」はこういう心細さや孤独感に苛まれることなく、今日も孜々として俳句を生み出し続けているんだなあと思うと、うらやましくもなります。私はこの間、俳句どころではなくて一句も詠めませんでした。

 「AI一茶くん」の名前の由来となった小林一茶という俳人が偉大なのは、彼もまた情動的な人間でありながらも、その昂る思いを俳句に昇華させたというところです。江戸で俳諧師として身を立てようと奮闘するも、相手にされない悔しさ。夢破れて郷里に戻った己への忸怩たる思い。病気の父を手厚く介護する優しさ。父の死後、その財産を奪おうとする継母と義理の弟へ向ける激しい怒り。その折々の感情が、一茶の創作のエネルギーでもあったのです。歳を取ってからようやくできた我が子への愛情の深さも、並々ならぬものがありました。「さと」と名付けられた一茶待望の女の子は、すくすくと育ちますが、二歳の時に天然痘にかかり、哀れにも命を落としてしまいます。一茶の慟哭は、亡くなって三五日の墓参で詠んだ次の一句に集約されています。

  秋風やむしりたがりし赤い花   一茶

 秋に咲く「赤い花」ですから、これは彼岸花(俳句では曼殊沙華ということが多いです)でしょう。子供らしいいたずら心で花をおもちゃにしてしまう、そのしぐさがかわいらしくて、忘れられないのです。秋風に吹かれる曼殊沙華をむしる子は、もういません。我が家の子供はピンピンしていますので、この句になぞらえるのはいささか縁起が悪いのですが、おもちゃ箱の端にクタリと引っかかっているアンパンマンの人形を見ていると、なんとなくこの句が思い浮かんでくるのです。

 いま、この原稿を書いている時点で、まだ妻子は帰ってきていません。人と人との関係をも蝕む新型コロナウイルスの恐ろしさを、痛感しているところです。はたして、真っ赤な曼殊沙華が咲くまでに、二人は帰ってきてくれるだろうか……。そんなことを思いながら、息子と一緒に世話をしていた水鉢のメダカに、餌をやる毎日です。


https://shop.gyosei.jp/library/archives/cat01/0000017248 【「こころ」を詠む [第4回] 電脳の妖精の国冬籠】より

「こころ」を詠む[第4回] 電脳の妖精の国冬籠 克弘

(『教育実践ライブラリ』Vol.4 2022年11月)

 チェスでも将棋でも、すでにAI(人工知能)がプロを破る時代です。文芸の世界にも、AIは進出し始めています。とはいっても、いきなりAIが長大な小説を書けるわけではありません。まずはじめに俳句を詠ませてみようとなるのも、自然なことといえるでしょう。

 この連載の第三回(『新教育ライブラリPremier』Vol.3)でも紹介したのですが、工学博士の川村秀憲氏が、勤務している北海道大学のスーパーコンピューターで創り出したのが「AI一茶くん」です。インプットされた小林一茶、正岡子規、高浜虚子という歴史上の俳人の句をもとに、言葉を組み合わせることによって、一秒間に四百句という数の俳句を、二十四時間休みなくアウトプットすることができるそうです。

 あるテレビ番組で、新型コロナ流行で無人になった銀座の和光前の写真から、「AI一茶くん」が句を詠むことになりました。膨大な句の中から、私が最終的に番組で紹介するものとして選んだのは、

  宙吊りの東京の空春の暮 AI一茶くん

という句でした。感染症がどれほど拡大するのか、先が見えていない時代の不安感を「宙吊りの」がうまく言い当てていると感じたのです。テレビ放送があったあとで、「AIがあんなうまい句を作るとは!」とか「プロ俳人顔負けだね」などという感想を聞きました。でも、選んだのが自分自身だったせいか、正直なところ、「AI一茶くん」を讃える気にはなれませんでした。プライドもあったのでしょう。所詮は「数うちゃ当たる」のお遊びじゃないか。そう見限って、以来、「AI一茶くん」のことは、忘れていたのですが……。

 最近、再び「AI一茶くん」とあいまみえる機会がありました。また別のテレビ番組なのですが、今度はお題の写真に基づいて作った「AI一茶くん」の俳句と私の俳句とを、作者が誰であるかは伏せて並べて、スタジオの芸能人に判定してもらうという企画です。渡されたのは、六枚の写真。紅葉が湖に映っているところとか、丘の上の桜に向かってランドセルの小学生が駆けだしているところとか、「いかにも」な写真です。

 しかし、今度は私が選句に関わらなかったからか(選句したのは番組のスタッフでした)、素直に良いなと思える句が出てくるのです。

 たとえば、家族四人が鍋を囲みながら、団欒をしている写真。

  牛肉が鍋に煮えてる冬の海 AI一茶くん

 家の中の温かい鍋と、外の寒々しい冬の海を組み合わせて作るところ、なかなか「分かっている」作り方です。私は、

  寄鍋のみな大いなる海老狙ふ 克弘

と、ひとつまみの「俳味」、つまり笑いの要素を入れてみました。AIには、笑いの機微はなかなか掴めないだろう、という作戦です。

 あるいは、雪の温泉に猿の親子が浸かっている写真からは、

  父よりも母との記憶霜柱 AI一茶くん

という句を出してきました。これにも、内心、唸ってしまいました。たしかに、大概の子どもにとって、仕事で家にいない父よりも、ふだん接してくれる母の方が、記憶に色濃く根付くものです。雪の中で寄り添う猿の親子のことを詠んでいるようでありながら、人間の家族のことも背景に匂わせていて、なかなかの作です。私は、

  雪の湯に猿の親子のむつまじき 克弘

と、ありのままに風景を詠んで、素朴さで対抗してみました。

 さて、スタジオの芸能人たちは、「AI一茶くん」と私の句、どちらを「プロ」と判断するでしょう。判定のシーンは別撮りなので結果はまだわからず、放送が楽しみなのですが、ちょっと危機感も覚えています。本当にいつか、AIが人間以上の秀句を作る時代が来るのかも。そうしたら、俳句を仕事にしている私はどうしたら……!?

 俳句対決の収録の最後は、放送で使う短いカットの撮影でした。私は、自作の俳句を書いた短冊を持たされ、顔のわきに掲げて、次のセリフをにこやかに言うように指示されました。

 「この俳句を作ったのは、私、俳人の髙柳克弘でした!」

 一枚の写真につき、三句作っていますから、全部で十八句。そのすべてについて、同じセリフでのカットを撮り続けます。実際の放送では、数パターンしか使わないそうですが、念のため、十八句すべてについて撮っておきたいとのこと。

 「この俳句を作ったのは、私、俳人の髙柳克弘でした!」→短冊を差し替え→笑顔を作る→「この俳句を作ったのは、私、俳人の髙柳克弘でした!」→また次の短冊に差し替え→笑顔を作る→「この俳句を作ったのは、私、俳人の髙柳克弘でした!」→また次の……

 これを延々と繰り返しているうちに、私は、なんだかこんなことをさせられている私の方が、ずっと機械っぽいように思えてきました。真冬の、ちょっとしたホラー体験でした。


https://shop.gyosei.jp/library/archives/cat01/0000017650 【「こころ」を詠む [第5回] 卒業やカーテン淡き保健室】より

「こころ」を詠む[第5回] 卒業やカーテン淡き保健室克弘

(『教育実践ライブラリ』Vol.5 2023年1月)

 子どもの頃、国語のテストの「作者の言いたいことを答えなさい」という質問文に、「知るかよー!」と思った経験、ありませんか?私もその一人でした。それが今年、まさかの「作者の言いたいこと」を作者自身が答える、という体験をすることになるとは……。

 二〇二一年に、児童文学『そらのことばが降ってくる 保健室の俳句会』(ポプラ社)を刊行しました。いじめのために教室に行けなくなった中学生の主人公・ソラが、保健室登校をする中で俳句好きのハセオに出会うことで、句会に誘われ、人を傷つけることも救うこともできる言葉について考えを深めていく、というストーリー。主人公とその友人の名前は、紀行文『おくのほそ道』の旅をした芭蕉と曾良の名前から取りました。

 俳句を取り扱った児童文学は珍しかったのでしょう、幸い好評を得て、第七十一回小学館児童出版文化賞を受賞することになりました。また、二〇二二年度の桜蔭中学校、学習院女子中等科(帰国子女対象)の入試問題にも引用してもらいました。

 子どもの作る俳句は、素直なところが魅力的です。もう二十年近く、読売新聞でKODOMO俳句というコーナーを担当していて、そこに寄せられてくる小学生の俳句は、とにかく自由、奔放。おそらく、本当に俳句が作りたくて作っている子どもは稀で、多くが学校の先生から言われて作らされているのだと思うのですが、「めんどくさいなー」と思いながら適当に作っているスタンスが、いい具合に肩の力が抜けているために、はからずも面白い句が生まれるのです。

 そのように子どもの俳句に触れてきた経験が、執筆の契機でもあったので、担当の記者さんに受賞と入試問題採用のことを報告したところ、「ぜひ記事にしたいので、入試問題を作者自身で解いてもらって、国語の入試問題に備えている受験生へのコツを教えてもらえないだろうか」という依頼がありました。

 作者自身が作者の気持ちを答える、というのは、はじめての体験です。少年時代に、「作者の言いたいことを答えなさい」に「知るかよー!」と思った一人ではありますが、もうそれではすまされない。久しぶりに学生時代に戻った気持ちで、それぞれの入試問題に、取り組んでみました。模範解答は、あえて知らないままにして。

 けんめいに解答を仕上げて(試験時間よりはるかに長く掛けてしました)、記者さんに送り、やがて掲載記事が送られてきました。そこには、私の解答と、中学校の解答例が並んで載せられていました。

 それを見て思ったのは、やはり作者の思い入れが、強く出てしまうな〜ということ。たとえば、「作者が『ヒマワリの種』を『大地のパワーのおおもと』と言い換えているのはなぜだと考えられるか」という問題。ソラは、自分の顔のほくろをヒマワリの種に譬えた俳句をハセオが詠んだことにショックを受けるのですが、対話するうちに、傷つけたかったわけではないとわかり、仲直りをします。そこで、誤解のもとになったヒマワリの種を捨ててしまわないで、「大地のパワーのおおもと」と呼んで、握りしめるという場面なのですが……。学習院女子中等科の模範解答では「話を聞くうちにハセオの気持ちがソラにも伝わり、ヒマワリの種が特別な力や元気の出るもとのように思えてきたソラの気持ちの変化を表しているから」と、まさに簡にして要を得た解答。一方、作者である私の解答は「二人の友情がいっそう深まり、俳句活動も熱を帯びていくことを暗示している」という、「書かれていないこと」にまで踏み込んだ内容になってしまっていました。

 「作者が……言い換えているのはなぜだと考えられるか」という問題なので、作者がそう言っているんだからそれでいいのだ!と開き直ることもできるのでしょうが、あくまで文章というのはそれ自体で独立したもの。読者の解釈が作品をよりよく見せるのであれば、作者はむやみに主張せず、ただ引き下がるのみ。やるべきことをやったらあとは若者に任せてすっと音もなく去ってゆく、クリント・イーストウッド監督の映画の主人公のようにふるまうべきなのです。

 先日、記事にしてくださった記者の方との忘年会がありました。そこで、記事の話になった際、微酔の勢いで「実際に先生方に採点してもらいたいですね〜」と気軽に振ってみたところ、実は某大手予備校の先生に採点をしてもらった、と言うではありませんか。

 「えっ、何点でしたか?」と思わず前のめりになって聞くと、いかにもすまなさそうに、「書くべきところが書いていなかったということで、百点満点換算で五十点でした」。

 全国の受験生の皆さん、「作者の言いたいことを答えなさい」、作者も答えられないんだから、どうか間違っててもがっかりしないで、気持ちを切り替えてね。


https://shop.gyosei.jp/library/archives/cat01/0000017982 【「こころ」を詠む [最終回] 鞄から仔猫のかほや川まぶし】より

「こころ」を詠む[最終回]

鞄から仔猫のかほや川まぶし

克弘(『教育実践ライブラリ』Vol.6 2023年3月)

 俳人には、言葉づかいに厳しい人も少なくありません。たとえば「パソコン」「コンビニ」を俳句に詠んではいけない(正式に「パーソナルコンピューター」「コンビニエンスストア」と言わないといけない)。「走ってる」「歌ってる」というように「いる」の「い」を略してはいけない。古典文法もしっかりと守らなくてはなりません。ら抜き言葉、さ抜き言葉など、もってのほか。

 私は元来いい加減な性格なので、多少言い回しが強引だったり、文法的に間違っていたりしても、「勢いで分かればいいじゃん!」と思う方です。松尾芭蕉のよく知られた「荒海や佐渡に横たふ天の河」だって、文法的に見れば「横たふ」は間違っていますからね(本来は自動詞の「横たふる」であるべき)。流行り言葉や若者言葉も大好きで、ふだんから「わかりみが深い」「陽キャだなぁ」「おつでした」などと、近しい人との会話ではじゃんじゃん使っています(さすがに俳句に詠みこむまでの勇気はないのですが……)。

 そんな私ですが、「使いたくない言葉」というのもいくつかありまして……。そのひとつに、今年のお正月に、遭遇したのです。

 お正月には河口湖畔に宿をとるのが、この数年の習いになっています。今年はとくに、すばらしい好天に恵まれ、まぢかでの富士の眺めを楽しみました。食事は、ちょうど富士と湖を正面に置いた、大きなガラス窓の前。「山梨だけど海産物もおいしいね」「ほうとう、この小さな鍋で食べるくらいがちょうどいいかも」などと、一緒に行った家族と話していると、仲居さんがお茶を持ってきて、にこやかにこう声をかけてくれました。

 「お客さんは運がいいですよ、こんなふうに何日も逆さ富士が見えることって、そんなにないんですから」

 そう、私が「使いたくない言葉」のひとつが、この「逆さ富士」なのです。仲居さんは全く悪くないのですが、私の方がどうしても拒んでしまう。なぜかといえば、俳句の投稿作を選んでいると、この「逆さ富士」を詠んだ句が、とても多いのです。この言葉そのものは、くっきりと湖面に映った富士山を表すものとして、味わい深いと思うのですが、みんなが使いだすようになると、ドアノブや階段の手すりと同じようなもので、手垢がついてきます。その結果、「逆さ富士」を入れるだけで俳句が陳腐になる、そうすると俳句の選者としては嫌いになってくる、というわけなのです。

 かくいう私も、もちろん陳腐な言葉づかいを指摘されることもあります。ある作家の方に、ちょっと高級な中華料理屋に連れて行ってもらったことがありました。「どれでも好きなものを一品ずつ頼もう」という彼の提案に、「じゃあ、八宝菜で」と答えたら、「つまらないやつだな」と笑われました。これは私が悪いわけではないと思うのですが、そのあとで紹興酒の吞み比べをして、熟成年数の異なるそれぞれの杯に「おいしいです」「これもおいしいな」と感心していたら、「君は仮にも文学者だろ」と呆れられました。うーん、確かに恥ずかしい!

 「逆さ富士」「おいしいです」がなぜダメか。語彙力の問題ではありません。すでに誰かが作った言葉を、そのまま使ってしまうのは、唯一無二の自分をアピールしなくてはならない場では、どうしても不利になるということです。たどたどしくても、自分の言葉で思いを伝えることが、自分という人間を知ってもらうことにつながります。

 そもそも、私たちの言葉はすべて「借りもの」です。「パパ」「ママ」からはじまって、「犬」「ねこ」「いただきます」「ごちそうさま」「努力」「未来」……と、成長とともにどんどん語彙は増えていきますが、そのすべてが、身の回りの家族や先生、友達、本にある言葉を、真似したものです。自分だけのオリジナルの言葉を、なにひとつ、私たちは持っていません。それで人生を送る上ではほとんど困らないのですが、誰でもときに立ち止まることがあるでしょう。たとえば、まっさらな湖に富士が映っている眼前の風景の素晴らしさを、ここにはいない誰かに伝えたい──そんなふうに思うときに。

 そんなとき、「逆さ富士」をあくまで拒み、自分の言葉を生み出すため、立ち尽くしながら悩み続けているのが、詩人と呼ばれる人種なのです。めんどくさいですよね。

 さて、長く続けてきたこの「こころを詠む」の連載も、今回で最終回。俳句って、やっぱり難しいと思いましたか? それとも、少しは関心を持ってもらえたでしょうか? 俳句という文芸が、世界の隅にあることを、どうか心に置いて、いつでも飛びこんできてくださいね。私はこれからも、しぶとく俳句の世界に居座り続けるつもりですので、扉を叩いてくださるのを、ずっと待っています!

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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